晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大栗峠考(14) 11/29

2011-11-29 | 山・峠

2011.11.29(火)曇

 京街道としての志古田道と昭和55年に改修された現在の道ははたして同一なのでしょうか。これは大変重要な問題なのですが、今のところわたしには判断できません。あまりにも謎が多すぎるのです。
 まず一つめの謎は、大栗峠に慶応年間の地蔵さま、上粟野への尾根に弘化年間の地蔵さまを志古田の村人が施主となっているのに、志古田道にはそういうものが一切見当たらないことです。それどころか道標らしきものも見当たらないのです。P1000401
 
何かありそうな石組みだが、何もありませんでした。志古田道下部で。


 奥上林村誌に志古田の山中に「左京道・右弓削」の石碑がある旨書いてありますが、多くの方の記録を見ても発見されていませんし、わたしも志古田道では見つけることは出来ませんでした。
 わたしは当初この石碑は志古田と弓削を分ける尾根の道にあるのではないかと思いましたが、そうなると志古田の山中とは言えません。いづれこの道も歩いてみたいと思っていますが、石碑のある可能性は少ないとでしょう。そうなると、この石碑は大栗峠の手前にある可能性が高くなります。
 ところが誰もそれを見つけられない、となると現在の志古田道とかつての京街道は別なルートであって、元の京街道にこそその石碑があるのではという考えも成り立ちます。
 もしそうだと仮定すると、元の京街道は志古田の本谷を忠実に辿っているのかも知れません。国土地理院の地形図では谷を忠実に辿っています。しかしそれは根拠があってのことではなく、単なる偶然だと思います。元々谷を遡っていた道が崩壊して、右の尾根を登るようになったのかも知れません。この支尾根の末端部分はジグザグの道が切られ、古い石垣が残っています。最終的にこの支尾根がルートになっていることは間違いないようです。もし、直接大栗峠に向かう谷筋にこの石碑があればこれは大発見です。P1000390
 
支尾根の末端部、ジグザグに降りていきます。


 それにしても55年前に発行された奥上林村誌にこの記事を書かれた方にたどり着けないものでしょうか。つづく

【作業日誌 11/29】
間伐材切り出し(ドッグラン土用材)
芝生草抜き作製

今日のじょん:今日はじょんシャンデーである。同時に体重測定日なんだけど、予想どおり増えて、18,6Kg。その前が18,2kg、その前が18,6Kgとなぜか400gづつ上下している。まあ冬を前に許容範囲か。
 それにしてもシャンプーが終わると妙に警戒してサークルにすっこんでいる。よーく考えると、以前はシャンプー後にフッリーダイヤルもとい、フロントラインをしていたのだ。もうこの時期ではしないのだが、よく憶えているもんだ。P1000469

めっちゃけーかいしているぞ。 

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大栗峠考(13) 11/28

2011-11-28 | 山・峠

2011.11.28(月)曇

 志古田道の謎
 大栗峠を巡る京街道は元々志古田道であって、通行量が増え荷車等の必要も出てきてその座を弓削道に譲っただろうというのが大栗峠考の主題です。志古田道は崩壊地形で維持管理が難しく、拡幅の余地もなかったというのがその理由と考えています。志古田にある大栗という地名が崩壊地を示しているのがひとつのヒントでもあります。
 今回の山行もその志古田道を確認すべき山行でした。予想通りというのが実感です。峠から左の尾根を末端まで下り、峠からの沢を渡り、右の尾根をトラバースして行きます。P1000391

峠から左の支尾根を下り、右の尾根に移る徒渉地点。小規模だが道がえぐられています。こういうのを栗地形といいます。


 ここまでは古道の雰囲気も少し残っているかなという感じですが、もう一つ尾根を回り込もうかと言うところで、大規模な崩落が起きています。見た感じでは割合近年に起きた崩落のようですが、通行者が少ないため、迂回路の踏み跡も出来ていません。この崩落で志古田道は道路として完全に使用不可能なものとなっています。P1000395 P1000396
 
崩落部分上から見たところと横から見たところ。




 崩落の左側を捲いて下り直接沢に降りましたが、本来の道であろう大岩の下へ下ったわたしは非常に危険を感じました。本来の道はその後右岸を沢沿いに下り、やがて左岸に渡り志古田に下って行きます。しかし道は荒れていて、不明瞭で歩きにくく、古い街道とは思えないやっかいな道です。これが志古田道であるという証はハイキング道の看板と数カ所残っている朽ち果てた丸木橋だけです。
 この道が改修整備されたのは昭和55年頃のことですが、それ以前の記録を見ても既に相当荒れていたようです。つまり弓削道が街道としての役割を終えてから何の改修も保全もないのに厳然として残っており、志古田道は昭和55年の大改修以前に既に荒れており、改修後も使用できないまでに崩壊しているということです。

 なぜこれほどまでに荒れているのか考えてみました。ひとつは沢筋であると言うことです。水流による崩壊は当然考えられることですし、現在の傷みは植林によるものもあります。
 もうひとつは傾斜と地表面の状態ではないでしょうか。傾斜は地形図を見れば明白ですが、志古田道も弓削道も山田道も歩く距離はさほど変わらないのですが、志古田道に関しては、集落から2Km以上もだらだらの道を登り、そこから一気に峠に登っています。上手くトラバース道があるので、歩いている者にとってはそう傾斜を感じないかも知れません。
 土壌というか地表の状態は周囲のものとかなり異なります。構造とか成分とかはわたしには解りませんが、とにかく大きな岩、ガレが多いと言うことです。谷にしても周囲の谷のように岩盤が出ているということは少なく、ほとんどガレに埋まっています。P1000399

谷はこういう感じ、右が本谷。


 このあたりが地滑り地形であることは公表されていますが、崩壊しやすい地形であることは目視でも解ります。つづく(大栗峠考(12)は2011.11.25)

【作業日誌 11/28】
草刈り(8-3)P1000468

じょんのび村の長辺は60mあります、たまらんぜ。


チエンソー収納箱作り

今日のじょん:虫探索犬
今年はテントウムシの発生が多く、随分家の中に入ってきている。ぼーっと寝ていたと思ったら急に吠え出すのでびっくりする。天井など探すと大抵とまっている、凄いときは階段の踊り場の天井にとまっているときがある。従って視覚で探すわけでは無さそうだ。捕虫した後は嗅がしているので臭いかもしれない。あるいはかすかな羽音かもしれないがいずれにしても凄い能力だ。P1000453

これは日溜まりじょん。

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ホノルルマラソンのこと 11/27

2011-11-28 | 日記・エッセイ・コラム

2011.11.27(日)曇

 11月26日の新聞に「中富正義さん死去」という記事が載っていました。といっても誰やねんそれって思われるでしょうが、サロンパスで有名な久光製薬の元会長です。
 「え゛~まだ生きてはったん?」というのが正直な気持ちなのですが、それは1986年12月のホノルルマラソンに戻ります。わたしにとってはマラソンは何度目かでしたが海外は初めてでした。スタート前日に身体を慣らすべくワイキキの通りをジョギングしていますと、人だかりが見えます。何だろうと見ていると、なんと間寛平ちゃんをとりまく報道陣やファンのようです。今年アースマラソンをやり遂げた寛平ちゃんが初のフルマラソンだったんですね。
 それを横目に少し行くと、妙なおじさん発見、とりまきはあまりなかったようですが上半身はだかでそこいら中にサロンパス貼ってるのです。当時のサロンパスは肌色でなくて白色だったからすごく目立ちます。ホノルルマラソンだからパフォーマンスも強烈だし、芸能人なんかも走り始めていた時期だからこれもありかと思ったのですが、それにしてもヘンなおじいちゃんなんです。
 ホテルに帰ってその話をすると、「それってサロンパスの会長やがな、有名やで」と言われてなるほどっと思った次第です。
 「あれから25年」(きみまろ調に)あのおじいちゃんが23日に亡くなられたとのこと、なんと106才の大往生です。ということはわたしが見たのは81才の会長で、記事によると91才までホノルルマラソンを走り完走されているそうです。いやはや凄い人がいるもんですね。
 芸能人の初マラソンといえば小米朝さん(現米團治さん)がホテルが同宿だったので前日の夜に「米の飯食うとかな走れへんで」ってんで怪しげなカツ丼の店連れてって、縁起も兼ねてカツ丼食ったけど、そのまずいことまずいことという思い出もあります。P1000467



ゴール写真を買ったのは初マラソンの篠山とホノルルのだけです。手をつないでゴールしたのもこの時だけ、奈良県の小学生で、この世界では有名な子でした。タイムはたしか3時間18分ぐらいだったと思います。



  それにしてもホノルルマラソンってあんな気分の良いマラソンはないですね。ランニングハイっていうけれど後にも先にもあの時だけで、マラソン走るのがあんなに短く感じたのはあの時だけです。ゴール後走り足らなくて、ダイヤモンドヘッドまで戻って給水ボランティアしてたぐらいですから、、、。

【作業日誌 11/27】
草刈り(8-2)

今日のじょん:ユキちゃんが来たら必ず始まるプロレスごっこを写真に撮ったら、なんともすさまじい戦いが写っている。本気でやったら血だらけになりそうだ。でもひとしきりやったら知らん顔しているのが面白い。P1000463 P1000464 P1000466

コメント (2)
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原発防災30キロ圏に 11/26

2011-11-26 | 日記・エッセイ・コラム

2011.11.26(土)快晴

 本日の讀賣新聞京丹後丹波版のトップ記事は「府原発防災30キロ圏に」というのがトップ記事になっています。じょんのび村は従来高浜原発から23Kmで防災圏には入っていませんでした。京都府は30Kmまでを防災圏にということで山田知事を先頭に進められていることはニュースなどで知っていました。そして今、圏内に入るということをどうとらえたらいいのでしょう。喜ぶべき事なのでしょうか、悲しむべき事なのでしょうか。
 例えば30Km圏内は原発事故に遭遇するリスクがあるので、一定の電気料金については無料とするということならば、よかったよかった超ラッキーということになるのですが、今防災圏内になったからといってどういうメリットがあるのでしょうか。
 「ある日突然バスが来て避難を強制されるんやで」なんて話が飛び交っています。ナチスのユダヤ刈りじゃないのだからとは思いますが、圏内だからとなんとなく烙印を押されたような気分になるのも当然です。
 先日NHKのアーカイブスで、草壁に住まいされていた久米三四郎氏が原発反対の立場で推進派の某氏と激論された放送が流されました。どちらも先年亡くなられているので再放送が実現したのだと思いますが、福島原発の事故を経験して氏の主張が如何に正しかったかということが解りました。
 久米さんは原発反対を唱えるものは原発の近くに住まなければという考えで睦寄町草壁に住まいされたと聞いております。水源の里だの過疎化対策だの講演に来られる先生が都会のマンションにお住まいと聞いてがっかりくるのとえらい違いです。Img_3873
 
草壁川から草壁をのぞむ。


 対談の中で「石油は有限であと二十年で枯渇するというようなデマで原発を推進する様なことは止めてもらいたい」というようなことをおっしゃっていました。この放送がなされたのは30年以上前なので、石油が枯渇するというのは明らかなデマであることが解ります。
 よく思いだしてください、「石油は20年で無くなるよ」って云ってませんでしたか。こりゃあ大変だ、石油に変わるエネルギーが早急に必要だと思いこんだものです。
 そして30年後の今、石油枯渇に代わるデマゴギーが二酸化炭素による地球温暖化です。このことについては何度も書いてきたので略しますが、福島原発事故の後二酸化炭素を目の仇にする温暖化のことがピタリと叫ばれなくなりました。そんなデマを飛ばしてまで原発推進を叫ぶ必要が無くなったからです。わたしはこの事態をいつか予言しましたが、(2011.3.17参照)そのとおりになって驚いています。Img_3541 Img_3542
 



老富町にある放射線量の測定器です。この単位、数量そしてその影響力について何人の人が理解しているでしょう。原発側のパフォーマンスにしか映らないのですが、、、。

 ここで断っておきますが、わたしは二酸化炭素が地球温暖化の原因でないとはいっていません。もちろん一つの要因であるのですが、それが全てではないと言っているものです。原子力発電についても石油代替エネルギーとしては先頭を走るものでしょうから、真摯に安全性を確立できるまで研究すべきではないでしょうか。人類が発見発明したものだから、人類は安全に使用できる方法を見つけ出すことと思います。にっちもさっちも行かないところまで見切り発車して、事故が起きましたからどうこうというのはあまりにもずさんな行政ではありませんか。

【作業日誌 11/26】
草刈り、9回目でしょうか。
チエンソー収納箱作り

今日のじょん:散歩コースの念道橋もネット地獄になっている。工事中のところはどうやら恒久的なフェンスが張られそうである。ベルリンの壁でもパレスチナの壁でも
、いっそのこと万里の長城でも持ってきたらどうだ。P1000447 P1000450

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大栗峠考(12) 11/25

2011-11-26 | 山・峠

2011.11.25(金)曇時々雨

 大栗峠の謎はまだまだ続いていますが、先日上粟野側から志古田道を歩いたので新たな謎が出てきました。先にそれらを紹介しますので、一緒に考えてください。

 今更聞けない苗字のこと
 大栗峠の石碑に出てくる人名は山田村助左エ門と阿波国行者長治郎です。これは江戸時代に苗字を許されない者の公式な書き方だそうです。
 ところが上粟野側の尾根道の地蔵さんの台座には、
 施主村中 梅原 ?、  ?
 ホドス   岡本喜助
 世話人  若?圓心
 上林シコタ  佐掘甚
 ユケ     川北奥?
 の名が見えます。つまりすべてが苗字付で、上林の志古田、弓削の佐掘、川北姓は現存です。歴史の授業では、武士以外は苗字帯刀が許されなかったという風に習いましたが、これは一体どういう事でしょう。
P1000379
台座には苗字の入った銘が刻まれています。



  皆が士族ということなら話は簡単だが、地蔵さまの施主としてはなじめないような気もします。調べてみると、名主など行政の末端に位置するものなどは苗字が認められていたそうなので、施主としてはそういう身分の方々がなされたのかもしれません。完璧に個人名が出ているので古文書など調べるとはっきりするかも知れません。
 ただ苗字というのは徳川の時代以前には有ったわけだから、代々伝えられただろうし、公の場、公文書などで使えなかったと言うことのようです。

 六地蔵の謎
 「北山の峠」には横長の祠に地蔵が一体だけ祀られている、10年ほど前には六地蔵あったのにあとの五体はどうしたのだろうというふうに書かれています。今では祠もなくなり、一体のお地蔵の頭に瓦がのせてあるだけです。P1000382
 
何ともわびしい六地蔵堂です。


  もし村の人が里のどこかに移転してお祀りしたのなら六体全てを移転すると思います。思いたくはないのですが、盗難に遭った可能性は高そうです。としたらなぜ一体だけが残ったのでしょう。後背の上部が欠けているからでしょうか、それとも台座に銘があるから盗品と解るからでしょうか。盗人の心理など解りませんが、よくぞ峠の地蔵さまに手を付けなかったことかと思います。それらにも銘が有るからでしょうか。夜陰に紛れて地蔵さまを背負い、尾根を降りてゆく姿はなんとおどろおどろしい事でしょう。ぜひ他の理由でどこかに安置されていることを願うばかりです。
つづく(大栗峠考(11)は2011.10.28)

【作業日誌 11/25】
杉丸太皮むき
チエンソー収納箱作り

今日のじょん:ぴーにゃんデー
 じょんのびが雨と晴れの境になって、晴れている西側へ散歩に行った。慣れないコースでもう嗅ぎ回って大変、いろんな動物の臭いがしてそーだ。その辺はチコのテリトリーだからチコの臭いかも知れない。なんて考えていたら、裏山に鹿が現れ、ドッグラン土予定地に茶と白の猫が現れた。この辺じゃあ昼間の鹿は珍しいし、猫は近所にも飼ってないのでより珍しい。P1000442


何かおるでと呼んでいるところ、この時は草むらに鳥がいただけ。

 

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雨読 峠をあるく(6) 11/24

2011-11-24 | 雨読

2011.11.24(木)曇

 一冊の本についてここまで連続して書いたものはありませんでした。興味のない方にはとっくに飽きられることかもしれませんがどうしても書いておきたいこともあるので、もう一回の登場をお許し願います。
 自転車日本一周の際、晴徨雨読の文字通りはっきりと行き先、目的は決めていませんでした。気の向くまま彷徨ったということですが、一応全ての都道府県は巡ることを基本としていました。東北や中国、九州、四国地方のように府県が二列に並んでいるところは良いのですが、関東地方や近畿地方のように内陸に府県が存在するところはコース取りに悩みます。特に関東地方は複雑な走行を余儀なくされました。茨城、千葉、東京、栃木、群馬まできて、さてどうするかと考えたのですが、山梨に出て南下するのが最善と考えました。十石峠を越えて佐久に出るか、雁坂峠(雁坂トンネル)を越えて山梨市に入るか、柳沢峠を越えて甲州市に入るか迷ったのですが、雁坂トンネルが最適だろうと決め、調べてみると自転車通行不可なのです。これですっかり頭に来て、秩父の山越は断念することになり、御殿峠の項で書いたような都会の道を南下することになったのです。関東の岳人でありながら秩父の山に一度も足を踏み入れなかったことはいまだに心残りではあります。
 さて、「峠をあるく」の目次を開けますと、十石峠ー秩父事件と地図というのが先頭にあり、*(アスタリスク)があって、洞ヶ峠他九峠が書かれ、また*があって、八達嶺(中国)とあります。これは一体どういう事でしょうか。八達嶺は外国のことだから別にしてあるのかも知れません。しかし十石峠は、、、、と考えるとやはり十石峠がメインなのかと思います。Img_0285 Img_1809




 2006年8月18日は佐久にいました。国道299号線は十石峠を越え秩父から狭山に続いています。11月21日には狭山にいました。不思議な感がします。

 内容は秩父事件が主なのですが、それは氏が秩父事件の研究者であり、最初の著書「秩父困民党群像」をはじめいくつかの著書があり、当然のことと思います。
ただ、氏は佐久の生まれであり、幼い頃からの峠に関する思いが綴られている箇所があります。秩父事件に関連して、自分の街より山奥の集落に優れた指導者がいて、新しい思想や中央の情報などが存在すると云うことです。自分の街の方が文化的に進んでいると優越感を持っている少年の疑問はやがて解かれるのですが、それが峠なのです。鉄道も自動車もない時代には文化や情報は人の背に負われて峠を越えて、最短距離で来るのです。十石峠の主題は実はこのことではないでしょうか。
 わたしが常々書いているところの峠越し文化論と基軸が同じところにあって嬉しくなりました。
 行こうとして行けなかった秩父へそして十石峠にいつか行ってみたいと願うのであります。おわり

【作業日誌 11/24】
テラスクローズ
イルミネーション開始

今日のじょん:じょんの散歩コース念道橋周辺はネット張りと路肩の工事で大変。コーンは怖いはユンボは怖いはで散歩にならない。良い写真が撮れたので御紹介。P1000433 P1000434

 

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雨読 峠をあるく(5) 11/23

2011-11-23 | 雨読

2011.11.23(水・祝)曇

 わたしが通った峠は乙女峠で終わったと思いましたが、本書を読んでゆくと実は通っている峠があるものです。
 御殿峠は八王子の南、国道16号線沿いにあるそうです。2006年11月21日に埼玉県狭山市から神奈川県大和市に向けてこの峠を越えているのです。ところがこの国道16号線というのは国道一号線横浜藤沢間と同じく自転車旅行中一二を争う都市部であって、ツーリングの自転車が走るところではなかったのです。腹立たしいことばかりで憶えているのは横田基地の巨大さと米軍兵士の家族がやたら目に付いたぐらいでした。Img_1814
 
八王子バイパスを南下していたら自転車は通れなくなり、やむなく元の16号線に戻り、御殿峠を通過しています。ただし本来の御殿峠はもう一つ西の尾根にあるそうです。(写真は打越弁財天・八王子バイパス周辺)

 御殿峠の歴史話は、井出氏得意の困民党の話で、武相困民党の立党の経過など興味深い話が登場します。1979年1月に夜を徹して行われた「武相困民党を歩く会」参加のエピソードはわたしが自転車で走った道と同様で、なにか因縁めいたものを感じますImg_1823
 
武相を分ける境川も町田街道に沿っています。


 歩く会の最終地点は相模原市の上鶴間鹿島神社です。ここは明治17年7月困民党の最初の大衆集会があったところです。実は鶴間はわたしが学生の4年間を過ごしたところなのです。小田急江ノ島線は原町田、相模大野、東林間、中央林間、南林間、鶴間と続きます。わたしは南林間に住んでいたのですが、鶴間というのは次の駅の鶴間駅の周辺の小さな地域と思っていました。ところが大和市から相模原市にいたる大きな地域のようです。しかも古い歴史のある地域でもあるのです。
 わたしが住んだのは昭和40年の後半ですが、恥ずかしい話ですが、その辺りは昭和になって開拓された住宅地かなと思っていました。中央林間、南林間などと新興住宅地そのものの地名、大和(やまと)などととってつけたような市名、そしてなにより歴史的建造物なんて何一つ無かったのですから。Img_1818

南林間駅前2006年、随分変わりました。


 しかしそれは誤解でした、新興住宅地のような街にもしっかりと歴史は根付いているのです。きけば縄文、弥生まで遡るものもあるのです。そこに住んでいるときは何も気付きませんでしたが、やはり若かったということでしょうか。
 今思えば、廻りは関東ローム層の黒い土ばかりでした。そして不思議なことに身の回りに橋がないのです。境川という川があること知ったのは、その地を離れて30数年後のことです。 火山性の土壌と水不足、水田はなく陸稲(おかぼ)を作っていたということです。貧しい農民は養蚕に手を出します。新しいことを始めると増えるのは借財ばかり、そういった土壌が武相困民党を生み出したのでしょうか。つづく

【作業日誌 11/23】
間伐材杉皮むき(ドッグラン土用)
薪割り

今日のじょん:あごのせじょん
お気に入りのヒョウ柄布団に入り、クッションと枕を上手に組み合わせて、あごのせじょんしている。いつも上手く持ってくるもんだなあと思っていたら、かみさんがそういう風に置いているんだって、なんじゃあ。P1000429

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雨読 峠をあるく(4) 11/22

2011-11-22 | 雨読

2011.11.22(火)晴

 乙女峠といっても一体どこの峠か解らない方がほとんどでしょう。乙女峠は観光地津和野にあります。ところがこの峠そのものはどこにあるのか、本当に存在するのか私も知らないのです。かつて光琳寺があり、現在マリヤ堂が建っているところが乙女峠マリヤ堂と書いてありますが、そこは谷間の山腹で峠とは思えません。
 乙女峠の名は長崎の永井隆博士の遺作「乙女峠」で有名になりました。わたしは自転車旅行中、2007年3月28日から2日間長崎を訪れ、永井博士、「乙女峠」を知り一晩で読みました。その後4月に津和野を訪れ、偶然に乙女峠を訪ねることとなりました。(2007.4.16参照)「乙女峠」を読んだときには、津和野といっても随分山中にその峠はあるのだろうと思っていたのです。実は津和野の駅からすぐのところにあったのです。Img_4276 Img_4277
 
乙女峠へのみちとマリア堂。



 井出氏はキリスト教徒が殉教した史実にひかれてこの峠を訪れたとありますが、実は明治新政府の野蛮性(前回は欺瞞性と云ったのですが、野蛮性の方が合ってるように思えます)を見いだして訪れたのではないでしょうか。
 わたしも長崎で四番崩れといわれるこのキリシタン弾圧の事実を知って最も驚いたのは、この弾圧が明治六年まで続いていたことです。誰だってキリシタン弾圧というのは徳川幕藩時代の事と思うわけで、明治維新というのはそういう暗い時代からの解放という風に考えがちです。ところが事実はそうでなく、少なくとも大衆にとっては明治維新はより厳しい生活の始まりでありました。
 日本一周の旅で地方の歴史や民俗にふれて、初めてそういった教科書に載っていない歴史の真実というものを感じるようになったのですが、「峠をあるく」で同じ想いを読み取って感動してしいます。
 さて本書では、この津和野藩における事件と森鴎外が故郷津和野を去って一度も帰ることも語ることも無かったことを関連づけようとしています。これは絶対に証明できる事ではありませんが、鴎外の生家は乙女峠から1Kmあまりで、乙女峠光琳寺に収容されていた浦上キリシタンが津和野を去ったのが明治六年五月九日で、十歳の森林太郎が津和野を去ったのが明治五年六月二十六日と書いています。Img_4287 Img_4289




 マリア堂から殉教者慰霊碑のある蕪坂千人塚まで十字架の道という山道があります。千人塚を登ると蕪坂峠に向かいます。
 

 鴎外は故郷津和野について黙して語らなかったと云います。本書の最後の文は次のとおりです。
 その鴎外の沈黙の背後に、少年の日に峠で見た浦上切支丹の惨劇があったと断定する根拠さえも、鴎外はその全集中にとどめることを注意深く避けた感がある。つづく

【作業日誌 11/22】
間伐材皮むき
テーブル用収納棚完成P1000440 P1000441




狭いテーブルが有効に使えるようになりました、自作プリンタ台とのセットでごちゃごちゃの配線がすっきり。

今日のじょん:
「そこらじゅう防獣ネットだらけで、里山の風景がだいなしやなあ」
「里山ねっとやがな」
「それって綾部しか通じへんなあ」P1000436  

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雨読 峠をあるく(3) 11/21

2011-11-21 | 雨読

2011.11.21(月)曇、時雨

 井出氏は笛吹峠の文の中で柳田が三閉伊一揆のことを無視していることを執拗なほどに書いています。それは文学的に書かれていて、読解力がないと解らないものもありますが、明らかに柳田批判そのものです。

 むろん、遠野にはこの十二音階以外にも、いくつかの音があったが、あたかも柳田の耳にはそれ以外の音はないかのように、もっぱら十二階音の和音のみをききわけていったのであった。
ー中略ー
 天保年間には東北地方の稲作地帯に大饑饉が襲来し、南部領もまたその例外ではなく、万単位の領民が飢えに生命をおとすような残酷が領民の生活を闇に陥れた。いきおい、常民は常民ではなくなり、その声もまた十二階音の和音からはみだすような響きをもって峠をこえ、野面を走った。その非常の声が、『遠野物語』のなかからは、まるで意識的とも思えるような形で削り落されていることが、わたしの不思議であった。
ー中略ー
 『遠野物語』には、百姓一揆の声はまるで映しだされてはおらない。柳田が遠野に出向いた明治四十二年といえば、維新からまだ半世紀と経ってはいない。わずか五十年をへだてる過去の、南部農民の姿が、『遠野物語』から削り去られている不思議が、わたしには理解できないのである。
ー中略ー
 しかしまた、農民一揆というものは、農民の生活のなかであってはならない不幸であり、それは農民の日常の姿ではありえない。農民自身もまた、不幸なその非日常の姿を、なるべく綺麗に消し去ってしまいたいという願望に生きることも不自然なことではない。常民の姿を求めて旅した柳田国男の目に耳に、そのような非日常の農民の声がとどかなかったとしても、あながち、それは不自然なことではなかったとみなおすこともまた可能だ。
ー中略ー
 『遠野物語』からは欠け落ちていた弘化、嘉永の南部地方の農民の呻吟に似た雄叫びが峠をこえてきこえてくるような風景がそこにあるように思われぬでもなかった。

 柳田国男批判というのは多くの書物も出ているぐらいで、種々あるのですがそれは柳田氏の強烈な個性と強引とも思える学問の手法からくるものと考えます。常民の姿にこそ民衆の歴史文化を探究する民俗学のあり方が求められるという意味で、一揆や大災害などの非日常的なことを敢えて無視した手法があったのだと思います。このことに少しは理解を示していますが、井出氏の反体制的なポリシー、特に明治維新政府の欺瞞性についての反発心は笛吹峠を越えた飢えた農民の声を借りて柳田氏を批判したのではないでしょうか。Img_1250_2 つづく
Img_1252
笛吹峠と記念碑の前の初恋号。


2006.10.17笛吹峠を越えました。その際遠野物語も読んではいなかったし、三閉伊一揆の農民がこの峠を越えたことも知りませんでした。天気は良かったのですが、なんと陰気な峠道かと思いました。いつもは煩わしい自動車の通行がこの時ほど恋しく思ったことはありません。

今日のじょん:昨日と同じサル軍団が来襲した。どうも収穫時期となってきた大根が狙われているらしい。ちょうどユキが来たところなので、追ってもらったら薮の奥まで追いかけていった。あの巨大なボスザルの率いる群を単身追ってゆくのだから凄い。奴らが逆襲してきたら、帰ってこなかったらどうしようと不安になるが、30分もしたらちゃんと帰ってきた。脱帽である。

   

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大栗峠志古田道(3) 11/20

2011-11-20 | 山・峠

2011.11.20(日)曇

 京街道の本来は志古田道であろうという自説といつも峠を訪れるたびに、「あのシダの茂った先はどのようになっているんだろう」という期待感で志古田道を歩くことが願望となっていました。この夏から実に三回目の大栗峠です、これほど同じ所に通ったことはありません。
 昼食の後、はやる心を抑えて下りにかかります。この道は綾部と和知の山の家をつなぐハイキング道として昭和55年に整備されたもので、それまでは随分荒れ果てていたそうです。地形図丹波大町には和知から大栗峠までの道は記入されていないものの、峠から志古田に降りる道ははっきり書かれているのです。しかも峠から志古田までまったく谷に沿って道が書かれているのです。測量履歴は昭和47年改測、平成19年更新とありますが、少なくともこの登山道(地形図では徒歩道と呼びます)に関しては実態に即していない記載です。
 「北山の峠」にはハイキング道整備前の様子が書かれています。整備されて以前と変わったのか、あるいは京街道であった頃と同じルートなのか、興味は尽きない志古田道です。Img_3363
 
峠から志古田に降りる道はシダに覆われています。(7月)


 峠から枯れたシダの斜面を下り、左の尾根を下って行きます。もうここからして地形図の道とは異なります。志古田側は峠の下から村落まで、しっかり植林がなされており、闊葉樹が残っているのは峠から見て右側の尾根の高巻き部分だけです。そのことがルートを不明瞭にしているばかりか、視界も悪く陰気なルートにしています。
 支尾根をどんどん下っていきますが、このあたりは道も明瞭で、ジグザグの道に石垣の跡も見られ、京街道のなごりを見せています。P1000389

支尾根の末端近くの道、よく見ると石垣が組まれています。


  支尾根を降りきると右手の沢をトラバースして、右手の尾根の中腹を捲いていきます。この捲き道は闊葉樹の気持ちの良い道で、展望も開けしばし良い気分で歩けます。P1000392 P1000393 P1000394 P1000396




 左:道は完全に崩壊しており、右側から捲くのは不可能。
 右:左側から降りて撮影したもの。この後崩壊部下をトラバースしてゆく。

 P1000397 P1000398 




 崩壊部分下を左にトラバースし支沢に降りてきたところ、ここが元の道かどうかは不明。右は目印の大岩、その下には明らかな道があるのだが。

 その後の植林の林を私は高巻き道を、彼らは谷筋を下っていきましたが、やがて高巻き道も谷に降りてきます。もうこの辺は登山道どころか作業道だか獣道だか判らないような状態で、とても街道とはいえません。
 それでも本谷の左岸を歩いてゆくとハイキング道の看板が出てきたり、朽ちはてた丸木橋が出てきました。やはりこれが55年に整備された道のようです。P1000399_2 P1000402 P1000404
 




 左:志古田の本谷、荒れた谷だ。
 中:やっと出てきたハイキング道の看板。
 右:ハイキング道の丸木橋

P1000405 P1000408  




 やがて苔むした林道に出て、1km程歩くと左手に山の神の立派な祠があり、すぐに志古田の集落です。佐々木さん宅でお茶を頂いて、しばし雑談、帰路につきました。ありがとうございました。
 なお、志古田道についても大栗峠考で考察する予定です。

今日のじょん:今日は念道中サルで大騒ぎ。我が家ではじょんが山に向かって吠えているので来ているのがわかったのだが、大根や馬鈴薯が出来ているので油断ならない。写真のサルは先発隊のようで、追っても逃げないふてぶてしいサルどもだ。爆竹なんてなんの効果もない。P1000422 P1000426

ボール遊びの気もそぞろ。

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大栗峠志古田道(2) 11/19

2011-11-19 | 山・峠

2011.11.19(土)雨

 大栗峠まで400mというところにお地蔵さんがあります。少し広くなっていて、たくさんの瓦や礎石が残っているのでかつては地蔵堂などの建物があったようです。「北山の峠」では、「横長の祠に地蔵さまが一体だけ祀られている、10年前には六地蔵あったのに五体はどこにいったのだろう」とあります。盗まれたとしたら心傷むことですが、一体だけ残っているのは盗人の良心ということになるのでしょうか。
 それにしても残っている礎石は広場中央に正方形となっているので、横長の祠のものではないようです。実はこの礎石の上に建物があったら人はともかく、荷車は通れなくなります。建物の下を通れるようにしてあるのかなあなどと話していたのですが、それにしてはせまいように思えます。P1000379 P1000382

一体残った地蔵さまと散乱する瓦。


 お地蔵様の後背には弘化五年申四
月日?とあります。丁度三閉伊一揆について調べていたので、この年号が1848年にあたると判りました。陸奥で大規模な一揆のあった翌年にこの地蔵さまが祀られたのだと思うと何となく感じるものがあります。
 台座には次の文字が書いてあります。
 施主村中
 梅原 ?
 同  ?
 ホドス
 岡本喜助
 世話人
 若?圓心
 上林
 シコタ
 佐掘甚
 ユケ
 川北奥?

 これ等の考察は別項(大栗峠考)で述べたいと思います。P1000380 P1000381
 
解読する井上さんと台座の文字


 地蔵さまを過ぎるとなだらかな尾根道歩きとなり、ぐんぐん稜線が近づいてきます。風が出てきて、右下の谷間に枯れ葉の乱舞が見られます。季節の変わり目という目に見えないものが、現物として見られるのは山歩きならではのことでしょうか。
 落ち葉を踏んで大栗峠に着きました。過去二回この峠を訪ねていますが、常に北側の山稜からきているので、本来の峠越しはこれが初めてなのです。やはり峠は峠道をやっつくやっつくあがってこないとその良さが判りませんし、往時の旅人の心持ちを理解することはできません。そして峠のお地蔵さんは自らの家に帰ってきたような安堵感を憶えさすものなのです。P1000385 P1000386
 
謎の三角道、右が峠道、左が弓削道につづく道
このお地蔵さんはいつもよいお顔ですね。


 風が冷たいので志古田側に少しくだったところで昼食とします。とりとめのない話をしながら休憩を終え、いよいよ志古田道の下りにかかります。わたしにとってはもっとも歩きたかった、というより確かめたかった志古田道なのです。つづく

今日のじょん:背後霊じょん。
 最近妙に食欲があり、朝夕はもちろん今まで食べなかった昼食時までねだりに来る。昼食をとっていると音もなく背後霊のように寄り添ってくるのだ。しゃーないからちこっとやってるのだが、次の体重測定が心配だぞ。P1000419

 

  

 

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大栗峠志古田道 11/18

2011-11-18 | 山・峠

2011.11.18(金)曇

 念願の大栗峠志古田道に行けることになりました。上粟野から志古田道は元来の京街道であると考えていたのですが今回佐々木さんが車で上粟野まで送ってくれるということで実現しました。車に乗れる限定4名で参加者を募ったところ、土筆庵井上さんが行けるということで、桜井克さんとわたしと三人の参加となりました。
 天気が怪しいのと期待感でなんとなくソワソワと準備を始めました。

  8:00 志古田集合 佐々木さんの車で上粟野へ
 9:05 林道入口(山の家前バス停)スタート
 9:55 登山道入口着  10:05 発
10:30 尾根道に到着  10:40 発
10:55 地蔵堂跡
11:25 大栗峠着     11:50 発
13:04 志古田林道着
13:22 山の神着
13:35 佐々木邸着

 上粟野は上和知川上流にぽっかり開けた集落です。和知山の家があり、かつては随分賑わったそうですが、最近は利用者が少なくなっているそうです。若者のレジャー指向が変わってきたのかも知れませんが、それなりに対応した施策が必要なのでしょう。
  林道の入口に池本寺観音堂というのがあります。その前の谷の右岸の道が旧街道のようですが歩かれていないので、左岸の林道を行きます。地形図和知にはこの右手の尾根に登山道が載っており、わたしたちがシデの山と言っているピークに突き上げています。P1000367 P1000366
 
上粟野とバス停、
大栗峠あやべ山の家の案内有り。



 林道を行くと、立派な防獣のネットが張ってありゲートを開けて入ります。なんとなく幽界に入っていくようで気持ちのよいものではありません。いきなり鹿の全骨格が横たわっていました。バス停から2Km弱で右手に支沢が出合います。更に500m程で支沢があり、道の下に地蔵堂があります。地蔵さまの姿はなく、逆に殺伐とした気分になります。街道はこの沢を北に登って行くのでしょうが、林道は左に大きく迂回して北に向かいます。右側にあった沢が左に移ると間もなく「ふれあいの森散策道」という看板が見えてきます。この看板は昭和55年に綾部山の家とを結ぶハイキングコースが整備され、その際に作られたもののようです。猟銃の弾痕が三ヶ所有り、こんな輩が銃を持っているのかと思うとぞっとします。P1000370 P1000373
 
地蔵さんのいない地蔵堂と
弾痕のある看板


 ここでしばし休憩して、登山道の谷を詰めていきます。ところが谷道は荒れてきて、すこぶる不明瞭になってきます。
 「北山の峠」では300m程で自然に右手の尾根に取り付くジグザグ道がある、と書いていますが、それは看板からではなくて、当時の林道終点からのようです。
沢から取り付く道のようなものは見当たらず、やむなく植林の急な斜面を無理矢理ジグザグに登っていきます。ハイキング道は植林のために消えてしまったのでしょうか。少なくとも元の街道は看板の手前の支尾根の末端ではなかろうかと思います。あえぎあえぎ尾根に這い上がると、尾根上にハイウェイが走っていました。なんとも罪な看板です。P1000375 P1000376_3

尾根に這い上がった地点
二ヶ所でくっついている妙な木


 ここで休憩しますが、這い上がった地点にテープが2ヶ所うってあります。やはりここがハイキング道の降り道なのかとも思われますが、もしそうだったとしてもこの斜面は降りない方がよろしい。
 尾根上の道は弓削道同様広くて、歩きやすい道です。倒木などは弓削道より少なく、闊葉樹のプロムナードと言ったところです。松の木が多いのも気分を良くさせてくれます。
 道中大栗峠まで0.7Kmなどの看板が出てきます。P1000377 P1000378 つづく






【作業日誌 11/18】
薪割り

今日のじょん:帰りに寄った佐々木さんちのハナちゃんはとっても人なつっこい。ベロベロスリスリするもんだから、帰ってからじょんが嗅ぐこと嗅ぐこと。P1000414_2

井上さんもタジタジ。 

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雨読 峠をあるく(2) 11/17

2011-11-18 | 雨読

2011.11.17(木)晴

 笛吹峠は津波の被害の大きかった岩手県釜石、大槌(おおつち)方面から遠野市に越える峠です。自転車旅行中もっとも思い出深い峠です。2006年10月17日宮古を出発し、釜石から仙人峠を越えて遠野に行く予定でした。ところが陸中のアップダウンの海岸線を南下する間、猛烈な南風、つまり向かい風に遭いました。自転車走行にとってつらいのは重荷でも急坂でもなく向かい風です。吉里吉里(きりきり)のあたりではすっかりくたびれてしまって、予定より一本北の峠道に入ったのです。これが笛吹峠への道でした。Img_1238
 
あの山の向こうが遠野です。気が遠くなりそう。


 方向が西に向いた途端風は無くなりやれやれと思った途端、困ったことに気付きました。食料品を買う店がないのです。もともと釜石市街を通る予定だったため極少量の行動食しか持ち合わせがありません。発電所のところで最後の食料を食べて登りにかかります。それがまた、でかい峠なのです。西日本では峠と言ってもしれてますが、東北の峠はスケールがでかい、しかも急登なのです。
 悲惨な思いで越えた峠なのですが、この峠こそ弘化四年(1847年)の第一次の三閉伊一揆(さんへいいいっき)の二千人にもなろうかという農民が遠野の城下目指して通った峠道なのです。
 三閉伊一揆とは南部藩に対する一揆で、弘化四年と嘉永六年(1853年)に起こり、大規模で且つ用意周到でいずれも農民が勝利しているという希な一揆であります。そして地元では今日でも一揆のことを語り継ぎ、誇りに思っておられるようです。農民が蜂起した田野畑村には三閉伊一揆を中心にした民俗資料館があります。わたしはたまたま通りがかりにこの資料館に立ち寄り、至極感動いたしました。後にも先にも一揆をテーマにした資料館はありません。Img_1188 Img_1237
 
田野畑村の資料館と栗林村の供養碑。


 笛吹峠の麓、栗林町(現釜石市)にも嘉永六年の一揆の指導者三浦命助の碑があります。いかにこの地が三閉伊一揆を大切に思っているかが判ります。
 さて井出氏の着想はというと、遠野物語で遠野に関する事柄はもちろん、遠くこの笛吹峠の向こうのことまで書いている柳田国男氏が、三閉伊一揆について何も書いていないことです。つづく

【作業日誌 11/17】
テーブル用収納棚作製7日目

今日のじょん:本日の来じょん、久太郎、Q太郎かな?15才とか聞いたけど、イタチと格闘し、お腹を大手術したとか。とても元気で生命力アリソー。P1000361

 

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雨読 峠をあるく (1) 11/16  

2011-11-17 | 雨読

2011.11.16(水)曇

 井出孫六氏の本を二冊所蔵しています。「峠ーはるかなる語り部」「歴史紀行 峠をあるく」と峠に関する二冊です。前者は箱付の大変立派な本ですが、かなり以前に買ったもので、どこでどうして買ったものか憶えていません。中身も読んだことは読んだのだが、果たしてどのようなものだったか憶えも無いのです。後者と同様に歴史的事件と峠との関わりを説いている部分もあるのですが、歴史的なものにはまるで興味の無かった時分に読んだのでしょう。
 今回紹介するのは後者で、実はここ数年読んだ本の中で最も面白い本なのです。
  「歴史紀行 峠をあるく」井出孫六著 筑摩書房 1979年第一刷 定価1300円
 購入価200円
P1000360



 峠に関する書物は数多くあります。峠のガイドブックやその峠の紀行文的なもの、歴史的な事件や物語を加味したものはいくらでもあります。しかしこの本はプラスアルファがあるのです。このプラスアルファが大変面白く、どんどん本の中にのめり込んでしまうという感じです。
 氏の峠に関する調査、取材、探究は深いものがあり、もちろん現地に赴いて紀行も書かれています。しかしそのプラスアルファの着眼点というか発想というのは常人を超えています。本書に掲載の峠は十二箇所あるのですが、そのうちわたしが訪れたことがあるのは洞ヶ峠、笛吹峠、乙女峠の三箇所で、近隣の峠を越えたのが野麦峠と人形峠です。これ等の峠を本書を紹介しながら連続で案内してみたいと思います。そのなかでプラスアルファが何なのかお解りになるかと思うのです。
 洞ヶ峠は洞峠の中で少し書きましたが、(2011.11.12、14参照)氏のプラスアルファの着眼点は、策士の光秀が本能寺の変の後、何の策もなくてむざむざと秀吉に討たれたかという点と、洞ヶ峠に出向いていない順慶の名を借りて「洞ヶ峠を決め込む」という有名なことわざができたのかという点です。
 もちろんこういった歴史の側面の考証などできるものではないのですが、「洞ヶ峠」の諺について、氏の文を読んでいただければ、氏の歴史観というかポリシーの一端が垣間見られると思います。
 
 「洞ヶ峠の順慶」なる俚諺は、ほかでもなく、戦国の武将がつくったものではなくて、この八幡の町に住んで、日々戦乱にめいわくし、とことん戦乱を忌み嫌い、とことん戦乱を憎悪したその町の庶民たちが、筒井順慶にことよせて、時の武将、支配者たちに対する皮肉と軽蔑と若干の憎悪をこめて創作したものにちがいない。
つづく
【作業日誌 11/16】
テーブル用収納棚作製6日目
薪割り

今日のじょん:じょんのびのお客さま、フークちゃん。全島自分の庭みたいな五島列島に住んでいたそうだ。なんでも盲導犬になれなかったけど、服のモデルになったとか、、、。11月12日来じょんP1000332

 

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ネットは続くよどこまでも 11/15

2011-11-16 | 日記・エッセイ・コラム

2011.11.15(火)曇、雨

 なんでも全地域に補助金が下りて、農地という農地に防獣用のワイヤメッシュのフェンスが張られています。確かに今までは限られた地域だけがネットを張って、そこの害が無くなったとしても他の地域で害が出るという一面がありました。
 今回のネット張りは全地域的で、数ヶ月前からどこの地域にもネットがうずたかく積まれ、支柱を立てる槌音が響いています。農家の方にとってはやれやれこれで獣害が防げると一安心ということでしょうが、わたしは手放しで喜べない心境です。P1000357_3
 

ネットは続くよどこまでも♪

 ワイヤメッシュによる防獣対策はあくまで対処療法で、その効果あるいは継続的な効果には疑問があります。それはそれで現在最も効果のあるものということは理解できますが、同時に根本解決を目指す方策が見えてこないのは不満です。
 美山町では森林組合などと提携して動物を山に返す方法が模索されていると聞きます。やはりそういったものが見えてこないと、大々的なネット張りも大きな無駄遣いにしか思えないのです。補助金ったって天から降ってくるわけじゃなし、元はといえば私たちの税金だからです。
 ワイヤメッシュのネットが対処療法でしかないことは明白です。動物たちはあの頼りないネットを破る能力を持っています。猪は当然のことながら、鹿でさえももっと頑丈なネットを破っているのを目撃したことがあります。ネットの中の田んぼに獣道があること、ネットの中の土が掘り起こされていることを見れば、これらが容易く破られることははっきりしています。それでも随分効果があるのだと思います。それは奴らが、無理にネットを破らなくても他に狙える箇所がいくらでもあるからでしょう。それは田んぼではなくて、農家の人が出荷する程ではなくても自らの消費に作っている野菜などです。そしてそれらも今回ネットが張られるようになりました。法律的には農地だからです。P1000359
 
じょんの足下から獣道がついています。これはネット内の田んぼです。猪の掘った跡もいくつかあります。


 結果、村中の田畑にネットが張り巡らされ、獣害を防いでいるつもりが人間が鳥かごの中に入っているような状況になるのです。チャップリンなら上手く表現してくれるだろうなあと思っているところですが、現実はもっと厳しいでしょう。P1000356
 
採れる野菜の何百倍もの経費で醜い
ネットが張られていきます。



 農家の田畑に入れなくなった獣が向かうところは、家の周りの畑です。農家でない私たちには補助金は出ません。家計の足しにと作っている野菜のために高価なネットを張るわけにも行きません。野菜を購入する値段の何百倍もの投資をしてネットを張ったとして、獣たちはどこへ行くでしょう。投資の出来ない人の畑に行くでしょう。
 投資の出来ない人はどうするでしょう、バカバカしいから野菜なんて作らなくなります。すると獣たちはどうするでしょう、人家に侵入し始めます。猿などはとっくに人家に侵入しているし、今年は熊が家に侵入し冷蔵庫を開けて食料をあさったなどというニュースがありました。
 これってイソップでもグリムでも語られなかった怖~い話だと思いませんか。

【作業日誌 11/15】
テーブル用収納棚作り5日目
薪割り

今日のじょん:本文中の写真に登場のためお休み。


 

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