晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大栗峠考(5) 7/31

2011-07-31 | 上林地名考

2011.7.31(日)曇

 大栗峠についてはあとは現地調査あるいは踏査をするばかりと言うことなのだが、どうしてもそれらの前に書いておきたいことがある。それは大栗地名がどこにあるかということと、「左京道 右弓削」の石碑位置の予想、そして峠地名に関する一考察である。これらは現地で調べればすぐに解ることもあろう、しかし事前に想像しておくことによって、従前に述べてきた仮説が真実に一歩近づくということもあるだろうし、予想とまるで違っていたら、また一から考え直せば良いことだ。
 大栗はどこか?
 これこそ現地に赴けば簡単に解ることだろう。しかし何も解らないうちに予想しておきたい。大栗地名が崩壊地名でそのことによって志古田道が京街道の座を奪われたとする私の説が正しければ、大栗は街道沿いに無ければならないし、そこは崩壊地形でなければならない。二万五千分の一地図では志古田ルートは完全に谷筋をトレースしているのだが、「北山の峠」では大栗峠から左手の尾根に乗り、谷に下り、それからはずっと右岸を高巻いて下る、という風に書いている。これは昭和55年に整備されたハイキングコース以前の話である。ややもすると京街道であったときとハイキング道整備前後の道には変更があるかも知れない。右岸を高巻いている部分が崩壊が激しいようだ。斜面のトラバース道と思われるので当然のことだろうが、このあたりに大栗があるのではないだろうか。小字として大栗、薬師、姥ヶ谷として続けて書かれている。姥地名も崩壊地形を表すので気になるところである。薬師は薬師堂以外に考えにくいのだが、謎の大乗院の石碑もなにか関連があるのだろうか。Img_3395
 
上林川左岸の広場から志古田。左の木の陰に二つの岩峰が見えるのだが、その辺りだろうか崩壊地点は。 


「左京道 右弓削」の石碑はどこか?
これは見つけたら大発見ということになろう。この石碑の位置によって志古田道が京街道であったことが証明されることだろう。「北山の峠」の金久氏以外にも山行記録に発見できなかったことを書いているものがいくつかある。それは当然のことだろう。多分この石碑を探すことが目的で行ったわけでなく、しかも歩いたのは京街道、志古田道そのものだったのでは無かろうか。
 奥上林村誌に「志古田の山中」とあるが、志古田から弓削に向かう道ならそれほど奥に入る必要はない、志古田の集落あたりから西に向かえば100mも登らないで弓削の集落に行ける。山中にこだわらないで、弓削に向かう間道があればその付近を探すべきでは無かろうか。
 山中にこだわるとしたら、弓削だけでなく山田、城下(石橋か)にも行ける弓削道ルートに合流する道となるのだろうが、そうなると大栗峠とさほど変わりない行程となり意味をなさなくなりそうだ。徒渉があるとしても、上林川を渡って行った方がよほど合理的だと思われる。この件に関しては弓削に向かう間道を探すのが先決のようだ。つづくImg_2597

上林禅寺から山田、竹原、瀬尾谷方面。左方のピークが大栗峠の頭(681,4m)か。全ての村に大栗峠からの道が続いている。 


【作業日誌 7/31】
草刈り(6-6)
秋ナス準備

今日のじょん:昨晩の水無月さんのバーベQの疲れが残り、人間どもは交替で昼寝する。よく見るとじょんは独り占めでず~っと寝てるのだ。いやまあよく寝られるなあと感心し、さぞかし夜は寝られないだろうなあと思いきや夜は夜でしっかり寝てござる。マイッタマイッタ。Img_3401_2

写真は散歩帰りにくつろいでいるところ。

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大栗峠考(4) 7/30

2011-07-31 | 上林地名考

2011.7.30(土)晴

 (3)峠名になっている大栗が志古田にある。
大栗が志古田のどこにありどのようなところか確認していないのではっきり言えないのだが、志古田にあることを前提にすれば志古田道が京街道の本道であることは間違いないだろう。本道でないところの地名を峠名として使うはずがないからだ。

 次に志古田道が本来の京街道であり、後にその座を弓削道に譲ったとしてその理由を考えてみよう。山道はまず尾根道が出来、索道や保守の技術が発達するにつれて下方に下がってくるものである。このことは廃村八丁の例を挙げて書いたことがある。(2010.8.23 訂正猪鼻峠 参照)
尾根道は歩く労力はかかるが、道としては作りやすく、傷みにくい。道が出来る前の獣道など必ず尾根筋には通っている。
 従って志古田道が京街道となったのは道の原則からすると矛盾することとなるが、いくつかの理由で採用されたのだと思う。一つは上林川の渡しの問題では無かろうか。若狭から来ても舞鶴から来ても上林川は渡らなければならない。堤防が出来て当時の川の様子は予想できないが地形図で見る限り、この附近で最も川幅の小さいのは志古田橋の上辺りなのである。Img_3394
 
志古田の谷は右に湾曲しており、大栗峠は手前の尾根の陰になる。


そして峠に至る道はこの志古田道が最短であることも地形図からうかがえる。
あるいは弓削ルートが当初無かったと言うことも考えられる。
 道の原則で、まず尾根道が出来るということはあるが、主要街道が必ず尾根筋になるとは限らない。むしろ上林など谷筋の方が沢山ある。ただ損傷の度合いというのは谷筋が圧倒的に高いということである。
  志古田道が京街道の座を弓削道に譲ることになったとしたら、その理由こそ大栗の地名に由来する、道の崩壊なのではないだろうか。例年繰り返される雨の季節ごとに崩壊する街道の修理に手を焼き、従前からある尾根道、あるいは新たに手を加えて作り上げた尾根道を主体とする弓削道が新京街道として脚光を浴びることとなったのではないだろうか。
 実は私は未だ志古田道も弓削道も川合に降りる道も歩いていない。ピンポイント的に大栗峠を訪れただけである。そのことだけで峠の歴史についてこれほどまでに探求心を奮い立たせ、想像力をかきたてるのは、大栗というたった二文字の地名のなせる技である。
 どのような人かは知らないのだけどバイガントという人が「地名は地理的事実の、広い意味での芸術的に圧縮されたもの」と言ったそうだ。何とも意味深な言葉である。私はあと二つほど想像すること、仮説的な発想を御紹介して、その事実関係を調べる、いわゆる裏とりを始めたいと思う。つづく
(大栗峠考(3)は2011.7.28)

今日のじょん:夕方からおとー、おかーは水無月さんの花火大会に行って留守番である。綾部駅発の臨時バスが9時半発だから10時は過ぎていただろうけど、ここまで遅い留守番は普段には無いことだ。さぞかし不安がっていることだろうと、そーっと窓から覗いてみると、普段なら窓際にへばりついて尻尾振って喜ぶくせに、なんとも寝ぼけた顔をして、「なんじゃ?」と言うような顔をしてこちらを見ている。
うーむ、案じたもんじゃないなあ。

 
 
 
 

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鳥垣渓谷 7/29

2011-07-30 | 山・峠

2011.7.29(金) 晴

 鳥垣渓谷って知らんかったなあ。思えば大岩の滝だって知らんかったし上林って渓谷や滝の素晴らしいところが色々あるわけだ。古和木だって八反の滝だの弁天の滝だのあるそうだし、古屋の奥には幻の大滝まであるそうだ。そんななかで鳥垣渓谷についてはシデの山山行で少しずつ紹介しているが、第三の滝以奥の核心部については未確認であった。シデの山を楽しむ会でこの部分を探索し、整備しようということになり、桜井さんと出かける。
 第一の滝(約6m)
既に何度も紹介しているが、えん堤の上にあるため土砂が溜まり、本来の滝壺は埋まっている。この滝の岩質は他の滝と変わっており、緑っぽいきれいな岩肌である。この滝だけはハイヒールでも来られる。Img_3175

第一の滝(おりと、6.26撮影) 



 第二の滝(約5m)
小さな滝だが、ルート上一番の難所で左岸の岩にステップが切ってある。従来トラロープで登高の補助をしていたのだが、今回私の使っていた12mmのザイルと取り替えた。
Img_3380
第二の滝、右手のロープを取り替える。 



第2.5の滝(約2m)
第二の滝から少し歩いていくと、歩道の下に小さな滝がある。これも数に入れるべきか悩むところだが、第三の滝が定着しているので2,5の滝にしておこう。

 第三の滝(四段 約10m)
沢筋ルートの終点で、ルートはここから右岸の斜面をジグザグに登って尾根道ルートに合する。ジグザク登りの途中から獣道を滝上に向かうと落口上部に出ることが出来る。Img_3178 Img_3381

第三の滝下段と落ち口。 


第四の滝(約3m)
第三の滝落ち口上部につづく滝だが、二段で一つと見てもいいのだが、少し離れているので別のものとして扱って良いだろう。

 第五の滝(約5m)
第四につづく滝、どちらも傾斜のないなめ滝である。Img_3382

第四、第五の滝。 


第六の滝(不明)
右岸に大岩があって行く手を阻んでいる。写真の角度が悪くて詳細が解らない。くの字に曲がった滝であったと思う。ここから右岸の登山道に高巻く。Img_3383

第六の滝、大岩の下にあり、どんなだか思い出せない。 


第七の滝(すだれ状 約10m)
高巻き道から降りていくが、谷床に降りるのはかなり危険。滝は傾斜がきつくて、この滝だけは直登が困難な気がする。滝の横から眺めると筋状に水が流れているが、正面から見ると簾のように拡がっている。よい滝だ。Img_3385_2 Img_3387 Img_3389

 


第九の滝(5m)
こぢんまりとした最終を飾る滝。秋には紅葉が映えそうだ。Img_3391

 
第九の滝 小さいがまとまりのあるよい滝だ。

樋状のナメ
大桂の木の所につづく3,4段の樋状のナメ。大きな釜を持っているので滝としてみてもいい。気持ちの良い場所だ。大桂から少し下がると上部が覗ける。Img_3393_2 Img_3139

おかーが帰ってきよったの図。(6.23)

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大栗峠考(3) 7/28

2011-07-29 | 上林地名考

2011.7.28(木)曇

  寛政十一年丹波國大絵図では、街道は長野~弓削~大国峠~細谷となっている。志古田、鳥垣は街道から少しはずれ、上粟野も街道からずれている。大国峠は角川地名辞典、仏主峠(ほどすとうげ)の覧に、「江戸期園部藩の巡見道であったが、一般の往来は少なく、上粟野から大国峠を経て、上林谷への往来が多かったようである。(丹波地区民俗資料調査報告書)」とある。従って大国峠=大栗峠であり、もともと大栗峠であったものが訛って大国峠と書かれたものであろう。
 「北山の峠」の中で金久氏は
 「
この峠の峠道は上粟野からは尾根を上る一本道だが、峠から上林側へは尾根道と谷道の二つに分かれる。尾根道は弓削に至り、谷道は志古田に到る。だが京街道の本道は弓削に下る尾根道の方である。このことは村人も云うし、歩いてみれば道の風格で肯ける。云々」と書いている。京街道の本道が弓削道というのは丹波國大絵図でも示しているところだが、私は志古田道が本来の京街道だったのではと考えている。その理由は以下のとおりである。
 (1)峠の石碑に「右わち左志こた」とある。
 この石碑は随分立派なものだが、お地蔵さんの石室の後ろに倒れている。そのままその場所に立てると方向が逆になるか、石室の後ろ側が峠道となり、大変不自然な状態となる。乗越(のっこし)となっている部分はお地蔵さんの前であり、当然そこが大栗峠そのものなのだろうが、そうすると石碑は峠道の東側に、つまり石室と向かい合わせに峠道を挟んで存在しなければならない。そこだけが方向が一致するのだ。Img_3359
 
大きな石碑が石室の後ろに倒されている訳が判明。


 このことを考えついた後に再度「北山の峠」を読み返すと、金久氏も同じことを言っておられる。しかし氏は弓削道が本道とするあまりに、この転倒した石碑や石室の背後にある弓削に向かう道のことを不思議なこととして一頁近くをさいて書いておられる。私は今回の文章を書いている間に気づいたことなんだけど、本来の京街道は志古田道であって、なんらかの理由で弓削道にその座を譲ったということに気づいたのである。
 石碑は和知側から上がってきた人が志古田に降りないよう倒されたのだろう。そして石室の裏側の弓削に続く道は、同様に志古田に向かって降りないように作られた道であって、本来の峠には木で作られた案内板が掛けられていたのかも知れない。
 (2)奥上林村誌にある「左京道・右弓削」の石碑について
 奥上林村誌の3.徳川時代の奥上林、交通の項に次の記述がある。
 
道の別れた所には道案内の石碑を立てゝ旅人の便に供した。今も志古田の山中に「左京道・右弓削」と書いてある石碑が残り、大町の橋のたもとに君尾山への近道を教える石碑が残っているのはその名残である。Img_2697
 
君尾山への石碑
右君尾山 本堂三十丁の文字がある。
近道というより参道そのものではなかろうか。
 この石碑については「北山の峠」やその他の大栗峠に関する文にも出てくるが、いづれも未発見に終わっている。もっとも石碑の発見を目的として行かれているわけでないので無理もないが、本来街道を通行する人々に案内するためのものだから、年月は変わっても街道を歩けば見つかるはずのものである。それが見つからないのは、盗難にあった、道が変わった、自然災害で流出埋没したなどの理由が考えられる。特に村誌が発行されたのは昭和31年であるが、取材執筆されたのはそれ以前と考えられるので、28水(昭和28年台風13号による大水害)による紛失は充分に考えられる。この石碑の探索については是非やりたいと思っているので、それについては稿を改めるが、「左京道・右弓削」という石碑が志古田の山中にある限り、志古田道こそが京街道の本道であった証左である。つづく

【作業日誌 7/28】
庭木剪定の後片付け
玉切り、薪割り

今日のじょん:綾部では手に入らない貴重品のよしずをかみさんが福知山まで行って買ってきた。原始的とはいえ随分涼しくて、昔の人の知恵を偲ばせる。じょんはいつものようにぼ~っと外を見られず、部屋の内からあご乗せじょんをしている今日この頃である。Img_3378



 

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大栗峠考(2) 7/27

2011-07-27 | 上林地名考

2011.7.27(水)曇

 大栗峠の地名考は割合簡単だと思っていた。「栗」の付いた地名は、水流などによってえぐられた地形を表している場合が多い。刳る(くる)という動作から来ているようだ。綾部市には栗町という町がある。由良川と犀川の間の沖積地で豊かな土壌に恵まれ早くから開けたところだが、かつては洪水に悩まされた地域である。地図で見ると由良川の北に細い川が蛇行している。かつての由良川の跡かなとも思われるが、この蛇行によって土地がえぐられたことによる「栗」地名だろうと考えられる。
 栗の付く地名にはよく栗の木が生えていたという言い伝えが残っている。大栗峠についても「北山の峠」のなかで、金久氏は「連鎖的に丹波栗が思い浮かぶ」というふうに書かれている。これも胡麻峠と同様、えぐられた浸食地などと言ってしまえば文学的では無いと言うことだろう。
 栗は縄文人の主食である、日本中どこにでも生えていたのだろう。栗の生えていたところが栗地名なら日本中が栗というところになってしまう。
栗という地名の所は確かに河川による浸食地形が多い。「とちぎの地名を探る」(塙静夫著)に鹿沼市中粟野大栗というところの例が載っている。予想通りの地形で、粟野川の侵食で蛇行した川筋の地域である。そして気になったことは大栗峠の和知側も粟野だということだ。「粟」という言葉に何か意味があるのではないだろうか。粟、阿波、安房など様々あるが期待するような意味は出てこなかった。湖、池などの意味と粟の産地などというものが圧倒的である。なにか浸食されやすい地とか暴れ川的な意味が無いかと調べたが、一向に出てこなかった。鹿沼市の粟野と大栗のセットに気をよくして、和知の上粟野周辺に大栗の地名を探す。ところが期待に反してそれらしい地名は出てこない。Img_3356
 
右手下辺りが上粟野(シデ山頂から)


遂に諦めて上林側の小字名を拾ってゆく。中上林地区は大字毎に小字名の入った資料を持っているので簡単だが、奥上林地区は町名毎の資料しかないので大変である。何度か試みて遂に睦寄町に大栗を発見、しかしこれがどこにあるのか特定できない。大栗峠の道と関係のないところにあっては意味がないのだ。他の小字との表記の位置関係などから志古田にあることが解った。Img_3363
 
大栗峠、志古田への降り口。


 あとは大栗が大栗峠の街道沿いにあり、いわゆる「栗」地形であるかを確認するだけだ。
 と言いつつ、坪坂峠の関屋の坪も、胡麻峠の多門院の胡麻も訪問しなければならないし、猪鼻峠の猪鼻も探さなければならないし、宿題の多い峠名探訪ではある。つづく

今日のじょん:今日はかみさんが大津に行って留守なんで一日ごろごろして過ごしている。「じょんちゃん今日は留守番か」なーんてお客さんにいわれている。私は居るんだけど、、、、。Img_3377


リーダーが留守で寂しそー。

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大栗峠考(1) 7/26

2011-07-26 | 上林地名考

2011.7.26(火)晴

 憧れていた大栗峠に初めて行ったのは先日7月24日のことである。鳥垣渓谷から登り、稜線伝いに行ったので、本来の峠道ではないのだが、峠そのものは予想以上に良い峠で、感動することしきりであった。私は山、沢、岩壁など嫌というほど登ってきたが、今この歳になって峠がとても好きになってしまった。何でだろうと考えるに、そこにはいにしえの人間のにおいがするからだろう。頂上や岩壁などいわゆるアルピニズムの対象となるものたちは人間を拒否してきた。だからこそスポーツとなりえたのだろう。ところが峠は人間のために作られたもので、人間の生活があった。行商、里帰り、嫁入り、お祭り、買い物、出稼ぎ、、、ありとあらゆる人間の生活そのものが峠を越えた。峠に辿り着いて眼を瞑るとそういった光景が浮かんでくるのである。
 峠には必ずお地蔵さんや宝篋印塔、石碑などがある。これは旅人の安全を祈るという意味もあろうかと思うが、やはり他界観、境観といったものがあるのだろう。
 大栗峠の地蔵さまは何とも良いお顔をしておられる。いつまでも見ていたい顔だ。Img_3361 Img_3360




 地蔵さまの下に施主の銘がある。
「ワチ 川合 村中 カンバヤシ志古田 村中 同長野 村中 云々」
実は云々でなくもう一村書かれていたのを読めたのだが、写真に撮って帰ったら不鮮明で解らないのだ。次回訪問の際必ず報告することを約して、ご了承願いたい。
ワチ 川合村とはどこのことだろう。角川の地名辞典でもはっきり解らない。おそらく上和知川の流域、峠の麓辺りの村なのだろう。その地名が今に残っていないのは不思議でもあり残念でもある。
 実は私は天田郡川合村の生まれである。Img_5986

生家近くの川合川、夏は連日泳いだところ。


  その後三和町になり現在は福知山市になっているが、生まれたときは川合村である。川合村、河合村というのは丹波のみならず全国的に数多い村名で、概して山間部に多いようである。丹波では三和町、美山町のものが著名だが、船井郡にもあったわけだ。三和町の川合について常々不思議に思っていたのだが、それは川合といったって大きな川が合流しているわけでなく、なんで川合(かわい)なんだという思いである。川合川は台頭、岼で川が合流しているが本流に谷筋が合流するようなもので地名に残るような大きな合流ではない。合流地点に川合の小字があり、それが大字や村名になっているのなら解るが、そのようなものもない。むしろ上川合、岼、下川合と広い地域で川合の中心部を構成しているので、ポイントを表す地名ではないと考えられる。そんなとき柳田国男だったろうか、川合のイは居る、居住するという意味で、川合は川の周囲、両岸に居住するという意味のことを書いておられたのを思い出す。なるほど、解ってしまえばコロンブスの卵みたいなもので、納得する地名なのだ。船井郡の川合村もそのような村なのだろう。つづく

【作業日誌 7/26】
庭木剪定

今日のじょん:また暑い日々となってきた。節電がさけばれる中、じょんもクーラーなんぞ使っている場合ではない。日中は部屋中の四箇所のポイントを数分おきにワープして暮らしている。店が休みの時は厨房につづくこの部分が一番涼しいようだ。Img_3374    

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続・大栗峠 7/25

2011-07-26 | 山・峠

2011.7.25(月)曇

 山頂で昼食をとり、大栗峠に向かう。ここで主稜線は大きく角度を変えて北西に向かっている。ところが南西に向かう枝尾根が出ており、踏み跡もあるので間違いやすい。過去に間違って和知側に降りてしまった人があるそうだが、この箇所かもしれない。地図を持っていないと分からない地点だ。北西に斜面を下って、尾根が又西に向かう頃、右手下方に大きな岩が見える。これがすずゆわの地名由来と思われるすず岩である。今は樹木に覆われて見にくいが、茅場の時代には随分目立った岩であったろう。きっと鈴に似ていたのだろうが今では確かめる術もない。Img_3358
 
すず岩は樹木に覆われ見にくいが、相当の大岩だ。このした辺りまで林道が来ている。


 ナラ、クヌギ、カシなどの灌木の小気味よい尾根を登り降りすると石室のある大栗峠に着く。石室の中にはお地蔵さんが二体あり、お姿がすこぶる良い。一体には慶応年間の作と銘があるが、石室のお陰か傷みが無く、これほど親しみ深い柔和な顔のお地蔵さんは見たことがない。銘もしっかり残っており、次回「考察・大栗峠」で紹介したい。石室の裏側の尾根道に「右わち 左志こた」の道標が倒れている。随分立派なもので、これだけのものを運ぶには、やはり言い伝え通り荷車が登れる峠だったのだろうか。Img_3367 Img_3359 Img_3364
 



 志古田側の斜面に「北山の峠」で金久氏がこき下ろしていた、派手な看板が埋まっていた。一応起こして木に立てかけておいたが、上粟野に降りるルートが私たちの来た稜線を少し戻るように記されているのが気になる。確かに稜線の南側に古い道跡があるのだ。桜井さんに聞くとルートは地蔵さんの前を通って下っていくそうだが、その道ははっきりしている。次回訪ねるときは確認してみよう。いずれにしてもかつて重要な街道であったことを思わせる峠らしい峠だ。Img_3363 Img_3365
 
志古田に降りる道と例の看板。


 帰り道は早く帰る必要があったので、一人でぶっ飛ばして帰る。一時間強で自動車をおいた広場に出た。

【作業日誌 7/25】
庭木剪定

今日のじょん:久々にユキちゃんが来た。じょんは大騒ぎだが、ユキちゃんは冷静である。結構ジャーキーの方がミリキなのかも。Img_3373

 

 

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大栗峠 7/24

2011-07-26 | 山・峠

2011.7.24(日)晴

 大栗峠(おぐりとうげ)は上林から和知の上粟野(かみあわの)に越える峠である。上林側は志古田、弓削、山田方面からの道があるが、和知側は上粟野に降りる道一本である。これは地形的なもののあるが、この峠の利用者が上林側の住民が多かったというふうに考えられまいか。
 寛政十一年丹波國大絵図では弓削からの道が記され、大国峠とある。メインの峠道は弓削からの道だったのだろう。ところが昭和55年に和知と綾部の山の家を結ぶハイキングコースとして和知側の道と志古田に下る谷道が整備された。それから30年余りたった今どの道がどうなっているかは定かでない。山行の記録は目にすることがあるが、常時通行されているわけでないので、荒れているところはあろうと思う。
 今回はシデの山をめぐる山行の一環で参加したので峠道ではなく、鳥垣渓谷からシデの山山頂に行き、尾根伝いに大栗峠を目指したものである。
 参加者は世話役の桜井さんご夫婦の他、11名の大所帯となり、シデの山の人気を思わせる。Img_3347

小野田橋からシデの山。


小野田橋集合  9:00     車分乗でおりと奥の広場へ
おりと出発    9:25     鳥垣渓谷を辿る
第三の滝着   9:50      渓谷を離れ右岸の斜面を登る。(道標有り)

大桂の木着  10:20      尾根の斜面のユリ道
やすみと着   10:43     渓谷に沿った道
林道広場着   11:20     しばらく渓谷沿いに登り、左の斜面にとりつく。
                    (青テープ、虎テープの道標有り)

シデ山頂着   12:05     林道を少し行き、左の斜面に取りつく(道標有り)
昼食40分             稜線に上がり南西に進むと731mのピーク有り。
                    そこから少し行くと岩峰のピークがある。

大栗峠着    13:30     ピークから稜線伝いに進むと和知側に降りてしまう。
                    北西に降りてゆくと大栗峠への稜線に出る。

大栗峠発    13:45     ここからは単独で下山したので時間はかなり短縮。

やすみと着   14:30     尾根道ルートを下山
おりと奥の広場着 14:48

 下山後、是非行ってみたいという声も聞いているので、詳しく案内しよう。
自動車はおりとから数百m林道を入ったところの広場に置くと良い。(ここが尾根道ルートの下山地点、谷に杉木の橋あり)
徒歩数分でおりとまで戻り、第一の滝の右から取り付く。危険箇所にはロープ等張ってある。徒渉を数回繰り返し、第三の滝下に着く。第三の滝は大きな滝なのですぐに解る。左岸から小谷が合している。ここからは沢筋を離れ、右岸の斜面をジグザグに登って行く。しばらく登ると尾根道ルートに合流する。(道標有り)Img_3175 Img_3177 Img_3179
 
第一、第二、第三の滝(6/26撮影)


 右下に沢の音を聞きながら大桂の所まで登る。この間谷筋には4,5,6の滝があり、登山道から降りて見ることができる。Img_3180
 
大桂の木(6/26撮影)


 大桂からは谷に沿って登って行くと、二股の所にできた島状のやすみとに着く。やすみとからは本谷(右側)沿いに進み、踏み跡に沿って左の斜面を登る。ここはもうかつての茅場で明瞭な道は無いのだが、テープやロープで印が付けてある。見失っても登って行けば必ず林道に出る。林道広場からは若丹国境稜線から丹丹国境稜線が見渡せ、上林川畑口川沿いの集落、君尾山、弥仙山など最高の展望である。Img_3351
 
林道広場からの展望、君尾山方面。


 林道を少し登って行くと、左の斜面に道標がある。最初急登だがやがて傾斜が緩んで和知との境をなす稜線が見えてくる。道は目印もなくわかりにくいが、稜線に向かって登っていけば、どこに出ても問題ない。稜線上は灌木のプロムナードで何度か上り下りを繰り返す。南西に向かって稜線上を行くとやがて白っぽい岩が現れ始め、地図にある731mのピークに着く。Img_3353

白っぽい岩が出始めると731mのピークは近い。


ここには測量のためのコンクリート杭がある。ここがシデ山かもしれないのだが、もう少し稜線を進むとはっきりした岩峰があり、和知方面が切り開いてある。これは展望が良いように整備されたもので、シデ山頂の標識も木に付けられていたそうだが、風のためか無くなっていた。Img_3354 Img_3355
つづく

シデ山山頂と長老ヶ岳方面の展望。


 今日のじょん:散歩の時日によって行きたがらないところがある。妙にリードを引っ張って目で訴えているようだ。こういうときは無理に行かない方がいいらしい。例のなまずのえん堤には行きたがらないことがよくある。念道橋はそんなことはないのだけど。Img_3338

ここは嫌みたい。

 

 

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大唐内のこと(69) 丸山とイモリ村 7/23

2011-07-25 | 歴史・民俗

2011.7.23(土)曇

 胡麻の地名由来の二つ目は、(2)胡麻=駒=馬説である。これは胡麻=高麗=高句麗説より信憑性がある。平安時代前期の「延喜式」丹波胡麻牧の記載があり、言うなれば国営の牧場というところだろうか。毎年4才以上の馬が貢上されたということである。船井郡誌には、胡麻の地名由来は左馬寮の牧があったため、駒が転じたものとしている。
 殿田に上小牧、西小牧、東小牧、小牧井溝という小字があるが、胡麻牧と関連があるのだろうか。ただ、胡麻高原探訪では胡麻牧には四歳以上の馬が放牧されていたので胡麻=駒説は否定されている。駒というのは子馬のことで二歳馬で若い元気な馬のことという理由である。確かに駒というのは「こうま」の転で小さい馬、子馬のことをいうと古語辞典にある。しかし単に馬というのも駒と言われているようで必ずしも子馬に限らない。福知山音頭にある「駒をはやめて亀山へ~」という駒は決して子馬のことを言っているのではない。
 胡麻=駒=馬説を肯定するわけではないのだが、否定の理由が駒は子馬で胡麻牧とは関係ないとする論理は少し強引過ぎはしないか。胡麻=馬の可能性は無いとはいえないと思うのである。
 (3)胡麻=コマ=川の転回点、川の曲流蛇行する氾濫源という説はいわゆる地形語源説で、実際にそういった地形であればこれは一番信憑性が高いと考えられる。「胡麻高原探訪」の中ではこの説が採用されている。
 コマ=川の転回点、川の曲流蛇行する氾濫源というのは、私自身確認していないのだが、間違いは無いとすると果たしてその地形は一体どこにあるのだろう。胡麻というのは一体どこを指すのか、角川地名辞典でもよく解らない。胡麻、上胡麻は勿論だが古代の胡麻牧が田原郷にあったということもあるようだから、胡麻というのはかなり広い地域であったのだろう。この地域における地形的な変遷は前述の通りかなり複雑なものがあるが、地名が出来上がるころの地形は現在とそう変わりないものと思う。そうすると川の転回点、曲流する氾濫源と言われるところは一体どこだろう。Img_3290

山の方向が畑川流域方面だが予想以上に山深い。


 胡麻原は今は由良川水系となって下山に流れる畑川がかつては大堰川水系でその扇状地として作り出されたものである。この川が地名の由来となるのが妥当だと考えるが、胡麻川本流だって、田原川だって木住川だって転回点も曲流も氾濫源も充分に持ちあわせている。つまりこの語源となる地形は具体的なようで実は随分漠然としたものではないだろうか。「胡麻高原探訪」ではこの説が最有力というのだが、その根拠となる場所は指定していない。ただ、舞鶴市多門院の胡麻地区にそういった地形があるとしたら、この説はもう間違いのないところだろう。つづく

【作業日誌 7/23】
庭木剪定(剪定鋏でやってるのを見かねて、上田さんがトリマーを貸してくれたのだが、これがなかなか面白い)

今日のじょん:「おとーさん、昼寝してるときじょんとかっこが一緒やで」と言われるが本人は寝てるから解らない。ふと見るとかみさんも同じ格好で昼寝している。肖像権の都合で顔はカット。Img_3293


 

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大唐内のこと(68) 丸山とイモリ村 7/22

2011-07-23 | 歴史・民俗

2011.7.22(金)曇

 胡麻峠の由来は金久氏の情緒あるものでなく、単に多門院の胡麻に降りる峠という味気ないものであった。もっとも胡麻という小字については未確認なので、いずれ現地を訪れてみようと思っている。そういえば坪坂峠の関屋の坪について調べようと綾部図書館に行く。角川の地名辞書ぐらいしか無かったのだが、その中の小字一覧を何度調べても高浜町が出てこない。見落としがないか10回ぐらい頁を繰って「協力のない自治体については表示していません」という旨の説明を見つける。高浜町の小字についてはこの辞書に載っていないんだ。やはり現地に行って確認するしか無さそうだ。舞鶴市多門院の胡麻については角川地名大辞典の京都府に掲載されている。位置関係は解らないのだが、他の小字の順からみて、峠の降り口のような気がする。いずれにしても現地を訪ねる必要はある。
 胡麻という奇妙な地名について調べるには同じ地名を訪ねるのが一番である。幸い南丹市、旧日吉町に胡麻という所がある。市の図書館にいけば胡麻の由来は解るだろうと訪ねる。郷土史など探していると、丹波史談会という郷土史研究会の発行する「丹波」という冊子に「胡麻高原探訪」という記事があり、ここに胡麻の由来についての論文が書かれている。
 説としては(1)胡麻=高麗(こま)、つまり高句麗人移民説(2)胡麻=駒、つまり馬説(3)胡麻=コマ、つまり川の転回点、川の曲流蛇行する氾濫源説の三つが記されている。Img_3293
  古代人はこの胡麻の丸山をどういう気持で見ていただろうか。

 私がまず頭に浮かんだのは(1)の高句麗人説である。高句麗からの使節団が使った道は琵琶湖ルートが主で丹波ルートもあったように読んだが、まさかこのルートは使うまい。しかし高句麗が滅んだ際(668年)多くの亡命者が渡来したとあるが、新羅、唐連合軍に敗れたわけだから、新羅を通って半島の南端から渡来するわけに行かない。その多くが高句麗から直接日本海を渡ったと考えると、潮流や風向からその上陸地点は若狭、丹後が濃厚である。と想像すると彼らが胡麻峠を越え、洞峠や大栗峠を越えて由良川上流に出、胡麻を通過、あるいは定着しても不思議ではない。
 「胡麻高原探訪」では、高句麗ー高麗という変化がはっきりしなくて、中間的地名が存在しないという理由でこの説は没となっている。私は高麗や狛が高句麗人居住地として歴史的に認められていることだし、高句麗人説はあり得ることだと思う。むしろ問題はもし仮に高句麗人居住があったとしたら、その地や周辺に高句麗の遺跡や地名などあってもおかしくはないと思う。例えば大唐内の栃で見た石積みの墓が高句麗の積石墓の流れを汲むものであって、胡麻にも存在したら、これは事件だと思うのである。

【作業日誌 7/22】
庭木剪定(カナメ終了、櫨半分)Img_3344
薪割り

今日はこのくらいにしといたら~。

 今日のじょん:芝生を刈ってサッチを積んでいたら、朝一番に妙に脅えている。昨日まで別段どうってこと無かったんだが、吠え出すわ、腰は引けているわでカメラを向けた。昨日ファーミネーターした毛を乗せていたためかなあ。それだと自分の毛だから警戒するはずもないし、サッチの間からひょろったしたきのこがいくつか出ているからそれに驚いているのかなあ。じょんのみぞ知るというところだ。Img_3335 Img_3336

 

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台風一家? 7/21

2011-07-22 | 日記・エッセイ・コラム

2011.7.21(木)曇

 次の文の内、正しいものを選びなさい。
(1)「台風一家」「どんな家族やねん」
(2)「台風行っか」「どこいくねん」
(3)「台風一過」「爽やかになったねえ」
(4)「備えあれば憂い無し」
(5)「供えあれば幽霊無し」
「いや~難しいなあ」なんて言われるとつらいのだが、日本語は難しいものだ。というより漢字は難しいものだ。なぜって漢字にはそれぞれ意味があるからなんだ。上記の問題だって目で見れば簡単だけど、声で聞いてだと結構難しくなる。
 「ちでじでおこまりやおなやみのかたはいますぐごそうだんください」連日某国営放送で放送されている文言である。ヒサヤ大黒堂の宣伝かな、血出痔ってどんな痔かななんて突っ込んでいるのである。
 そんな時讀賣新聞の文化欄に「漢字偏重の社会を嘆く」というタイトルで三浦展氏が書かれているが、なるほどと思わせることがいくつかあった。今回の原発事故で政府や東電がメルトダウンを「損傷」「溶解」と言い換えるなど、事実をくらませるために漢字の言葉が使われた。と書いている。
 実はこの記事のタイトルは「解題新書」といって、新書本の紹介でもあるわけだ。田中克彦「漢字が日本をほろぼす」、井上ひさし「日本語教室」、水谷静夫「曲り角の日本語」の三冊を紹介しておられる。
 褥瘡(じょくそう)が解らなくて日本の看護師の資格が取れなかった海外の看護師の件も書いてあった。つい最近のニュースなので憶えていることである。このことは、漢字が国際化の障害になっているということだ。ちなみに褥瘡とは床ずれのことである、専門用語は仕方がないという問題でも無さそうだ。
  顔が腫れて、熱が出て病院に行ったら、「蜂窩織炎(ほうかしきえん)ですね」
「なんですかそれ?」
「丹毒ですよ」
「・・・・・・・」
新書の内どれか一冊ぐらいは読んでみようと思う。
 「解題新書」は意を得て妙なタイトルだが、「晴徨雨読」もなかなかのもんだぜ。

【作業日誌 7/21】
草刈り(6-4)
玉切り

今日のじょん:Img_3306
「ろうけんですか?」
「いや、特養です」
(じょん語録60、2011.7.6参照)

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台風6号 7/20

2011-07-21 | 日記・エッセイ・コラム

2011.7.20(水)曇

 台風6号ってのが来て各地に被害を及ぼしている。太平洋岸を初心者のティーショットのように超スライスして東海の沿岸に行ってしまったが、ここ上林でも夕べは強烈な風が吹いた。中心からこんなに離れたところでなんでという感じだが、気象学専攻の私としては上林谷の強い風に解説をしておこう。上林谷で奥、つまり東北方面から強い風が吹いた理由は、台風が大型で強風域が広かったこと、紀伊半島の南を通過している時の風向は上林谷の走る方向と一致していること、日本海北の高気圧の吹き出しと台風による風と風向が一致したこと、偏西風帯が北にあり風の拮抗作用が働かなかったことの四つの理由による。とまあ結果としては解説が出来るのだが、予報が出来るとは限らない。これほど強い風が吹くとは思わなかったのだ。ただ風向だけは予想することができた。そんなわけでしっかり風対策はしたのだが、被害というのは予想以外の所におきるものだ。
 白樺の木が倒れた、スチールの物置が倒れた、キクイモの木が倒れた、とまあ微々たる被害なんだが、それは事前に対策を行っているからだ。もうこの風の谷に3年も住んだら要領も解ってくるものだ。
 白樺の木はショックである。3本買って、1本が原因不明の枯れに会い、残った2本の内1本が倒れたのだから、、、。実は昨年の風のシーズンに竹の支柱をしたきりなんの対策もしていなかったのである。というより、植え付けて2年以上たっている木は自活して貰わないとこの厳しい上林では生きていけないという気がするわけだ。大学受験に親が付いていくような愚はしたくない。Img_3324




 物置が倒れたのは心外である。頼りない物置とはいえ、犬走りの上に中に数百㎏の砂利や土が入っているのである。しかもそれらは一番下段に積んでいるのだ。それが証拠に倒れた物置は起こそうとして、びくともしなかったのである。相当集中的な風の力が加わったに違いない。その隣に置いていたママチャリはそのまま立っていたのである。Img_3322
 



 きくちゃんイモはどーでもいいのだけど、一応起こして立てておいた。イモが出来ていれば収穫してお終いなんだが、なんにもないのでやむなしというところか。
 先日完成した看板だが、吊り下げている紐が少し移動して斜めになっていた。柱などはびくともしていないのだが、近所の方々が「せっかく作った看板は大丈夫やったか」なんて気にしていただいて、なんやら気恥ずかしいやら。Img_3325 Img_3323
 
 【作業日誌 7/20】
台風被害修復
草刈り(6-3)
ジャガイモ収穫

今日のじょん:夕べの風でストレスが腸に来ているみたいで、朝のうんPは5回もしてしまった。こんなの初めて。最初の三発ぐらいは普通のだったが、あとは柔らかいやつをちこっと。始末する身にもなってみいよ。Img_3328

これはカイカイしてるとこ、オモロイ顔やろ。
  

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大唐内のこと(67) 丸山とイモリ村 7/19

2011-07-19 | 歴史・民俗

2011.7.19(火)雨、台風6号

 大唐内は雑木林に囲まれた谷奥の集落であるが、古代集落を彷彿させるものがある。 中略 こんな村は北山では珍しい。私はこんな村を見ると古代人が居を求めた或る理想形を感じる。日本の故郷の原型の一つであろう。このことと関連して私にはこの村から山越えの文化が感じられる。山越えの文化とは、由良川を遡り更に上林川を遡ってきた川筋からの文化ではなく、直接日本海から胡麻峠を越した文化形態である。云々
 途中を略して申し訳ないが、その略したところが実は美しい文章なのである。峠越し文化論を書いた時(2011.4.3、21、23参照)この文章に出合って、人は共通した想いを持つものであると感激した。私が峠越しの文化を感じたのは大唐内であり、大原である。丹波負笈録大唐内村の項に
前文略 市茅野大唐内二村ハ上林七里谷の奥にて風体かはりし所也。中文略
男女本より能業の所也 然ニ家居人品よく 手跡算術 嗜能所と云人の内義京に似

 とある。負笈録の著者も同じ想いを抱いていたに違いない。
 その峠越し文化の一つの主役である胡麻峠について金久氏は次のように述べている。
前文略(丹波國大絵図に護摩峠とあるのをみて) 胡麻と護摩ではまったく意味が違う。胡麻は食べるゴマであり、護摩は密教で知恵の火で焚く煩悩逃散の儀式である。上林谷には君尾山光明寺という名刹があるこの寺は平安朝の頃真言密教の大道場として栄えたということであるから、護摩峠の名の由来はこの信仰にかかわりがあるとも考えられる。海の見える峠で護摩を焚くという発想は、あの時代の雄大な山岳宗教からすれば決して不自然ではないと思えるのである。Img_1732
 
大唐内から胡麻峠方面、胡麻峠は正面の小
ピークの向こうで見えない。(2010.11)

 金久氏はモータリゼーションの影で消えゆく峠に並々ならぬ愛情を注がれ、含蓄のある美しい文章で峠達を紹介されている、胡麻峠の由来についてはこうしか書きようがないという文章である。私は胡麻峠の由来を知っている。というより多分こうではないかというものだが、それを文章にすると次のとおりとなる。
 祖母谷川の上流、多門院の奥に胡麻というところがある。胡麻峠から多門院に向かった道はこの集落に降り着くのだろう。
 つまり胡麻峠の由来は多門院の小字胡麻に由来するものと思う。確かに胡麻という小字は存在するのだが、果たして胡麻峠からの道にあるのか確認したい。
それにしてもなんと愛想のない寒々とした文章になるのだろう。
金久氏はその麓に胡麻が存在することを知っていて、先程の文章を書かれたのではないかとげすの勘ぐりをしてしまう。「北山の峠」は峠や山名の由来を紐解く本ではないし、地名考証を専門的になされているものでもない。氏が峠を歩かれておれば、胡麻地名には気づいておられることと思う。しかし氏の峠に対する想いが、私が書いたような味気ない文では許せなかったのではないかと思ってしまうのである。つづく(大唐内のこと(66)は2011.7.14)

【作業日誌 7/19】
ガーデン、畑台風対策Img_3321

難儀なのはユーカリの大木、枝振りは凄いのだが根が頼りない、風が吹くたんびに倒れている。とりあえず杉丸太で補強。


 今日のじょん:苦手の風に神経をやられて、遂に又吐いてしまった。朝おしっこうんこに出たときは、大嵐で森も木も揺れ動いていたのだが、それなりにどちらも済ますのはなんとも不思議ではある。夜は気の毒なぐらい怖がっている。
 
  

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雨読 古代人と死 7/18

2011-07-19 | 雨読

2011.7.18(月・祝)雨

 重箱読みという言葉がある。音読みと訓読みが一緒になった熟語のことだが、今回の雨読は意味の違った重箱読みとでもいおうか。重箱の料理をあちこち摘むように三冊の本を摘み読みしたものだから、何が何だか解らなくなって収拾がつかなくなってしまった。最初に読み始めたのは「古代の日本と朝鮮」であり、途中で今回紹介する「古代人と死」を買ったらこちらの方が面白く、ついつい読み始める。そうこうしている間に前回雨読で紹介した「墓地」を買ったらこちらの方が面白くて読み始め、結局三冊を同時に読んで、遅く読み始めたものから読了するという変なことになってしまった。こういうのを乱読というのだろうが、あちこち摘み読みするので、重箱読みと言ったら何か面白い。
 「古代人と死」西郷信綱著 平凡社 1999年初版 定価2,500円 購入価1,000円
 中表紙と目次の間に二頁とってあり、その左端に、
子曰く「未だ生を知らず。焉(いずく)んぞ死を知らむ」と。  論語
人間は死を創造した。  W・B イェーツ

  イェーツはともかく、孔子の「未だ生を知らず。云々」の語は森敦の月山の中表紙にも書いてあった。小説の内容にこの言葉がぴったりで印象に残っていたのである。今回の「古代人と死」、かたや論文、かたや小説であっても扱っている主題は同一であり、この孔子の言葉が随分と合致しているのである。Img_3320
 
中表紙というのは目立たないが、含蓄のある言葉が多い。


 歴史、特に古代の歴史をたどろうと思えば、遺跡や遺物を発掘し、それを解析、分析するのが今日の史学の常套手段であろう。もちろん記紀をはじめとする文書や大陸、半島の古文書の解析も重要だがやはりそれらの文章の裏付けとしての物証を必要としている。
 私は物だけでは古代の歴史は解明できないと思っている。庶民の文化や地方の文化歴史は特にその傾向が強い。当時の人々の心の中、人生観、他界観、宗教観などを探らないと理解しがたいことばかりとなるのではないか。
 そういう意味で古代人の心の中を探るべくこの本を選んだ。心の中と言っても古文書や地名、伝承などから推察するわけで、いわゆる民俗学的手法とでもいうのだろうか。もちろん古墳の壁画や埴輪の形状など物的なものからも探究していくわけである。Img_3319

表紙の珍敷塚古墳の船と鳥の彩画も色々と考察されているものだ。


 著者のいくつかの論文を集成したもので、例えばノミノスクネ考や三輪山神話の構造、姨捨山考などといった多くの論文で構成されているが、色々と歴史や民俗の本を読んでいると、この書を元にしたものがいくつかあるなと思える。中には文の表現方法まで同じようなものまで現れて、この文はどこかで読んだぞとまで思えるものまである。
 丹念な研究と鋭い考察で読者をもって飽きさせない本であったが、ひとつ気になることがある。以前にアンチ金属三部作といっていくつかの著書を紹介したが(2010.12.9参照)実は本書もアンチ金属作品である。例えば三輪社、諏訪社に関する論文があるのだが、これ等の神社が金属に深く関連あることは多くの著者が語っていることである。ところがそのことを故意に避けているとさえ思わせる内容なのである。「蛇」(吉野裕子著)と同様、アンチ金属思考が底辺にあるように思える。それとも歴史家の中では金属というものは取るに足らない、単なる道具ぐらいにしか見られてないのだろうか。私にはこの潮流があるとしたら理解することができない。

今日のじょん:今日もかみさんがプールに出かけたので、しょぼちんと留守番していた。帰ってきたら走っていって窓を覗くのだが、たてずが掛けてあって覗けない。終いには匍匐(ほふく)スタイルで覗いていた。あんまり面白いのでカメラを向けたら立ち上がってしまった。オモシロナイ。Img_3318

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じょんのびアラカルト’11.07 7/17

2011-07-18 | 日記・エッセイ・コラム

2011.7.17(日)晴

 ヘンだぜKメリ
Kメリったってスカイラインのことではない。ホームセンターのあれである。じょんのびファームでは夏野菜の苗は花壇展に出しているみどり公社の苗を使っている。安くて良い苗で育ちも実付きも良くて喜んでいる。北進、桃太郎、千両の苗で温室で育苗され、すこぶるよく育った苗であった。ところが植えつけた途端大風が吹いて、3本の胡瓜苗のうち2本が双葉を残して折れてしまった。折れた一本は枯れてしまって、もう一本は双葉の所から枝が伸びてきた。それでも実が着くようになるか心配で、Kメリで2本を買って追加する。これが最悪で育ちは悪いわ、実は着かないわで救いがたい。時期が悪いのかと諦めていたら、いろんな方から悪い評判を聞くこととなった。Img_3313

見てくれ、この差は歴然。


 ヤーダさんはKメリで5本の胡瓜苗(北進)を買って育てたら、4本からは変な瓜がなって、胡瓜ができたのは一本だけということだ。Img_3308_2

これがわんさかなってるんだから堪らない。


 そしてメーパパはプッコチをKメリで2本買ったのだが、例の辛みが何もないものができて店にクレーム云ったそうだ。
じょんのびではかみさんが花苗を買ったんだが、一向に花が咲かないと怒っている。
 みなさん、野菜苗は少々高くても信頼の置けるところで買いましょうね。

 三年目の看板なんて大目に見ろよ。
開店以来3年と一ヶ月あまりでやっとこさ看板ができた。板は銀杏の一枚板で、開店当初から村上建設さんに頂いていたものだ。そして支柱の杉柱はこれまた3年前に吉右衛門に手伝って貰って上林川から引き上げてきたもの。飾りの碍子などは村上さんに2年前ぐらいに頂いていたもので、電灯やソーラーライトはこれまた3年前から買い集めていたものである。よーするにあとは描くだけだったのだが、なかなか腰が上がらなかったということで、大目に見ていただきたい。Img_3304

 



 間に合わない、緑のカーテン
毎夏恒例の緑のカーテンだが、今年は梅雨明けが早いのに育ちが悪い。育ちが悪いったって、とにかく蒔いた種は一つも発芽しなかったのだからどうしようもない。で、ゴーヤはどうしたかって云うと昨年のこぼれ種がバラスの中から自然に生えてきたものである。一所懸命水やって世話した種が発芽しないで、ほったらかしのあの悪条件のバラスから芽が出てくるとは何とも納得のいかない状況ではあるが、生命力の強さを感じさせるものがある。そんなことで育ちが悪いのか、昨年より2週間遅れている。連日カンカン照りで、たてずはどこの店に云っても売り切れだし、このゴーヤでは間尺に合わない。Img_3317

 


 
 驚きマーブル君
長いこと見てなかったマーブルが爪切りの帰りとかでじょんのびに立ち寄った。あまりに長い間あってないのでじょんも憶えてるかなあと心配だったのだが、さすがに兄弟である。どちらも臭ぎあって仲良くしていた。私たちのことも憶えているようだった。ところが、肥えてるでとは聞いていたがなかなか堂々たる体格である。顔も丸くなって、メーの肥えてる時みたい。ちなみに体重は37Kgとか、これはダイエットのし甲斐がありそうだ。Img_3309 Img_3310 Img_3311 Img_3312

【作業日誌 7/17】
薪割り

今日のじょん:本文に登場のためお休み。

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