晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

やっぱ寒いんや 4/29

2011-04-30 | 日記・エッセイ・コラム

2011.4.29(金)晴、曇、雨

  サラリーマンでなくなった今、GWったってカンケーネエってところだが今日が一番天気の良い予報である。完璧晴マークで降水確率は10%、こりゃあ出かけるっきゃないとばかりにじょんも連れて花壇展を見に行く。丹の国祭りも同時開催で綾部の街並みは少しばかり賑やかそう。白瀬橋下の花壇展会場はいろんな催しもあり、賑わっている。
 例年通り、植木市で花木苗を買い、夏野菜の苗を買う。北進、千両、桃太郎と夏野菜の御三家の苗を9本買って450円、どこよりも安いと言えば安い。
 花壇展は学校や幼稚園、各種団体が花壇を作製し展示するもので、いつも楽しみにしているのだが、今年は気候のせいで花が咲いていない。どの花壇も青々しておりなんとも淋しい限りだ。この調子だと花壇が盛況になるのは花壇展が終わった連休明けになりそうだ。Img_2817Img_2819
 
青々として寒々しい。


 そういえば早くに野菜を植えつけた人が、寒さで総て台無しにしてしまったとか聞く。今日買った苗は随分よく育っていたが、温室で育てたのことだ。寒さで何かと育ちが悪いように聞くが、苗を買ってしまったら放っておくわけにいかない、畑仕事がまた始まるぞ。そうこうしているうちに空はかき曇り、雨まで降ってきた。あの天気予報はなんやねん、GW早々から締まらない話だ。
 
じょんは他の犬の臭いで、クンクン嗅ぎまわっている。子供達が喜んでいるアンパンマンやまゆまろにもおっかなびっくりである。まあたまにはお出かけもいいもんだ。

 【作業日誌 4/29】
トマト、ナス植えつけ

今日のじょん:Img_2816

Img_2818

「何見てんのよ~」、アンパンマンでした~。
 



Img_2821
まゆまろはくわいよ~。

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大唐内のこと(53) 鬼伝説 4/28

2011-04-30 | 歴史・民俗

2011.4.28(木)曇、雨

 鬼伝説によくあるパターンは鬼を退治して貰った村人はそのことに大変感謝しているというケースである。これは多分に勝てば官軍的な説話の作り方という感がするが、村人があまりに感謝しているあまり、事件は鉱毒解決説というものがままある。つまり耕作をしている村人に害を及ぼしている鉱山、製鉄の民に対し、鉱毒を解消する技術の進んだ民が鉱山従事者に鉱毒の無くなる方法を伝授するというものだ。村人の感謝という意味では理屈にかなっているが、日本の鉱毒に対する対策というものが明治時代の足尾鉱山に於いて初であることを見ても、古代の鉱山で鉱毒対策が行われたとは考えにくい。ただ、近世の古文書などで、お上に鉱山の鉱毒被害を訴えるというものは多々あり、鉄穴流し(かんなながし)などが下流の耕作に影響しないよう季節を選んでいたという記録もある。つまり近世に至っては鉱毒という概念はあったようだが、はたしてそれに対する充分な技術、意識があったとは思えない。いわんや古代においてをやである。
 とまあ、勝手な想像を膨らませてきたのだが、このストーリーには多くの問題点がある。
まず、海人族とはなんぞやということである。いつの時代にどこからどうやってきたか。稲作や製鉄の技術を携えてやってきたというが本当にそうなのか。弥生人とは違うのか、半島などからの渡来人とは違うのか、色々と疑問が沸いてくる。もちろん私の知識が足りないということなのだが、海人族に対する良い教科書が見つからない。「古代丹後王国はあった」(雨読2011.2.5-6参照)などを読んだら余計解らなくなってしまった。
 次に大唐内に産する貧弱な磁鉄鉱ではたして原始的とは雖も製鉄が行われていたかどうかだ。大江山などはたたら遺跡も存在するし、鉱石も程度の高いものが産しているようだ。そこに鬼伝説が存在してもおかしくはないが、そのまま大唐内に当てはまるかどうかだ。Img_2714
 
小唐内から丸山(イモリヶ岳)、この山には何かありそう。


 これらはまだまだ研究学習しなければならいことだし、遺跡だって探せば発見できるかもしれない。たたらについても各地で実験が行われている。古代人がやっただろうことを現代に出来るわけだ。そうやって一歩一歩可能性を追求していけば、想像も仮説に代わるだろう。(大唐内のこと(52)は2011.4.27)

【作業日誌 4/28】
薪割り

今日のじょん:怖がりのじょんが訓練の甲斐あって積んである材木の上でも平気に登ってボールを探すようになった。「やっぱり褒めて育てなあかんなあ」なーんて喜んでいたら、ユキちゃんが来たのでやらしてみたら簡単にやってのけてしまった。かみさんの落胆すること。Img_2799

ぽんぽこジャンプ。  

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大唐内のこと(52) 鬼伝説 4/27

2011-04-28 | 歴史・民俗

2011.4.27(水)曇、雨

 伝説中に現れる、というよりは主人公の藤元善右衛門といわれる人物について、今のところこの人物について書かれた文書なるものは確認できない。確認できたものは氏の墓なるもの、氏が残したと言われる鏃、氏が射たという悪人の遺跡と言われるや神さま、そして弓の名人と言われる口伝である。
 大蜘蛛伝説が麻呂子親王や聖徳太子の時代の出来事を反映しているとしたら、善右衛門氏はその事件とは無関係だと思われる。墓の形式について詳しくは無いのだが、善右衛門氏の墓というのはもう少し時代が下がると思えるし、鏃も鏑矢があるのはもっと後の時代だと思うわけである。善右衛門という名前にしたって飛鳥や天平の時代らしくはないだろう。この辺の処は調査研究すれば明らかに出来ることだが、今のところは想像の域を出ることはない。
 ただ、善右衛門氏は藤元株の先祖として実在はしただろうと思うし、武士の出で、弓の名人であっただろうことは想像に難くない。弓の名人として著名であっただけに説話としての大蜘蛛退治の主人公として採用され、聖神社の祭神として祀られたのではあるまいか。
 ただ、大唐内と藤元善右衛門氏を結ぶ大きな理由があるはずである。それは日下部の部民が有安から出陣し、大唐内の産鉄の原住民を追放し大唐内に居住することとなったのではないだろうか。大唐内の入口に有安谷という地名が残っていること、大唐内の氏神ともいえる聖神社に有安の祖先である善右衛門氏が祀られていること、甘酒講といって毎年藤元七家を招いて祭礼を行っていることは、大唐内の住民の本貫の地が有安なのではないかと思わせるのである。 Img_1729
Img_2686 
大唐内(左)と有安(右)を結ぶものは、伝説のストーリーだけでは無いような気がする。


 そう解釈すると、大唐内の住民は有安の藤元善右衛門氏の大蜘蛛退治の恩を忘れないで毎年講を開いているということが素直に理解できるのである。つづく

今日のじょん:今日はかみさんが一日留守でおとーと二人で店番をしていた。夕方になり暗くなってきたら、心なしかしょぼんとしているようで、時々おかーを探しているように見えて不憫になる。こちらも心配になるころに車の音がして、帰ってきた。もう脱兎のごとく玄関に飛び出し、ちぎれんばかりに尾を振る様子には思わず嫉妬してしまう。Img_2809

 

 

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大唐内のこと(51) 鬼伝説 4/26

2011-04-28 | 歴史・民俗

2011.4.26(火)曇

 各地の鬼伝説について鬼とは鉱山師のことだろうという説はかなり一般的である。旧来の採鉱、製鉄をしていた民族が新しい勢力にその地、その権利を奪われる事象を説話として鬼伝説として残したものである。もちろん説話の鬼は痘瘡神であったり、修験者であったり、山賊であったりするわけだが、鉱脈のある地、産鉄の地に残る鬼伝説は鉱山の掠奪と見て良いだろう。
 そこまでの考え方は全国各地の鬼伝説にあるのだが、それではいつ頃の時期に、どのような民族がどのような民族に攻められたか、掠奪されたかという考証はあまりお目にかかったことはない。学問としての歴史や民俗にはそぐわない行為なのだろうか。説話の歴史的背景なんて所詮立証のしようのない想像の延長になるというふうに思われているのだろうか。
 私はあえて大唐内の大蜘蛛伝説の背景を探究してみたい。恥を忍んで私の仮説ならぬ想像を公表しよう。
 時代といえば弥生時代になるだろう、海の民が丹後や若狭に稲作や製鉄の技術を持ってやってきた。日置、青鄕、横津海なんて処は当時は海岸沿いであろう。彼らの主要な居住地であったと思う。肥沃な土地と豊富な海産物は居住するに充分であっただろうし、鉄資源も大島などに見つかっていただろう。新たな鉄資源や森林資源を求めた民は黒部谷や関屋川を遡行しただろう。特に航行の目印としていたイモリヶ岳の安山岩の節理には注目したに違いない。Img_2724

この安山岩には磁鉄鉱が含まれている。


 彼らはそこに鉄の原料、磁鉄鉱が含まれていることを知っていたのだろう。そして胡麻峠や猪鼻峠を越えた海の民にとって大唐内の地は桃源郷に見えたかもしれない。Img_2722

猪鼻峠から杉木立越しに関屋、青郷を望む。


 田畑を開墾し粗末ながらも野たたらで鉄器を製作しただろう。それから数百年、新しい民族が上林川を遡って入ってきた。それはもともと丹後や若狭に居住した海人族が由良川を遡ってきたものかもしれないし、新たに渡来してきた朝鮮半島の民かもしれない。彼らは農耕にしても、採鉱製鉄にしても新しい技術を持っていたし、ヤマト政権という国家権力がバックにあっただろう。日下部、弓削部、日置部などの部民は上林川上流、畑口川流域の鉄資源を目的に置かれたものだと推測する。それは朝鮮半島からの鉄鉱石の輸入が困難になり、自前で鉄資源を開発しなければならなくなるという政治的な背景があったようだ。Img_2697

上林川、畑口川の中間にある光明寺。


 草壁、日置殿町、弓削の地が上林川、畑口川合流附近にあるのはその拠点として重要な位置だからではないだろうか。またその地を見渡す位置に聖徳太子創建と言われる君尾山光明寺があるのは単なる偶然とは思えない。つづく

【作業日誌 4/26】
薪割り

今日のじょん:おとーの石探しを手伝っているのか解らないけど、堤防のところではクンクンが激しい。ここ掘れワンワンじゃないけれど、一応じょんのクンクンの処は見てみることにしている。鉄滓や石器など出てこないかなあ。Img_2795

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大唐内のこと(50) 鬼伝説 4/25

2011-04-26 | 歴史・民俗

2011.4.25(月)曇、雨

 鬼伝説というサブタイトルで続けてきたが、大唐内のは大蜘蛛伝説であって鬼じゃないなということになる。思えば玖珂耳の御笠も麻呂子親王が討ったのも鬼ではない。正真正銘の鬼は酒呑童子ぐらいである。十四世紀頃の絵巻に「土蜘蛛草子」というのがある。源頼光と渡辺綱が土蜘蛛を討っているのである。この絵の土蜘蛛、コオロギのようなのだが確かに足が八本あって蜘蛛である。ところがまわりにいる、小さな土蜘蛛は足が六本でまるで蟻である。何か深い意味があるのだろうか。それはともかく、頼光と綱なら鬼退治だろうと思うのだが、ここでは土蜘蛛退治である。このように鬼も土蜘蛛も対象としては同じもので、いわゆる「まつろわぬもの」である。ただ、古い伝説は土蜘蛛で新しいものは鬼ということも言えよう。土蜘蛛は記紀にも登場している。
 さてこの鬼伝説シリーズも中間まとめをしておきたい。もちろんまだまだ調べたいことはあるので、将来的にも「鬼伝説」はつづくのだが次の課題「イモリ岳」に進みたいので一応の中締めとしたい。
 大唐内の大蜘蛛退治伝説の意味するものはなにか?
あまりにローカルな伝説であるためだろうか、そのことに対する論はいまのところ見たことがない。この伝説の背後にある事件とは一体何だろうと考えた人は幾多あろうかと思うが、公に発表した人は居ないのではないか。
近隣の青葉山における玖珂耳之御笠に関する伝説、大江山の麻呂子親王伝説、そしてメジャーともいえる酒呑童子伝説について述べてきたが、そのいずれについても、決定的な歴史的事件や歴史的背景は述べられていない。伝説や説話というものはそういう性格のものなのだろう。
 玖珂耳之御笠、麻呂子親王伝説は古墳時代から飛鳥時代のヤマト政権の地方制定伝説ととれるが、いずれも金属鉱山地帯である大江山が舞台となっており、採鉱権をめぐる争いとして良いのではないか。Img_2673
 
庄から草壁をのぞむ。


 大唐内の地が金属採鉱の地である可能性は数々の状況証拠を示してきたが、大蜘蛛討伐の出陣の地が草壁(日下部)であるということは、ヤマト政権の息のかかった部民が大唐内の採鉱権を奪ったという風に考えてはどうだろう。つづく
(大唐内のこと(48)は2011.4.19)

【作業日誌 4/25】
道具収納棚つくり
薪割り

今日のじょん:ボールが取れないでイライラするとき、木の枝などがあったらそれを囓っている。これは何を意味するんだろう。枝を退けようとしているのか、それとも苛ついているのか、おもしろい現象である。Img_2798

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何か変だぜ、選挙編 4/24

2011-04-24 | 日記・エッセイ・コラム

2011.4.24(日)曇、雨

 今日は統一地方選後半戦だ。私の地域は何も選挙がないので情況が解らないのだが、何か変に思うことがいくつかあるので紹介したい。
 まず、選挙速報という茶番劇である。この前の都知事選の時もそうであったのだが、開票前に当選確実が発表された。石原都知事も苦言を呈されていたが、今夜も同様のことが起きている。「投票箱の蓋が開くまでわからない」という選挙の格言は過去のものらしい。
 選挙速報がそこまでやるのは、選挙そのものがゲーム化しているからではないだろうか。政治のことには感心無い、選挙なんて行かないよって人が実は選挙速報は寝ないで見てないだろうか。立候補者や支持者は早く結果を見たいかもしれないが、なにも夜っぴきで開票しなくてもいいんじゃないの。翌朝ゆっくり、八時半から開票すれば、経費も少なくて済みそうだ。議員にしたって首長にしたって翌日から仕事するわけじゃないんだから。
 選挙がゲーム化なら政治も劇場化している。それを推進した立役者は民報テレビではなかろうか。NHKの日曜討論会などは昔からあって、政治の公開という意味では意義があろうかと思うが、いつ頃からだろうか民報の政治的オチャラケ番組は戴けない。タレントも交えて面白おかしくやったところで、視聴率はとれても政治が身近になることはない。
 昨日のニュースに被災県の知事と政府の懇談が上がっていた。特に原発問題の起きている地域では国に対して強烈な批判をされていたようだが、その知事も選挙の時は原発推進派であったのではなかろうか。知事だけでなく市や町の首長も原発に対しては推進派であったからこそ原発が存在するのだろう。推進してきた責任はどうなさるおつもりだろう、はっきりと総括していただきたい。こんな時にそんなこと言ってられないという意見もあろうかと思うが、こんな時だからこそけじめをつけないと話が前に進まない。
 今回の選挙でも原発に対してもの申した人が勝ったなんて聞いたことがない。何か変だぜこの国は。

【作業日誌 4/24】
道具収納棚つくり

シマトネリコ3本植え付け。実はこのシマトネリコ、白糸濱神社の植木屋さんに処分品6本500円で譲って貰ったもの。Img_2777 Img_2778

人気のおじさんと、格安のシマトネリコ。


 今日のじょん:春の風対策としてペットゲートを開放したら、居間でくつろぐ割合が多くなった。特におとーの居場所の長布団はお気に入りで、おとーがのいたらすぐに出てきて寝っ転がっている。村長の座を狙っているらしい。Img_2791選挙は無いけど、、、、。  

 

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続々・峠越し文化論 4/23

2011-04-24 | 歴史・民俗

2011.4.23(土)雨

 由良川下流から大江を越えると在田というところがある。その支流を遡ると室尾谷観音があり、鬼ヶ城の鉱山地帯となる。由良川本流の農耕集団から派生した金属採鉱集団はこの支流を遡り、鉱脈を発見したに違いない。更に彼らは金谷峠などを越えて物部に、左折峠を越えて山野口、私市方面に進出したと思われる。小畑には古い坑道口が存在し、山野口などは福知山鉱山として大正時代まで操業していたと聞く。これらの派生集団は金属や木材を求めて本体より一足早く綾部に到来したのだろう。Img_3422 Img_3456

小畑町金谷峠と山野口の銀山橋。


三和町の大原の文化も、由良川、土師川、川合川と遡行したのではなく、由良川本流の和木や大簾川から峠越しに到達したのではと「大原」のところ(2011.3.20)で述べたところである。大原に金属に関する情報は持たないが、産屋の風習は海人族のものであるし、大蛇伝説など金属に関連のある土地かもしれない。
 さてそのように考えると、奥上林村誌に云うような、文化は山から、川からという論争は、どちらに軍配が上がると言うようなものでないことが解る。つまり農耕文化は川の下流から、山林、金属文化は峠越えに山から下りてくると考えて良いのではないだろうか。
 「西丹波秘境の旅」(澤潔著)に「辺地に追いやられた丹波製鉄人」という文がある。天火明命とその先祖を祀るところはとんでもない辺地であるという趣旨で、弥仙山の於成社、金河内町(かねぐちちょう)の阿須々岐(あすすき)神社、天座(あまざ)村(福知山市字天座)の天ノ峰神社などを挙げているが、それはヤマト政権によって追いやられたというよりは、もともとそこに金属、山林資源のある、
いわゆる峠越し文化の定着した土地なのではあるまいか。Img_2044 おわり

阿須々伎神社茗荷神事(2009年2月)


【作業日誌 4/23】
道具収納棚作り

今日のじょん:ジロー宅でのユキ事件以来初めてユキが遊びに来た。いつも以上に仲良く遊んでいたのでまずは一安心、写真は救急車が走っていったところ隣のチコがウオーンと吠えたので二人でなんじゃと言ってるところ。Img_2793   

 

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薪の切り出し終わる 4/22

2011-04-23 | 日記・エッセイ・コラム

2011.4.22(金)曇、雨

 昨年の12月から始まった薪の切り出しが一応完了した。一応というのは今後も木を切ってという依頼があったり、伐採された木を貰ったりするからだ。一緒に頑張ってきた松村さんと打ち上げの昼食をとる。何しろチエンソーと軽トラ以外は従来のままの道具で、人力のみを頼りに切り出したので、達成感のあること。
 ストーブを使い始めて3年間、常に薪は不足していた。もう使わなくなった薪を貰ったり、伐採して放ったままの木を貰ったり、チップ材の規格外の木を貰ったり、綱渡り的な供給をしていた。昨年度は充分の薪を用意したが、このくらいでよかろうと玉切りだけして積んでいたところ、怖ろしい冬が来て、3月初旬には割って乾燥させた薪が無くなった。そして急遽割った薪をいまだに使っている。いったいいつまでストーブが要るのか。
 そんな反省を活かしてしこたま切り出したが、これを割ってしまわないと意味がない。連続して薪割りをすると肱や腕を痛めるので、閉店後の約一時間をこれに当てている。このペースだとあと2ヶ月くらいは薪割りが必要だ。なんとか梅雨入りまでには完了したい。それにしても、薪を調達するということはなんと時間と労力のかかることか。Img_2784

これで2年分はありそうだ。


【作業日誌 4/22】
薪切り出し、終了
道具収納棚作り

今日のじょん:ボール探索犬のライセンスを与える。切ってきた櫟の大木が積んであるので今の間にボール探索の訓練をする。怖がりのじょんは以前は木に近づくことも出来なかったが、木をくぐること、乗り越えることなど徐々に憶え、今ではボールを探して持ってくることが出来るようになった。本格的探索犬となる日も近い。Img_2787 Img_2788 Img_2789 Img_2790

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続・峠越し文化論 4/21

2011-04-22 | 歴史・民俗

2011.4.21(木)曇

 海人族が稲作と製鉄技術をそなえて、海を渡ってあるいは海岸伝いに丹後や若狭の地に渡ってきた。もちろん原住民、といっても所詮彼らも海を渡ってあるいは陸伝いに日本に渡ってきたものであるが、がそこには居て確執があったかも知れない。ただ、狩猟採集と農耕という異なった文化の民であるから、利害が衝突することも少なかったかもしれないし、人口密度だって今日とは比べものにならないくらいだからさほど問題もなく定着したかもしれない。しかし稲作技術を持つ彼らは以前に比して、高い生産性と高度な文化を維持したことだろう。
 当初は農耕と金属生産、木材伐採、土器生産、衣類生産、木器生産などを誰もが担いいわゆる自給自足の村であったと思われるが、やがて技術的な分野は徐々に専門化していき、そういう集団も出てくるだろう。
 人口の増加に伴い、新しい農耕地を求めて移動するとしたら、やはり肥沃な大河沿いに遡るのが順当だろう。由良川沿いに海人族の文化が遡行しているのはその査証である。しかし金属生産や木材伐採などの民はそれ以上に早く原料、資源の枯渇に襲われる。そういう人たちは大河沿いに遡るよりむしろ山地を目指すだろう。その場合道なき道を探索するのだから、当然沢筋を遡ることだろう。金属鉱床を探す場合などは特にそうである。まず彼らは沢筋の砂や岩石から鉱床のありかをかぎ出すのだろう。そして彼らは沢のツメから峠に至る、そこからの眺めは今までと違った桃源郷のような景色が広がっていただろう。手つかずの樹木は無尽蔵にあり、峠の附近には鉱脈もありそうだ。峠を下った処は適度に開けて、自分たちだけの食料なら作ることも出来る。Img_1732 Img_2721
 
老富には若狭から直接文化が入ってきた。
胡麻峠と猪鼻峠。


 こうして胡麻峠や猪鼻峠のコルから農耕プラス幾多の技術を持った文化が大唐内、小唐内、市茅野の谷に入ってきたのだと思う。
 稲作を主体とした本体の文化は由良川、上林川を遡って来ただろうが、そこには相当の時間的ずれがあったと思う。稲作農耕は肥沃な土地に沿って田畑を切り開きながら開拓と定着を繰り返すのだから、資源の枯渇による早急な探索開拓の必要がある金属、木材などの文化とはスピードが違うわけだ。その由良川を遡る本体の農耕文化集団からも支流を遡り、峠を越える集団が派生するだろう。
つづく( 峠越し文化論は2011.4.3)


【作業日誌 4/21】
薪割り
道具収納棚作製

今日のじょん:朝のじょんの様子がおかしい。究極のじょんのびファーム(基本的に世話をしない畑、獣害がないようにほとんどネギ類を栽培)のあたりをクンクン臭いでる。そして訴えるような目をして木小屋のあたりや隣の畑に連れて行く。
やられた、それも育ちの悪い九条ネギを何者かに荒らされた。夜のこととて猿ではない、イノシシ風の荒し方でもない、鹿の糞も落ちていない。何か小動物か、それにしてもネギを襲われたのは聞いたことがない。世も末だぜ。Img_2782

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雨読 古代の韓国と日本 4/20

2011-04-20 | 雨読

2011.4.20(水)雨後曇

 上林の歴史をたどるとき、それが例え一寒村の小さな集落に限ることであっても古代にあっては日本全体の権力構造の形成と拮抗する東アジアの各国の情勢が関連してくることが解った。丹後、若狭は古代の日本の玄関口である。奥座敷である飛鳥や奈良に通う道筋である丹波や近江は上がりかまちとでもいおうか。「大唐内のこと」を書き始めて、これは大変な処なんだという認識がプレッシャーとなっている。特に古代の遺跡は少ないか、もしくは調査されておらず、表層文化の遺産というものも無い状態で、この地の歴史を探るためには、民俗文化への憧憬と日本とそれを取り巻く諸国の歴史的認識が重要なファクターとなろう。
 「民俗学からみた古代の韓国と日本」直江広治他、韓国文化院監修、学生社発行、1998,12初版、定価1、200円、購入価200円
 古代の日本に最も影響を与えたのは朝鮮半島諸国だろう。政治、文化、人物、宗教、産業あらゆるものが影響を及ぼしているのだが、その半島の歴史情勢については私たちは何とも無知である。ヨーロッパや中国について詳しくても朝鮮半島についてはどうもと言う方も多いのではないだろうか。近くて遠い国、朝鮮半島の諸国の古代については私自身も皆無の状態である。
 いきなり専門的な本を読んでも身に付かない。この本は韓国大使館文化院が開催されている文化講座の講演をとりまとめて冊子にされたもので、内容が大変解りやすい。古代の日本と韓国シリーズ13冊の中から手始めに、本書と「古代の高句麗と日本」の二冊を購入した。Img_2650
 
このうち二冊を読破。


 本書の内容は日韓の比較民俗学といったところか。
おもしろいと思ったのは日本では右手が東の方位を示すが、韓国では西を示すということだ。朝鮮半島では文化が北方から南に移動してきたと考えられるので、お腹は南を向いているということだ。日本は文化の終着駅である。北からの文化を受け止めてきたから、お腹は北を向いているということだろうか。

【作業日誌 4/20】
薪割りImg_2781 

濡れると赤くなる切り口、一体何の木だこれ?


 今日のじょん:肛門腺から出血があったということで抗生剤を飲まされた。そのせいか、狂犬病注射のせいか、レインコートのせいか、ユキちゃんのせいか解らないのだけど朝には嘔吐して、すこぶる元気がない。薬やストレスならそのうち治るだろうが、ユキちゃんの場合は草津の湯でも治らないので困ったものだ。Img_2771  

元気がねーぜ、おとーのとこで吐かんといてや。

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大唐内のこと(49) 丸山に登る(4) 4/19

2011-04-20 | 歴史・民俗

2011.4.19(火)晴後雨

 丸山下山後大唐内の鬼の洗濯岩や三ヶ所の杜、大唐内の谷から丸山が見える地点の確認など行きたいところがあったのだが、天気も急速に下り坂だったし、皆さん農作業に忙しそうだったので今回は諦めて早々に帰途につく。帰り道にこれだけはと渡辺さん宅のお墓を見せて貰いに行く。渡辺さん宅のお墓ではないそうだが、その敷地内にあり、石を積み重ねた墓が二基あるということを以前に聞いていたから是非見たいと思っていたところである。Img_1312
 
「橋ー仁義なき寄り合い」の舞台となったみのだ橋。


 岡林信康の橋を渡って左の尾根道を登ってゆく、歌詞に出てくる綱ちゃんとはこの下の家らしい。今冬の雪は屋根から山までつながってしまったということだ。古い街道という道の左側、村を見おろす高台に渡辺家の墓がある。段々畑のように何段にも古いお墓が並び、この墓地の維持は大変だろうなあと感心する。その上段の街道よりの処に二つの石積みがあり、花を供える筒がおいてある。渡辺さんの言によると、その中に何かがあるとお父さんから聞いているということだ。それが何かは解らない。その他のお墓も相当古い時代のものと思われ、五輪塔風のもの家型のものなど詳しい人なら年代も解るだろうが、私には古いものぐらいしか解らない。Img_2736
 
不思議なお墓。


 お墓を降りて、椎茸や蕗の栽培を見せて貰う。そしてあちこちで収集された庭石を見せて貰う。このあたりでは庭石にいい石が出るそうで、それぞれ自前で運んでいるのが嬉しい。ひとつ記念にと貰って帰った。今回の山行のおみやげはサントラ岩の破片と丸山の登山道でひらった赤色チャート、そして渡辺さんの庭にあった山石である。
 もう一つ丸山で気になったことは、山稜に丸い小石が沢山あったことだ。これは誰もが気づいていたことで、かつての河床が隆起したんだろうかなどと論議していたが、はたしてそういうことがあり得るのだろうか。拾って調べてみたら粘土の固まったような石で、簡単に割れてしまう柔らかいものであった。もう少し種類を調べてみれば良かったと思っている。Img_27401
 ポツポツ降っていた雨も帰り道では本降りになってしまった。おわり

こんな石も出るぞ。


【作業日誌 4/19】
木樵8回目

今日のじょん:狂犬病予防接種など受けにキャドックさんに行く。時間が早いのでジローとこによる。いつもはめっちゃ仲がいいんだけど、今日はじょんの様子がおかしい。ジローはいつもどおりなんだが、じょんはシラッとして時々唸ったりしている。おかしいなあと思っていたら、この前からユキちゃんが来ていて臭いが残っているみたいだ。どーも三角関係の予感がしているみたいだ。ヤバっと。Img_2774
 
険悪なムード。

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猿の惑星 4/18

2011-04-19 | 日記・エッセイ・コラム

2011.4.18(月)晴のち雨

 15日丸山に登った帰りに渡辺さんの家に伺い、蕗や椎茸の栽培の様子を見せて貰ったが、とにかく問題は獣害対策だ。椎茸については自慢の猿ネットで、猿の害は防げているということである。椎茸も立派なものが沢山出ており、ご苦労が偲ばれる。ところが数日後にその椎茸が猿の被害を受けたことを聞く。沢山作られているので全滅ということではないようだが、自慢のネットでも侵入されたことがショックのようであった。何でも下をめくって出入されていたそうだが、その方法を盗まれたようだ。
 我が家の椎茸については無防備の際にすっかりやられたが、ネットを完璧にして出入りのドアも作ったので将に完璧だと思っていた。
 それがだ、昨日数日採っていなかったのでそろそろ収穫しようかなと椎茸小屋に入って愕然、あるはずの椎茸が一本もない。渡辺さんは「猿はおいしい茎だけ食べて、傘の処は放していくで」とおっしゃっていた。ところが茎も傘も何にもない。まるで夢を見ているような雰囲気だ。犯人は猿以外にはないと思うのだが、一体どこから侵入したのだろう。ネットが破られている気配もないし、ネットの接地面も完璧に固定されているのだ。ドアの格子の間隔が広すぎるのかなあと思いながらその辺りに眼をやると、今冬の雪で破れ、補修したネットが少し緩んでいる部分が25cmほど開いている。ネットの端を梁に巻き付け、ビニタイで締めていたのだが、引っ張れば隙間が出来そうだ。その部分が丸くぽっかりと空いている。やられた、しかしここの弱点を見つけるか。猿の知恵は怖ろしい。Img_2754 Img_2755
 
すっかりやられた椎茸と侵入口。


 いつやられたかと考えるに、私は山に、かみさんは歯医者に行き、留守になった15日のことだろう。過去にも椎茸小屋を狙ってきたことがある。その際は隣の木小屋のトタン屋根をバタバタいわせてやってくるのだ。いつもその音に気づいて追い払ってるので被害が無いわけだ。猿とはいえやはり畜生だ、あの屋根をバタバタいわさなければ気づかれずに済むのにと思っていたが、どうもそういうことではないようだ。Img_2756
 
そのトタン屋根に残されたうんP、猿のものだろうか。くそったれ。


 つまり、バタバタいわして人が出てこなければ安全であるということを知っているのではないだろうか。猿を侮ってはいけない。
 今朝も散歩時に鉄工所の横の畑に奴らが居た。すぐそばにヘイヘイがいるのだが、知らん顔だ。ネットも駄目、犬も駄目となれば次は何だろう。猿の惑星上林の知恵比べはつづく。

【作業日誌 4/18】
薪割り
道具収納棚作り

今日のじょん:今日もユキちゃんが来て、組んずほぐれつ半日遊んでいた。相当疲れたみたいで夕方から寝てしまった。Img_2767

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大唐内のこと(48) 丸山に登る(3) 4/17

2011-04-17 | 歴史・民俗

2011.4.17(日)曇

 予想通り鬼の岩屋は発見できなかった。この風化した砂利に埋まって しまったのだろう。こういうふうに風化した地形には憶えがある。昨秋の廃村宝尾探訪の折、村から日置峠にトラバースする道は将にこの通りだった。通行困難な状態でもあったので尾根道を行ったぐらいだ。おそらく同様の地質だったのではあるまいか。Img_1698
 
日置峠へのトラバース道。


 さて家本さんに聞いた鬼の岩屋に関する言い伝えである。それは明治の頃、蚕種の貯蔵に使用すべく鬼の岩屋を村人達が調査した。深い洞窟に一体何者がいるか解らないので、竹を割ったものをつないで奥へ奥へ入れていったと言うことだ。何に突き当たるかと思いながら送っていくと、妙な震動が伝わってきたと言うことだ。その震動があたかも蛇が興奮したときに尻尾を震わせるような感じだったので、大蛇がいると言って逃げ出し、貯蔵庫の話は立ち消えになったということだ。
 この話は大蛇がいるというのは別として、村人が蚕種の貯蔵庫にしようとしたことは事実だと思う。蚕種(蚕の卵)を作るには一定の温度が必要で、こういった岩穴を利用することが有効であったそうだ。自転車旅行で宮城県白石市の小原の材木岩を訪れたとき蚕種貯蔵用の風穴が当時の姿に再現され展示されていた。小原の材木岩は規模の大きな安山岩の柱状節理で、サントラ岩と基本的に同質の地質である。こういうところでは風穴が出来やすく、内部の気温が一定なので温度調節の困難な時代に蚕種貯蔵庫としては誰もが考えついたことなのだろう。Img_1446 Img_1449

小原の材木岩と風穴氷室の中。(2006.10.26)


 鬼の岩屋は見つけることが出来なかったが、おそらくこういった風穴なのだろう。
もう少し丹波側に回り込んで尾根を降りると大唐内に降りられるが、トラックが置いてあるので、尾根を右手に見ながら手前の小尾根を下ってゆく。鹿の食害で熊笹や下草が総て無くなり異様な姿になっている。馬酔木の木だけが食べられることなく緑の葉を茂らせているのが不気味な感じだ。途中黒文字を教えて貰ったり、炭焼釜の跡を見つけたりしながら下っていくと、行きがけに休憩したマタンの出合いに飛び出した。Img_2733

炭焼釜跡は4,5箇所あった。結構最近まで焼かれていたようだ。


林道終点着 11:39
つづく

【作業日誌 4/17】
薪割り

今日のじょん:最近なにか主張している風が見える。例えば散歩時に立ち止まって、別の道に行くような主張をするのだ。行きたい方に行ってやると凄く喜んでいるようだし、無視して真っ直ぐゆくと何か嫌々付いてきてるようだ。写真は散歩が終わって家に入ろうとするとき、もっと遊んでいたいよと言ってるところ。Img_2762

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大唐内のこと(47) 丸山に登る(2) 4/16

2011-04-17 | 歴史・民俗

2011.4.16(土)曇、雨

  さてこの二股、左側の谷の方がきれいで水量も多いが、河床を見ると右が低くて本流である。家本さんに支流の名を聞くと、「マタンやで」という応えである。どんな字を書くのか聞いたがそれは解らないということだった。タンは谷のことだがマとは何だろう。大江山、奥北原の先にタタラ跡の北原遺跡がある、この谷は魔谷(またに)と呼ばれ、鉄滓や炉の跡が出たという。またその鉱滓の原料は砂鉄でなく鉄鉱で二酸化チタンの多い品位の低いものだそうだ。マタンの名を聞いたときこの大江山のタタラの谷を思い出した。
Img_2719
 マタン出合い、気持ちの良い場所だ。

 さて、休憩の後本谷を詰めてゆく、谷筋からツメの様相になってきたかと思えば峠に飛び出した。ここが交通の要所猪鼻峠である。峠道は若狭側に下っており、その先で市茅野からの道と合し、関屋川を下り関屋に至る。老富の方々は子供の頃にこの峠を越えて若狭に海水浴に行ったそうだ。若狭ではお寺などに泊まって、いわゆる臨海学校というものである。Img_2720 Img_2722
 
猪鼻峠、若狭側は杉木立の間から関屋、青鄕方面が望まれる。


 私たちは国境稜線を北西に進み、丸山を目指す。風化した石の斜面となってきて、本来の道は解らなくなる。家元さんがサントラ岩は若狭側だといわれるので、思い思いに東側に回り込んでゆくが、足下は悪く、傾斜はきつくて結構危ない。灌木から灌木へ綱渡り的にトラバースし、それらしい岩壁にたどり着く。西田さんと私とで「これですかねえ」と決めつけて、写真を撮り節理のかけらを採取する。節理と言っても思ったほどはっきりしておらず、半信半疑という感じだ。その時下の方から声がかかり、「こっちらしいで」ということだ。全員集合して休憩する。その岩壁は先程より規模は小さく、節理も同様にはっきりしていない。Img_2727 Img_2724

若狭側に回り込んだところの岩壁とその下部やや丹波側の岩壁。いまいち節理がはっきりしていない。


  一応このあたりの岩壁をサントラ岩であることとし、鬼の岩屋探しに行く。鬼の岩屋についてはこれも「丹波負笈録」に二つの鬼の穴として記録がある。丹波の側にあり、入口は四尺許、二里許奥に入りて戸口有りなどと書かれている。
 二里も入ってまだ奥があるというのはともかく、四尺ばかりの入口というのは頷ける。家本さんはかつてこの鬼の岩屋を見たことがあると言うことだったが、かなり土砂に埋まって入口も狸の穴ぐらいということで、おそらく今では埋まってしまっているだろう。そしてもう一つこの鬼の岩屋に関するおもしろい言い伝えを聞かせてもらった。つづくImg_2730

丹波側は風化した砂利の急斜面である、木々の合間から三国岳が見える。


マタン出合発 9:15
猪鼻峠着   9:36
サントラ岩、鬼の岩屋探索 ~10:20
 
【作業日誌 4/16】
薪割り

今日のじょん:じょん語録(58)えー声~
救急車が走るとウヲ~ンと吠える。チコもヘイヘイも吠えるので賑やかい事だ。通り過ぎると吠え止むのだが、「えー声~」と言ってやると何度でも吠える。これはおもしろい。Img_2753

えー声~。

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大唐内のこと(46) 丸山に登る(1) 4/15

2011-04-16 | 歴史・民俗

2011.4.15(金)曇、雨

 丸山は小唐内(こがらち)の奥にある若丹国境稜線上の545mの山である。この山は国土地理院の地図で見ても山名もなく、545の標高が載っているだけの若丹国境稜線上の小ピークである。ところがこの山にはサントラ岩という柱状節理の岩があり、古文書にも登場する重要な山なのである。登場する文書によって呼び名が違い、サントウ山、サントラ山、三俵山、イモリガ嶽、生守山、猪ノ森岳などと様々である。丸山というのは丹波側の人が現在でも呼んでいる名前である。稜線上の小さなこの山がこれほどまでに様々に呼ばれているというのは、この山が重要な地位を占めていると言えるだろう。その一つは若狭と丹波を結ぶ古代の幹線道路だということだ。丹波というのはその先に都、つまり京都、奈良、飛鳥をひかえているということである。「丹波負笈録」に「三俵山は海上目当ての山なり」とある。つまり海を航行する船から方位などを定めるための目印の山ということである。青葉山や三国岳など高くて顕著な山が他にあるのだが、この小ピークが目印の山となっているのは、やはりサントラ岩がよほど目立った存在だったのだろう。そしてもう一つは生守村(いもりむら)という村が稜線上に存在し、室町頃に廃村になったという説があることだ。Img_2714
 
小唐内(こがらち)からの丸山、特異な山容だ。


 この村は一体何のために存在し、どうして廃村となったのか、これはロマンでありまたミステリーでもある。どうしてもこの山に行ってみたくて、昨年渡辺さんや西田さんにお願いしていたところ、冬は大雪となり、やっと今回実現したのである。
 午後から出発の予定が天候の都合で午前中となり、布団の中にいた私は大慌てで準備し、老富会館に向かう。会館には桜井さんを加えた三人が既に待っておられて、軽トラで小唐内に向かう。小唐内の家本さんがガイドをしてくれると言うことだ。Img_2718 Img_2715
 
ミツマタの群生と残雪。


 林道の終点に軽トラを置き、谷沿いの道を登ってゆく。よく整備された杉林の中を登ってゆくが、その杉の大きさに驚く。中には戦前のものもあるそうだ。ミツマタが自生しており薄い黄色の花が満開である。ところどころに雪が残っており、この冬の雪の多さを思わせる。2mは積もったなあと家本さんは言っておられた。やがて谷は二股になり、その出合いで休憩する。
林道終点発 8:40
二股着    9:06
つづく

【作業日誌 4/15】
道具収納棚作り

今日のじょん:おとーは山へ、おかーは買い物に出かけ、夜は二人とも桜井さん宅へ夜桜を見に行き、じょんは留守番ばかりでややいぢけ気味。057

茅葺きの家に桜がぴったり、また濁酒がぴったり、てなわけで宿酔。

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