晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

おんじゃく石の正体は 5/30

2012-05-30 | 歴史・民俗

2012.5.30(水)曇

 もう二年ほど前になるだろうか、渡辺さんにおんじゃく石のことを聞いた。
 「子供時分に使わへんだかい」と聞かれたが、わたしには憶えのないものだった。調べてみると、おんじゃく石とは温石石(おんじゃくいし)のことで、本来は温石(おんじゃく)という呼び方なのだろう。石を火で温めて布や綿にくるんで保温に使用する、いわば懐炉の元祖みたいなものである。滑石、蝋石、蛇紋岩、角閃岩などが適するとあったが、どのような石なのか見当もつかない。
 雷雨のためサンドラ岩調査を諦めて、温石石を見に行くことにする。渡辺さんは河原で拾ったものを使ったと言うことで、その出所は解らないと言うことだった。ところが大唐内のどこかの家の裏にそれが出るということは、綱さんから聞いていた。西田さんのお宅によってその旨話すと、二つ返事でそのお宅へ案内してくれた。
 小滝先生は温石石のことを話したら、「それは蛇紋岩ですね」と即座に言われていた。前述の原料の石はこの地方だと蛇紋岩しかないのだろうか。P1010837 P1010838
 
大唐内の温石石(蛇紋岩)と名の由来の紋。ネオジウム磁石は強烈にくっつく。


 温石石が出るという酒井さんの家の裏に廻ると、かなり大きな岩があり、家もこの岩を削って建てられているようだ。もともとは相当の岩塊かと思われる。
強い磁性があると先生に教えられ、持参の磁石をくっつけるとなるほどしっかり反応する。これが蛇紋岩か、図鑑で見ていてもちっとも解らないが実物を見ると一目瞭然だ。「温石石のことは知っていましたが、実際に使っていたという話は初めて聞きましたよ」と先生の弁である。
 後で調べると、平安時代から江戸時代頃まで使っていたとある。上林じゃ戦後もまだ使っていたのだけれど。P1010853
 
サンドラ岩と温石石(蛇紋岩)、どちらも磁性あり。


 さてこの蛇紋岩、磁鉄鉱、クロム鉄鉱を含むとある。磁性があるのは磁鉄鉱のなせる技である。渡辺さんが河原で拾っていたと言われるからには、別なところにも蛇紋岩が存在するのだろう。上林川の砂鉄の原料となっていることには間違いない。ただし、地質図にはこの地域に蛇紋岩の層があるようには見られず顕著な層は無いのだろうけど実際に存在はしているのである。
 さて、蛇紋岩と言えば上林から上杉に抜ける黒石峠の施福寺に出るというので数年前に訪れたことがある。寺院の下の道路の脇に妙に表面が滑らかで光っている石を採取してきた。どこかに置いてあると思い探し出してみると、丁度蛇紋岩の蛇紋の部分のような感じの石なのだが、磁性はまるで無いのだ。一体この石はなんだろう。P1010856_2

施福寺の近くで採取した岩石。


  いずれにしても黒石峠の名の由来はこの黒い蛇紋岩にあるのでは無いだろうか。

【作業日誌 5/30】
チューリップ掘り起こし
オクラ苗植えつけ

今日のじょん:何となく冬毛の抜ける時期が終了に近づいてきたかと言う雰囲気だが、果たしてどうだろうか。連日二回のファーミネーター掛け、二回の掃除機掛けを繰り返してきたが、モコモコとしていたのがほっそりとしてきたのでそろそろと期待している。P1010825

なんとなくほっそりとしてきたデショ。

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再度丸山をたずねる 5/29

2012-05-29 | 山・峠

2012.5.29(火)晴のち雨

 サンドラ岩は柱状節理とばかり思っていたが小滝先生のHPを見てちょっと怪しいなあとと感じていた。まさにその時先生からもう少し観察したいので丸山へと言う話が出て来た。柱状節理か枕状溶岩かという問題なんだけど、一体どういうことか解らない。熔岩の冷却が大気中で行われたか水中で行われたかと言うことらしいけど、それだけでもないようだし、、、、。いずれにしても節理ができてりゃ柱状節理というものでは無いらしい。Img_2851
 
サンドラ岩の正体は?(2011.5)


 四駆の軽トラで川上側の林道を行く。前回の小唐内からのルートは倒木の被害でもう一度登ろうとは思わない。林道も倒木があればそこでおしまいだ。しかし林道については倒木の処理がなされていた。市茅野から望めるガレの部分までは登って行ける。しかしその先には土砂崩れが起きており、そこで行き止まり。

P1010553
林道はこの先で通行不可。(2012.4.24)


 軽トラを置いて歩き出す。じょんのびを9:10に出て、歩き始めたのが10:00である。
 やがて関屋から上がってくる林道との合流点に出る。記念の植樹などがされているが総て枯れている。すぐに坪坂峠に着き、前回見なかったお地蔵にお参り、北側が正面となっていたのだ。新しいお地蔵の側にかなり古い、もう風化してお姿も定かで無いお地蔵がおられる、このお地蔵はこの峠を往き来した多くの旅人を見てきたことだろう。P1010834_2
P1010835  
関屋からの林道合流点と坪坂峠のお地蔵。


 やがて林道が途切れ、倒木を二本またぐと猪鼻峠に出る。空模様が怪しいので先を急ぐ、北側にあるサンドラ岩が最も観察しやすいということで、丸山のピークを越えることにする。いつもながらの急登をジリジリと登り、頂上らしき景色が見え始めた頃、ゴロッとひと鳴り。こんなに早く来るとは思わなかったが、先程から若狭側から湿った風が上がってくる。どうしましょう、下りましょう、雷の恐さを知る者同士だから話は早い。雷も恐いけど、作日のような雨量になったとき怪しげな林道の土砂崩れの可能性も恐い。急いで下ったが、車のところではすっかり降ってきた。P1010836
 
雨に煙る丸山、再度挑戦。


 ということでサンドラ岩の真相は次回に持ち越されることとなった。
 昼前に下山したので、日頃気になっていたところへ出かけ、先生に解明して頂こうと奥上林をうろうろと訪問する。

今日のじょん:じょんはいったい何を見てるのでしょうか? 
P1010829P1010831



答はこれでした~。P1010832 ではこれわン?P1010833

ドキッ

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上林の鋳物師をたずねる(続々編) 5/28 

2012-05-28 | 歴史・民俗

2012.5.28(月)晴れ、夕立あり

 多くの鉄滓の中に長さが8cm、厚さは2cmほど、正方形ではなく、巾が段々開いていて、一方の辺が折られているような鉄の板が出て来た。即断はできないが、これは鋳物の原料となる銑鉄ではないかと思われる。「鋳物師」(内田三郎著)では地金(じがね)というふうに呼ばれていたようだ。出雲、伯耆などから原材料として仕入れられていたものだろう。生産現場では生金(なまがね)銑(ずく)と呼ばれていたようだ。化学的な分析をすればどこで生産されたどのようなものか判断出来るのだが、現時点では想像するしか無い。P1010812 P1010813
 



 
短時間で見学をするだけでは以上の事柄しか解らなかったが、上林の鋳物師について大きな謎が残る。
 その第一は井関氏がなぜ上林のこの地を選んで操業に至ったかということである。
鋳物業を始める場合必要な要件は木炭が得られること、原材料の搬入や製品の搬出の輸送条件が整っていること、良質な粘土や砂の材料が得られること、そして公害などに対する周囲の環境といったことがあると思われる。
  木炭の問題は簡単にクリアする。たたら製鉄の場でも「砂鉄七里に炭三里」と言われるとおり、木炭が近くに大量にあることが絶対条件となるのだが、そういう意味では上林の地は最適の地である。
 次に粘土や砂の確保である。現在上林の川は自然の姿を残しておらず、ほとんどが堤防、堰堤によって作られた流域となっている。明治28年の地図と比べてみても蛇行する角度が緩くなっており、砂の堆積も少なくなっているのだろう。地質からいえば、粘土や泥の多いだろう上林川流域よりも畑口川流域の方が純粋な砂を得られるように思う。そしてその畑口川中、下流域で最も屈曲のおおきいのが清水のあたりである。睦志(むし)の谷から流れ出る土砂とあわせて、畑口川の椀曲部には大量の砂があったと思われる。つづく


今日のじょん:やればできる。
 じょんの最も苦手なのは、ふらふらと出ている木や草やビニール袋とか。電気配線用のホースが出ているところにボールが行くともう大変。しまいには知らん顔したりする。そのままでは為にならないので声を掛けて励ますわけ。すると最後には勇気を出してボールが取れるのだが、やればできるんや。P1010826 P1010827 P1010828

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上林の鋳物師をたずねる・続編 5/27

2012-05-28 | 歴史・民俗

2012.5.27(日)快晴

 たたらに関する部品や鋳物の道具などは見つからず、いくつかの鉄滓をたたら跡から採取しておられた。興奮しながらその鉄滓を見せて頂く。
 色、形状、重量に関する限り、わたしが上林側念道附近で採取したものと同一である。少量の鉄分の含み具合、気泡による丸い穴、空気が通ったと見られる溝なども同様で、たたら跡のものは表面のガラス質の部分が多い。これは風化の進み具合によるものだろう。P1010811
 
清水村たたら跡で井関先生が採取された鉄滓(鋳物滓)
白い部分は砂、粘土と思われる。おおきいもので20cmぐらいか。


 わたしの採取した鉄滓の中に炭化した木片が混じっているものがあるが、これとて同様のものがいくつか存在する。
 結果、上林川で採取した鉄滓は、清水のたたら跡からなんらかの条件で運ばれたものだろう。
 
わたしは予想はしていたものの内心がっかりした。古代、中世の製鉄滓かと期待していたのが、近世の鋳物滓となると上林の製鉄の物的証拠は無くなったことになる。
 せめてもの救いは、わたしは精錬滓の実物を見たことが無いということだ。つまりひょっとしたら精錬滓かもしれないということだ。印刷物で見る写真ではその差異は解らない。今後は博物館や資料館で精錬滓の実物を確認することと、畑口川に繋がらない流域で鉄滓を見つけることだ。例えば大町以奥の上林川や上林川支流の谷で鉄滓を見つければ、それは少なくとも清水のたたら跡から出たもので無いことが言える。P1010819
 
鉄滓を一個頂いてきた(左)、表面にガラス質の輝きが見える。右はわたしが初めて発見した鉄滓。


 仮に清水たたら跡から出た鉄滓とわたしが採取した鉄滓が同一のものであったとしたら、それはどのような事由でそうなるのだろうか。
 まず洪水による流出が考えられる。上林川は長い歴史の間に数多くの洪水を経験している。清水村たたら操業開始後には嘉永年間、安政年間、明治3年、明治29年、明治40年と大きな洪水があり、昭和28年の台風13号は被災された方も数多く上林に居住されているところである。
 たたら跡の鉄滓捨て場がどこであったか不明だが、たたらの周囲であることは間違いない。28年の水害時にはたたら場のあたりまで水が来たと言われているので、大量の鉄滓が下流に流されても不思議では無いし、そう考えるのが当然の様だ。
 ところがどうしても腑に落ちないことがある。一年間の間に大小6個あまりの鉄滓を上林川で採取したが、そのいずれも堤防の内外であり、流域あるいは河川敷では無いことだ。つまり鉄滓は流出したのではなく、昭和28年水害後の復旧工事として、念道周辺の堤防に使われた土砂が清水のものではなかったかということである。もっと悲観的に考えれば、工事用の土砂が全然別の所から運ばれた可能性もあるかも知れない。そうなると念道の堤防で採取した鉄滓は何の意味も無いものとなる。P1010620
 
わたしが採取した鉄滓、上段右の4個と下段左から二つ目。下段の物には炭化した木材がある。


 このように鉄滓の出所を巡って悲観的な思いに陥るのだが、当時の様子を知る人に堤防工事の土砂の出所を聞いてもおそらく解らないだろうし、常識的に考えれば、当時の工事用運搬車、重機の状態から考えれば、堤防の土砂は現地調達されたものとしてよいのではないだろうか。被災時の写真や文章では、大量の土砂が流域を埋め尽くしており、橋や道路も不完全な中で他所から土砂を運ぶより現地の土砂を除去しながら堤防工事に利用するのが合理的な方法だと考える。
 その一つの証左として、河原の岩石と堤防をなしている土砂に含まれる岩石は同一のものであるということが言える。P1010469
 
わたしが採取したのは、念道橋周辺1000mぐらいで、両岸の堤防の外側、もしくは内側の上段である。


 そして鉄滓が流域に見つからず、堤防上のあちこちに見つかるというのは、鉄滓の比重によるものと考える。すなわち鉄滓は水に浮くということではないが、一般の岩石に比べ軽いので、水流にあるものは流れてしまい、堤防などの水流の無いところに残ったのでは無いだろうか。つづく

今日のじょん:来年の写真集、「おもしろじょん」の写真を収集すべくチャンスを狙っているのだが、狙うといいのが撮れない。新井状態だ。
今日はカモノハシじょんを狙ったのだが、上から目線はよろしくない。P1010820


 
 

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上林の鋳物師をたずねる 5/26

2012-05-27 | 歴史・民俗

2012.5.26(土)晴れ

 上林清水村(現綾部市五津合町)には鋳物師(いもじ)の井関家の末裔がおられる。たたら跡もあり、鉄滓や古文書なども残されていると聴く。当主の井関先生に案内をして頂くべくアポイントを取っていたのだが、急逝されてかなわぬこととなっていた。縁あって今回たたら跡などを見せて頂くこととなった。
 井関家の由来などについては綾部史談第97号、99号に村上真澄氏が書いておられる。井関家の先祖は和歌山の出身で、元和3年(1617)に清水村に来住とある。
正徳4年(1714)に井関伝助、井関八左衛門に対し真継家の許状が出ており、操業はそれ以前だろうと思われる。
 わたしの目的の一つは、上林川念道橋周辺で採取した鉄滓が井関家のたたらから出たものではないかということを確かめたいこと、そして今ひとつはなぜ井関家が上林の地で鋳物師の生業を始めたか知りたかったことである。P1010807
 
東をのぞむ、田んぼの向こうが畑口川。かつては川との間に本道が通っていた。(明治28年陸地測量部地形図)


P1010808
南側の石垣、周囲より高く作ってある。おそらく地下構造があるはず。


P1010809
北西方向をのぞむ。明治の地図にはこの先に池のようなものが見える。おそらくたたらで使用していたのではないか。


 たたら跡、というか鋳物作業所は井関八左衛門家の側にあったと書かれている。そこは200坪はあろうかという平坦な土地で畑として野菜を作っておられたそうである。今は何も栽培せずに草を刈って管理されている。ご主人の話によるとこの地は作物の育ち具合が悪かったということだ。
 鋳物師のたたらと製鉄のいわゆる永代たたらとの違いがあるのか解らないところだが、鞴(ふいご)を使って高熱を得、砂鉄を溶かすか地金(鋳物原料鉄)を溶かすかの違いだけなのでおそらくたたらの地下構造は同様であると思う。そうであれば、地下3~5m程度は掘り下げられ、荒砂、砂利、粘土、木炭、灰などで突き固められているはずだ。それはなによりも乾燥を必要とするからだ。そのような構造ならばその上で作物の生育が良いはずが無い。なるほどと思わせる一幕だった。

 昨年9月台風12号の災害で熊野のニュースが数多くあった。その中に那智川流域の井関(那智勝浦町井関)の大きな写真が讀賣新聞に記載され、思わず切り取って保管している。上林鋳物師の先祖、井関越後頭は、「和歌山の出身で、豊臣方に加わり敗戦、本願寺で出家、鋳物師技術を取得し元和3年清水村に来住」とある。(綾部史談第97号)
 わたしは聞き伝えで、熊野の出身と聞いたことがあるが、いずれにしても和歌山県である。那智勝浦町の井関がその先祖の地ではないかと思ったのは、その地は妙法鉱山という平安時代からの鉱山があり、銅、鉄などを産出していたということである。熊野那智大社の支配であったというようなことが「鬼伝説の研究」(若尾五雄著)にあった。つまり井関氏の先祖は突然に鋳物師の職となったのではなく、和歌山時代から金属関係の手の職の憶えがあったのではないだろうかと考えたのである。
 ご主人に尋ねたところ、そこのところは解らないということであった。現在は忙しくしておられるが、やがて手が空いたらルーツ探しをしてもらいたいと願うのである。
 その御先祖のお墓が少し上手の道沿いにある。日を改めてお詣りしたいと思っている。つづく

今日のじょん:新じょん語録(12)出た手足に(目鼻をつけて)
 ひょろひょろと出ている草や木が大の苦手、その下のボールを取らすのは大変。「出た手足に目鼻をつけて」と捨丸師匠の十八番を何度か唱えると、そろりと手を伸ばす。P1010803  
 
 
 

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山田道から大栗峠(考察編4) 5/25

2012-05-25 | 山・峠

2012.5.25(金)雨

 奥上林村誌43ページに、「道の別れた所には道案内の石碑を立てて旅人の便に供した。今も志古田の山中に「左京道・右弓削」と書いてある石碑が残り、云々」と書かれている。「北山の峠」の著者金久昌業氏もその中でこの石碑のことを書いておられるが、「探したがみつからずじまいである」と書かれている。その他幾人かの山行記録などでも、同様に探したが見つからないという記事を見ることがあった。
 わたしは志古田の方々に聞いてもらったり、大栗峠考の中でいくつかの候補地を推理し訪れたが未だ発見されていない。もちろん通常の峠道でも見つけられない。
 文面通り受け取ると、志古田の山中にあって右に行けば弓削、左に行けば大栗峠となる地点に存在するはずである。いろいろと推理した地点のなかでこの条件にあうものを紹介してみよう。

1.弓削と志古田を分ける尾根の末端附近の峠
2.志古田道の途中から弓削と志古田を分ける尾根の452m地点やや下に向かう間道の分岐点
  
3.2の道が弓削道に出逢う手前
 もっと候補はあるのだが上記条件に合わないもの、道としての合理性に欠けるもの  は除外した。

1.は弓削と志古田を分ける尾根が道として存在することが必要で可能性は低い。  人が通行出来たとしても京道とは言えないだろう。実際に2011年秋この地を訪れるが、道標らしきものは何も無い。ただし、志古田から弓削に抜ける道は存在し、かなり古い板碑のようなものが、志古田側にある。P1000559 P1000557

左:峠から弓削側を望む。右に小山を登ると弓削城跡がある。
右:志古田側に古い板碑らしきものが残っている。



2.と3.は従前からこのような道が存在するだろうと考えていたが、明治28年陸地測量部の地形図に細破線の道を発見し、にわかに可能性が出て来た。
 2.の場合は京道が志古田谷で、右弓削が弓削志古田間の尾根に上がる道となる。この地点は志古田道を下った際に通過しているが、植林の中であり判別は難しい。もしこの地点にあるとしたら、多くの人が歩いているのでとっくに発見されていると思われる。P1000402

こういう感じのところを、尾根に上がる道があるはず。 



 と言うようなことで3.が最有力となったのだが、その結果は山行記録のとおりである。間道が弓削道に出合う手前に道標があれば、右弓削・左京道はそのとおりである。この場合京道とは弓削道のこととなる。しかし残念ながらこの地点には道標は無かった。P1010737

これが弓削道から志古田谷に向かう尾根の道。ここが最有力候補だったのだが、、、、。


 ここまで考えて、今ひとつ新たな候補を見つける。つまり2.と3.の中間、志古田谷からの間道が志古田弓削間の尾根に上がる地点である。ここだと右弓削は1.の地点に向かう尾根となり、左京道は尾根を登って行くと弓削道に出合うこととなるからだ。またしても大栗峠に行く楽しみができた。この項終わり

 今日のじょん:今日は二人とも買い物に出かけて、じょんは正味の留守番となった。出迎えの儀式は外から撮ることができた。なんとも情けない感じだ。P1010800
        

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山田道から大栗峠(考察編3) 5/24

2012-05-25 | 山・峠

2012.5.24(木)曇

  峠の道標、弓削道の南無大師遍照金剛の石碑どちらにも台座がある。これらは少しは角を落としたりしているかもしれないがほとんど加工のあとは無いようである。峠の地蔵の石室もそうだが、これらは現地で調達されたものとみていいのではないだろうか。シデ山あたりの稜線には硬くて白っぽい岩石が多く存在する。どうもこれらの岩石を使用したように思えるのだが、どのような石なのかは解らない。ただこの石は硬くて脆い感があるので、彫字には不向きと思える。台座や室の石垣としては充分だろう。Img_3367 Img_3353
 
地蔵さまの石室とシデ山周辺の岩石(2011.7)


 
 峠の道標と分岐の石碑は文政七年(1824年)、同じ年に建てられている、どのような経緯で建てられたかは定かでは無いが、山田村で同年に寺社の修理が行われているという古文書があり、その完成記念的なものあるいは勧進のためのものかもしれないという川端先生のご意見があった。刻字は次のとおりである。

 峠の石柱P1000077

石柱の周囲に台座もしくは支えとしての石があるので、もともとこの位置に立っていたと考えられる。


(表)  右わち  左志こた

(裏)  文政七申 十月吉辰
     本願
     山田村世話人中
     阿波国 行者 長治郎

 分岐の石碑P1010719  




(表)  文政七申    右 ゆげ道
     南無大師遍照金剛
     十月吉日    左 志ろ下

(裏)  願主  世話人中   山田村助左エ門
          阿波国行者 長治良

 石柱は自然石のまま、石碑は正面が平面加工された上に彫字されている。違いと言えば十月吉の後が辰であったり、日であったり長治郎であったり長治良であったりするのと、助左エ門の名が入ったり無かったりの部分である。
 石柱の「郎」は「良」と書いてつくりの部分を足したようにも見える。P1000084
 




 これらのことから、彫字の職人が同一人であったかはたまた別々に請け負ったかなどと言うことを考えることもできるが、そのことはあまり意味の無いことかも知れない。
 
 次に今回の山行の目的でもあった、志古田道からの間道探し、「右 弓削 左 京道」の幻の道標探しについてである。つづく

【作業日誌 5/24】
トマト支柱完成、芽かきP1010799

トマトの家も完璧、おしっこしてんじゃねえよ。




 今日のじょん:「じょんは枕して寝てるけど、枕を置いてやったのかい?」「いや、勝手にしよんやで」
 「え~自分でベッドメイキングするんかいな。」
てなわけでカメラ向けたら目を覚ましてしまった。P1010780   

           

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山田道から大栗峠(考察編2) 5/23

2012-05-25 | 山・峠

2012.5.23(水)曇

  これ等の大きな石碑をどのようにして運び上げたのかということは誰しも思うことだが、牛馬が荷車を引くとなるとそう難しいことでは無さそうだ。しかし現地で石材を得ることができれば、職人が出仕事で仕上げる事ができ、運搬の労はずいぶん少なくなるだろう。江戸時代の石工の情況がどのようなものであったか知識も資料も無いので何とも言えないのだが、現地にそれらしき岩石が存在することが絶対条件である。P1000089
 
山田道弓削道の分岐の石碑、大きさがわかる。


 鳥垣渓谷がこめ石という石材の産地であったそうだが、以前に鏨の痕の有る岩を発見したことがある。はたしてその岩がこめ石なのかわからないが、表面の平ないかにも石碑などに最適な石はかなり落ちておりそれがこめ石の破片なのだろう。
 その近くなので大栗峠をめぐる山域にもそれらしい石がないものか注意深く歩く。P1010788

鳥垣渓谷で拾った小石(右)、これがこめ石の破片だろうか。
これも砂岩のようだが、、。

 するとそのことを話しても居ないのに村上さんが30cmあまりの石を見つけ出した。
 なにか書いてあるような雰囲気で、形といい質といい石碑にぴったりである。もちろんそれは自然の石だったが、山中ならばもっと大きな物を探すことも可能なようである。石を見る眼があるわけではないのだが、砂岩ではないかと思う。道端に置いてきたので登られる方は気付かれるだろう。P1010709 
 
そのまま石碑になろうかという、多分砂岩。


 地質図でみると大栗峠の周辺はいわゆる丹波地帯古生層と呼ばれる地質で、粘板岩、泥岩の層の中に一部砂岩、輝緑凝灰岩、チャートの層がある。実はこの地質図舞鶴に断面図が載っているのだが、この切断線が大栗峠の頭を通って舞鶴の戸島に抜けている。それで一層地質の状態がよく解るのだが、この石が発見されたところが丁度砂岩帯になっているあたりなのだ。
 大栗峠からシデ山に向かうあたりでも似たような石を発見したがあまりに小さいので写真も撮らなかった。
 石探しが目的では無いので、峠にあるような大きなものは見つけることが出来なかったが、山中を探せばあるような気がする。
 現在なら電動であったりレーザーで加工したりするんだろうが当時は玄翁と鏨でやっつけるのだから加工場、作業場でやらなくても、現地で加工ができるのでは無いだろうか。もちろん毎日通う必要はあるが、完成品を峠まで運搬する手間を考えるとこの方が合理的と思うのだが、如何だろう。つづく

今日のじょん:今日はおかーが京都へ行ったのでこころなしかしょぼんとしていた。夕方帰ってきたら、このとおり。この貧相なスタイルはカーテンが降りていて、下から覗かないと見えないわけ。P1010786
 

 

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山田道から大栗峠(考察編1) 5/22

2012-05-23 | 山・峠

2012.5.22(火)曇

  大栗峠をめぐるルートをほとんど踏破したわけだが、竹原道、上粟野に下りる尾根道など残っている。いつかの機会に歩いてみようと思う。
 大栗峠の魅力は石碑、石仏が多くあることだ。紛失したものや未発見のものもいくつかあるのだが、数が多いということはこの峠が多くの人に利用される重要な街道であったということではないだろうか。地図を拡げて見るまでもなく、若狭方面、田辺(舞鶴)方面、そして上林の城下から和知方面その先にある京都にむかう拠点となっている。
 大栗峠に向けて、志古田道、弓削道、山田道と主要な道があり、付属するように瀬尾谷道、竹原道があるという形も峠としては特異である。志古田、弓削道が若狭、田辺からの、山田道は城下からの人と物資の流れを受け持ったのだろう。もちろん瀬尾谷道、竹原道はそれらの主要街道に直接繋がる道として作られたものだろう。
 竹原道は歩いていないので解らないのだが、弓削道、瀬尾谷道、山田道とも牛馬、荷車に対応出来る広い道幅であり、各村々から直接登ることが出来るということは、上林側からの人と物の流れが主であったという風には考えられないだろうか。もちろん峠を行った人は帰ってくるだろうし、荷車だって空身では帰ってこないだろうが、物流の方向としては上林各村から和知へと考えると道の有り様の説明がつく。
 柳田国男氏の峠表裏論は単に地形の問題では無くて、人が峠を越える目的、必要性が重要であり、大栗峠の表は上林側であろう。P1010075
 
八津合町府道から瀬尾谷、竹原、山田道の山を望む。真ん中のピークに見えるのは582mのピークか。(2012.2)


 大栗峠を巡る石碑石仏について、わたしが歩いた上林の峠のものより年代が近いようで、銘のあるものがほとんどで保存状態というか風化のすすみ具合も少ない。ほとんどが江戸時代の末期のもので、山田道の道標など明治12年とある。このことは峠のできた時代の先後はともかく、近年まで主要道として使われてきたことを表している。つまりモータリゼーションが発達し、誰もがそれを利用しうる時代まで主役として存在した峠だろうと思う。

 誰もが目をひくのは石碑や道標の大きさであって、「どうやって運んだのだろう」と首をかしげるところだが、おおきいのは峠に横たわっている道標の石柱と弓削道、山田道の分岐にある南無遍照金剛の石碑のみである。この二つは同時期に作られているようだが、一体どのようにして作られたのだろう。つづくP1000079 P1000085

大栗峠に横たわる大道標、大きさがわかるように人の姿を入れてみる。(2011.10)




【作業日誌 5/22】
胡瓜ネット、トマトの屋根作製

今日のじょん:一ヶ月ぶりのじょんシャンプーの日。体重はっと、19,4Kg。え゛~
測り直すと19Kg、大体この体重計おかしいんじゃ。でも一応黄信号なので、夕食に添えているご飯を禁止とする。目標-500gってところか。最近動作にキレが無い、体重のせいかな。P1010778


なんとなく動作が、、、


 

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日本一周達成記念日 5/21

2012-05-22 | 日記・エッセイ・コラム

2012.5.21(月)晴

 5月21日は自転車日本一周達成記念日である。2007年のことである。当日はこれ以上無いという快晴でふさわしい天気だったのだが、前夜の深酒と予想以上の長距離で結構疲れたことを憶えている。日本一周を終えた時点では仕事も無く、この先どうしようかという状態だったのだが、翌年の3月には上林に家を建て、6月にはじょんのびを開店するという電光石火の行動が我ながら信じられないほどパワフルだ。
 とにかく記念日なので、本物のビールで乾杯する。
 本日は多くの地域で金環日食が見られるというこれまた記念すべき日だそうだが、近畿地方北部の上林では部分日食ということだ。あまり興味も無かったのだが、7時半頃目を覚ますと、晴れてはいるのだがどうも光の具合がおかしい。晴れているのに暗いというか、明け方や夕方のような感じでも無い妙な具合である。木漏れ日を利用して垣間見るとやはり少し欠けている。
 てなわけで、一日中金環日食のニュースで賑わったのだが、その影で小さく報道されたことが気になった。それは桜島昭和火口が爆発し、2006年同火口が活動を初めて以来最も多くの降灰を見せているというものである。
 たまたま井出孫六氏の「歴史紀行 島へ」を読書中で、桜島の項を読んでいるところで奇遇な一致に驚いているところだ。
 「島へ」の内容については後日雨読の覧で御紹介するとして、桜島のところだけかいつまんで紹介したい。
 
 わたしが桜島を訪れたのは2007年の3月9日、10日である。沖縄、徳之島と南の島を巡った後の鹿児島は異様なほど寒かった。Img_3112

桜島YHは桜州尋常高等小学校の埋没跡に建っている。校庭には信じられないような火山弾が転がっている。


 桜島YHに2泊して湯の平展望所や京大防災研究所などから火山の様子を見たり、黒神の埋没鳥居など噴火の遺跡を見てきた。これは一般観光客と何ら変わるところの無いものである。唯一彼らと違う視点と言えば、桜島のお墓である。お墓を大事にされている鹿児島であるが、桜島のお墓はずいぶん立派な瓦葺きの建物に入っており、火口に背を向けているのである。Img_3100
 



 ところが井出氏はもっともっと奥深い視点で桜島を書いておられる。東桜島小学校の大正噴火被害の碑文である。全文が記載されているのだが、その中の「住民ハ理論ニ信頼セス」の一文を取りあげている。これはどういうことだろうか。理論を信頼せずという学校とは相反する言葉の裏には、実は理論という言葉は元々測候所という言葉だったのだ。噴火の前兆を感じていた役場関係者は鹿児島測候所に幾度となく問い合わせた。しかし回答は「桜島の噴火の兆候なし」というものだった。役場はやむなく「避難の必要の無し」という通達を村中に出したそうである。結果未曾有の大噴火が起こり、多くの命と財産が消滅した。この文は桜島島民の怨念がこめられたものだと井出氏は書いている。桜島が大隅半島と繋がって島でなくなったのも、黒神の鳥居が溶岩や火山灰で埋まったのも大正3年1月のこの時である。Img_3123
 そしてもうひとつは、林芙美子の数奇な出生と生い立ちの原点が、古里温泉という桜島でも有名な温泉にあるということだ。古里公園には「花の命はみじかくて苦しきことのみ多かりき」の文学碑があるという。
 わたしは右回りに島を廻ったので、この二ヶ所は見事にはずれているのだ。島の2/3を巡っているのに未訪の1/3にこの二ヶ所が入っている。
 このように後から知って、行っておけば良かった、訪ねておけば良かったと思うところがいっぱい出て来ている。近くなら再度行くことも出来るが、遠いところだと一生行けないかもしれない。だからといってそれを悔やんでいるわけでは無い。本を読んだりテレビの映像を見るときに例えその場所に行っていなくても、その近くを通っているだけでまるでそこに行ったような臨場感を充分に味わえるからだ。

今日のじょん:部分日食の写真。光と影の様子がずいぶんおかしいのだけど、じょんは分かっているのだろうか。P1010775 P1010776 P1010779
 

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山田道から大栗峠(3) 5/20 

2012-05-20 | 山・峠

2012.5.20(日)曇

 弓削道本道の下りはところどころ倒木があるものの概ね歩きやすく、あっという間に瀬尾谷道の出合いに着く。初めて来たときは長く思った道も二度目となると案外短く感じられる。当初は何も無かったが、目印のテープなどがあり、里山ねっとの方が着けてくれたのだろう。P1010740 P1010741
 
右弓削、左瀬尾谷


 しばらく行くと広かった道がやたら狭くなってくる。荷車どころか歩くのが精一杯だ。おかしいなあ一部でも狭くなっていれば街道の意味が無いじゃないかと思っていたら、どうやら土砂崩れで街道部分が流されている。その現場の上部に踏み跡ができたようだ。ということは京街道として活躍中以降にこの土砂崩れは起きたもののようだ。その部分が終わると元の広さに戻り安心する。P1010743 P1010746
 



左:右に細い踏み跡、左側に土砂崩れの痕。弓削側から撮る。
右:50mほどの細い道を過ぎると元の広い道に戻る。

 やがて林の間から弓削の集落が垣間見られるようになり、いきなり集落にでる。ところが護岸工事でコンクリートになった谷を渡るのが大変。そのむこうには昨年張られた例の防獣ネットがあり、出られるかどうかも不安である。
 トタンを被せた古い木橋があり、その横に山桜が倒れて谷をまたいでいる。村上さんが桜の木伝いに渡り、橋を確認。腐ってはいるがなんとか渡れそうだ。P1010748 P1010749




左:上から倒れた山桜と木橋(木の陰)を見る。
右:渡りきって橋を観察、そろそろ限界か。

 恐る恐る全員が渡り、ネット伝いに少し下る。そこが出入り口になっており、田んぼのあぜ道に飛び出す。異界から帰ってきたような妙な気分がする。「娑婆に帰ってきたなあ」という桜井さんの言葉に網や柵のかもしだす独特の雰囲気が表れている。
 弓削のメインストリートに出て最初の家で大栗峠を越えて弓削に嫁いだという方に出合い、桜井さんが何かと取材する。昭和20年に嫁いでこられたそうだが、大栗峠を介して和知の仏主(ほどす)や粟野、乙見などが通婚圏であったことがうかがえる。P1010759
P1010763  



左:大栗峠を越えて嫁いでこられた話を聞く。
右:湯ノ沸ク薬師

 椋本さんや稲住さん宅に立ち寄り、わたしはなかなか来れなかった弓削の薬師さんにお詣りし、帰路につく。
 弓削と言うところはやはり弓削氏にかかわりがあろうかと思われるし、由緒のある土地だと思う。終わり

【作業日誌5/20】
草刈り(2-2)

今日のじょん:五日かかって芝生広場の刈り取りが終了した。朝の散歩の始まりと夕の散歩の締めはこの芝生で遊ぶ。走り回ったり転げ回ったり、芝生って人間だけでなく誰でも好きなんだ。P1010770 P1010771
  

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山田道から大栗峠(2) 5/19

2012-05-19 | 山・峠

2012.5.19(土)快晴

 「南無遍照金剛」の石碑については大栗峠考で述べているのでここでは差し控えるが、少し考えることがあるので考察の項を設けて後ほど書いておきたい。
 この弓削、山田道分岐から大栗峠までは植林のユリ道を10分あまりをのんびり歩く。峠というのは本来稜線の一番低いところつまり鞍部(あんぶ)を目指して登り、そこを乗り越して反対側に下るもので、日本アルプスなどで乗越(のっこし)と言っているのも納得出来る。そういう意味では弓削道やシデ山から来て粟野に向かうのは違和感がある。もちろんこういうスタイルの峠はいくつもあり、否定するものではないが、志古田谷から登って越えるのが本来の峠の姿という思いは強いものがある。
 今回の峠訪問の一つの目的は、永い冬の雪に耐えられた峠の地蔵さまに会うことである。雪が降り積もっている間、寒い峠の上でどうなさっているだろうと気になるものである。峠や山道でいろんな地蔵さまに出逢ったが大栗峠ほど良いお顔の地蔵さまは居ない。特に左の地蔵さまは赤ん坊のようで愛らしい、そして右の地蔵さまは左眼のところから欠けているのが気の毒ななのだが、とぼけた風の顔でなんとも味がある。ここまで惚れ込むと恋人に会いに行くようで峠に行くのが楽しみなのだ。女性に惚れるのでなく、地蔵さまに惚れるようじゃ年齢かなあ。
 とりあえず気に入ったお顔が撮れないかとやみくもにシャッターを押す。P1010728 P1010731
 



 風がきつくて寒いので、シデ山の方に戻ったりして風の無いところを探すが、結局峠の和知側で昼食を摂る。
 帰り道には大栗峠の頭(681m)の三角点に登る。展望のきかないなんてこと無いピークだが、こんな機会で無いと登らないだろう。P1010735

大栗山という呼び方もあるようだが、わたしは大栗峠の頭と呼びたい。三等三角点。


 づるづると登山道に戻り、先程の南無遍照金剛の石碑を右に進み、弓削道に入る。P1010736
 
弓削道の最も気持ちの良いところ。牛馬、荷車の通る道だ。


 次の目的は、明治26年陸地測量部の地図にある、志古田谷に下る間道を確認することだ。あわよくばそこに「左京道 右弓削」の幻の道標があるかも知れない。最後尾を歩き、右に踏み跡がないか注意深く見て行く。地図上では弓削をまたいだ右の尾根を下っておりはっきりした地形なのだが、林の中を歩いているととても分からない。諦めかけた頃右に踏み跡を発見、本道と分かれてどんどん右に下っている。獣道よりははっきりしているし、作業道の新しさは無い。古い道の感覚だ。道巾は本道より狭く、徒歩で進むに精一杯だ。100mほど下ってみて、本道に戻る。皆が先に行っているので時間を潰している暇は無い。再度訪れることにし、分岐点のあたりを確認しておく。つづくP1010737

分岐した道を登り返す。道標は見当たらない。


P1010738
分岐のすぐ先の本道、特徴的なので写真を撮っておいた。本当は鉈目をつけておけば良かった。

P1010762
一番奥のピーク状に見えるところが分岐、そこから尾根は弓削の左右に下りてくる。わたしの言う志古田間道は東の尾根に少し乗ってやがて志古田谷へ下っている。(弓削から撮る)


【作業日誌 5/19】
芝刈り(3-3)

今日のじょん:今年は冬の低温と雪のせいか花や果実に異変が起きているようだ。川の様子もそうで、例年ならびっくりするような鯉が泳いでいるのだが一向に姿を見ない。そうこうしているうちに鮎の放流がなされたそうだが、昨年のように糸張られないなあと思っていたら、今朝発見。今年の鮎はどうだろう。P1010696 P1010769
 
 鯉がいなくなったワン(17日)
 糸張らはったなあ(19日)
 

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山田道から大栗峠(1) 5/18

2012-05-18 | 山・峠

2012.5.18(金)曇、晴

 雪が解けて田植えも終わったら行こうよって桜井さんが言っていた大栗峠行が実現した。昨年に瀬尾谷道、志古田道、和知道とシデ山からの道を歩いていたので、残るは山田道、竹原道、弓削道である。今回山田道、弓削道を歩く計画をした。参加者は桜井(克)夫妻、桜井(儀)、村上、井上そしてわたしの六名となった。

 9:00  観光センター集合 車で山田の作業所まで
 9:16  山田作業所出発
 9:35  林道分岐 迷わんの道標
 9:59  林道から右方へ街道分岐
10:29  休憩10分
11:02  582mピーク附近
11:22  弓削道合流点 南無大師遍照金剛の石碑あり、8分休憩
11:43  大栗峠着 昼食
12:40  大栗峠出発 大栗峠の頭経由弓削道
13:55  瀬尾谷道分岐
14:20  弓削着
15:25  山田作業所で解散

 昨夜からの冷気と雨が朝まで残っている。微妙な空模様の中を出発するが、なんとか天気は持っているし、好天のきざしという予報なので安心して出発する。山田をはじめ瀬尾谷、弓削、志古田の上林川中流域の左岸の扇状地(扇子は満開ではないのだが)は緩やかに傾斜しており、上林川および右岸の山に対して開放感がある。府道が右岸を通っているので、左岸からの景色はそこに住まない者にとっては普段見慣れない景色で余計感激してしまう。「ええとこやなあここ」なんて口々に言ってるのは単に隣の畑が青いだけではないようだ。
 村の外れで例の防獣柵の扉を開け、中に入る。もう慣れっこになった行為なのだが、なにか異界へ入り込む、娑婆とおさらばするというような妙な気分になる。
雑草、ゴミ、えぐれた溝の無いきれいな林道を登って行く。すると左手に急な林道が登っており、写真などですっかり憶えのある「迷わん」の道標がある。わんの部分は絵のお椀が描いてあり、いわゆる絵文字となっている。わたしはこういう洒落が大好きで、店にも「鎌椀入れ」の看板を作ったぐらいだ。こういった絵文字の道標は江戸時代のものかと思っていたら、明治12年の銘があった。P1010702 P1010703 P1010704
 




 今冬の積雪で数本の倒木となっている。老富の倒木とは比べものにならないくらいなのでなんとか取り除きの作業をして頂きたい。
 左に貯水池を過ぎると林道が分岐する。ここには道標が無いのでどちらに行けば良いか解らない。ままよとばかり右に行き、後で写真を見るとピンクのテープが写っている。実はこのテープが目印で、どうやら昨秋の里山ねっとの一行が着けたものでは無かろうか。P1010705

ピンクテープを目印に。


  植林の中の林道を登っていくがかなりの急登で、あえぎあえぎ登る。時々本来の街道が傍らに現れたりするので、この林道は街道に沿って作られたもののようだ。
 植林の中に大きな赤松が数本見られると思うと、植林が途切れ、闊葉樹の本来の道となる。予想どおり弓削道同様の広い街道だ。二万五千の地図の582mのピークに向かう尾根の部分で、とても感じの良い道だ。途中少し瀬尾谷側の展望の開けたところで休憩する。竹原道は気付かなかったがかなり下で合流するようで、ひょっとしたら池のあったあたりではなかろうか。P1010708 P1010711
 



弓削道同様広くて気持ちの良い街道だ。

道は尾根を左右に行ったり来たりする。右に行くと引地あたりの景色が見え、左に行くと山内あたりが見える。
 やがて582mのピークが右手に現れ、ゆるい尾根歩きとなる。左手の源頭は瀬尾谷の源頭のようだ。瀬尾谷(しょうだに)と言えば小さな谷のように思えるが、逆S字になって遍照金剛の分岐あたりまで来ているのだ。 P1010716

582mピーク


 もっと以外なのは浅原谷(あずらだに)で大栗峠の頭まで来ており、上林側中流域では最も大きな谷だと言えよう。右手に立派な踊り松があったり気持ちの良い道を歩いて行くと、南無大師遍照金剛の弓削道分岐に飛び出る。P1010718
P1010719 つづく




 今日のじょん:今日はほとんど留守番をしていたようで、様子が解らない。毛抜けの季節で、見るたんびにカイカイしている。ファーミネーターでクッションができるほど毛が抜けている。P1010697   

カイカイじょん。 

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最後の筍最初のビヤガーデン 5/17

2012-05-17 | 日記・エッセイ・コラム

2012.5.17(木)曇

 今年は筍の当たり年だった。あちこちから戴くのだがかみさんがアレルギー気味なのでそう何度も食べられないのだが、渡辺さんが、「そろそろしまいやで」といって持ってきてくれたので最後の筍を食することにする。除草対策にと土井さんからもらったかまどが、除草には活躍しなかったが筍湯がきには大活躍をしている。節電がさけばれる中IHで筍を湯がくのはどう考えてももったいない。谷の整理で切った雑木を燃やすから燃料費は無料だ。あまりの火の勢いに、もう数本掘ってきて、焼き筍をやってみる。筍がゆであがった頃を見計らって、焼けた筍を放り出す。焦げた皮をむくと香ばしい香りが鼻をつく。映像では見たことがあるが食べたことの無い焼き筍なるものを食す。軟らかくて美味い。あつあつのところを何口かかじって、火の片付けをする。P1010698   

かまどはエコライフの原点。


P1010700
火がもったいないので筍を焼く。


P1010699
見た目と香りは最高だけど、、、。


 するとだ、口の中にあくが残りなんとも気味の悪い感じになる。胃もむかむかしてどうにもならない。やっぱり季節終わりの筍は焼き筍にはむかない。来年は初物を焼いてみよう。
 ゆでた筍は夜にたきものにして頂く。こちらの方は糠でしっかりあく抜きしてあるので美味しく頂いたが、根元の部分は硬いので明日に持ち越しとなった。いずれにしても春から初夏の食べ物は早い内が勝負のようだ。
 筍がおわりなら、じょんのびビヤガーデンは始まりだ。例年だともっと早い時期に始まるのだが、やはり今年は気温が低いようだ。蒸し暑い日の夕刻に野外で飲むビールは例えそれが第三のビールであっても確かに美味い。ビールを飲まないじょんもビヤガーデンが好きなのは、おやつがもらえるだけではないようだ。P1010701

ビヤガーデン準備中、じょんもヒコヒコ。

 

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丹波丹後の最も良い時期 5/16

2012-05-16 | 日記・エッセイ・コラム

2012.5.16(水)快晴 

 うっとうしい数日が終わって、初夏の爽やかな日となった。P1010690

まだ雲が残る寒い朝だったのだが、、、。



 気温はまだ低いが、こういった日が数日続くという。わたしは丹波、丹後の一年中で一番いい季節というのは5月の中、下旬だと思っている。丹波に18年過ごしながらそのことには気付かなかった。その地に生きなければならないとなると気候なんて気にしないのだ。良かろうが悪かろうがそこに居なければならないのだから、、。
 ところがいろんなところに住むと結構気候が気になって、ここはいいなあ、あそこは悪かったなあなどと比較するものである。
 京都の底冷えなんて言うけれど、東京の空っ風のほうがよっぽど嫌だった。そして北海道の寒さに比べれば東京も京都も目じゃない。
 そういう意味で5月下旬の近畿北部の過ごしやすさは、住んでいる時には感じなかった。それが実感出来たのは、舞鶴デュアスロンに係わるようになったときである。舞鶴デュアスロンはインターナショナル舞鶴バイアスロンとして舞鶴市の市政50周年記念事業として1993年に取り組まれた。ランナーズ社の担当者から相談があって、コースや競技内容の検討を始めたのだが、コースの困難性もさることながら、5月下旬、5月23日、第四日曜日の開催に異議を出した。京都なら、早ければ連休明けに梅雨の走りがある。5月下旬は梅雨入りの確立は高いのでは無いだろうか。
バイクコースは海沿いの山岳地帯で雨天には視界が悪く、急斜面とカーブのコースはあまりにも危険度が高すぎる。「なにもこの時期に開催しないでもいいじゃないか」というわたしの意見に地元の担当者は、「北近畿はこの時期が一番安定しているのです」という答だった。この言葉を信じてゴーサインを出したが、果たして十回続いた大会の総てが好天に恵まれることとなった。もちろん前日どしゃ降りとか開催日の朝まで雨天という年もあったが、レースに影響が出るということは無かった。
 子供時代を過ごしても如何に天気に無関心であったかと思うと共に、概して天気の悪いこの地方で、少しの間の良い季節を思い切り楽しみたいと思うのである。

【作業日誌 5/16】
芝刈り(3-2)

今日のじょん:これおもしろいでしょ。ボールがあるところは知っているのだ。知らん顔じょん。P1010692 P1010693_2

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