晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

続・シデ山二題 10

2021-10-04 | 山・峠

2021.9.28(火)曇り

 メンバー :小原英明 山本英樹
 タイム  :あやべ二王公園 9:40出発
       登山口     9:50
       やすみと    3分休憩
       みと      3分休憩
       シデ山    10:55 10分休憩
       大栗峠    11:20 20分休憩
       小学校前   12:45
       二王公園   13:00
              計3時間20分(休憩抜き 2時間44分)
       YAMAPデータより
  距離 14.3Km   上り760m 下り758m(累積) 休憩 31分
  合計時間 3時間22分


 数年前の夏、三和町の山奥で妙なランナーと出会った。完全日除けでサングラスの怪しげなスタイルだ。
 「こんにちは~どこまで走るんですか?」と声を掛けると、「小原君やないけ~」「英樹君か、、、」
 英樹君は小学校からの同級生で、聞けばトレイルランをやってるという。何度かトライアスロンのレースであったことがあったけど、今はトレイルランで頑張っているそうだ。台頭の家から岼の長宮峠を越え四
尾山に登り往復するという。「トレイルランやらへんか?面白いで」と誘われたが丁重にお断りした。わたしはランがきらいなのだ。トライアスロンからウルトラマラソンに移行する選手は多くいたが、まっぴらだった。そんな再開から数年たったとき上林でトレイルランの大会があると新聞に載った。コースを見るとわたしのホームグランドである大栗峠を巡るコースと工忠君と歩いて完成させた北コースだ。これは出場しないわけにいかない、しかし歩き回った山道も走るとなると不安がある。そこで英樹君のことを思い出し、一緒に走ってみることにする。数日前からいつものウオーキングコースを走ってみる。もう30年ほどランニングはやっていない、でもウオーキングは続けてきたので何とかなると思っていた。ところがランというのはこんなに苦しいものかと思い知らされた。息は上がるし、足は上がらないし、身体は後ろから引っ張られるみたいだ。翌日は太ももからふくろはぎから痛くて大変、英樹君に話すと「ゆっくりゆっくり走って下さい」という。もちろん早くなんて走れるはずも無い。ゆっくりゆっくり40分近くを毎日走る。
 やがて筋肉の痛みも取れ、息も楽になってきた。ただ膝や足の甲など時々変な痛みが走る。これは絶対無理してはいけない、30代40代とは違うのだ、70代なのだ。故障してしまったら元も子もない。これは練習もレースも同様だ。もう競争はしてはいけない、自分の身体と相談しながら楽しもうと肝に銘ずる。
 というわけでレース同等のコースを一緒に走ってもらう。登りは歩き、小休止も入れる。思ったより楽に走れたが、山田に下りてから二王公園までのロード部分には参った。4Km余りの距離だが、舗装道路というのがこれほどまでにつらいものとは思わなかった。いつかは地下足袋でと考えていたが、このコースである限り無理な様だ。「70歳のおっさんには見えんなー」と70歳のおっさんに合格点をもらった。
 
 

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シデ山二題 10/3

2021-10-03 | 山・峠

2021.9.21(火)快晴
 メンバー: 小原英明 松田茂、恵巳子夫妻

 タイム : かみおりと出発 9:10
       第3の滝    9:35  10分休憩
       やすみと   10:10  10分休憩
       みと     10:40  15分休憩
       シデ山    11:20  15分休憩
                   (新ルートから)
       大栗峠    12:10  50分昼食
       やすみと   14:00  10分休憩
                  (林道ルートから)
       かみおりと  15:35着(尾根ルートから)
              計6時間25分の行動

 松田夫妻はトライアスロン時代からのつきあいなんだが、疎遠になっていたのが先だってのじょんのびのテレビ出演でわたし達のことがわかって訪ねてきてくれたものだ。惠巳子さんが難病で、リハビリも兼ねて登山をしているという。上林の山を案内してということで、彼らを応援したい一心でシデ山に向かう。
 鳥垣渓谷は惠巳子さんには歩きにくい様だ。

 おりとの滝を行く

「せっかくのいい景色なのに、緊張して観てられないんです」という言葉に、新人時代の山行を思い出す。雄大な北アルプスの景色も眼に入らず、足下ばかりを見ていた。第三の滝は彼女の記憶に残っているだろうか。読図、観天望気、装備、地質、植物などいろんな事を教えてあげようと思っていたがかえってプレッシャーになるかと思いやめにした。とにかく山を楽しんでもらえたらいいだろう。みとまでの急登も予想以上に快調に歩き、みとでは絶好の景色を楽しむ。

みと 天気よすぎて逆光になる
 新ルートは明るい斜面をジグザグに登っていくもので、桜井克彦さんがこつこつとバチヅルを振るっていた姿を思い出す。旧来の林道からのルートに比べ明るくて気持ちがいい。秋から冬にかけては木の葉が落ちて、振り返る景色がいいだろうと予想する。このルートを喜作新道ならぬ桜井新道と名付けて残して欲しい。稜線に上がってからもおしゃべりしながら歩けるぐらい快調だ。シデ山頂も天気がいいと素晴らしいパノラマだ。長老ヶ岳もまた行ってみたいねとおしゃべりして、「さて大栗峠行きますか?」と尋ねる。
「何分かかりますか?」「30分」「それじゃあ行きます」となって大栗峠に足を伸ばす。
 大栗峠はいつもの様に優しいお地蔵様が迎えてくれる。無数の旅人を見守ったことだろう、その中には希望に燃えて峠を越えた人もいるだろうが、失意の内に泣く様にして越えた人もいるだろう。でもどの人も手を合わせてお地蔵さんに祈ったに違いない。初めて来たときより随分きれいになった峠で昼食をする。設置されたベンチもありがたい。


 帰り道は林道に下りるルートを選ぶ。登りは快調だった惠巳子さんの様子がおかしい。下りは足先が痛むのだという。痛む足をかばって下るのは大変そうだ。山歩きで足が痛むのは一番つらい。立ち止まって足を休めながら下山する。靴や歩き方の問題ならなんとか解決できるので、今度逢うときに看てあげようと思う。
 それでも無事にかみおりとに下山し、今日の山行に感謝する。来週はこのルートを走るのかと思うとワクワクすると同時に不安も感じる。おわり
 

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上林トレール北面踏破(3) 4/18

2020-04-18 | 山・峠

2020.4.18(土)雨 上林トレール北面踏破(2)は2020.4.12

 弥仙山を後にして改心の道を戻る。元権現跡で休息をするが、ここは前回磁石が効かなくなった経験がある。帰宅すれば壊れたと思った磁石が正常に動いていたので驚いた。今回再度確かめようと心に決めていたのだが、現地に着いてもすっかり忘れてしまっていた。次にいつ来れるかわからないので実に残念だ。

元権現跡からの景色は素晴らしく、磁石のチェックを忘れてしまった。
 大タワの急坂を下り、光明寺への分岐を過ぎ日置谷に下る。
 改心の道を下ったところのKさん宅に沢山の蜜蜂の箱があるのを見つける。というのは道中いくつか設置されている蜜蜂箱を見つけて、一体誰が養蜂してるんだろうと考えていたからだ。熊が目を覚ますこれからの季節どうするんだろうと気になるところでもある。
 
肥刈谷と日置谷の蜂箱
 Kさんに聞いた怖い話がある。例年3件ほど道を迷って下ってくる登山者があると言うことだ。弥仙山から於与岐に下りるつもりが道を間違って上林に下りてくるというものだ。もちろん交通機関もないので自家用車で送って行かれるそうだが、距離もあり結構大変である。それにしても於与岐に下る分岐は随分弥仙山よりで、日置谷に下りてくるまで相当の距離がある。その間に迷っていることに気づかないのだろうか。地理も地形もわからずに歩いているとしか考えられない。於与岐に下る道は道標もあるが、位置関係が解っていないと真っ直ぐできれいな改心の道を進んでしまうのかもしれない。コースの整備不足と言うより登山者の側の問題だと思う。そういえば数年前改心の道で遭難騒ぎがあった。日が暮れても下りてこれなかったと言うことだろう。
 のんびりと観光センターまで歩き、解散。今回万歩計を忘れたのだが、いつもより沢山歩いた気がする。おわり


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上林トレール北面踏破(2) 4/12

2020-04-12 | 山・峠

2020.4.12(日)雨    (1は2020.4.5)

 木住峠で気になるのは北面の平地である。何でもない平地だが自然のものでなく、いったい何のための平地なのか気になるところである。大栗峠と違って4m四方程度の小さな平地だが、峠の形状からするとこのくらいが限界かと思う。

平地は峠の舞鶴側にある、杖の長さは1.8m
 このような平地があるのは今までに歩いてきた上林の峠では来住峠と大栗峠だけである。特にこの二つの峠が田辺から京に向かう重要な街道上にあること、どちらも藩境にあること(どの峠も藩境だが)、牛馬荷車が通行できる広い道であること等から藩の番小屋があったのではないかと想像している。幕末などには通行人の監視もあっただろうが、主に物流の管理が行われていたのだろう。それは清水鋳物師の井関家に大栗峠通行証の木札が残っていることでも理解できるし、田辺の国松家、清水井関家、胡麻の勝田家の近世鋳物師をむすぶ街道がこの二つの峠を通っていることは興味深い。京街道でもあり、鉄の道でもあったと考えるのである。(2017.12.25 嗚呼 木住峠を-5)
 木住峠で一休みの後、例の「山みち」を行く。思ったよりしっかりした道が稜線の下をトラバースしており、やがて稜線に合する。分岐の道標もあるくらいだから、単なる作業道というより、上林から於与岐に向かう生活の道だったのではないだろうか。弥仙山の南に於与岐に下る道がある。弥仙山にお詣りするだけなら不要な道である。おそらくこの道に繋がる上林、於与岐の生活の道だったのだろう。
 稜線はいくつかの小ピークを越えて南西に向かって走っている。右手に弥仙山を眺める歩きやすい道で、踏み跡もしっかりしており迷うこともない。571mピークを北に向かって下るとすぐに改心の道に合流する。東海自然歩道の道標もありここで昼食を摂る。
  
気持ちの良い道を、弥仙山を望みながら歩く。571mピークを下ってきたところ。右が改心の道。
 上林の山お初の岡本さんのために弥仙山を往復する。2ヶ月半の間山歩きをしていないので足に来る。改心の道はきつくはないのだがアップダウンが繰り返し、インターバルとなり応える。上林の山で初めて登山者に出会う。ウィークデイばかりに歩いているし、そう人気のある山でもないからだろうか。
 弥仙山山頂は今回で3度目だろうか、無事に来られたことを感謝し賽銭を供える。つづく

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上林トレール北面踏破 4/5

2020-04-05 | 山・峠

2020.3.31(火)曇り

 2015年7月、大唐内から三国岳を目指して入山したのが上林トレール踏破の始まりである。以来5年、長坂谷峠(府道1号線)~三国岳~養老山~菅坂峠~木住峠~蓮ヶ峯~施福寺の北面主稜線を踏破した。一気に歩けば2日もあれば充分な距離を5年もかかったのは、月一の山行が何度も中止になったり、アプローチ道、エスケープ道の多くを歩いてみたかったためである。登山道の多くが消滅したり通行困難だったりでルートファインディングが難しく、時間がかかった理由でもある。上林の山稜を対象とするなら口上林、十倉の北面の山々も入れるべきだろうが、当面施福寺までとし将来の課題としておきたい。
 アプローチ道には黄色、主稜線には赤のテープを蝶結びにして目印としたが、一般的に楽しめるのは長谷坂峠~養老山、木住峠~施福寺の間で、その他はルートファインディングの力が必要な中上級者向けのコースだと思われる。
 メンバー:小原英明 工忠照之 岡本陽子
 タイム: 木住川林道奥の地蔵堂発9:55
      肥刈谷右俣林道終点 10:15   発10:20
      徒渉地点      10:40
      木住峠       10:55   発11:10
      474m峰     11:45   発11:55
      改心の道出合    12:35   発13:00(昼食)
      弥仙山       13:35   発13:45
      昼食場所      14:20
      元権現跡      15:00   発15:10
      光明寺道分岐    15:35
      日置谷       16:15

 弓削に越してこられた岡本さんを加えた3人で観光センターを出発する。岡本さんの車に分乗し木住川沿いの奥の地蔵堂に車を置き林道を進む。

 この道は里村紹巴(光秀、秀吉などと交際のあった連歌師)が永禄十二年(1569)に歩いて上林城に向かった道と思われる。「天橋立紀行」には岸谷峠と記されているがこれは木住峠のことだろう。当時は谷沿いに道があったものと想像されるが今ではその面影もない。肥刈谷右俣に入って林道の終点が木住峠の取り付きである。左俣(こちらが本流)を行くと改心の道を越えて於与岐に向かう峠に至る。
 取り付きには古い木橋が架かっているがこれは腐って使えない。谷を渡って
左岸に移る。近年はその先の尾根を直登し、清水道に出て木住峠に至っているようだが、本来の道は谷沿いである。但し堰堤やら倒木で歩きにくいことこの上ない。
  
古道もこのとおり、、、 徒渉たってひとまたぎ
 這ったり高巻きしたりだがやがて徒渉地点にたどり着く。徒渉地点と行っても一またぎの谷で、ここからは杉林の中のジグザグ道となる。最後のターンの所に倒れた石柱がある。「右 たなべ 左 山みち」とあり田辺と呼ばれていた江戸時代のものと思われる。この山みちが改心の道に至る主稜線に繫がる道で、歩いてみるとかなりしっかりした道であり、古くから弥仙山や於与岐に向かう生活道だったのではないか。
 
「右 たなべ 左 山みち」「右 志みづ 左 たなべ」
 木住峠は杉の落ち葉だらけだが、きれいに掘り下げられており峠らしい風貌だ。峠には「右 志みづ 左 たなべ」の道標が有り、峠通行の主流が田辺ー清水となっていたことを思わせる。もちろん本来の街道としては遊里に下りる道で、紹巴の時代には遊里道しか無かったと思う。つまり徒歩が主流の本来の街道は遊里道で物資運搬が盛んになると車両通行が可能な清水道が主流になってきたということである。そこには清水鋳物師の影響が大きいと考えられる。清水道は清水鋳物師井関家のたたらに向かっているのである。もちろん徒歩の旅人は遊里道を歩いただろう。上林、都に向かうには圧倒的に短距離だからだ。
 
【今日の”のびちゃん”】NO. 29
コロナコロナで困ったことになっているんだが、春の木々は「そんなのかんけーねえ」って花盛り。

 
 


  

 

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蓮ヶ峯の尾根から改心の道-2 1/18

2020-01-18 | 山・峠

2020.1.18(土)曇り

 ここから先は道がないといっても、尾根上なので問題は無い。但し傾斜はものすごくゼイゼイ息を切らしながら登ってゆく。嫌になった頃に蓮ヶ峯の尾根にたどり着く。小休止して東に向かって進む。尾根上は登山者も歩いており、様々な目印テープが巻かれていて安心だ。尾根自体すっきりしており、派生する支尾根も少ないので目印が無くても迷うことはないようだ。509mのピークは開かれた頂上に真ん中に大木が有り、とても素敵な頂上だ。ここで昼食をとることにする。北面には梢の間から弥仙山が望め、南面には浅原の深い谷が見える気持ちのいい場所だ。

弥仙山はどこから見てもすぐにわかる。
 ここからは尾根は東北に向かい、551mピークを越える。「551だけに蓬莱山かなあ」などと冗談を言いながら進むと右に支尾根の出ている膨らみがあり、下方に道らしき直線が走っている。
 
尾根の途中で城山の見える眺めの良いところがあった。
「作業道かなんかだろう」と真っ直ぐ進むとその道に出た。その道を進むと於与岐に下りる分岐の道標がでてきた。なんてことはない、これが改心の道だったのだ。きびすを返して改心の道を上林方面に歩く。しばらく行くと先ほどの支尾根との分岐が出てくる。上林方面から蓮ヶ峯に向かうならこの支尾根を行くべしと赤テープの印を付ける。

林方面から、右に行くと弥仙山(改心の道)、左の尾根を行くと蓮ヶ峯に行く。
 改心の道をしばらく行くと元権現跡に出る。ここからは中上林の村々の景色が美しい。西に目をやると歩いてきた蓮ヶ峯の尾根が望める。ここでコンパスと地図を出して見ていると妙なことが起こった。コンパスが効かないのだ。気泡が入って、針が外れたかなと思って買い換えを覚悟したが、家に帰ると正常に作動している。磁石が効かなくなる場所があるということは聞いたことはあるがまさか元権現跡がそうなんだろうか。次の訪問が楽しみである。

元権現跡から蓮ヶ峯の尾根
 改心の道を下り、神谷道に入る。分岐に立派な道標のあるこの道は一度歩いてみたかった道なんだが、歩いてみるとどうって事はない道だった。じょんのびに帰るのに少し近くなるというだけのものだった。おわり

どこでもそうだが村に出るときはゲートを開け閉めする、興ざめ。

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蓮ヶ峯の尾根から改心の道 1/14

2020-01-14 | 山・峠

2020.1.14(火)晴れのち曇り

蓮ヶ峯の尾根東半分
ルート:念道薬師堂取り付き~於与岐に向かう峠道~蓮ヶ峯の尾根~P509m~P551m~改心の道~神谷
メンバー:小原英明 工忠照幸
タイム:じょんのび発  10:05
    薬師堂        10:10
    第一分岐      10:45
    第二分岐      11:00
    第三分岐      11:30  10:40発
    蓮ヶ峰の尾根  12:15  12:20発
    P509着  12:40  13:10発
    P551      13:30
    改心の道出合い13:45 
    元権現跡着  14:10  14:45発
    神谷ルート出合い   14:55
    神谷着             15:22

国土地理院25,000分の一地形図、梅迫、丹波大町
 前回同様(2019.11.5)じょんのびを徒歩でスタート。いつになく快晴の空だが、昼前には曇るそうだ。雨さえ降らなければまあいいか。薬師堂からの道は前回歩いているので発見の楽しみは少ないが、今回スマホのスーパー地形アプリの試行が楽しみだ。第1の分岐の左の道は予想どおり念道ー井根間の峠に向かうものだ。第2の分岐は左の道が山の斜面に向かっており森林作業の道と思われ、右の道を選ぶべきだ。一見先で合流するかのように見えるので注意。第3の分岐で於与岐に向かう道は忽然と消えるのだが、左右にはトラバース道が続いている。ここまでの道が異様なまでに広く、よく掘り込まれていて、水抜き溝など整備されているだけに重要な街道であったのではと思わせるが、分岐から先尾根上の道がまるで残っていないところをみると(地図上には破線の道が記載されている)分岐までは森林作業用の道として近年に造られたものではないかと思われる。

第三の分岐、ここから先は道は左右に分かれ、尾根上は道が無くなる。
 分岐から先は道はないのだが、尾根上のこととて問題なく進める。但し傾斜はきつくて、息を切らしながら登っていく。蓮ヶ峯をめぐる山稜は標高300mあたりから急激に傾斜を増す独特の形状をしている。それだけに修験の山として栄えたのだろう。この傾斜を増す辺りに鉢巻きのように走っているトラバース道は修験道の道であるというようなことを読んだこともあるが、果たしてどうだろうか。つづく

【今日の”のびちゃん”】NO.22
 霧の深い日は感慨が深い。のびが逃走した日と同じシチュエーションで写真を撮る。服も同じなんだがリードの付け方が違っている。


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蓮ヶ峰へ-4

2019-11-23 | 山・峠

2019.11.23(土)快晴11/20 考察 仮称念道峠(於与岐から念道に向かう峠)は街道か?
 残念ながら街道ではなさそうだ。念道から第二の分岐点まで街道を思わせる立派な尾根道が走っているのだが、分岐点を過ぎると途端に消えてしまうのだ。分岐から稜線までそして稜線上の道も途切れ途切れの踏み跡でしかない。どうやら下部の豪華な道は肥刈りや炭焼などの作業用の道ではなかろうか。あまりに深く広く掘り下げられた道は近年の仕業と思われる。重機こそ使われていないが、大正、昭和初期の工事ではないか。

ここまで深く掘り下げられているのは、傾斜の調整のためだろうか?
 明治28年陸地測量部の地図を見ても、この峠道は中太の破線で示されていて、幹線道路ではなさそうだ。於与岐から上林に向かう主要な道路は於与岐大又から改心の道を使った日置谷に降りる道となっている。これだと大栗峠山田道を使って京に向かうこともできる。

明治28年大日本帝国陸地測量部二万分の一地形図「東谷田村」から
 建田こんぴら大祭に吉崎家の主が通った道は(仮称)念道峠の可能性は無きにしも非ずだが、吉崎家は於与岐下村にあるそうで、上杉に出て施福寺、黒石峠を越える道が距離的には遠いが、よく整備されていて労力的にも楽なようだ。蓮ヶ峰の連山はさほど高くはないのだが、350mあたりから急傾斜になっており、登り下りとも厳しいものがある。だからこそ修験の山となったのだろう。
 明治の地図を見ていると、施福寺から397mピークの東稜線を越え、於与岐の里で仮称念道峠に合流する道が描かれている。これは現在の地図には現れないが、於与岐から上杉を廻るより早く黒石峠に行けそうだ。しかも稜線は390m程度できつくない。於与岐から建田にいくには最短最速だろう。吉崎家の主はこの道を辿ったのだろうと想像する。
 さて井根の日圓寺から施福寺まで巡礼者の辿った道はというと、西谷からサクラ峠の道が重要な道だったよ八田うだ。現在は林道で旧道は見る影もなくなっているそうだが、以前の峠を知る人には随分いい峠だったと聞いている。これらの道を辿ってみたい気はするが前者の道はおそらく消滅していそうだと思う。終わり

【今日の”のび”】NO.14
好天の朝は霧が深い、熊の出没も気になるところだが、霧とススキの穂が相まっていい景色だ。

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蓮ヶ峰へ-3 11/17

2019-11-17 | 山・峠

2019.11.17(日)晴れ

1:25,000 梅迫から 
 主稜線を乗越して古い峠道がないものか探ってみるが、於与岐側の植林の斜面にはそれらしきものは見当たらない。地図どおり596mピーク目指して稜線上を行く。道ははっきりはしていないが、踏み跡と目印テープがあり、気持ち良く歩ける。注意すべきは小ピークに着いたとき降り口を誤らないことだ。596mピークはこの連山の最高峰で三角点がある。展望はよろしくないが、木枝の間から弥仙山が望まれる。於与岐に向かう峠道はこの先から北西に下っていくのだが、確認をするのを忘れてしまった。
次のピークだったろうか、南に下る尾根にテープがあり下っていくが急激に下っており、間違いだと気付く。この尾根はひょっとすると井根の観音堂に下る尾根ではなかろうか。前回は見つけられなかったが、観音堂から蓮ヶ峯に向かう道があるはずだと思うのだが機会があればチャレンジしてみたい道だ。

乗越には道は見られない。ここで行動食を食べる。

596mピークには三角点があり、木の間から弥仙山が見える。
蓮ヶ峰頂上は看板が有る。

 登りなおして適当に稜線を進むと蓮ヶ峯に着いた。なんてことないピークだけれど、憧れ続けてきたピークである。特に前回果たせなかったので余計嬉しい。遅い昼食を摂って下りにかかる。すぐに反射板の所に出る。この反射板は下からよく目立つものだが一体何に使われているのか解らない。多くの記録ではこの反射板を下方に見て、西に向かう尾根を下るようだが、反射板の下方に明瞭な道とテープがある。これは反射板の維持管理用の道かもしれない、南西に下る尾根道のようだがどちらにしても林道に出ることは間違いなさそうだ。ところがこの道は尾根をダイレクトに下っていて急なことこの上ない。

巨大な反射板から尾根を下っていく、道中に大きな岩塊も有り修験の道かもしれない。
矢田方面の展望が素晴らしい箇所もある。
 ストックのない工忠君はかなり辛そうだ。とことん下って膝がガクガクいいだしたら傾斜が落ちてきて棚田跡の拡がる広いところへ出た。これが施福寺の元となった西照寺の跡だろうか。棚田の跡かと思ったのは坊の跡かとも思ったがあまりに細長く、やはり棚田の跡だろう。少し下ると施福寺からの林道に飛びでる。そこに「蓮ヶ峯」の道案内があったので、この道を登る人もあったのだ、むしろこの道が本来の蓮ヶ峯登山道なのかも知れない。ただこの道を再度登ってみようとは思わない。荒れた林道をだらだらと歩くと、施福寺横の谷に出る。もうそこは施福寺だ。

降りてきたところはトラバース道に出合うようだ。少し下ると林道に出て小さく「蓮ヶ峰へ」とある。
 
施福寺は丹波西国三十三所三十一番で日圓寺に続くお寺である。日圓寺からどの道を辿るのだろうと気になるところである。

本尊は千手観音菩薩、正面石段には立派な盃状穴も

 施福寺からじょんのびまで6Kmあまりの舗装道路を歩くのは忍びないのでかみさんに電話し迎えに来て貰う。てなわけで簡単にじょんのびに着いて解散。おわり

【今日の”のび”】NO.13

最近肥えてきたんちゃうかなんて言われるので、散歩もロングコースに変えたのだが、実によく歩く。頼もしい限りです。

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蓮ヶ峰へ-2 11/11

2019-11-11 | 山・峠

2019.11.11(月)曇り
 立派な道とはいえ何年も歩かれていないようで、倒木に行く手を遮られ、くぐったり高巻きしたりで清水道もそうだったし、整備前の大栗峠の道も同じようなものだった。尾根筋といえども掘り下げられた道は近年の大雨で荒れているかと思いきや何事も無かったかのようだ。コーナー毎にしっかりと水切りがなされており、大きな水流とならないことが功を奏しているようだ。重機で強引に造られた林道がいとも簡単に荒れてしまうのと大きな違いだ。それにしても人力でこれだけの道を造るのは相当なものだ。南面の尾根道は明るく、赤松も多く残っている。松茸の季節はもう終わったのだろうか、香りがすることもない。

この道の造りは重機の無い時代に凄い。それにしても倒木が多い。
 やがて最初の分岐に着く。左の杉林に道が延びているが森林作業用の道のようだ。前回井根の観音堂上のトラバース道を途中まで東進したが、その道はもう少し高度が高いはずだ。少し休憩して先を急ぐ。気持ちの良い尾根道もあるが、相変わらず倒木が続き悪戦苦闘というところ。やがて第二の分岐に着く。左右に道が分かれ、直上する道は無い。地図上では直上しているのだが、どちらかに捲いているのだろうと左に行ってみる。ところがトラばるばかりで隣の谷に着いた。どうやらこれが例のトラバース道のようだ。前回引き替えした谷かなあと目印を探すが、どうやらもっと東の谷のようだ。元の分岐に戻り右の道を歩いてみる。トラバースどころか降り始めて、これも主稜線に続く道ではない。再度分岐点に戻り、尾根の直登を試みる。

第二の分岐、左右にトラバース道がついている。
 もし峠道が通っていたらジグザグに登っているはずだ。どこを登っても主稜線に飛び出るはずと腹をくくって登っていく。急な斜面をゼイゼイいいながら登っていくと踏み跡らしき道になってきた。それにしても分岐点まであれほど立派だった道が、なぜ急に貧相な踏み跡になったのだろうか。広い立派な道があれば、それが江戸時代からの主要な街道だという思いに駆られるが実は大正昭和になってから肥刈りや森林作業のために索道された道かもしれないという不安が湧いてきた。於与岐と念道を繋ぐ峠道が途中でいきなり消えてしまうということは、近年になって念道の側の人びとが必要となって切り開いた道だと考えることも出来るわけだ。あの分岐点から上の急斜面は作業困難、あるいは作業のための道を造る必要の無い地域なのかもしれない。

第二の分岐まではこんなに広い大道である。
 そんな思いをしながら怪しげな踏み跡を辿って登ると遂に主稜線に飛び出た。そこには目印のテープも随所にあって、登ってきた道が正しいことを示している。結局念道から於与岐に抜ける峠道は主要な街道ではなかったということだ。つづく

主稜線出合、向こう側が念道方面。
【今日の”のび”】NO.12
病院やシャンプーなどプレッシャーのかかるところばっかなので、楽しいところへ出かけた。8日のことなんだけどおおい町の芝生広場に出かける。結構喜んでるみたい。

広いとこは気持ちがえーわ。

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蓮ヶ峰へ 11/10

2019-11-10 | 山・峠
 2019.11.10(日)晴れ
 11月5日に登った記事を今になって書いたのは今日が建田のこんぴらさんの大祭だからだ。

 宝永年間に起こった直訴の事件は史実であり、その三義人を祀る建田宝永講は三百年を越えて伝えられている。

宝永講は各家持ち回りで行われていたが、昨年社殿が完成した。
於与岐の吉崎家は今も参列されている。
 その大祭に例年於与岐(およぎ)の吉崎家が招待されている。直訴の旅に資金を提供した於与岐の吉崎家を毎年招待している。なんと律儀なことと感心するが、自動車の発達していない時期にはどこを歩いてきたのだろう。それこそ念道に通じる峠であり、川を渡って折山峠を越え建田に向かったものと思われる。
 
 メンバー:小原英明 工忠照幸

 タイム:2019.11.5(火)晴れ
じょんのびスタート  9:40
薬師横の取り付き   9:50
第一の分岐     10:20   10:30スタート
第二の分岐     11:10   左右の道偵察 20分 
第二の分岐スタート 11:30
稜線        12:00   軽食15分
稜線スタート    12:15
596峰      12:45   南にミスコース10分ロス
蓮ヶ峯       13:20      昼食25分
蓮ヶ峯スタート   13:45  
トラバース道出合  14:20 西照寺跡か? 
 林道出合      14:30 少々探索
施福寺       15:00 車の迎え有
じょんのび解散   15:30

 楽勝に登れると思っていた蓮ヶ峯(はちがみね)に敗退して、なんとも情けない気持ちで数ヶ月をおくってきた。今回は過去の記録なども調べて挽回を期した。ネットで見ると、長靴姿のおじさん(わたしもれっきとしたおじさんなんだが、、)が頂上で写真撮ってたりしてがっくりくる。しかし記録のほとんどが施福寺からのもので、何が何でも別ルートから登ろうと決める。
 念道(ねんどう)から於与岐(およぎ)にぬける峠は596m峰の西の鞍部から於与岐八幡神社の辺りに降りる変則的な峠だ。変則的な峠である故か峠名が定かで無い。ご存じの方は教えて頂きたいが、念道側の取り付きをみると大層立派な街道で、往時には相当の通行があったように見える。
 念道の薬師さんの横にある取り付きは街道の風格たっぷりの道だ。

春に下見する。薬師堂の左が取り付き、進むと立派な古道となる。
 ただこの辺りは念道の古い墓地であり、墓参のための立派な道なのかも知れないと少しの不安もあった。予想以上に広大な墓域を過ぎても道は広くて立派だ。斜面を掘り進んでいる様子は小栗峠弓削道以上で、田辺(西舞鶴)から於与岐、念道から和知にぬける歴史の表に出てこない街道があったのではないかという希望さえわいてくる。つづく
【今日の”のび”】NO.11
のびはこんぴら詣りはできなかったがよく歩くようになった。でもロングコースの日はぐっすり寝込んでるので、かみさんが心配している。
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敗退 蓮ヶ峰-4 7/11

2019-07-11 | 山・峠

2019.7.11(木)

 蓮ヶ峰への道を早々に諦めたのは、アプローチに使った念道からの峠道(仮に井根峠としておこう)の井根側を確認しておきたかったからだ。峰地さんに井根側の取り付きは聞いていたので簡単に行けるだろうと思っていたが、谷に下りるところですぐに怪しくなってきた。獣道と区別の付かない道を谷に下りる。この道は地理院地図にも載っているのだが谷筋の道は完全に消滅し藪漕ぎ状態になる。峠への道も谷筋で見つけることは困難だろう。なんとなく意気消沈して、井根に下って帰ることにする。家まで3Kmあまりの舗装道路を歩くのは忍びない。かみさんに電話して迎えに来てもらう。今回道がわからずじまいで釈然としない山行だったが、井根峠への取り付きがはっきりしたこと、日圓寺観音堂への素晴らしい参道など収穫もあった。

この参道に何体の石仏があるか勘定して下った。九十六体だったろうか。
 さて蓮ヶ峰への登山道であるが、井根から直接の道は無さそうである。後日村の人に聞いたところ、西谷を詰める道があるそうだが、その道も地図上では黒石峠からの林道のところで切れている。登山記録を調べると施福寺から登るものがすべてである。それよりも念道から於与岐に抜ける峠から山稜を辿るのが魅力的だ。上林にとって於与岐は、現在の通行から考えるととんでもなく遠い無縁の地のように思えるが、峠道が主体の時代には隣村で交流が深く通婚圏でもあったようだ。建田の金比羅さんで有名な宝永講の大祭には毎年於与岐から招待者が来られたという。強訴にかかる資金を於与岐の庄屋吉崎家が提供したといわれ、その好意に報いるためだそうだ。徒歩の時代、この峠を越え上林川を渡り折山峠を越えて建田三町に通ったに違いない。
 その峠の取り付きが念道にあることは地図を覗いて始めて知った。それもよく通る道にあったのだ。早速カメラ片手に行ってみる。念道の清林寺から小山に向かう道すがら観音堂がある、その付近に取り付きがあるはずだ。その道はすぐに見つかり、少し登っていくととても素晴らしい道だ。入り口から想像できないほど道幅も広く、古道の趣たっぷりだ。どこまでこの状態が続いているかわからないが、この道は歩いてみる価値がある。おわり

観音堂横の取り付き、椿のトンネルを抜けると道幅の広い古道が現れる。

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敗退 蓮ヶ峰-3 7/9

2019-07-09 | 山・峠

2019.7.9(火)雨 (敗退 蓮ヶ峰-2は2019.3.30)

 故永井先生に、日圓寺から蓮ヶ峰に向けて修験の道があり、毎年村で清掃をしていると言うことを聴いていた。峰地さんが「観音堂までは行ったことがあるが蓮ヶ峯までは行ったこと無い」と言われていたのが気になる。お堂の右を入っていくと防獣柵が現れる。扉部分を開けて参道に入る、扉はしっかり閉めて留め金をしておくこと、これはマナーである。参道は実に立派な道ですぐに四体の石仏が現れる。これは凄いなあと写真を撮ったりするがその後も四体の石仏が次々と現れて驚く。

 さすがに信仰の道だなあ、須知山峠の旧道も石仏が続いているがここほどではない。道も井根の方々の清掃のおかげで歩きやすく気怖ろしく持ちいい。道中倒木も無いのだが、最後におそろしくでかいモミの木が道をふさいでいる。昨年の台風で倒れたものだろうが、これは村の人の手でも片付けようがなさそうだ。倒木の下をくぐり抜けると観音堂が現れる。

観音堂手前の倒木、観音堂、観音堂から下って林道に入る。
 この地は336mのピークでその上は蓮ヶ峯を取り巻く緩傾斜帯になっており、そこに向かって下っていく。林道が東西に走っており、東は井根の東側の谷から続いているようだ。ここからも直登して596.3mのピークに行く道があるものだと思っていた。このピークにたどり着けば蓮ヶ峰はすぐのところだ。獣道らしきものはあるがいづれも怪しげなものだ。やむなく林道を西に進む、歩くには問題ないが沢筋など随分荒れており、軽トラ等は通行困難である。山側に取り付く道はないものかと探していくがそれらしきものは見当たらない。かまわずどんどん行くと林道が降り始めて、下方に井根西谷か施福寺方面からの林道が見えてくる。蓮ヶ峯に登る道探しは諦め、元の観音堂のところに戻る。
 蓮ヶ峯の山稜方面に登る獣道を辿るとすぐに東西に走る踏み跡を発見、東に向かって歩いてみる。以前に蓮ヶ峯の中腹に鉢巻き状の修験の道がありいくつかの古寺があったというような記事を有ったことを憶えている。ひょっとしたらこの道はこの道はその道かもしれない。獣道のように細くて心許ないが、とにかく途切れることなく続いている。ただし道標、目印テープなど一切無い。地図で見ると東に辿っていくと、念道から於与岐に越える峠道に出会うはずだ。その峠道を辿れば改心の道権現跡から蓮ヶ峯に至る山稜に出られる。その峠道の出合までトラバース道を辿ろうと思ったが、時間切れになってしまった。引き返したのはP355mの東の谷で、峠道のすぐ近くである。そこはもう睦合町であり、府有林の看板があるところだ。

峠道手前で引き返す、ここはもう睦合町。
つづく

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幻の仏主峠-8 7/7

2019-07-07 | 山・峠

2019.7.7(日)曇り  仏主峠考察編ー4

 国土地理院地図にある仏主峠の道仏主側が本来の仏主峠道でないことははっきりした。その原因はなぜかと考えるに電波塔連絡道路の開通と近畿自然歩道の指定が大きく影響していることだろう。電波塔連絡道路は「京都府の山」の記録には登場するので1995年以前、近畿自然歩道の整備が1997~2003年、地理院地図の測量履歴が2003年となっており、地図には電波塔連絡道路、近畿自然歩道の記載もあるので、時系列的には電波塔連絡道路<近畿自然歩道<地理院地図となっている。電波塔管理道路ができ、本来の峠道が消滅する。近畿自然歩道はこの管理道路を指定し、国土地理院は消滅した峠道を抹消し、新たな峠道を記載した。というのが真相ではあるまいか。ところが長老ヶ岳から尾根道を下ってきて管理道路に出会う地点の近畿自然歩道の案内看板をよく見ると、大まかな地図ではあるが地理院地図の峠道を記載しているように思える。だとすると「現在地、仏主峠」という記載は完全にミスであり、登山者や峠道ファンに対する背信行為であり、環境庁(当時)の傲慢な行政姿勢が見え隠れするものである。

 こんな始末で今回の山行で仏主峠の古道を確認する目的は達せられなかった。しかし三埜側の道には古道の面影が残っていそうである。京街道の大栗峠から先を探訪するには仏主峠は見逃せない。次回山行は三埜から仏主峠に登り、P381m西尾根から舗装道路の中に消滅してしまった峠道を探索してみたい。おわり

 

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幻の仏主峠-7 7/6

2019-07-06 | 山・峠

2019.6.7(土)曇り 仏主峠考察編-3

 1980年以前に歩かれた金久氏の地図と現在の地図が違っているのは当然だが、本来の峠道はどこなのだろう。国土地理院に問い合わせば当時の地図が見られるかもしれない、あるいは国会図書館ならあるかもしれないなどと考えているとき陸地測量部の明治24年所定二万分の一地形図「長老嶽」があることに気づいた。書庫から引っ張り出してきて驚く。そこに記されていた峠道は金久氏が歩かれたP831mから西に派生する尾根で、現在舗装道路がジグザグに下っているところである。そして現在の地図にある仏主側峠道は記載が無い。仏主峠は丁度P831mを東に捲く形で仏主に向かっていたのだ。

明治28年発行大日本帝国陸地測量部二万分の一地形図「長老嶽」
 では現在の地図にある仏主側峠道はいったい何なのだ。京都府の山(山と渓谷社刊1995年)の記録を見てみる。仏主からの登山だが、森林ふれあいロードといって長老ヶ岳西北西に延びる尾根に権現谷の対岸から取り付くルートである。長老ヶ岳に登るなら近畿自然歩道よりよっぽどいい登山道だが仏主峠を目指したわたしたちには眼中に無かった。下山には電波塔管理道路を使っているが、当時はまだ舗装はされていないようだ。大まかな地図に仏主峠の記載があるがどの位置なのか詳細はわからない。
 結局現在の地図にある舗装道路(管理道路)からオマツ谷に入って峠に至る道はネット上の記録を探すことになる。すると2015年の記録があった。道路と谷との合流点は昨年の豪雨で破壊されたもので、記録当時は荒れていないが、それでも谷筋の道は不明で、稜線にたどり着く部分もわからず、峠のかなり北方に上がってしまったというものだ。どうやら地図上の峠道は荒れているというより消えてしまったとみていいようだ。

現在の地図にある仏主峠への道取り付き、道らしきものは見えない。
 次回この道を踏査してみようと思っていたが、その必要もなさそうだ。これは想像だが、電波基地管理道路を作ったがために本来の仏主峠道が破壊された、その代替としてオマツ谷筋の道を峠道とし、峠でUターンしていた道を真っ直ぐ延ばして繋げたのではないだろうか。その道は無理やり作ったのではなく、従来の山仕事の道だったのかもしれないが、そう考えると不自然な仏主峠の現在の形が納得できる。本来の仏主峠だと、P831mを捲いて尾根から尾根に越える普通の形状である。
 ネット上の記録でもう一つ発見したことがある。三埜側の下り道で中谷と西谷の中間尾根で西谷に向かって降り始める位置が現在の地図よりかなり手前だということだ。地図上ではP665mの手前670m付近から降り始めているが、ネット記事では250m程手前720m付近から下っているのだ。写真も掲載されており、どうもこれが本当の古道のようである。陸地測量部の地図で見るとネット記事の方が正しい。これは一体どうしたことだろう。現在の地図に表された道は本当に存在するのだろうか、無かったとしたらこれは一大事である。GPSを頼りに歩いても道なき道を歩むこととなる。つづく

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