晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

じょんの一回忌 7/28

2020-07-28 | Dog

2020.7.28(火)曇り
 月日のたつのは早いのにこの一年は実に長い一年であった。
わたしはあの日のことを忘れない。祈るような思いで病院に駆けつけ、心の隅には頑張ってやがて退院出来るのではという淡い希望もあった。心臓ばくばくしながら集中治療室に入ると管に繋がれたじょんの姿があった。「じょん」と呼んだとき、かすかに反応があったと思ったのは思い過ごしかもしてない。「じょん君が大好きなお家に連れて帰ってあげて下さい」という先生の言葉に目の前が真っ暗になった。「やっぱりだめなんだ、何が何でも連れて帰ってやるぞ」といいきかせ車の準備をする。管を外され先生に抱かれたじょんを乗せる。「あと二、三時間かもしれませんよ」と言われたが、それから十数分、菅坂の登りで血を吐いて痙攣したと思ったらじょんは逝ってしまった。おそろしく暑い夜をじょんの横で過ごすけれど、それはじょんではなくて冷たい犬の形をした物体なのだ。山で死んだ石島さんや梶川の時もそうだった。突然に人が物体になってしまうのだ。慌ただしく葬儀を済ませ、小さな骨箱に入ってじょんは帰ってきた。遺影を前に毎日手を合わせるが、きれいに整頓されたじょんの居場所は寂しい。黙って二人で摂る食事もなんとも寂しい。かみさんは日に日に弱っていき、「じょんの所へ行きたい」と言い出す。このままでは二人とも参ってしまう、生前に考えていたじょんの生まれ故郷を訪ねることと、じょんの供養のために絵本を作ることそしてじょんと一緒に飼おうとしていたのびを探そうと行動を始める。それらのことに集中することで、一年が長く感じられるのだろう。絵本は咲ちゃんの挿絵の助けもあって、6月の末頃には完売してしまった。予定通り動物愛護団体等に全額を寄付し、じょんの供養になったことと思う。未だ希望される方もいらっしゃるが、区切りとして増刷することはしないことにした。内容はなんの装飾もなく、ただじょんの生涯をありのままに書いたものだが、沢山の方に賞賛の言葉をいただいて恐縮している。読まれた方々のとらえ方感じ方がそれぞれ違って、感想をおっしゃっていただくのがとても嬉しい。わたしたち夫婦はこの本を開くたびに涙するのだが、読者の方に泣いてしまった、涙が流れたと言われるのは驚いた。絵本を出す前から、「ぼくらは泣くけど、それ以外の人が泣くことはないやろなあ」と話し合っていたのである。じょんは亡くなってもみんなの心の中に生きている凄い奴やなあと感心している。

「おきつね山のじょん」は綾部図書館(貸出可)、京都歴彩館にあります。もちろんじょんのびには置いてます。
 じょんのお墓はまだ無いので、遺骨の一部が眠る公誠動物霊園にお参りする。花と線香を供え、この日のために憶えた般若心経を唱える。おそろしく暑かった昨年の今日、なんとも空しく哀しかったことだろう。
かみさんはじょんの最期について、重篤な病に気づかなかったことや、しんどかっただろう事に気づいてやれなかったことを今でも悔やんで引きずっている。わたしだってあの病院での一晩がどれほど寂しくくるしかっただろうと思うといたたまれない。机の前に貼ってあるじょんの写真を見ているとひとりで泣いてしまう。でも悲しい思いをしているわたしたちをじょんは喜ばないと思う。一年たった今、悲しいこと悔しいことは忘れよう、それ以上に11年間の楽しかった、嬉しかった思い出がいっぱいあるじゃないか。そんな時間を与えてくれてありがとう。それでいいんじゃないか。合掌


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石海月撲滅作戦-1 7/27

2020-07-27 | 違いのわからん農学士

2020.7.27(月)曇り、雨
石海月なんて書くから何かいなということになるが、正式に
Nostoc commune Vauch.という学名で、イシクラゲと呼ばれている。庭によくあるわかめのようなぬるぬるしたあれ。上林では除草剤のカスだという都市伝説ならぬ田舎伝説があるが、除草剤を撒いた後の荒れた地面に出てくるのでそのように言われているのだろう。以前に記事に書いて(2010.5.9参照)ガーデンスライムと呼んだがこれはぴったりの呼び方だと思う。10年後の今再度イシクラゲが気になって、撲滅を図ることとしたのだが今年の長雨が影響したものと思える。10年前に一部のところに存在していたイシクラゲが庭中に蔓延していることが分かったのである。
 イシクラゲは庭のがんのようなものである。あるところに突然現れるのだが、いつのまにか増殖して広範囲に広がる。一箇所だけだったのがいつの間にかあちこちに転移する。完全に取り除くのは無理。薬剤は効かない。最終的には庭が台無しになる。

知らない間に広がってくる。草の間に出てくるのは駆除が難しい。
 がんと違う点は、イシクラゲは外部からの侵入者であること(ウィルス性のがんは侵入者だが、、)周囲にあるのは石や土壌で、正常細胞ではないこと。(芝の間にはびこったイシクラゲはがんと同様の状態だが、、、)人間の生命とは無関係であること。(イシクラゲが原因で病気にはならないが、精神的にダメージを受ける御仁もあることだろう)
 とりあえず、雨後の状態で取り除くことを行う。あっという間に箕に一杯になるが、庭中をやるとバケツ10杯ぐらいにはなるだろう。そのまま好天を待って干し、乾燥したものをゴミに出す。単独で存在しているものは完全に除去できるが、コロニーを形成しているものや苔、草に付着しているものは完全には除去できない、切れ端が残ってしまう。次の雨が降ると除去前の状態に戻る。いたちごっこの典型のようなものだ。そこで考えたのが、残渣部分をトーチの熱で焼いてしまうことだ。この場合雨後直後は焼却できない、1日2日たってある程度乾燥したところをやっつける。

トーチは腰が痛くなるので、「ちょろやきくん」を購入。トーチの方がピンポイントに焼却できる。
 石に海苔のようにへばりついたやつや小さな破片になっているやつも気持ちいいほど燃えてしまう。最初湯気が出て、次に縮んできてパチパチと燃え灰になる。がんで言えば摘出手術の後に放射線治療をするようなもので、これを繰り返すことでイシクラゲは撲滅できるだろうと高をくくっていた。

大部分を取り除き、残渣を焼却したコロニー
つづく
 

 

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般若心経二冊-7 7/25

2020-07-25 | 雨読

2020.7.25(土)曇り

 般若心経の目的は空になることだと思うのだが、空になることとは如何なる事か、「般若心経のこころ」に次の文章がある。

「自我は空だ」ということを、みなさん自身で自覚体験してほしいと思う。そこで、私(秋月龍珉氏)は私の本師山田無文老師の体験談を次に紹介して、解説に代えたいと思う。老師は、青年時代に結核になって、医者に見放されて自宅で療養していた。ある朝、縁側で涼しい風に吹かれた。そのときに、「風とは何だったのかなあ」と考えた。「そうだ、風は空気だ」と思った。そのとき、自分は十何年かずっと忘れていたけれども、空気というものがあって、私を生かしてくれていた、ということに気づいた。自分はこれまで自分で生きてきたと思ってきたけれども、私は「生かされ生きて」いたのだということに気づいた。「生きよ、生きよ」と私を生かしてくれている天地の生命があった。私は結核なんかで死なないぞと思ったとたん、元気が湧いてきて、それがきっかけで病気を克服した。
 話は続くのだが、これが「色即是空」ということのようだ。しかし氏はその前に、「般若波羅蜜多」を行じてみなければ「空」の悟りは開けてこない、とおっしゃっているのだ。「般若波羅蜜多」の行とはずばり「座禅」つまり「禅定」である。山田無文老師は療養中に縁側で涼しい風に吹かれておられて、「空」を悟られた。その時座禅をしておられたとは書いてない。などとひねくれた思いをしていたら、「南禅寺の管長に田中寛洲氏が、、、」という新聞記事が眼に入った。

京都新聞(2020.7.7)
 自身が最も深い禅定に入った時のことは今も鮮明に今も鮮明に覚えている。40歳を少し過ぎた頃、岡山の寺で四六時中「無、無」と一心に励んでいたと一心に励んでいた。風邪をひいて咳が止まらない状態でも心は非常に安定して座り続けていたら、ある時「咳をしている自分がない」ことに気付いた。「自己を空じたすがすがしさは、その体験のある人でないと分からない」
 なるほどこの場合は禅定によって空の悟りを体験されたと言うことだ。ただ前者の場合も「座禅こそが私達に真に「無我」の実践的体得を可能にする近道だからである。」とある。近道であって決して座禅でなくてもいいというものらしい。田中氏は続けて、「だが、その境地は常人が至ることのできないものでは決して無いという。雑念なしに目の前のことに一心不乱になることが大切」と説いておられる。
 わたしが、禅を組んでもその時は無になって清々しく感じても、禅が終わって家や社会に帰れば元の木阿弥になると書いてきたが、そうではなくて日々の生活の一齣一齣を一心不乱に大切に生きることが空の悟りに近づくことではないかと思えるのである。おわり

【今日の”のびちゃん”】NO. 35
 三年寝た子で感情表現の少ないのびをなんとか喜ばせてあげようと、おおいの芝生広場に連れて行く。上林では仲間のいない環境だが、芝生広場ならいっぱいワンコが来ているはずだ。当日はいなかったが予想通り匂いプンプンでおおはしゃぎ!

 昼は先週見つけたレストランRondoに行ったんだけど、初めてのところでも怖じけることもなく随分よい子で大正解。17日オープンのこの店で、ワンコ来店はのびが第一号だって、また連れてってやろーぜ。

建物の中でも食事のテーブルの下でもよいこちゃんでした。


 

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般若心経二冊-6

2020-07-22 | 雨読

2020.7.22(水)晴れ
 宗教とは生きている人のためにあるものであって、苦しみを和らげ心の安らぎをもたらすものであるというわたしの思いに段々近づいてきた。例えば健康や長寿などについて考えるとき、運動や食べ物ばかりを考えがちだが、心の平安ということが大きく影響することが言われはじめた。特にストレス軽減法としてのマインドフルネスが企業や学校で取り入れられるようになってきた。非宗教的な瞑想と言われているが、元々は仏教あるいは禅であるようだ。
 禅の簡易版のようなもので、椅子などに座って目をつぶり、余計なことを考えないで今ある自分、例えば呼吸に意識を集中するというもので、数分で良いというのだからこれでストレスが軽減されれば素晴らしいことだ。かみさんに教えると早速実践してかなりなるが効果の程は定かでない。わたしは座ってやるのはやっていないが、歩いて呼吸に集中する方法を実践している。最近は特に般若心経を唱えながら歩いているので、そのことだけに集中できる。これは確かにすがすがしさをおぼえて効果がある。ところが本編2(6.14)でも書いたように、効果はその時だけで日常に戻ると苦しみやイライラが蘇ってくるのである。
 昨年2月にマインドフルネスに関するシンポジウムが京都で行われ、参加したのだが(2019.2.16参照)その時はあまり深い考えもなく、内容についてもさほど興味深いものでもなかった。特に曹洞宗国際センター所長の藤田一照氏については、変に横文字なんぞ使って、面白くもない公演だなあと思っていた。(失礼)ところが今仏教や般若心経、心の平安について考え始めて、改めて講演内容をその後発行された冊子でみると、禅の立場から実に適格な生きる指針を語っておられるかがわかった。

ひと・健康・未来のシンポジウムは後日冊子で発行される。
 Doing mindfulnessではなくてBeing mindfulであれというのがそのひとつである。つまり「さあやるぞと思わないとマインドフルになれないようなレベルだと、いざというときに何の役にも立たない」「日常当たり前に行われている行為の一つ一つが、マインドフルネスというクオリティで行われているということが大事になってくるのです。」ということなのだ。
Being mindfulで生活するにはどうするかということなんだが、それこそが禅の教えである。禅の生活を少しでもやってみた方は御存じだと思うが、座禅はもちろん寝起きから掃除、食事、入浴や用便まで全て作法があって、そのひとつひとつに集中して行うのである。その意味が今にして解ってきた次第であるが、毎日を惰性で生きるのではなく、今日という日は過去にも未来にもない唯一の時間だと認識して生活のあらゆる場面を大切にし集中することである。そうすることによって常にマインドフルであって、「度一切苦厄」ということになるのではないだろうか。ようやく般若心経と生きるための仏教というのが結びついてきた。つづく 

【今日の”のびちゃん”】NO. 34
ストライキのびが少しずつ言うことを聞くようになってきた。それでも頑固さはあって、行きたいところは頑としてきかない。

薄暗い山みちが大好き、隣の家も興味津々。 

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般若心経二冊-5 7/19

2020-07-19 | 雨読

2020.7.19(日)晴れ 
 「訳なんぞ解らなくても兎に角手を合わせて拝んであげる事です」というお話で、姉はお経の本を手に仏壇の前で仮名を頼りに唱えている。取りようによっては「衆々にはお経の意味など解りもしないのだから、兎に角詠んでいれば良いのだ」というふうに僻んでとれるが、考えてみればこの歳になるまでお経の意味など考えもしないで詠んでいたし、親たちにしても周囲の人たちもその意味など考えもしないで唱えていた。実はここのところにお経の本質があるのではないかという思いがしてきた。心経の後半に咒(しゅう)というのが出てくる。呪の異体字で、のろい、まじないを意味する。そして心経の最後には、即説咒日(すなわち咒を説いて曰く)羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶(ぎゃていぎゃていはらぎゃていはらそうぎゃていぼうじそわか)般若心経となるのだが、その意味は「往った、往った、彼岸に往った、彼岸に完全に往った、悟りよ、めでたし!」(般若心経のこころ)ということなんだがマントラとか真言といわれるが、まさにおまじないといっていいのではないだろうか。
 般若心経を座って唱えたのは一度きりでいつもは歩きながら唱えている。心経全体にそうだが二拍子のリズムが実に歩行にマッチするのだ。速歩の場合は行者さんのように早口で唱えるとよい。特に羯諦羯諦のところは行進曲のようによく歩数に合い、気持ちよく歩けるのである。四国のお遍路さんはこの部分を唱えてまわられるそうだ。このおまじないは、三蔵法師が唐からインドに旅する際に、助けた病気の僧に教えてもらったおまじないで常に唱えながらインドに渡ったということである。
 なんだおまじないかと思われるだろうが、おまじないはわたしたちの心の安定に大きな影響を与えていると思う。例えば正月になると日本人の大多数が初詣に出かけ、敬虔な気持ちで手を合わせている、決して神さまの存在を信じているわけでもなく、その願いが叶うことを信じているわけでもなさそうだ。しかし心が落ち着いて、清々しい気持ちになるのは間違いないだろう。これこそがおまじないの効果ではないだろうか。
 ヒマラヤのポーター達が危険箇所を通過する際に「オンマニペメフム」と唱える、日本人なら「ナムアミダブツ」だ。これって信仰心のあるなしでもなく、科学的とか非科学的という問題ではない。こころの安定という人間にとって大切な状態を作るのがおまじないであり、ぎゃていぎゃていだけでなく般若心経全体がそのような効果をもたらすおまじないなのではないだろうか。とここまで考えが及んだとき、今日話題になっているマインドフルネスのことに気づいた。つづく

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雨読 般若心経二冊-4 7/14

2020-07-14 | 雨読

2020.7.14(火)雨

 苦から逃れるにはひたすら禅に取り組み(禅定)身も心も空になれという心経の教えは最も救われるべき凡人庶民には到底不可能なことと思われる。では一体誰のために書かれたものだろう、人々を救わんとする僧のための教科書なのだろうか。とすると多くの庶民がそのわけも解らず唱え親しまれていることの説明がつかない。
 ところで今、妙なことに気付いた。どのような俗人凡人でも、悟りに至らない僧であっても簡単に即座に身も心も空になることができる方法に気付いたのだ。それは死ぬことである。死ねば誰だって身も心も空になり、苦から逃れることもできる。しかも即座に仏となる事ができるのだ。即身成仏や補陀落渡海など理解しがたい行動も根底にこのような考えがあるのだとしたらわかりやすい。しかし死んでも成仏できない地獄の思想というのも無視できない。(2010.7.30参照)地獄って実はこの世のことではないかと書いたことがあるが、あの世の地獄がこの世のことであって、この世の生き方を追求する心経(仏教)があの世のことであったとしたらこれはパラドックスである。
 死ねば全てが空になり、苦もなくなるという考えは生きている間は苦しくても我慢して生きろという権力者、為政者にとっては都合のいい思想になる。中世、近世の仏教、宗教にはそのような一面があったのではないだろうか。仏陀をはじめとして仏教を広めた僧たちはもちろんそのようなつもりは毛頭ないとしても、権力者、封建領主たちはうまく宗教を利用したに違いない。それは古代においてでもしかりで、蘇我氏と物部氏の宗教戦争も聖武天皇の盧舎那仏や寺院の建立もそれが信仰心に基づくものとは考えられない。マルクスが宗教は民衆のアヘンであると言ったのも少しはそういうことが考えられたからだろうか。
 昨年亡くなられた義兄の位牌の前で般若心経をあげた。初めて人前で経を詠んだので行きつ戻りつ、飛ばしたり詰まったりで情けない経詠みだったが、一丁前に「この部分はこういう意味、、、」などと説法まがいのことをしていたら、姉がポツリと言った。「意味は解らんけど、和尚さんはとにかく詠んであげることと言うたはったで」
 ここではたと気づいた、心経の本質はここにあるのではないだろうか。つづく

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般若心経二冊ー3 7/9

2020-07-09 | 雨読

2020.7.9(木)曇り
 般若心経について続きが書けていないのは多忙であったためもあるが、一体何のために書かれたものだろう、一体何を伝えたいのだろうと素人なりに考えていたためである。勿論そんなことが解明できるのは何年も禅の修行を行ってはじめて出来ることなんだろうが、凡人の戯言として聞いて頂きたい。
 この間、連日唱えてなんとか憶えることが出来たが、水上さん同様悟りの境地に近づくこともできない。世の熱心な仏教徒の方も、偉いお坊さんも果たして悟りを開いておられるのだろうかといぶかしく思えてきた。空になるなんてことが生身の人間にはとても無理なことじゃないかと思っていたら、松原泰道氏の「色即是空」の教えとは何かという節の中に「空」には消極的な「空」と積極的な「空」があって、前者はあくまでゼロと考えるが後者はすべてのものは単独では存在しえない、ありえないというもので、「無我」という言葉が近いと言われる。一体どういうことか解らないと思うが、続いて「「無我」とは孤立自尊の事ではなく「他と相互に関わり合い依存し合って初めて存在できる事実を深く認識することなのです」とある。平たく言うと「空」とはゼロではなく人と人、物と物が相互に関わり合って成り立っているということらしい。自分の周囲の人や物に感謝して、相互に依存し合って生きていくというなら生きていく人々を応援する仏の教えとして充分に納得いくのだが、あくまで松原氏の解釈であって、般若心経を直訳して果たしてそのような事が書かれているとは思えないのである。
 偉いお坊さんが解釈して諭してくれるのだから、凡人のわたくしどもは黙って従っていればよいのかもしれないが、般若心経が一体何のために誰によって書かれたものなのかなどと考えると、迷宮に入り込んでしまうのだ。つづく

 【今日の”のびちゃん”】NO. 33


おりこうさんでお座りしてるように見えるでしょ。ところがこれ押しても引いても動かない困った行動なのだ。散歩の途中で頑として動かなくなる妙な行動である。自己主張するようになってきたのかな?

”うかれめのストライキ、さりとはつらいね

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