晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

ドッグランど奮戦記(4) 5/29

2013-05-30 | DIY

2013.5.29(水)曇り、雨

 ドッグランどが何年も進まなかった理由の一つに地面をどうするかという問題があった。予定地は傾斜地で水はけはいいのだが、東半分は谷整備時の際に土砂が入っており、西半分は畑の土の上に桐の木の葉が大量に落ち腐葉土となっている。柵を巡らせている辺りは家の建築の際に入れた採石が10cmあまり敷かれている。
元々足も踏み入れられないジャングル状態だったが、努力の甲斐あってサバンナ程度に変わっている。ドッグランにするに当たって、まず考えるのは芝生化である。
 最も一般的なのは高麗芝を張ることだが、業者に依頼すると20~30万円、自分でやっても5~10万円の経費がかかりそうだ。サービスで提供するドッグランにそんなにお金かけられない。そこで考えたのは芝の播種、犬のオシッコ、つまり塩分に強いのは高麗芝、野芝なんだが、この種が随分高価である。安いのは西洋芝で、塩分にも強いムーンライトSLTってえのがタキイ種苗から出されている。この辺の経過は過去に書いたので省略するが、実験的に播種した結果は失敗である。西洋芝の欠点は高温に弱いということである。もちろん品種改良によって耐暑性は上がっているようだが、やはり高麗芝にはかなわないようだ。涼しい上林でも昼間の気温は亜熱帯状態だ、榎木の日陰となる3㎡ほどを残して全滅してしまった。
次に始めたのが、道ばたに生えている野芝の移植である。といってもじょんの散歩時に持ち帰る手のひらサイズの芝だから、根気がいる。ところが2年前に植え付けた小さな根が今や立派な芝となっている。何の世話もしないから、雑草も同居しているが、強いことはこの上ないしかも経費はゼロだ。肥料をやることもないが、よく伸びて半月一度の刈り取りが必要となっている。欠点は1年かかって5㎡ぐらいしか出来ないということだ。ドッグランど全体をやろうとすれば20年ほどかかりそうだ。P1040512

 


じょんの居る辺りが野芝なのだが解るだろうか。

そこで芝生広場の既製の芝を移植することを考えた。芝生広場の芝は雑草にやられて勢いが無くなってきているが、他の部分に拡がった所は勢いがいい。この調子だと移植すれば勝手に拡がるかなあと思ったのだが、滅びるわけで無し拡がるわけで無し、移植したそのまんまである。やっぱり環境かなあ。
P1040508

 


穴に囲まれた部分が高麗芝の移植部分、少しも拡がっていない。

  てなわけで地面の問題は未だ手探り状態である。いろんな方法を折衷して進めるべかなあと思っている。つづく

【晴徨雨読】219日目(2007.5.3)四国カルスト、車で往復

 館長の軽トラで四国カルストや四万十川源流地帯に連れて行ってもらう。自転車ではとうてい行かない山岳地帯なので大変ありがたかった。館長は6月に行われる蛍祭りの打ち合わせも兼ねてということだったが、地域興しに大変熱心な方で感銘すること大であった。気に入った森の巣箱もGWで満室だったが、特別に宿直室に泊めていただいた。

Img_5040
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雄大な四国カルスト、帰ってからはのんびり愛車の整備などいたす。

【今日のじょん】ネクタイは暑かろうと、百均でネッカチーフと蝶ネクタイを買ってきた。ネッカチーフはおかまちゃん風で超似合わない。カメラを向けたらさっさと逃げてしまった。P1040516


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ドッグランど奮戦記(3) 5/28

2013-05-29 | DIY

2013.5.28(火)雨 ドッグランど奮戦記(2)は2013.5.24

 完成予定の6月1日には絶対に無理である。とりあえず仮に防獣ネットでも張ってドッグランの格好をつけようかと頑張ってきたがそれも無理。駐車場側のみ何とかして谷側はネット無しで飛び出しそうな犬はリードしていただこう。
 今日梅雨入りが宣言された。外の作業が無理なのでデッキ部分のフェンスを工作する。実はこの部分もイメージが湧かなくて作業が進まなかった部分だ。結局SPF材を使ってクロスの枠を作り、杉丸太にボルト留めにすることにした。
ホワイトに塗っているので、塗り替えの際取り外しが出来れば都合がいいというものだ。
P1040481


 

この手すりの下にパネルをはめ込もうというもの、よく分からないだろうから明日写真をお見せしよう。

  雨なので小屋の中で工作するが、杉丸太の柱や桟は直径が均一でないので、正確な四角形になっていないので、実寸を測りながら進める必要がある。これが雨の中で結構辛い上に、前後左右裏表が決まってくるので取り扱いが訳解らなくなる。このパネルを都合6枚作るのだが、1日かかって1枚半というのが実情。面倒な仕事だが、できあがったものはなかなかの景色となる。ただ子犬だと飛び出しそうなので、下部にはネットが必要かもしれない。

【晴徨雨読】218日目(2007.5.2)四万十町ライダースイン~森の巣箱
この日は泊まるところも決まっておらず、ゴールデンウィークで宿探しもままならずイライラしていたところである。それは今日が誕生日なのでそれなりに気に入ったところに泊まりたいという願望があるからだ。
 なにやら探し回ったあげく、森の巣箱という廃校を利用した民泊に宿を取ることが出来た。夕食が出来ないというので、道中のスーパーでしこたまはらすぼや鰹のたたきを買う。もちろんビールも焼酎も、、、。一人で祝杯を挙げようと思っていたら、館長が待っていてくれて、売店のビールがからになるほどおごってくれたのだ。しかも明日四国カルストや梼原など車で連れてってくれるとか、もう最高の誕生日となった。Img_5033



森の巣箱は床鍋小学校の廃校を利用した宿、廃校利用の先駆的なところで、綾部市なんかも視察に行っているようだ。

【今日のじょん】久々の雨で嫌いなカッパ着ているのだが、大人になったのかそう嫌がらない。ところが苦手なのは傘である。おまけに風があるもんだからバタバタと吹かれて大騒動、ついには骨がいかれて閉まらなくなった。まあ、上林で何本傘をつぶしたことか。P1040514
P1040515




カッパはともかく傘には弱いのだ。
  
 

 

 

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上林の盃状穴(19) 番外編 5/27

2013-05-29 | 歴史・民俗

2013.5.27(月)曇り

 京都帝釈天に盃状穴は無さそうだとあきらめつつ、来たときに気になっていた石段のゼロ段目の土に埋もれた穴を掘り出してみる。といっても今回盃状穴探しの三種の神器、ブラシ、メジャー、バケツを持ってきていないので、その辺の枯れ木でほじくる。きれいに土がとれないのだが、大きさ、深さ、縁や穴の中の滑らかさ、盃状の形円の形など盃状穴に近い。しかしブラシで掃除できないので詳しい観察が出来ない。滑らかと思っている内部も実は小さなでこぼこがあるかもしれない。それとどうも底部がぽこんと盛り上がっているようなのだ。再調査することにしてその場を離れる。そこに1個だけあるというのも不可解である。もし盃状穴を穿つ習慣があるとしたら、複数個あっても良さそうである。やはり盃状穴ではないのかなと思いつつ山を下りる。P1040497

 


もう少し掃除しないとよく分からない。

  参道からは展望のいいところはないのだが一ヶ所だけ樹木の間から見下ろせるところがある。窓から覗く景色のようでなかなかいいものだ。P1040501

 



 下り道も石造物に注意しながら降りてゆくのだが、最後の角に石灯籠と道標の石柱がある。石柱には嘉永五年の銘が入っている。灯籠の方にもなにやら書かれているようだが、風化していて読み取ることが出来ない。P1040504

P1040503



「帝釈天石燈」と書いてあるようだが、年号等は読み切れない。

 ふとその台座、これを地輪(じりん)というそうだが、見てみると凸凹状のものがぐるりと取り囲んでいる。この部分にはよく花弁状の模様が彫られているのでそれが風化したのかなと思いぐるりと廻ってみてみると、それは不規則に並んだ丸い穴である。これは形といい、不規則な並びとまちまちの大きさからいって盃状穴と思われる。

P1040502
 



 
大きさ、並びとも不規則に周囲に穿たれている。

灯籠の地輪部分に盃状穴が穿たれているのは記録では多く見受けられるが実際に目にするのは初めてである。本堂石段下の擬盃状穴とともに再度調査に来ることとし、この石灯籠のある家の方だと思われる人に聞き取りをする。
 それはロクロヶ谷についてである。ロクロヶ谷がどの辺りにあるか聞いたのだが、そういう小字は解らないという答えであった。盃状穴については何も聞かなかったが、子供たちが草搗き遊びなどしていなかったか聞けば良かった。つづく

【晴徨雨読】217日目(2007.5.1)宇和島~四万十町
四万十川は憧れでもあった。江川崎の先で右に行こうか左に行こうか迷うところである。右は下流域から四万十市、中村に行き、左は上流域、四万十町方面である。好みから言えば上流域かなと左に行く。四万十川は噂どおりの清流である。日本中の川がこんなだったのだろうと思うと寂しくなる。道路は狭くて閉塞感があるが、交通量が少ないのでそれなりに楽しい旅が出来る。トラックがすれ違い出来なくて渋滞となる。自転車やバイクは脇をすいすい行けるだろうと思いきや、それさえも出来ないほど狭い道である。かつて橋本知事の肝いりで出来たというライダースイン宿泊する。一人で泊まるのは大損だ。Img_4995
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清流四万十とライダースイン

【作業日誌 5/27】
じょんのびファーム水糸張り(カラス避け)
ドウダンツツジ植え付け

【今日のじょん】最近ポンポコポンの途中でうんPする。取りに行ったボールをどこかに置いたままうんPするので、その後ボールのありかを憶えているか心配だ。無事に持ってくるか否か動画に撮ったのでご紹介する。
※動画アップロードのプログラム不調のため、見られません。
   

 

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上林の盃状穴(18) 番外編 5/26

2013-05-28 | 歴史・民俗


2013.5.26(日)快晴

 参道を登ってゆくとやがて本堂にいたる素晴らしい石段が見えてくる。予想以上に立派な石段で、盃状穴探しの期待感が湧いてくる。P1040487

 



 帝釈天が金属に関係があるったって、そこらにそれらしい遺跡があるわけでなく、帝釈天に参ってもロクロヶ谷の位置が解るわけでもない、それでも古い社寺を訪れると何か不思議なものに出くわす。それが何か解ったものもあるし、未だに何か解らないものもある。そして盃状穴の探索は社寺訪問の楽しみをより大きくしている。石造物をくまなく探索するようになった。
 境内をぐるぐる回って石造物や岩石、土砂など目をこらす。茅の輪や小石結びなどいわれは古くても近年に設けられたものが多い。地蔵様や仏様の足跡なんかもある。
P1040496

小石結び

 奉納の額に日置云々と書かれたものがあり、舟枝の南に日置(ひおき)があるのでその関連かなとよく見ると、弓術の日置流にちなむものであった。明治時代に奉掲
 されたもので、胡麻郷村志和賀(現南丹市日吉町志和賀)の日置流弓術の門人等の書かれたものである。同じく右側に日置のみ字の残っている額があり、同様の内容のものかと思われる。志和賀といえば志波加神社という古社があり、流鏑馬で有名な日吉神社もあるというのになぜ、帝釈天なのだろう。
 不思議なものは奉掲された額の許状受領員の氏名の上にある丸い輪である。古い額にも文字は消えてもこの丸い輪は残っている。実はどこかでも見たような気がするのだが、いったいなんだか解らない。P1040489
P1040490

 



 本堂の右手に廻ったときに、今度は初めて見る妙なものを見つけた。石造物の破片のようなものなのだが、鎖で固定されて大事そうに置いてあるのだ。
 以前葛禮本神社(綾部市睦合町浅原)の本殿の横に同じように鎖でぶら下がっていた鉄の筒が、後日おみくじの筒と解った。状況としては同じなのだが、大きさといい、構造、材質からいっておみくじの用具とは思えない。これはこの神社の関係者にしか解らないだろう。P1040491



 問題の盃状穴だが、本堂周辺には見当たらない。奥の院は今回訪ねていないが、どうやらこういった習慣は無かったのかとあきらめかけたとき、それらしきものを1個だけ見つけた。つづく

 【作業日誌 5/26】
草刈り(3-1)ドッグランど予定地、芝生広場、じょんのび谷横

【晴徨雨読】216日目(2007.4.30)宇和島滞在、滑床渓谷
 滑床渓谷は当初から訪れたかったところなので、翌日のコースとダブルのだが往復する。40年近く前に滑床を訪れながらも、渓谷に一歩も足を踏み入れないままに終わった時のリベンジのつもりである。なぜそのようになったかは本文を見ていただければいいが、訪問して正解だった。充分に美しくも豪快な渓谷であった。Img_4939
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滑床は滑滝もいいが滑が最高。

【今日のじょん】草が伸びてくるとうんP探すのが大変になる。ドッグランどはうんPお持ち帰りということにしながら、じょんのうんPが残っていたらこれまた問題なので、気を遣う。P1040508
   
 
 
 

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上林の盃状穴(17) 番外編 5/25

2013-05-27 | 歴史・民俗

2013.5.25(土)快晴 上林の盃状穴(16)は2013.4.7

 京都帝釈天(南丹市八木町船枝)2013.5.24訪問
 歯科治療の帰りにあまりに天気がいいので京都帝釈天に寄る。府道25号線を園部町に入る手前、八木町船枝(ふなえだ)にある。幟や看板が目立つので気になっていたところだ。船井郡、船岡、船枝という地名も気になっていたところだが、船岡にあるロクロヶ谷という小字も確認したいし、帝釈天というのはそうどこにでもあるものでもないし、なにやら金属に関係あるという説もあるので訪ねてみたく思っていたのだ。P1040505

 


府道から少し入ったところの駐車場、門前をなす船枝の集落があり、左手の山を登ってゆく。

府道沿いの駐車場に車を置いて、参道を登ってゆく。800mと書いてあったが、すべて登りなので結構遠い。道中に案内看板や古いお墓、疣神様、観音堂があり、108基の願いの鐘なるものが連なっている。
P1040483


 

道ばたのお墓には新しい石塔もあるが、古い五輪塔などもある。

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疣之神、上部から水道が引かれているのは気になるが、元々は洞窟だったようにも見える。右は薬師堂。


 案内では山号を紫雲山といい、宝亀11年(780年)和気清麿による創建とある。京都帝釈天という名といい和気清麿創建といい俄に信じられない感がするが、古い社寺ではあり信仰の厚さも感じられる。ウィークディの日中だというのに二人の参拝者に出会ったし、寄進も多いのだろう様々な設備も新しいものが多い。実は古いこと、古い信仰を探して訪れているものにとっては、新しい設備、新しい石造物などはあまり意味が無い。
 帝釈天が金属に関連すると言われてもそれらしい痕跡を見つけるのは難しい。炉の跡があったりスラグが見つかるなんてのはまれなことだ。参道も現在のものは車が通れるようにしてあって、過去の参道とは違うようだ。本来ならば古い道を歩くべきなんだが今回は車道を行く。少彦名
 道中石塔の並んだ墓地のようなところが二ヶ所、疣神様、観音堂がある。墓地には時代の新しそうな石塔の他に古い五輪塔などもあり、年代を思わせる。
 疣神様は丹波地方ではよく見かけるものだが、多くは湧き水が出ており、疣に効くというものである。上林にもいくつかあるようだが、これが本当に疣に効く神様だろうかという疑問は持っている。なぜなら、疣そのものは痛いわけでなし命にどうって事は無さそうなので、わざわざ神様にお願いして治してもらうほどの病では無いと思うのである。イボという何か他の意味の神様が祀ってあるのではないかと思っているのだが、それがなにか未だ見当もつかない。兵庫県の揖保郡のイボがなにかありそうだとは思っているのだが。つづく

【晴徨雨読】215日目(2007.4.29)大洲~宇和島
大洲という町はじっくり滞在すればなにかあるなと思わせる町である。大洲城やYHの資料館で半日を過ごす。町外れの臥龍の湯というところで昼食をとるが、後で調べると少彦名温泉と言うそうだ。大洲の近辺には少彦名命を祀る神社が多くある。さてこれが何を意味するものかと考えるだけで、数日の滞在は必要となる。
 当時はそんなこともいざ知らず、宇和島に急ぐこととなる。Img_4868


YHの資料は個人で収集されたものだが、一級の資料が存在する。

【作業日誌 5/25】
ドッグランど、フェンス用木材ペンキ塗り

【今日のじょん】
ドッグランどの柵ができはじめて、じょんとしては自由に出入りできにくくなってきた。従前からあったドアも初めて使ってみる、いずれここから出入りするのだぞ。P1040507



    
 
 

 

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ドッグランど奮戦記(2) 5/24

2013-05-25 | DIY

2013.5.24(金)快晴
 2年間頓挫している間に何もしていなかったかというとそうでは無い。夏場の草刈りはやってないととんでもないことになる。植木を少しずつ周囲に植えたり、柵の柱の杉材を集めたり、芝を少しづつ移植したり、桐の木の枝払いをしたりしていた。
 ウッドデッキが出来てからは、とにかく柵作りがメインである。お金をかけずにおしゃれに仕上げるのは間伐材が最高だが、皮むきと塗装が結構大変である。柵の柱はそれでいいが、問題はフェンス部分である。お金さえかければいくらでもいいフェンスがある。お金も無いし、お金をかけて作る気もない。いかにある物でやるかがコンセプトであるから間伐材の板引きで考えたが、製材にかかる費用がかえって高くつくのだ。個人の喫茶店などでドッグランをやっておられるところはいくつか見学した。最も理想的なのは、今はやっておられないが、京北町のアウルさんだろう。
 地元京北の潤沢な材木を使われたのかと聞いたら、京都のホームセンターで仕入れてトラックで運んだと言うことだった。周囲にいくらでもある木材よりも、遠くの都市で売ってる木材の方が自分で運んでも安くつくというのが何とも納得のいかない話だが、それが現実なのだろう。Img_6160

 

アウルさんのフェンスは絶品、しかも手作り、とてもまねできない。(2007.10)

 その他安上がりに仕上げているところは、いわゆる防獣ネットを、指定のポールを立てて張り巡らせている所もあるが、これはどうもいただけない。というわけでその折衷でいこうということにした。
 ところがウッドデッキ部分はお客様を迎えるところだからそうはいかない。おしゃれに仕上げることが肝要だが、犬が飛び出さないことも考えなければならない。実はこの部分のフェンスについては未だイメージが湧いていない。とりあえず間伐材で柵を作った状態だ。
 もう一つはドアである。ドッグラン部分は既にできあがっているが、犬連れ以外の方も利用するので、ウッドデッキ部分にも必要となる。椎茸小屋に使っていたドアを流用し、煉瓦の敷石、芝生の植え込みなどおしゃれに仕上げる。P1040481

 つづく


【晴徨雨読】214日目(2007.4.28)松山~大洲
GW前の松山では、坂の上ミュージアムの開館に盛り上がっていた。子規の壮絶な生涯には並々ならぬものを感ずるが、坂の上の雲に表される明治という時代の力強く、前進的な雰囲気にはどうも納得がいかないものがある。明治維新という歴史の節目が本当に日本にとって、日本人にとって喜ぶべき改革であったのか疑問である。北海道の開拓やキリシタンの迫害など明治維新の欺瞞性、残酷性を旅の途中に見てきた。決して徳川幕藩時代への懐古ではないのだが、明治維新を素直に評価できないわたしは、ミュージアムの開館を横目に大洲に向かった。Img_4849




村上さんが泣いて喜びそうな内子座

【今日のじょん】最近は朝の散歩時に必ず数匹のダニが居る。かといってアスファルトの上だけを歩くのも可哀想だ。防獣ネットで囲まれた田園に行ってみる。獣がダニを連れてくると言われるから、獣の入ってこない所なら少ないだろう。P1040510

   




【作業日誌 5/24】
ドッグランど、入場ゲートのレール舗装。 
 

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ドッグランど奮戦記(1) 5/23

2013-05-24 | DIY

2013.5.23(木)快晴

 ウッドデッキは完成したのだが、それはドッグランどの一部分なので、こちらが完成しない限り終わりとはならない。ドッグランどは実に2008年から取り組んで、のびのびとなっている難物である。当初の目標では2009年の春に完成予定だったので、すでに4年は遅れているという勘定である。
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当初は廃材置き場 2008.4.2
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草が生えてきたらなお大変 2008.8.29

 なぜにそんなにも遅れたたかというと、イメージが湧かないのである。DIYにとってこういう風に作ろうというイメージはとっても大切である。DIYの達成感は自分のイメージと現物がどれだけ合致しているかということである。
 能書きはともかくドッグランを作ることは決めていたことだし、公言していることなので進めなくてはならない。
 ジャングル状態だった予定地も2年ほどで整理できたし、頂き物のフェンスや倒木杉の大木を使ってゲートとフェンスの一部はできあがった。もう3年ほど前だろうか。
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畑土や廃材がやっと片づいて建設開始 2010.2.22
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まず、ゲートができる 2010.3.30
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ゲートとフェンスの一部が出来、そのまま2年間頓挫 2010.7.3
 

 そしてそれから進展することなく、二年の月日がたった。どうしてもイメージが湧かなかったのだ。
 そんなある日福知山のルーシーズカフェさんに訪問し、ウッドデッキのすばらしさに出会う。特にかみさんが惚れ込んで、とりあえずウッドデッキを作ることにする。それが12年の秋だろうか、完成したのは今年の春である。
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とりあえずウッドデッキ部分は完成 2013.3.17
 こうなるとイメージがどうのなんて言ってられない、とにかく開店5周年記念に向けてドッグランどを完成させようと、奮戦記が始まるのである。

【作業日誌 5/23】
ドッグランど柵作り

【晴徨雨読】213日目(2007.4.27)今治~松山
今治から松山へは普通海沿い国道196号線か山沿い国道317号線を通るのが妥当である。それがどういうわけかその間の県道、農道を走って松山に向かっている。おかげで普通見られない遺跡や滝など見ることができたが、もう一度この方面に行くとしたら317号線を走りたい。沿線に別宮、別名、別所の地名が有り、金属関連地名や55番~58番の札所もあり、新居浜市の別子銅山もお隣である。また317号線沿いには木地屋地名の木地がある。
 さてわたしの通った道は、素朴な信仰の道であった。Img_4821
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【今日のじょん】いよいよムカデの季節となってきた。壁や床に這っているのを見つけると、吠えないで唸るから凄い。やはりじょんにとっても不気味なのだろう。今年の3匹目は中くらい、百足っていうけど実際の足は何本でしょう?
P1040474



ムカデには強烈に反応

P1040475



数えてみたんだけど、片方10本で都合20本ってところか。

 

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雨読 秋山物語(4) 5/22

2013-05-23 | 雨読

2013.5.22(水)快晴

 御器(椀のこと)について、最奥の集落が平家の落人、あるいは都の高貴な出自という伝説の一つの根拠になっているのではないかということを書いたが、資料を調べると矛盾があることに気づいた。
「秋山物語」の御器の伝説は、上ノ原の話者が語ったものである。
 昔は税金は箕作(みつくり・下水内郡栄村)の三左衞門(名主・島田三左衛門)のところに納めた。二人ずつで行ったが、三左衛門の家でごちそうになり、立派な御器を褒めたところ、女衆に笑われた。御器という言葉は秋山でしか使わなかったようだ。
 というような話である。
 ところが「秋山記行」、これは鈴木牧之が実際に文政期の秋山を訪ねて書いたものであるが、この中には御器という言葉は出てこないのである。ところが箕作り村嶋田三左衛門(ママ)の所への納税は事細かに書かれているのである。つまりどちらも同じ時代のことを書いているということである。しかも「秋山紀行」の中で様々な方言などについて列挙している中で椀については次のように書かれている。
 

 椀・親椀を、てゝと云(いひ)、次ぎを小しる椀と云(いふ)。
祝儀などに酒を右の椀にて?、盃などは更になし。

 

 
 ててというのは父親のことだと思うが、次が小しる椀というのだから大小の椀のことだろう。どちらの話を信ずるかと云うことになると、当時の現地を訪れている牧之の方となる。となると御器という言葉はそれ以降に持ち込まれた言葉と考えるのが妥当となる。
 木地屋、秋山郷ではクリ師といわれる者によって入ってきたのではないかと思うが、「秋山物語」に登場するクリ師は話者が現実に知っている人なのでおそらく明治の時代のことだろうと思われる。
 仮に御器という言葉が、高貴の出ということの一つの根拠になったとしても、実際には何の論拠も持たないこととなる。おわり

【晴徨雨読】212日目(2007.4.26)養老温泉~しまなみ海道~今治
しまなみ海道は自転車で渡れると聞いて、とにかく走ることに専念した。サイクリングロードとして人気があるそうだが、コースがいいわけでなく景色がいいわけでなく別段どうって事の無いコースだ。ところが一つ一つの島はよく調べると大変興味深いところがある。今行くとしたら、因島、大三島にそれぞれ一泊するだろう。
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しまなみ海道自転車道は島を走っては橋を渡るという感じだ。瀬戸内の島は花崗岩の岩が多く有り、磐座として興味深い。


【作業日誌 5/22】
ドッグランど柵作り

【今日のじょん】久々にサリーちゃんが遊びに来た。もう少しでドッグランどができるんだけど、とりあえずその辺で遊んでてくれ。


   

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第6回日本一周達成記念日 5/21

2013-05-22 | 旅行記

2013.5.21(火)晴れ

 238日間、10、625Km、全国48都道府県を巡る旅が終わった。
二日酔いといえども、雲一点も無い薫風の中を京都に向かって走った。その前年には、大雨にたたられチエン切れのトラブルに襲われ、敗走のごとく逃げ帰った同じ道を凱旋気分で走り抜けた。
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2006.8.1スタート、2007.5.21ゴール。


2006年8月1日、猛暑の中、京都を出発し比良まで走った。この先日本一周をやり遂げられるだろうかと恐ろしく不安だった。お盆過ぎの八ヶ岳辺りまでが精神的にも肉体的にも辛いときで、その後は旅慣れてきたようだ。道中事故も無く、トラブルも少なく、たいした病気も無くてやり遂げられたことは本当にありがたいと思う。
 でも辛いことは結構あったのかもしれない。発熱2回、下痢腹痛1回、腰痛数回、疲労困憊1回、そしてずっと続いたのが五十肩と更年期障害と思われる熱感である。
仕事をしているときは不規則だった便通が旅の期間は順調で、便通の無いのは2日間だけであった。やはり辛くても好きなことをしているのはストレスが無いのだろう。
しかし今思えば、日本中を走り回った8ヶ月は華やかで大衆受けするのだが、その後の上林での土地購入、家の建築、店の開店、この土地での定着に至る数年間の方が地味だけけれど大変な期間であったと思う。移動する旅に対して、定住という旅と名付けたじょんのび村の開拓だが、それは辛く苦しいと言うよりも人生の中で最も充実した、最も価値ある期間であったと思うのである。日本一周達成記念日の5月21日は終わった日ではなく、スタートの日だと思っている。
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2008.8月と2013.4月、同じ場所とは思えない。

【作業日誌 5/21】
夏野菜植え付け終了
トマト(桃太郎、ミニ)、ナス(長ナス、白ナス)、キュウリ(シャキット、ピクルス)鷹の爪、プッコチ、UFO、オクラ、ヤーコン、南瓜、ゴーヤ、トウモロコシを植え付ける。すべて順調。
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狭い畑だけど、これが一つの世界になっている。

【今日のじょん】どっこい鯉は生きている。
先日鯉の大暴れの写真をお見せしたが、やはりこれは鯉の恋の季節ということだ。不思議なもので少し遅い時間に行くと川面は何事も無い。ところが目をこらしていると、巨大な鯉が悠々と泳いでいる。これは実に静かなもので、どうやら朝の食事のようだ。P1040471
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おっ川に濁りが、、、アップにするとこんな岸辺に巨大鯉が、、、、。 

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雨読 秋山物語(3) 5/20

2013-05-21 | 雨読

2013.5.20(月)晴れ

 143 御器(ごき)
 リューと違って御器は全国的な方言である。御器とは椀のことであるが、全国的ならば方言では無いというのが本当だろうけど、そのくらい広い地域で使われている言葉のようだ。
 全国方言辞典(東京堂版)では、北国および西国とあり、青森県から鹿児島県まで各地が対象となっており、関東地方、京阪神などは無い。おおむね各地の山間部あるいは離島などで使われていた言葉のようだ。
 ゴキブリの語源が御器囓り(ごきかぶり)ということを以前に書いたが、広く各地にこの言葉が存在したのは木地屋が使った言葉であろうからだと思う。
 秋山物語に出てくる話は、秋山の衆が里に下りてごちそうにあずかり、御器を褒めていると、使用人の女衆に笑われるというものである。つまり御器という言葉は全国的に存在するとしても、かなり限られた山奥の地にあるようで、少し里に下りればもう通用しない言葉のようだ。
 語源大辞典(東京堂)では「かつての新語で、御器は当て字。漢語の合器から。合子ともいい、木地引細工のこと。禅僧の輸入したものらしい」とある。
 木地屋が元々の言葉ではないものをわざと御器という風に丁寧な字に当て字して使った背景には、自らの祖を惟喬親王とし、菊の家紋を使い、木地屋免許状などを所持して権威づけようとしたことと関連があるのではないだろうか。
 そして秋山を始め、御器方言の残っている椎葉や祖谷など山奥の地には平家落人などの伝説が残っている。平家落人とまで言われなくても、最奥の集落には、高貴な都の言葉や習慣が残っているという風に言われるのが常である。上林の大唐内もそうであり、三和町の大原もそう言われてきた。
 その原因については改めて書いてみたいが、少なくとも木地屋が使った御器という言葉が高貴の出であるという一つの例えになっているのでは無いだろうか。
 ちなみに京都市内では御器というのは使わないようで、上林においても使われていないようだ。大唐内や大原でどうだろうかと気になるところではある。
つづく

【晴徨雨読】237日目(2007.5.20)出石~福知山
もうゴールは直前だ。福知山は高校3年間通った街で勝手知ったる所なのだが、以外と行ってないところが有り、福知山城、治水記念館などを訪ねる。こんな機会でなければ一生訪れることは無いだろう。福知山城では「福知山さん葵の御紋」の謎が解ける。夜は谷垣氏のおごりですっかり酔っ払ってしまった。Img_5877
Img_5858



治水記念館と福知山城転用石


【今日のじょん】恒例のじょんのびビヤガーデンが始まった。といっても数日前から始まっているが、、。じょんはちょいともらえる竹輪が楽しみで一緒に楽しんでいるが、ビールもペロペロなめているので、いける口みたい。P1040466

   

オリオンビールはうめーなー。

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雨読 秋山物語(2) 5/19

2013-05-20 | 雨読

2013.5.19(日)雨

 その違いは、調査をする対象の地に対する思い入れだろう。本書の後半に日記風の採訪記が書かれている。文章の所々に浅川氏の秋山郷に対する思いがにじみ出ている名文である。
 師が採録された項目は具体的にマタギ、鉄砲、ヘビ、キツネ、吹雪、滅びた村などいう風にタイトルがつき、その中で実話や伝説など聞き取った事柄が書かれているのだが、この項目ごとに〔ノート〕として別項をもうけ浅川氏の考え方や具体的な歴史資料なども掲載されている。実はこのことが本書のレベルを上げている点だと思う。よく説話や伝説などをそのまま書いただけの本があるが、それらがいったい何を意味しているのかという考察がほしいし、科学的に解明できる事項ならそういうことも書いてほしいものである。
  さて内容について気になる項目をいくつか紹介しよう。
 22 洞穴
 雨読「山の女」(2013.4.9参照)で秋山の方言リューについて書いたが、「秋山物語」でもリウのことが出てくる。本文には切明(きりあけ)の岩菅(いわすげ)という洞窟に関する言い伝えなんだが、ここにはリュウ、リウという言葉は登場せず、〔ノート〕の中でリウというのが洞窟のことだという説明がなされている。
 「山の女」を読んだときにはリューというのは竜厳窟という洞穴を指す固有名詞としてのリューなのか、洞窟一般をさす普通名詞なのか解らなかったのだが、今回はじめて普通名詞として洞窟のことをさすのだと解った。自然にできるものもあるが、鉱山の跡だったりもする、という風に書かれている。つまり秋山ではリュー=洞窟なのだ。ところが、地名語源辞典、語源辞典、方言辞典などでリュー、リウなどそれに類するよみをする言葉を探しても、洞窟というのはどこにも出てこないのが不思議である。アイヌ語、ウチナーグチなど調べても出てこない。
 唯一高知県の観光地龍河洞の語源として、「狭く細長い洞窟だから、龍洞とよばれていた云々」(日本地名ルーツ辞典)とある。洞窟の細長くうねっている様子は龍に例えてもおかしくはない。しかし秋山では深く長い洞窟だけでなく、ちょっとした、雨露をしのげるような岩窟もリューといっているのである。
 全国には龍、竜のつく多くの山川、土地がある。崩れ→九頭竜のように信憑性のあるものもあるが、その多くが龍の語源を、龍信仰による瑞祥地名という風に片付けている。
 秋山の方言は強烈だが、よく観察すると他の地方のものと一致する。リュー=洞窟という方言が、秋山郷にだけ存在するとは思えない。リューという全国的な古語が秋山郷に残って、他の地方では消滅してしまったという風に考えてみたいものである。つづく

【晴徨雨読】236日目(2007.5.19)香住~出石
この地方で行ってみたかったところに生野銀山がある。なぜ行かなかったかというと、近くだからいつでも行けるという気持ちがあったからだ。旅が終わって6年間未だに訪問できていない。
その代わりと言ってはなんだが、円山応挙の絵を見たり、出石の山城に登ったり、鋳物師町を訪ねたり、普通の旅では得られないものを訪ねている。Img_5762
Img_5793
Img_5775



応挙の画は撮影禁止(香住、大乗寺)
有子山城祉から出石
鋳物師町を訪ねる

【今日のじょん】今野菊の真っ盛りである。野菊と言ってもいろいろあるようだが、学名で事細かに分類する事もなさそうだ。その咲き乱れている野菊の中に獣がのたうち回った跡がある。犬以上の大きさがありそうだが、いったい何だろう。P1040460
P1040461
   


 
侵入路と退出路がよく分かる。

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雨読 秋山物語(1) 5/18

2013-05-19 | 雨読

2013.5.18(土)晴れ

 秋山郷については「北越雪譜」(鈴木牧之)、「山の女」(山田ハルエ)、「新・北越雪譜」(辺見じゅん)、「秋山物語」(浅川欽一)などを読み、現在「秋山紀行」(鈴木牧之)を読んでいるところである。この越後から信州にまたがる山深い谷がなぜこんなにも興味をひくのか不思議な感がする。民俗学的に貴重なものが残っているからだろうか、異国の風俗に憧れるような気持ちだろうかとかいろいろ考えているのだが、どうもそのようなものではなさそうだ。
 牧之が秋山郷を訪ねたときには牧之が生きていた時代よりも何十年も何百年もの以前の生活を目にしたのだろうし、今私たちが書物の中で見る秋山郷の生活は私たちの知らない、百年近く前の生活なのだろう。原郷に対する憧れ、想いのようなものが秋山郷に惹かれる原因では無いだろうか。
 実は2006年の旅の際、津南町を小千谷に向かって走りながら、秋山郷には寄っていない。秋山郷のことを何も知らなかったからだ。北越雪譜は随分前から持っていたが、ページを開くことも無かった。旅が終わってから北越雪譜で秋山郷の記事を垣間見てすっかり虜になり、未だ現地に赴くことも無く書物の中に想いを馳せている。
 
 
 「秋山物語」(浅川欽一採録)スタジオゆにーく、1977年12月発行 古書
 ネット販売で古書を購入する場合、高価なものは事前に図書館から借りたりして内容を調べるのだが、1,000円以下のものはタイトルと著者、目次などの情報で購入してしまう。手元に届いて、予想通りのものもあるが、まるで見当違いの本もあり、またその逆に予想以上に素晴らしい本だったりもする。「秋山物語」はこの部類で、装幀、内容、値段とも大満足の一冊であった。
P1040462



おしゃれな外箱と切り絵の挿絵が


 実はわたしが読む前に、同じ秋山ファンの中尾さんにお貸ししたのだが、「装幀がいいわねえ」というのが第一声であった。内容についての感想は聞いていないのだが、きっと好意的なものと思っている。
 内容は、浅川氏が1959年から秋山郷に通い、古老などから昔話や伝説、世間話や実話など様々なものを採録して集めておられたものを信濃毎日新聞の夕刊に掲載され、それらをまとめて再構成されて本になったものである。
 よくそういった民俗学的に貴重な地域などには大学の研究室などが大挙して、聞き取りや現地調査をして学術論文としてまとめられたものがある。きっと秋山郷についてもそのようなものがあるのではないかと思うのだが、読者の期待とは裏腹に実につまらないものが多い。「秋山物語」はやっていることは学生たちの所作と同じなんだが、本の内容は雲泥の差で、そのおもしろさにあっという間に読了してしまった。この違いはいったい何だろう。つづく

【晴徨雨読】235日目(2007.5.18)鳥取~浜坂~香住
ブログ晴徨雨読の旅の部分で検索エンジンからの読者の多い記事は久高島岡本太郎だが、浜坂の加藤文太郎の墓というのもベストテンに入るものである。ここが文太郎の故郷であることは知っていたが、そのお墓がそこまで有名なものかは分からなかった。大体有名人の墓なんぞ何の興味も無いのだが、文太郎のお墓は行って良かった思う。大規模な墓地であり、たどり着くのにかなりルートファインディングのテクニックを要するのが加藤文太郎らしい。ルート図も表示されていたのだが、、、。享年31才、偉大な登山家である。Img_5751



このルート図で墓石を見つけるのは至難の業。


【作業日誌 5/18】
ドッグランど、階段手すり完成
P1040457



これは朝の写真でまだ手すりがついていない。ここに2?4材がかかるわけだが、アーチの固定にもなる優れものである。

【今日のじょん】今朝は30分ほど寝坊してしまった。起きてゆくとこの始末である。かすかな抗議の意味なのか、ストレス解消なのか、とにかくごめんよ。P1040456
   


 
 

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大原のこと(11) 5/17

2013-05-18 | 歴史・民俗

20132013.5.17(金)快晴

 蛇ヶ谷上流域の谷名について考察してきたが、蛇ヶ谷そのものをはじめとしてそのほとんどが崩壊地名であり、シモクリ、カミクリという谷名がクリ師、コマクリから来た木地屋地名の可能性は無く、本来の”刳る”からきた崩壊地名、いわゆる栗地名の範疇であろうと考えられる。
 これほど事細かに一地域の支流について考察したことはないので驚いているところなのだが、あまりにも崩壊地名が多くを占めていることである。
 それではこの地域が荒れ狂って荒廃しているのかというとそうでもない。訪れて、周囲を見回しても、崩落痕や崖が目につくわけでなし、土砂の堆積が見られるものではない。丹波の豊かな森が拡がっているだけである。
 そんなだから地元の方々に過去の災害の様子などを聞き取ることも無かった。
「三和町史」の中で過去の災害について調べてみるが、細かにどこの流域でどうという表現はなされていないが、蛇ヶ谷について興味ある記事があった。明治40年川合村災害復旧費決算の内容は、土木費2,356円の内護岸修繕費として蛇ヶ谷川のみが1,031円を使っている。道路や橋梁の修繕もある中で、蛇ヶ谷川の護岸修繕に半分近くの費用を使っているということは、この谷の被害が甚大であったということでは無かろうか。
 地滑り地形分布図では前述のように、川原田谷周辺のみに地滑り痕が見られるのみで、蛇ヶ谷一帯が地滑り地形であるということは無いようである。国土地理院の地形図でも、等高線が並んでいるのみで崖記号も岩記号もない。ところが陸地測量部の明治26年の地形図は現在とは表記方法が違うのだろうけど、谷筋の状態が表記されていて、おそらくガレを表しているのかと思うが、右岸の六ロ谷、仏谷、ハッケ谷、クズレガ谷が顕著である。P1020368

 


大原にはもう1本中津戸の谷があるが、等高線の混み具合は蛇ヶ谷の方がきつい。

 治山ダムの数は小屋ヶ谷6、六ロ谷3、ハッケ谷3、クズレガ谷4、川原田谷2、コモサコ2、シモクリ1であり、圧倒的に右岸が多い。右岸の方が流域が広く枝谷も多くて、流路も長くて直線的に流れているようである。
 それにしても思うことは地名というものがこれほどまでにその土地のことを表しているかということだ。ここまで蛇ヶ谷に崩壊地名が集中していると、六ロ谷というのも実は崩壊地名の一種なのではないかと思わせる。ところが調べてみてもそのような説は無いし、ロクロが地形につながる要素も無い。そうするとやはり、かつてこの谷に轆轤師、木地屋が住み着いて椀や皿を作っていたと考えるほかに無い。もちろん漂泊の山民であるから、そこに定住しているわけでも無し、その居住の証拠というのは見つからないだろう。つづく

【晴徨雨読】234日目(2007.5.17)鳥取滞在
旅先の病気は辛いが、一晩どっさり汗をかき朝には回復してきた。といってもふらふらするので市内逍遙する。記録を見ると博物館やお城など訪問しているが一向に記憶に無い。まあ病み上がりとはこんなものなのだろう。くりからもんもんのお客ばかりの温泉はよく憶えている。
Img_5700
Img_5706



こんなとこいったかなあ。


【作業日誌 5/17】
ドッグランどドア、手すり作成


【今日のじょん】
ドッグランどのビフォアアフター撮るために写真撮ったが、ビフォアもアフターもあまり変わらない。   
P1040455

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大原のこと(10) 5/16

2013-05-17 | 歴史・民俗

2013.5.16(木)曇り

 カミクリ、シモクリの栗地名の探究という当初の目的は終了したのだが、蛇ヶ谷左岸の残りの支流も紹介しておこう。カミクリの上流にあるのがシルマガ谷である。実は簡単そうなこの地名が一番難しい。いろいろな意味にとれるからだ。シルは一般的に湿気、湿地の意味がある。泥田のことをシル田と言うし、じめじめした状態を”じるい”というがごとしである。”マ”は場所を表す言葉としてよく使われるが、「地名の語源」に狭間という意味が載っていて岩間、藤間、間内など二百種以上あると書かれている。湿気の多い狭間という意味が妥当では無いだろうか。
 ガンド谷、大蛇ヶ谷はすでに紹介済みである。その上がコモサコである。小字としてコモヶ市、コモツキの二カ所があるがどちらがコモサコに対応しているのかは解らない。コモサコはおそらくコモ迫なんだろうがコモの意味が確定できない。語源大辞典では日本海側で小沼のこととある。この谷に沼があれば間違いないだろうが、出合付近にあるのは砂防ダムによるもので元々のものではない。「古代地名語源辞典」(楠原祐介編著)に、「コモは”籠もる”からきた、山に囲まれた地の意味か」とある。現地に行けば何か解るかもしれないが、このどちらかのような気がする。さて最後の川原田谷(かわらだだに)であるが、この谷が大成峠(おおなるとうげ)に向かう谷だと思う。そうすれば2012年3月にこの谷を歩いている。
 地名どおりの川原があるとしたら出合付近だろうが、砂防ダムもできており顕著な川原を見ることは無かった。谷は峠まで植林されており、昔の姿は解らない。出合にげんさん屋敷といわれる屋敷の跡がある。山林で財をなしたと聞くが、二棟はあろうかという大きな屋敷跡である。
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P1010378



げんさん屋敷跡、川原田谷は植林の谷。

蛇ヶ谷が崩壊地形だといっても、地滑り地形とされているのは川原田谷付近のみで、やはりこの谷に地滑りが起きて土砂が流出し、礫が堆積したものと考えられる。このような軟弱な地形でありながら、針葉樹の植林を推し進めてきたことは、明らかに行政の失態ではないだろうか。砂防ダムを造ることより大切な防災施策があっただろう。つづく

【晴徨雨読】233日目(2007.5.16)羽合温泉~鳥取
長い旅の間には体調を崩すこともあるが、腰痛が数回、足の疲労1回、下痢腹痛1回、熱が出てふらふらするのが2回あった。いずれも一夜明けたら回復するのが常だったが、この日の発熱は丸1日続いた。ゴールが見えてきたのに何とも辛い2日間だった。
Img_5673



   
 

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大原のこと(9) 5/15

2013-05-17 | 歴史・民俗

2013.5.15(水)晴れ

 さて左岸であるが、ヒエ谷は台頭にもあり、水の冷たい沢なのだろうか、北向きの谷ではある。その隣のイモリガ谷は老富町のイモリガ嶽に関連して気になる地名だったのだが、イモレガ谷という小字があり、埋もれ谷が転訛したのではないかと予想する。
 スナシという一見不思議な地名は、砂のところという意味に単純に考えてはどうだろうか。谷筋が崩壊して砂が屈曲部や出合の付近に溜まっているのではないだろうか。
 その隣のウルシガ谷は丹波の貴重な資源である漆が採れる谷という風にも考えられるが、潤(うる)という意味で湿気の多いところという意味もあり、沖縄の方言でウルを砂としている点も気になり、そうするとウルシもスナシも同じ意味の谷となる。沖縄の方言、ウチナーグチは元々日本古語であって、本州などでは消えてしまった言葉が残されているのでは無いかと考え、もっか調査中である。
 ウルは平安時代の歌人藤原公任の歌に「うるまの島のひとなれや」という風に出てくる。”ま”は間で場所を表す言葉だから、うるの場所の島ということになるが、その時代は遣唐使船が沖縄を通っており、珊瑚礁の景色を都にも伝えていたのであろう。ウルは元々珊瑚や珊瑚礁のことを言うようだが、現在では珊瑚のかけらでできた海岸や砂そのものをいっている。ウル=砂が本州等でも言えるとしたら、各地に多くある漆地名も見直さなければならない。
 サルビシロは猿地名の一種で、サルはザレ、ザル同様崖崩れという意味である。ビシロは日向、日後のヒシロだろう。例えば岼にはサギ谷日向、サギ谷ヒシロという両方の小字がある。サルビシロは北向きの谷で崩壊した崖の日後の谷と解するのが妥当であろう。
 隣のグミは奇妙な名前であるが、台頭(だいと)にグミノキという小字も存在する。植物のグミの植生があるのかと思いがちだが、一般的にそういった地名の付き方はしない。「地名の語源」にクミ、狭間という意味がある。植物のグミの古語はクミというからクミがグミと転訛する可能性も考えられる。

 グミの上手がシモクリ、カミクリなんだが、こうなるとクリは崩壊地形と考えざるを得ない。つづく

 

【晴徨雨読】232日目(2007.5.15)湯原~羽合温泉

 

 この間はあっという間に通り過ぎたが、今ならもっとじっくり行くだろうという地域である。その後に始めた地名研究の対象となるところが沢山あるところだから。別所、引地など今になって地図で追っているところである。そしてやはりこの一帯もかつての産鉄の地であろうと思うのである。関金温泉には金屋、倉吉には鍛冶町があり、鍛冶町には現役の鍛冶屋さんがあった。
Img_5626Img_5634




倉吉市鍛冶町にある「野鍛冶ひろせや」、倉吉の商店街はレトロで雰囲気いいのだがカーテン街になっている。


【今日のじょん】新緑の季節となり落葉樹の新芽も出そろったのだが、なかなか出てこないのがシマトネリコである。例年雪で折れてしまうのだが、今冬はビニールで保護したので枝は残っている。ところが茶色く枯れたままで一向に新芽が出てこない。もう枯れてしまったのかとあきらめようかというとき、ポチッとかわいい新芽を発見、しかも4本ある木のすべてに出ている。南の島の木だけあってある程度の気温にならないと出ないようだ。かみさんの喜んだことは言うまでも無いが、じょんはただのいっちょかみである。

P1040450P1040452

   

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