晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

日置のこと(51) 日置部とは-6 10/30

2013-10-31 | インポート

2013.10.30(水)晴れ

 日置部の職掌についての諸説の中に、製鉄、あるいはそれに関する事業ということは見当たらない。「古代の鉄と神々」を書かれた真弓常忠氏は水谷慶一氏のいう「太陽の道」を批判して、鉄こそが太陽の道だったと述べられている。この二氏の論争は何度も書いてきたので今更説明をなすわけにもいかないが、学界ではどうなのかというと、どちらの説も受け入れられてないように感じる。それはいずれも文献に現れることが無い事と物的証拠が極端に少ないことに尽きるだろう。
 だからといって史実ではないとは誰も言い切れないことであって、アマチュアのいわゆる郷土史家などの間で研究され世に出るかもしれない。大学の研究室から発表されるよりもずいぶんと痛快である。
 両氏の論争(実際には論争では無くて、真弓氏が一方的に批判しているものであるが)」は簡単に言うと、日置部の職掌が測量であるか製鉄であるかということである
。日神の祭祀や渡来系氏族については共通しているようだ。
真弓氏の日置部製鉄説の根拠は垂仁紀、五十瓊敷命(いにしきのみこと)が大刀一千口を作らせたとき、参加した十の品部の中に日置部が見られることである。
 そのことは日置部が製鉄、大刀作りに長けていたことを示すが、同時にあとの九部(盾部、委文部、神弓削部、神矢作部、大穴磯部、泊橿部、玉作部、神刑部、太刀佩部)も製鉄、太刀作りに長けていたと考えられる。
 このことは日置部の職掌が製鉄関連であったというよりも、多くの主要な品部に製鉄関連の技術があったことを示すのではないだろうか。おそらく渡来系の氏族が支配する品部にとって採鉱、製鉄などの金属関連技術は必須のことであったのではないだろうか。真弓氏は「鉄の道」についての助言を水谷氏に無視されたと憤っておられるが、真弓氏も水谷氏の「太陽の道」説には一顧だにしない態度をとっておられる。両氏とも相手の説には理解しようともしない態度をとっておられるわけで、「そうかそういう考え方もあるのか、それならば調べてみようか」という態度が無い。両氏ともその頑なさが真実から遠ざかされているのではないかと言う気がしてならない。つづく

【今日のじょん】昨日のよっこらじょん体重測定で、今年最高の19 Kgがでた、黄信号である。すべての生き物の習性なのだろうか、秋には食欲が増してしっかり脂肪をため込むものなのかも知れない。とにかくよく食う。通常の食事の他にご飯や麺類、魚類などお相伴にあずかっている。そのおねだりのポーズ、あごのせじょん。P1010600



 

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じょんのびオールスター戦 10/29

2013-10-30 | 日記・エッセイ・コラム

2013.10.29(火)曇り

 鹿やイノシシの襲来については定期的に紹介していたが、やはり秋に集中しているようだ。そして天気も回復してきてカメムシの襲来もピークを迎えてきた。
 今日はこれらの虫や獣がじょんのび村に大集合した。
 まずはカメムシだが、今年の発生は平年並みといったところだが、妙に家の中に入ってくるのが多い。数年前猛烈発生した年でも、家の中の匹数は少なかったように思う。中途半端に窓を開けていたせいかもしれないが、10数匹が階段の壁でうごめいている。カメムシバスターで14匹を捕獲したが、白い壁に黒い虫が這っている光景はあまりいいものでは無い。
 じょんは夜中に3回、朝方に1回吠えた。何者か確認できなかったのだが、朝の侵入者はサルである。隣家の柿の木と栗の木に登って揺さぶっている。そして小猿が我が家の方に侵入してきた。心配なのは大根だ、以前にもやられたがとにかく軒並み引っこ抜いて、肩の所だけ囓るのだ。丸ごと食うのなら1本ぐらいやってもいいんだが、行儀の悪さと言ったらこの上ない。パジャマのまま追い払って、もう一度寝ようとするが、何時までもギャーギャー騒いでいる。もう一度追い払いに行くと、見張りのサルが屋根の上で柿を囓っている。これは絵になるかと思い、カメラを向けるとどこか行ってしまった。しばらくすると上の方でパンパンと花火の音がする。
 昨夕に下の方で花火の音がしていたということは、夜は我が家の近所でお泊まりしていたみたいだ。じょんが山側に向かって吠えたのはそのせいかもしれない。
P1010638_2
強者どもが夢のあと、もうちょっと行儀よく食えよなあ。


 次にイノシシである。西側の藤木の辺り、谷沿いの斜面を掘り返している。イノシシの心配は昨日張った芝である、ここに侵入されたらひとたまりも無い。
と言うわけで、芝の点検をすると幾枚かがずれて、小さな足跡がある。何者かは不明だが、ネットでも張らなくてはいけない。
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こうやってミミズだか虫だか食ってるみたい。

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てなわけで、胡瓜ネットを張ってみたがどれだけ抑止力になるのか?少なくともじょんは入らなくなるけど。

 次は鹿である。鹿は連日来ているようだが、今日は谷に入ってドクダミの葉を食っていたようだ。おいしいもんばかり食って胃腸の調子が悪いようだ。
鹿で心配なのは、初めて畑の作物を食われたことだ。ブロッコリーの葉っぱがいくつかやられている。ところが畑に侵入した形跡は無いのだ。いろいろ考えるに、鹿ネットはピンと張ってあるわけで無いので、だらりと下がっている。つまり口先を網の間から出せばとどく所のものは食べられるわけだ。しかし畑のものはうまいなあと思われるとやばいなあ。
P1010636

 そして夕方、かみさんがネコ発見、ネコなんて珍しくもないと思われるだろうが、近所じゃ何処もネコは飼っていないのだ。滅多に姿は見せないが野良猫が居ることは確かである。
 最近見ないのはマムシとムカデかなあ、なんて何となく寒~い話だなあ。

【今日のじょん】本文に登場なのでお休み。

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雨読 暦の科学 10/28

2013-10-28 | 雨読

2013.10.28(月)晴れ

 暦というものがどのような歴史を持っていたかを知るために、「暦の語る日本の歴史」(雨読 2013.10.5参照)を読んだが、暦の元となる天体の実際の動きは如何なるものか知りたくて、できるだけ具体的にわかりやすく書いてある本を選んだ。
P1010637



「暦の科学」(片山真人著)ベレ出版 2012年5月初版 府立図書館借本
 暦という極身近なものが、どのようにして作られているか知っている人は少ないと思う。私も知らなかった、知らなくても暦は何処ででも手に入るし、暦を見なくても日時も曜日も何らかの方法で知り得る時代だからだ。
 暦の無い時代、日本でいえば6世紀以前といえるが、その時代には自然暦といわれる自然の変化を読み取って農事の指針としていたのだろう。
 タイトルのとおり暦について科学的に書かれているのだが、序文に重要な事が書かれていた。
 そもそもこよみとは太陽や月の動きを観測してその周期性をつかみ、将来を予測することで、農耕作業などの事業を計画的に進めるため考案されたものである。ゆえに、こよみの中にはたくさんの天文学的要素が潜んでいるし、こよみをもつ支配者が巨大な文明・国家を築くことになった。良くも悪くも、こよみは社会に多大な影響を与えてきたのである。
P1010627



毎朝、朝日を見ているとその位置の変化がよくわかる、この地方だと霧や降雪に対する対策も考えなければならない。

 著者の片山氏は国立天文台暦計算室長という肩書きで、期待通り科学的に暦というものを書いておられるのだが、その歴史的な部分について時の支配者が暦を権力を維持するために重要なものとしていたことに言及されている。また、良くも悪くもという言いまわしをされているのは、暦が社会に対して悪い面をも持ちあわせていたと考えておられるようだ。それが何か、本文中には見当たらないが思うに、暦が支配者に政治的に利用されたことと、大陸、半島から輸入された暦がいわゆる暦注と言われる迷信的な事柄に重きを置いていたため、人々が日常の生活に至るまで惑わされてきたことをさしておられるのではないだろうか。
 暦の歴史が複雑な理由は1太陽年が365.2422日、1朔望月(新月から新月まで)が29.53日だということにつきる。つまり月も地球も太陽も人間の都合ではまわっていないということだ。
 本書を読んだ理由の一つは、太陽観測をして、古代人が季節、具体的には冬至、春分、夏至、秋分に当たる日を確定することができるか否かを知りたいが為である。基本的には棒と縄ぐらいの原始的な道具を使用して、それは可能であることが理解できた。
 また、定義の仕方、観測位置などの問題で様々な誤差が出ることもわかった。例えば春分には日の出は真東、昼と夜の長さが同じということはないのだ。
しかしそれでもそれらの日を確定することは可能で、暦が輸入される以前の日本でも四節季はわかっていただろうと予想する。

【作業日誌 】
芝張り、芝生広場、ドッグランど1㎡
薪割り
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新しい芝を芝生広場に、剥がした芝をドッグランどに植え替える。


【今日のじょん】
やっと秋晴れの日が来た。ゆきちゃんが来たのでドッグランどに出してやったら、ひなたぼっこしてやがる。「走らんかい」と言ったら、ランど中走り回り始めたので驚いた。P1010632

 

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続・じょんのび村襲来される 10/27

2013-10-27 | 日記・エッセイ・コラム

2013.10.27(日)曇り

 襲来された箇所はこれだけでは無い、府道側南京ハゼの林から芝生広場、西側全体と、じょんのび村の全区域が襲われている。
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ネットの脇まで掘られている。

鹿はその西側、北側に獣道を作っており、夜な夜な通過している。今回のイノシシもネットのすぐ側のバラスを掘っている。おいしいものがいっぱいあり、おいしい匂いもしているこの場所に一歩たりとも足を踏み入れてないのだ。近所の畑を見てみても背の低いネットは侵入されているが、120cmぐらいのネットだともう侵入していない。
 ところが村中に張り巡らされたワイヤメッシュの2mの柵は見事に破られて、自由に出入りを許している。イノシシは80トンのものを持ち上げる能力があるという、径数ミリのワイヤメッシュを曲げることなど簡単なことなのだろう。要はやる気にさせないことなのだろう。ガチガチの鉄よりもフラフラのネットが効果があるのかも知れない。
P1010287P1010289



堀たてのイノシシ穴、ふさいでもいたちごっこ。(2013.9.23)

 さりとてこのフラフラネットを周囲に張り巡らすことは不可能である。200m近くあるだろうし、そうなると支柱とネットだけでも数万円の予算と膨大な労力がかかる。しかもネットを張り巡らすこと自体それは敗北だと思っている。賢い人間、強い人間のやることでは無い。効果的なネットの利用、これが当面の課題だと思っている。

【作業日誌  10/27】
谷水道復旧
芝生広場芝張り1㎡分

【今日のじょん】 本文登場のためお休み。

 

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じょんのび村襲来される 10/26

2013-10-26 | 日記・エッセイ・コラム

2013.10.26(土)曇り、雨

 窃盗事件が続いたとき、「色々あるけど人間が一番怖いな~」なんてしゃべっていたが、いやいやどうしてイノシシもやりますぞ。
 夜な夜な何者かが侵入しており最近気にもしないほどになったのだが、今朝の状況には驚いた。
 広大な?じょんのび村のありとあらゆるところがイノシシに荒らされている。
 例年一度や二度は侵入されていたのだが、法面の部分だったり、西の端の方だったり、じょんのび谷の中だったり、特段問題無い所の極一部分だったのだ。今回はありとあらゆる所、建物以外はすべてのところを掘られている。これはショックである。
 
 もう一つショックなのは、カメムシ探知であれほど優秀なじょんが、褒めまくった矢先に何の反応も示さなかったことだ。じょんの名誉のために言っておくが、彼はカメムシばかりでなく、獣たちのかすかな足音や匂いにも常に反応している。ましてや4台あるセンサライトの点灯には100%近く反応している。
 それがだ、あれほどの荒らしようなら、長時間騒がしく、ライトも何度も点いているはずなのだ。イノシシがじょんの能力を上回る知恵を使ったのか、あるいは何かの偶然が重なって、探知できなかったのか。
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一番酷いのはチューリップ畑、薪置き場からその周辺は戦場のごとくになっている。
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門扉が開いていたドッグランどもイノランどになっている。余ったチューリップを植えた所はすっかり掘られてしまった。ネット下もきれいに掘られてノウゼンカズラは掘り起こされた。
 
 今こうして記事を書いている間に、じょんがうなり声を上げた。「どこや」と言うと、気配のする方向を向く。府道の方面なのでライトを持ってベランダに出る。
耳を凝らすと府道の向こうの草むらでガサガサと音がする。ライトを照らすと二つの目が光っている。大きさはじょんより少し小さいくらい、色は茶系統、尻尾があるがキツネほどは大きくない、犬の形に似ている、歩き方はタヌキよりは俊敏、うーむ、、以前薪置き場で目撃したぞ。確証は無いがアナグマかと思われる。
 藪の中に逃げたかと思うとまたしてもじょんがうなり、ベランダに出る。しつこいやつでまだうろうろしている。こりゃあ記事も書いてられないので続きは明日にしよう。

【今日のじょん】本文で活躍中

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日置のこと(50) なぜ太陽観測-5 10/25

2013-10-25 | 上林地名考

2013.10.25(金)雨

 日置氏、日置部がどのようなものか歴史上はっきりしているわけでは無い。もっとも品部(ともべ)そのものがどのようなものかもわかっていないのだ。「研究史 部民制」(武光誠著)をひもといているところだが、様々な説があってまるでわからない。思うに部民制とは一つの確固たる制度ではなくて、様々な要素を持つ制度で、それも時代とともに変遷していたのではないだろうか。時系列的にみれば理解できるのかも知れないが、あまりにも史料が少ないのだろう。
 
 日置氏が何時、どこからやってきたかもわからないが、その技術的能力、祭祀方法から見て渡来系、海人系とされているのは大方の意見である。
 農耕の発生とともに各集団、豪族の元で太陽を観測し原始的な農事暦を作っていた者が、国家の成立とともに日置部として各地で活躍するようになったのではないだろうか。
 律令時代以降には日置氏は宮廷内で浄火の管理などの祭祀的なことを職掌していたようだが、地方の日置では暦を作るための観測、寺社建築や道路敷設などの測量、河川整備や灌漑施設などの測量なども行っていたのではないだろうか。
P1040430



国府や国分寺に隣接する日置はその建設に関与したのだろう。
(南丹市八木町日置)


 日置部が測量に関する技術を持っていただろうと思うのは、その起源は太陽観測である。観測機器の無い時代、縄と棒きれだけが彼らの道具だったのだろう。太陽観測には東西南北の方位が絶対に必要なのだが、実は縄と棒きれだけで正確な四方を出すことは可能なのである。そのためには水平と垂直を出す必要もあるのだが、それも可能である。これらの方法はいつかご紹介したいと思っているが、古代人は手持ちの簡単な道具だけで方向と水平垂直を出していたようだ。これに加えて縄で長さを測れるとしたら、もう測量は完璧だと思う。つまり太陽観測ができるものは、測量もできるということだ。
 三内丸山遺跡の縄文期巨木建築も吉野ヶ里遺跡の弥生期高層木造建築も古墳期の巨大な前方後円墳も精密な測量がなされなければできないものばかりである。必ず優秀な測量技術集団が存在したはずである。
Img_0881

三内丸山遺跡の大形掘立柱の建物は、六本の柱が微妙な角度を持って強度を保っているという。



Img_3971
吉野ヶ里遺跡の主祭殿と呼ばれる建物は16.5m者高さになっている。 


日置氏はその有力候補であり、水谷慶一氏が世に出した「太陽の道」の直線も日置氏が関与したことと思うが、その道中にある多くの建造物も日置氏のなせるわざと思うのである。おわり

【今日のじょん】カメムシの季節がやってきた。綱さん予報では今冬は雪が多いと出ているが、カメムシの出現は普通かそれ以下の様相だ。もっともカメムシの出現率とその年の雪の量は無関係という実験結果を出しているわけだが。
 さてそのカメムシに対するじょんの察知能力は天才的である。
 自分で見える範囲に発見した場合は吠えて知らせるが、見えない所の場合はその方向に行って黙ってみている。
P1010597



 ぼーっと寝ていたのが、急に起きて階段の下にゆく。二階の方をじーっと見つめている。カメムシだなと思い、探すのだが見つからない。あきらめかけた頃天井の隅に見つける事となる。一体どうやって察知しているのだろう。
P1010598

 

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日置のこと(49) なぜ太陽観測-5 10/24

2013-10-24 | 上林地名考

2013.10.24(木)雨

 人間が生活する限り太陽に関する関心は強いものがあったと思う。狩猟採取の縄文時代であっても季節の変化は重要な要素であるし、太陽の位置や高さ、その強さなどが季節の変化に関連があることは気づいていただろうし、太陽の恵みにも気づいていただろう。そして見つめることができない眩しい太陽に畏敬の念を抱いていたことも間違いないだろう。
 農耕が本格的に始まった弥生時代になると、光合成のことを知らなくても、太陽が作物の成長に影響することは認識していただろうし、季節の変化をつかむことが収量を上げることであることにも気づいていただろう。集団の中で太陽を観測する専門的な分野が芽生えていたかも知れない。そしてそれは宗教的な日神祭祀と結びついていることだろう。
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 弓矢は海人族が日神を象る祭具であるというのは多くの説がある。高浜町日置神社の摂社にある飾り物は弓矢ではないだろうか。(2013.8.23)

 そして古墳時代となりやがて国家の成立という時代になると、太陽の観測は国家が直接に行う事業となった。
 
 「出雲国風土記」にある次の文から国家の事業として日置部が各地に派遣されたことがわかる。

日置の里(ひおきのさと)
 郡家(こおりのみやけ)の正東(まひがし)四里なり。志紀嶋(しきしま)の宮にあめのしたしろしめしし天皇の御世、日置の伴部(ともべ)ら、遣(つかわ)され来て、宿停(とど)まりて、政(まつりごと)なせし所なり。故(かれ)、日置という。

      ー「知られざる古代」(水谷慶一著)から抜粋ー

 ここで言う政(まつりごと)の内容が何かということはわからないのだが、柳田国男、折口信夫説の「太陽神を祀り、暦・卜占に関すること」というのがもっとも妥当だと考えている。
 ところで現在両氏の説を実際には読んでいないことを白状する。もっか何処に書かれているか調査中で、わかり次第読んでみようと思うのだが、読むことができたらまたご紹介したい。
 両氏の説を読んで自説が出てきたのでは無くて、自分の考えが今回述べてきたとおりなので、両氏の説を支持するという結果である。つづく

【作業日誌 10/24】
薪割り2時間

【今日のじょん】
昨日パオパオさんが来じょん、キクちゃんをドッグランどで走らせたいという事だったのだが、あいにくの雨で思うようにならなかった。車の中のキクちゃん見に行ったら、いつものように怒らない。久々のドライブに疲れているとのことだったが、静かにしているとかわいいワンちゃんだ。なんでもパワーウィンドウを自分で開けられるんだって、凄いなあ。P1010588


 
 
 
 

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日置のこと(48) なぜ太陽観測-4 10/23

2013-10-23 | 上林地名考

2013.10.23(水)雨

 古代の卜占の方法は骨卜(こつぼく)と言って獣の骨や亀の甲(亀卜)等を焼いてその裂け目で占っていたとされている。もちろん様々な方法があったのだろうが、これらの方法で将来のことを正確に判断することは不可能である。当の支配者にとって、占いの結果によっては地位を失うばかりか命まで狙われるとなると、あらゆる方法を使って当たる占いを出そうとするのではないだろうか。
 例えば先に紹介した茗荷神事や同じように行われる筍神事など、冬期の地下茎の生育状態などからその年の作物の豊凶を占う方法などは、科学的な根拠があるのではないかと思っている。
 一般大衆に対してもっとも重要な作物の豊凶についての占いは、できうる限りの情報を集め、正解に近い占いを行うべく努力したのではないだろうか。自分の地位や命がかかっているとすれば、当てにならない骨の焼き痕になど頼るはずがないというのがわたしの考えである。
 農事、特に播種の時期に関する占い、つまり「何時蒔けば豊作間違いなし」というお告げを出すためにもっとも重要視した情報こそが太陽観測だったのだろう。
 暦も節季の概念も無い時代でも、太陽観測によって冬至や春分の日はわかるわけで、その日から何日目かの日に種を蒔けば良いというお告げは可能となる。
 何日目かという情報は農民の持っているいわゆる自然暦から逆算すればいいわけで、農民は自らの持つ情報によって作成されたお告げにすっかり仰天することとなる。その占いで、その年の干魃や災害などまでは予測できないが、大きな障害が無い年であれば、言われるままに播種をしていればそれなりの収穫が得られることとなる。
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太陽の観測は日の出日の入りを同じ場所で観測することに始まるのだろう。これは我が家で決めているポイントだが、時刻も位置も随分変わってきている。(9.30)

  それではなぜ月の観測でなくて、太陽観測であったのかということだが、6世紀には中国の暦が入ってきて、それは月の満ち欠けで一月をはかる太陰太陽暦であり、改暦はあれども明治の世まで続いているのである。月の満ち欠けは毎日変わり、29.53日でひとまわりする。新月→上弦→満月→下弦→新月と繰り返され、一日、一月をはかるには最も簡単な方法だが、季節をはかることはできない。太陽観測は何年も観測しなければならないが、その位置によって季節を知ることができる。農事のためには太陽観測でなければいけないわけだ。つづく

【作業日誌 10/23】
薪割り
P1010589

あとこんだけ、つかれるぜ。



【今日のじょん】
朝4時頃急な吠えに飛び起きる。階下に降りてみるとベランダのセンサライトが点いて、逃げていく動物のおしりがちらっと見える。夜な夜なこの法面に獣が来ているのはわかっているが、目撃したことは無かったのだ。朝現場にゆくと、ツタの葉っぱが半分くらいやられている。その他の植物は大丈夫そうだが、一面足跡があり、鹿のようだ。夕方、入口側の青木がやられているのを発見、どうしたものだろう。
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日置のこと(47) なぜ太陽観測-3 10/22

2013-10-22 | 上林地名考

2013.10.22(火)曇り、雨
 魏志倭人伝 注に
「其の俗、正歳四時を知らず、但、春耕秋収を記して年紀となす」とある。5世紀頃に書き加えられたものということだが、それ以前の日本の様子として差し支えないだろう。前半部は暦が無いという意味だが、後半部はどういう意味だろう。そのまま読むと、春に耕し秋に収穫したことを記して一年の記録とするというようなことだろう。四時というのは春夏秋冬の季節のことであるから、季節の概念はないのだが、耕すことと収穫で一年をはかっているという意味だろうか。
 しかしこれほど四季の区別がはっきりしている日本だから、春夏秋冬という言葉は無くても、四季の存在を把握していることは間違いないだろうし、耕すから春、収穫するから秋というものではなくて、一定の条件が来れば耕し、また、一定の条件が整えば収穫したのが実情だと思う。
 暦が百済からもたらされたのは5世紀中だと言われているが、それまでの日本においても季節とそれがひとまわりする一年というのは概念として存在していたと思う。
 季節の変化というのは狩猟採集の時代にも重要だが、農耕が始まるとより重要な要素となってくる。前述の諺や言い伝えのように各地域によって口伝で伝えられていたのだろう。
 さて、ここで古代の祭政一致と言うことについて考えてみたい。祭政一致とか神権政治とか言うものは国家が宗教と結びついて政治を行うことと理解しているが、国家成立以前の集団においても占いや呪術で統率されていたことは卑弥呼の「鬼道を能くする」の記事でもわかる。
 古代の指導者やその側近は呪術師であり、政治と呪術、占いは同じものであったというのが祭政一致ということだろう。では彼らは一体何を占っていたのだろう。朝廷内の人事や行事、戦争、祭礼、行幸などは記録が残っているが、一般大衆に対しての占いとは何だったのだろう。
 実はこれがとても重要なことで、中国や朝鮮半島の皇帝や大王は占いの結果が間違っていたり、反対の結果となった場合にその座を奪われるどころか殺されてしまうと言うことを読んだことがある。そういえば卑弥呼だって、占いが当たらなくて殺されたとか、歴代の天皇の中にもそういう事由で抹殺されたのではないかという説もあるそうだ。
 佐原真氏は「日本人の誕生」の中で、「私自身は骨占いについて、東アジアの季節風(モンスンーン)地帯の降雨の不安定さゆえに農事・天候にかかわるものが多いのだろう」と書いておられる。
 被支配者のほとんどが農民であり、彼らの関心事は当然「農事・天候」であり、今日も残っている神事のほとんどが農の豊凶を占うものであることを見ても古代の占いの主流は「農事・天候」に関するものと考えるのが妥当であろう。つづく
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  金河内町の阿須々伎神社では旧暦正月3日に茗荷神事が行われる。お宝田にできる3本の茗荷から早稲中稲晩稲の豊凶を占い、その年の作物の出来具合から風水害、干魃まで占うという。まさに古代の占いを思わせる。

【作業日誌 10/22】
薪割り、早く割らないと冬が来てしまうぜ。

【今日のじょん】
今朝の散歩時にバッグを拾った。口は開いているし、現金などはなく、怪しいと思って警察に届けたらやはり被害品であった。なんでも夕べから今朝にかけて連続の窃盗事件が発生したんだって。物騒だねえ。
P1010582


お手柄、お手柄、もっとも見つけたのはおとーやけど。

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日置のこと(46) なぜ太陽観測-2 10/21

2013-10-21 | 上林地名考

2013.10.21(月) なぜ太陽観測-1は2013.10.17

 弥生時代以降、米作りが大きく飛躍したのは鉄器のおかげということは何度も書いてきた。国家の成立と発展は農耕と鉄器が車輪の両輪という風に書いてきた。
 しかし今、農耕の発展は鉄器の普及だけではなく、土壌作り、圃場作り、播種から収穫に至るまでの技術の改良など様々な要素があると思い始めた。その中の大きな要素の一つに、播種から収穫までの時期の問題がある。収穫は作物の状態を見ればわかることだが、播種の時期は判断の難しい、重要な要素である。
 実は私事だが5年間稲作はできないが野菜を小さな農園で作ってきた。土壌、肥料、虫害、病害、水管理等々なにかと苦労するのだが少々失敗しても何とかなるものである。ところが播種の時期を間違ったものはどうしようもない。昨年の秋野菜は白菜にせよ大根にせよ育つのだが、白菜は巻かない、大根は根がないなどと悲惨な目に遭った。早ければ虫の被害とか言うけれど、遅いのは野菜というものの体をなしていない。
P1030443




昨年12月になっても白菜は巻かず、大根の根は育たない。

 現在ほど情報の発達している時代でもこれだから、古代の人には随分と悩みの種が播種の時期だったのではあるまいか。だからこそ積雪地帯では残雪の様子を持って農事暦としていたに違いない。
 それでは積雪の少ない西日本以西ではどのようにして農耕の季節をとらえていたのだろうか。
「上林風土記」の中の自然環境と農耕に関する諺や言い伝えを拾ってみると、なんと百件以上ある。そのうち米と麦に関するものをあげると以下のようになる。

「五月に天気が続けば干魃」
「五月に虹を見れば麦の値段が高い(不作)」
「五月に雪が降れば奉公せよ(凶作の年)」
「八十八夜の別れ霜。」
「蜂が高い所に巣を作ると大水の兆候、低い所に作ると大風」
「蛍の出が早いときは米は豊作」
「麦の種まき旬三日」
「麦の青刈り倉が建つ」
「麦の刈り旬三日」
「麦は一雨降ってから刈り取れ」
「麦と蚕は、出て五十日」
「葵の花が三つ咲く頃が田植え頃」※
「青葉に雪のかかる年は豊作」
「秋の雪は豊作の印」
「秋彼岸の照りは豊年の兆し」
「朝早く日が照ると曇りの天気になるので籾干しをしない」
「銀杏の葉が黄変すると麦のまき旬」
「大雪の年は豊作の年」
「雷の多い年は米が豊作」
「欅の芽が一時に開く年は洪水あり」
「コブシの花が多いと豊年」
「米の種子は貧者の子に蒔かせ春の種子は富者の子に蒔かせ」
「紅葉した山に赤牛を入れて目立たないと思ったら麦のまき頃」
「笹に実がなると稲が不作」
「土の塊の間に良い苗がない」
「ツバメの飛来が早ければ豊作」
「ツバメは田の神さんを背負ってくる」
「照りの梅雨入りは二百十日で荒れる」
「土用が来れば稲に肥料せよ」※
「春は十日の蒔旬一日の刈り旬、稲は一日の蒔旬十日の刈り旬」※
「彼岸過ぎての麦の肥料」
「深ずきの米獲り浅ずきのいもち取り」
「藤の花見て苗代せよ。栗の花見て田植えせよ」※
「フキの葉三枚あれば田になる」
「三日苗は馬鹿でも田に植えず」
「麦刈りで少し青かったら昼寝してこい」

※印は稲作と季節に関係するもの。
 積雪の無い地方ではやはり周囲の環境の変化を見て農耕の指針としたようだが、暦が手に入るようになると冬至から何日目、春分から何日目に何をするかというようないわゆる農事暦が主流となったのだろう。
P1040430



古代から山の木々や花を見て農耕の指針とした。(2013.5月南丹市日置)
つづく

【作業日誌 10/21】
芝植え替え
P1010579



実はこれ、大雨で流れてきた川砂、細かくて養分もありそうで川もきれいになるし一挙両得。

【今日のじょん】夜な夜なじょんが吠えているが、イノシシの侵入が続いている。朝の散歩時にすぐ近所にヌタ場を発見、ここまで来るかとあきれかえる。特に今年は山ではドングリや栗が豊作ということだ。イノシシも熊も里に出てくることが多いのはどうしたことだろう。
P1010578


こんなとこでヌタってんじゃねえよ。 

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日置のこと(45) 宮津市日置-3 10/20

2013-10-20 | 上林地名考

2013.10.20(日)雨 

 サンプルが少ないのでまだはっきり言えないが、日置は国府の近くに在るケースと上林や夜久野のように山間部に在るケースがあるようだ。
 こういったケースは別所の存在に類似している。別所の場合、鉄の採鉱、生産など山間部で行う場合と国衙や国分寺などの建設資材としての鉄の生産、加工をするため国府の近隣に存在する場合があると考えている。
 日置についても同じように考えられると思うのだが、元々各地で太陽観測などをして暦法や卜占に関わっていた部が測量や設計のために国衙や国分寺の建設に関わったのではないだろうか。このことは各地の日置をつぶさに調べていけば見えてくることと思われる。
 さて宮津市の日置に話を戻すと、妙見山からの展望がきかなかったからというわけではないが、彼らの観測場所は妙見山ではなくて向かいの尾根上に在るのではないかと思い始めた。
 その理由は、少しでも高くて見晴らしの良い所がいいだろうということ、その地点でも東西に著名な目印があること、畑地名との関連で上林の日置谷と同様の情況が見られることなどである。
P1010334P1010556




左は上林の日置谷の裏山、右は宮津市日置の裏山、その共通点はその向こうが畑地名であること。実は八木町日置も同様の情況がある。

 その地点は296mのピークから北へ派生した尾根上になるのだが、例えば真東は成生岬、60度は小島、240度はなんと成相寺となる。270度、300度は鼓ヶ岳(569m)から派生する尾根上の突起と思われる。
P1010562

 


海と星の見える丘公園から鼓ヶ岳方面を望む。左手の尾根が観測地点想定の尾根。

  特に東の水平線の日の出を観測する場合は目標物が必ず必要なので、可能性は高いだろう。
 国土地理院日置の地形図を見ると、P296mにむかう谷沿いの道が書かれている。取り付きの所に神社があり、是非行ってみたいと思うのだが七面堂だろうか。
この道はかつては尾根を越える峠道かと思うが、観測地点に向かう道であったかも知れない。
 これらの地点になにか痕跡がないものか踏査したいものだ。一回の訪問だけで多くの示唆を与えてくれた、宮津市日置について次に記するときはもっともっと日置氏の謎に迫っていることだろう。おわり

【今日のじょん】じょんのなちゃけない顔が元に戻らない。雨が続いてうっとうしいせいかもしれない。P1010577_2

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日置のこと(44) 宮津市日置-2 10/19

2013-10-19 | 上林地名考

2013.10.19(土)曇り

  妙見山山頂からは何の展望もきかないので、石段を下り、坂の中間部分から宮津湾を望む。ところが目の前には栗田半島(くんだはんとう)が横たわっているばかりで、成生岬、大島、小島も見えない。
P1010550

 


 やむなく下ってしまって海岸に出る。ようやく成生岬や大島小島を見ることが出来た。あの部分から朝日が昇ってきたら古代人ならずとも感激するだろうなあと思いつつ眺めているが、方向的には随分ずれていて、やはり妙見山頂から望みたいと思う。
P1010551P1010552


 

やっと見えた成生岬、黒い影は栗田半島黒崎。大島、小島もはっきり見える。

 次に日の入りの位置を調べるべく山頂の真西に当たる空き地から西の山並みを眺める。畑川の支流、左股となる谷と日置の間の尾根が目前に横たわる。
 尾根左方の二つのピークの右ピークが270度、尾根中央の二つのピークの右ピークが300度、240度は左の斜面となる。
P1010556



左から二つ目のピークが270度、真ん中の二つのピークの右側が300度。春秋分、夏至にここに日が沈む。

 この場所から見ると、春秋分や夏至、冬至の日の入りはこの位置になるが、妙見山の山頂からはもう一つ奥の尾根、鼓ヶ岳(569m)から国分あたりに降りる尾根が見えるのではないだろうか。
これらの展望を確認するためには、妙見堂の屋根に上がるか、頂上から藪こぎをして展望の得られる位置まで出るかだ。
 どちらも結構困難だなあと思いつつ車を進める。日置を過ぎて波見に入ると、「海と星の見える丘公園」というのがある。この位置だと日置の全容が見られるかなと思い公園に入ってゆく。
 公園は府立の施設だが、何とも主旨のはっきりしない中途半端な施設のようだ。それにしても広大な土地に意図のはっきりしない施設が並び、訪れる人影もない。展望台から日置の全貌を眺める。日置のはっきりした区画の田畑を眺めていると、条里制の名残かなと思われる。そこで妙なことに気づく、日置のある位置だ。
P1010565



最も高い所から成生岬、大島、小島が一望できる。妙見山もこんな感じで見えるはずだ。

 日置について書かれた説を見ていると、日置は西日本に多く、山間部に点在するというのが大方である。西日本に多いというのは納得できるが、山間僻地に多いというのはどうだろう。
 ここに来て多くが山間僻地に存在するというのは疑問を感じている。今わたしが調査対象にしている7個所の日置について、4個所が国府の近隣にあるのだ。
宮津市日置が4Km、八木町日置が3Km、日高町日置が600m、高浜町日置が23Km、おおよその距離であり、若狭国国府が小浜市にあるとして高浜町日置が決して近くはないが、他の3個所は国府隣接地と言ってよいだろう。
P1010564



日置の山側がよくわかる。集落から山側に入っているのが畑川で、左の尾根が妙見山の下から見た尾根で、その奥の尾根が鼓ヶ岳から国分に下る尾根。

 こうなってくると全国の日置を調べる必要が出てくるが、日置が必ずしも山間僻地にあるという説は成り立たないし、戸数を調べる役所説の「あえて戸数を把握しにくい地に置いた」という説も無意味になってくる。つづく

【今日のじょん】昨日の疲れなのか、好きな人が居なくなってか、とにかくしょぼちんとした一日を送っている。情けない顔が余計情けなくなるから気の毒だ。P1010535
P1010536P1010537



これ昨日の様子。おとーが降りてきても二階ばかり見ている、散歩に行くでといっても部屋の中ばかり覗いている。いくみちゃん命なのよね、ダレノオカゲデメシクーテンネン

 

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日置のこと(43) 宮津市日置-1 10/18

2013-10-19 | 上林地名考

2013.10.18(金)曇り

 宮津市の日置(ひおき)は天橋立の北方にあり、リゾート地として有名である。丹後半島を巡る国道を幾度となく通過しこの地の存在は知っていたが、日置部との関連として日置を見ることはなかった。今回、丹後町の宇川温泉を訪れる際にちょっと立ち寄りして日置を見ることにした。
P1010563

 


北側からの日置の遠望、妙見山は若狭湾に飛び出ているように見える。

  日置部が太陽観測をしたと仮定して、何処で観測したのだろうかという問題は、最も気になるところである。地図を開くとすぐに一つの候補地があがった。
 畑川と世屋川の運んだ堆積物でできたのだろうか、あるいは波が運んだ砂でできたのだろうか3Kmあまりの平野の南1/3あたりの海岸に妙見山という小さな山がある。30mの低い山なんだがなにしろ海と平地の中にあるので突出している。
 国道を行くと日置郵便局の所から海に向かうとすぐに行ける。
 この山が日置部の観測地の候補となるのは、わたしの日の出日の入り方位板で見ると、真東に大浦半島の成生岬(なりゅうみさき)があり、北へ30度振ると大島と小島の間の海がある。春秋分には成生岬から陽が昇り、夏至には大島、小島の間から陽が昇ることになる。冬至の日の出は大浦半島の博奕岬灯台のあたりになるのだけれど、こんな事も確認したかったし、日の入りの位置なども自分の目で確認したかった。
P1010554P1010540_2P1010542



妙見宮鳥居、下段石段、上段石段と登ると頂上の妙見宮に着く。

 妙見宮の下に車を置いて、妙見宮への石段を登る。
 登り口右手の石碑の台座に二個の盃状穴を発見、かなり古いもののようで風化が進んでおり、雨だれ痕なのか人工的な盃状穴なのか判断が難しい。その後も沢山出てくるようなら盃状穴だろう。
 ところが続く石段は材質が硬いためか一向に見当たらない。頂上の本殿の横に一部だけ凝灰岩の石材があり、二個の窪みが見られたが触ってみるとざらざらしており、底部も盃状というより皿状になっており、盃状穴とは言えそうにない。寛永年間の手水鉢にも盃状穴は見つからず、登り口の二個がらしいという程度である。
P1010541P1010547



盃状穴らしきものは下段石碑の台座と本堂横の石材にそれぞれ2個発見。

 もっとも盃状穴が目的ではないのだが、予想通り頂上の周囲には竹木が生い茂っており、展望はまるで無い。せめて真東の光景でも木の間から見えないかと思ったが竹が密生しており、まるで何も見えない。
P1010545P1010544P1010548


 
妙見堂と板碑そして真東の光景。

 またこの妙見堂のある山は向山と呼ばれているが、16世紀中頃には山城が築かれていたそうで、その防備を隠すため植えた竹の残骸かも知れない。
 また、この地にある阿弥陀一尊像板碑には応永34年(1427年)の年紀銘があり、古くから信仰あるいは祭祀のあった場所だと予想される。つづく

【今日のじょん】今日はじょんも連れだって宇川温泉にゆく。とにかくいくみちゃんと一緒に居られるのでヒコヒコのようだ。P1010569

海と星の見える公園

P1010576
宇川温泉駐車場
 

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日置のこと(42) なぜ太陽観測-1 10/17

2013-10-17 | 上林地名考

2013.10.17(木)曇り

 「日置部太陽観測者論」というのはやはり重かった。単なる想像について”論”はないかと思う。
 日置部、日置氏について様々な意見があるのは、長い歴史の一場面をカットして見るからそうなるのではないかと思う。
 縄文時代、人が狩猟採取で生きている時代にも日々の繰り返しも四季の移り変わりもあったわけだから、人々はどの時期に何がとれるということは充分意識していただろうし、この時代においても栽培ということはかなり行われていたということがわかってきているので、季節による播種であったり、収穫であったりということが、充分意識的にとらえられていたと思われる。(エゴマ、大麻、その他雑穀など)
 栽培について天体の観測まで及んでいるか否かは知るよしもないが、船の航行などでは天体観測なくしてあり得ないだろう。
 栽培に関しても、四季による自然の変化は充分に活かしていただろうし、縄文時代に栄えた地域が北海道、東北などの積雪地帯であることを考えると、積雪の時期、残雪の形状を播種などの目安にしていたことは考えられることである。
 わたしが地名に関心を持ち始めたのは、日本アルプスなどの山名である。一番最初に登った雪山が白馬岳(しろうまだけ)で、白馬は実は代馬つまり代掻き馬のことだったのである。残雪の中に代掻き馬が現れたら苗代の用意をしろということだったのだろうか、とにかく残雪の雪形が農耕の指針、一種の農事暦となっていたのだ。現在では駅名や地名が白馬(はくば)となっておしゃれな雰囲気をかもし出しているが、現実の雪形は岩の部分で、残雪に囲まれた黒い岩壁で黒馬(くろうま)なのである。
 蝶ヶ岳、爺ヶ岳、農鳥岳など雪形に由来する山名は限りない。そしてそれらのほとんどは農耕に関係している。
 「甲斐国志」に「コノ峰下ニ、五月ニ至リテ雪漸ク融ケテ鳥ノ形ナス所アリ。土人見テ農耕トス。故ニ農鳥山トモ呼ブ。」と言うような一節がある。(「富士山はなぜフジサンか」より)
 残雪の形状というのは、暦よりも確実な農耕の指針となるかも知れない。その年独特の降雪量、気温変化などが反映するからだ。
Img_0684

 


秋田駒(1637m)は残雪に駒形が現れるが、岩手県側から見えるそうで、やはり農事暦として使われていた。(2006.9.16)

  雪形による農耕の目安は品種によっては現在でも生きているのかも知れない、しかしその始まりは栽培が始まったときからあるのではないだろうか。
 それでは積雪の少ない、西日本などでは何を指標にしていたのだろう。つづく

【今日のじょん】
これは何をしてるのでしょうか?実は尻尾が手すりに当たってコンコン音を立てているのでス。P1010528
P1010529
P1010527



そー、大好きないくみちゃんが来たのでした~

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日置のこと(41) 日置部とは-5 10/16

2013-10-16 | 上林地名考

2013.10.16(水)雨 日置のこと(40)は2013.10.13

 日置部について語っている間に、頭書否定していた戸数を数える役人説が肯定的になっていることに気づく。それは律令国家において徴税が必要となったときに、検地的な測量、調査は必ずあるはずで、それを担うのは測量に長けていた日置部が任に当たると考えたものである。それは長い歴史の一場面であって、決して間違いではないかも知れないが、それが日置部のすべてではないような気がするのだ。
 各説の主宰者に共通することは、日置部の租は渡来系であり、天体観測や測量に長けた技術を持っていただろうという思いである。
 また上林や夜久野の日置が、戸数を数えた地方の役所とはとうてい思えない。地方というのは郡の事と考えられるが、郡衙、郡家の近くにあってしかるべきと思う。あえて戸数の把握しにくい地に置いた等という説はこじつけとしか思えない。   
 律令制前後にはその技量から、検地を担う役人の側面があったとしても、それ以前の社会ではどのような役目を果たしていたのだろうか。
 このことはわたしの想像の中でしか言えないことで、絶対に証拠を残し得ない、表に出ないことなので将来にわたっても証明されることはない。
 「日置部、太陽観測者論」、あえて大仰な名を付けて、古代の太陽観測をした部民について語ってみたい。と言ってもこれはいつものとおり仮説どころか、想像でしかない。単なる想像を堂々と、根拠も証拠もなく語れるのはアマチュアの特権かも知れないが、単に絵空事を吹聴するだけでなく、少しでも真実に近づこう、証拠を探そうと努力していることを認めていただきたい。P1010495



上林川が忠町に入るころ弥仙山前衛の山並みが見え始める。元権現跡~大タワ峠~遊里に向かう尾根(改心の道)が望める。右に飛び出たピークが419mの三角点ではないか。この山こそ日置部観測の地とにらんでいる。

【今日のじょん】台風26号が大きな被害をもたらしている。我が家でも昨晩は大風が吹き荒れたが、用心していたのでたいした被害はなかった。風の嫌いなじょんは寝ていないようだ。P1010523




イスが飛んだだけで、植木も鉢も大丈夫。

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