晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大成・三郡山の考察

2012-03-31 | 歴史・民俗

2012.3.30(金)曇

 3月21日(水)の大成、三郡山の山行については山行記録として紹介したところであるが、その目的は大成の廃村の状況、大原に至る道の観察、長者成の探査といったところである。

(1)大成の廃村の状況について
 廃村という言葉にはなんとも悲しい響きがある。何百年前、あるいは千年以上も前に祖先が住み着き営々と代を重ねてきた村を自分の代で終わりにするのである。もちろんこの重大な決意をするのには様々な理由があるのだが、結局社会の変化ということになるのだろうか。P1010320
 
大成、観音堂横の五輪塔、地蔵、板碑(2012.3.21)


Img_1711
宝尾山中の墓地、雰囲気は同じだ。(2010.11.13)



 わたしがかつて訪ねた廃村は京北の廃村八丁とおおい町の宝尾である。信州や飛騨の山々を彷徨っているときいくつかの廃村を通っているのかも知れないが意識していなかったので気がつかなかった所もあるかも知れない。
 廃村八丁は周囲を山に囲まれた源流地帯にあり、山奥ではあるがいわゆる高地性集落という感じでは無い。かつては木材の供給地として裕福な村だったと聞く、八丁川の鉄砲(川をせき止めてその水流で木材を搬出する)やコシキ峠は木材を人手で運搬したと聞くとそのことが解る。シンボルともなっていたあの大きな土蔵は50年以上たっていても立派に建っていた。昭和16年には六軒あった家も総て村を出たという。その理由は昭和8年の豪雪で隣の家に行くのも困難になり、住民は生命の恐怖をも憶えたという。また子供の教育ということも大きな要因になったそうだ。わたしが訪れたときには壁の落ちた土蔵と屋敷跡、神社、お墓が残っていた。
 宝尾は高地性集落であって、一乗寺という大寺院が六世紀に存在したという伝説がある。山腹に平な地形が多くあり、それらしい伝承地名もついているが、仏教伝来当時に大伽藍を備えた寺院がこの地に有ったとはにわかに信じられない。ただ重文級の仏像等が流出しているというので、かつて相当の寺院が存在したことには間違いないだろう。開村当時は百軒の家があったと言われるがこれも定かでは無い。文書(若狭郷土史研究36-3)に藤原家五軒、渡辺家三軒、三谷家二軒という記事がある。この程度の屋敷跡なら充分に残っている。最終には一軒だけが残っていたと聞く、山中での一軒屋の生活とはいかばかりかと想像する。
 戦時中に男手が無く村が維持できないので順次離村して、昭和20年代に廃村となっていたと書いている。Img_1712
 
宝尾の墓地で見つけた蹄鉄は、田畑で使ったものか、木材運搬に使ったものか?



 この村の成り立ち、往古の役割は解らないが、近年には山林で生計を立てていたのでは無いだろうか。高所ではあるが水は豊かで、一部水田もあったそうだ。しかし何にしても人の背で運び上げるのは困難なことで、離村の理由は生活の困難性ではなかろうか。
 大成はこの宝尾といろんなところで類似性がある。つづく

【作業日誌 3/30】
じゃがいも植えつけ(キタアカリ、アンデスレッド、シンシア)
タマネギ草引きと追肥

今日のじょん:アレルゲンを見つけるべくドッグフードを替えるそうだ。注文品が届くまで御飯主体の食事となっている。便が軟らかいせいか今日など三度もうんPした。それに妙に腹すかせている、ご飯って持ちが悪いのかなあ。写真は再開したぽんぽこジャンプ。P1010441
 

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雪中八策 防獣編(26) 3/29

2012-03-29 | 日記・エッセイ・コラム

2012.3.29(木)快晴

 もっともっと書きたいことはあるのだが、雪が無くなったので雪中八策は本日で終わりとする。次回雪が積もったら新しく開発した武器や有効な防獣ネットの情報をお知らせしたい。期待せずに待っていただきたい。
 銃刀法を見ていくと刃渡り何センチとかなんとかで規制を受けるようだ。規制外のものでも車中に隠し持っていたり、街中で所持していたりすると取り締まられるようで、絶対的なものでも無いようだ。しかし私たちが山仕事に使う道具は強烈である。チエンソー、刈払い機、長柄鎌、トビ、鉈など街中で持ち歩いていたらたちまち逮捕されそうだが、山中では何の問題も無い。わたしは山中での対獣の武器で最も有効なのは槍だと思っている。トビの手元にピッケルの石突を取り付ければどうだろう。P1010430_2
 
こういった刃物などは規制を受けない。


 現在山中に於ける武器というか護身用具はストックぐらいなのだ。こんなもの熊や猪などに通用するはずも無い。鉈を持っているときもあるが獣との戦いに通用するかは疑問である。それは接近戦でしか使用できないからだ。
 こんなことを書いていると奇妙に思われるかもしれないが、わたしだって獣と格闘はしたくないし、おそらく一生しなくて済むだろう。しかし山行を続けていれば可能性としてはあるわけだし、その時に丸腰でやられるのは堪らない。そしてわたしの領域に入ってくるものには痛い目に合わせてやりたい。
 丸腰か猟銃というのは何とも極端だ。その間の誰にでも準備可能な武器が絶対に必要である。

 最後の方は突飛な話になり、中途半端に雪中八策を終えるのは心苦しいが、要はABCD地域のB、Cを人間の手に奪回すること、そのためには儲からない山にあらゆる手段を使って入ること、である。
 と言いつつも、あの張り巡らされた防獣ネットが功を奏して獣害が無くなればそれに越したことは無い。数年後、獣害は相変わらずで、ネットの保守ばかりに手を取られているようなら、莫大な経費と労力を使った今回の施策の責任は一帯誰がどのように負うのだろうか。P1010043 おわり

 
これがほんとの”雪中八柵”てか。


【作業日誌 3/29】
芝生草引き(2日目)P1010431

一日二坪ぐらい、15日かかるぞ。



 今日のじょん:病み上がりとて散歩は軽くぽんぽこぽんも抑え気味にやっている。今朝の様子を見ればまずまず回復というところか。P1010432


ボールはどこかニャ

P1010433
おっここだここだ


P1010434
ダーッ!!






   

 
 
 

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雪中八策 防獣編(25) 3/28

2012-03-28 | 日記・エッセイ・コラム

2012.3.28(水) 曇

 一昨年は熊の出没が多くて連日新聞紙上を賑わせていた。そのなかで熊の生態が変わってきているという記事があった。
 軽自動車で熊と遭遇したら、熊が車に襲ってきてパンクさせられたり体当たりされた、老人が家にいたら熊が侵入してきて襲われた、などという従来と違ったパターンの事故が増えてきた事に対する記事であった。従来熊は人間を怖がっており、突然出合うなどの興奮状態にならない限り自ら去って行き襲うことは無いというのが定説であった。ところが最近の熊は人間を怖いものと思わず、安易に襲ってくる、それは生活環境の変化によるものだろう、というのがその記事の趣旨であった。
 例えば神戸東灘周辺に棲息している猪をみればその辺のところが理解できるだろう。元はといえば人間による餌付けが原因なのだろうが、今となっては元来の猪の生態では無い。
P1010429
押し寄せる獣達に対する我が家の武器はこれだけである。


 熊について環境の変化とは如何なるものだろうか。思うに本来彼らのテリトリーで無かった里山、さらに人間と遭遇する可能性のある山が完全に彼らのテリトリーとなったことでは無かろうか。つまり山に入るものは人間であれ車であれ自分のテリトリーを侵す侵入者とみなしているのでは無いだろうか。
 そして銃でもって追うことの無くなった人間を怖い存在とは思わなくなったのではないだろうか。そして彼らは里山から人間の居住地へテリトリーを拡げようとしている。人間が怖ろしい存在で無くなったとしたらそれは簡単なことだろうから。
 以上は極端な考え方かもしれないが、そう考えると現に起きている事がすべて理解できるではないか。
 だとすれば、現在行われている熊遭遇対策が如何に無力で滑稽なものかと怖ろしくなる。
 「山に入るときは鈴やラジオなど音を出して、人間の存在を熊に察知させましょう。
 もし熊に遭遇したら、目線を外さずに後ずさりしましょう。そうすれば熊は自分から去っていくでしょう」Img_1299
 

親子連れの熊が出没しているから行かないようにと言われた遠野の続石への道、500mの山道がどれほど怖かったか。
(2006.10)


 このとおりの行動をとることも難しいと思うが、果たしてこのとおりになるか大変疑問である。なにしろ彼らは自分のテリトリーに入ってきた敵と遭遇している訳だから。
つづく

【作業日誌 3/28】
芝生雑草引き(初日)

今日のじょん:沢山の方がじょんの見舞いに駆けつけてくれたり、電話やメールで様子をたずねてくれたりで恐縮している。おかげさまで、ようやく食欲も出て来て普通の暮らしが帰ってきそうだが、いまいち体力が戻ってないようだ。食事を摂っていなかったので便も出ていなかったが、今朝しっかりうんPしていた。ただしご飯主体のためかやわらか気味である。
 きょうは店にも顔を出していたのでだいぶ回復してきたのだろう。P1010427
 

雪も無くなって良い季節になってきた、早く元気になってちょ。  

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雪中八策 防獣編(24) 3/27

2012-03-27 | 日記・エッセイ・コラム

2012.3.26(火)快晴

 狩猟については鳥獣保護法に基づいているが、猟銃については銃刀法(銃砲刀剣類所持等取締法)に基づいて管理される。日本に於いては銃などを基本的に所持できない、そしてそのことが凶悪犯罪の少ないことに大いに寄与している。従って特別に許可された猟銃所持者に対しては厳しい管理が義務づけられ、ある程度警察によって監督されていると聞く。ここまではいいのだが、警察が猟銃所持者に狩猟を止めるように働きかけているということをよく耳にする。これは事実なのか解らないのだが、もしそういうことがあるとしたら、それは狩猟というものを大切な人間の営みと考えずに単にレジャーの一環としてとらえ、猟銃を所持すること自体が犯罪であるかのごとき誤った考え方によるのではないだろうか。
 わたしたちは狩猟が大切だと認識しても、簡単に猟師になることは出来ないようだ。
 なぜこういうことを言うかというと、私たちは動物たちの前で丸腰だということだ。太古から人間は狩猟をするため、動物たちを奥山に追いやるために武器を使ってきた。それは槍であったり弓であったりするわけだが、他の国ではブーメランや吹矢なども使われた。そして共通して自然からの毒、たとえばトリカブトなどが使われた。
 ところが今はどうだ、目の前に猪や鹿、猿挙げ句の果てに熊まで居るのに丸腰じゃないか。これって矛盾じゃないか、これだけ文明が進み、一瞬にして人類をも滅亡させるほどの兵器、武器がある反面、日常に相対する獣達に立ち向かう武器が無いのだ。
 我が家には爆竹とプラスチックの弾を飛ばすパチンコがある。少しお金を出せば猿追い鉄砲などというのがあるようだが、いずれも何の効果も無いようだ。B29に竹槍で向かうようなものだ。P1000426
 
パンパンやっても知らん顔。


 例えばボウガンやアーチェリーなど武器になりそうなものがある。規制は無いようだが世間の風当たりはきついようだ。防獣のためにと多くの人が使い始めたら、批判が巻き起こり規制が始まりそうに思う。
 要はだれもが安全に使え、殺傷能力はなくとも、獣を追い払う程度の武器を最初から防獣用として開発できないかということだ。
 大昔の人は槍や弓で野生動物を捕獲したわけだから、今は追い払うだけだから同様の武器で有効だと思う。自作でこれ等の武器を作ることができるだろう、昔の人はショップなど無かったのだから。吹矢というのは上手く作れば飛距離があって有効な気がする。アフリカの原住民だかが狩猟に使っているのを映像で見た。もの凄い命中率である。もっともそこまでには相当な訓練が要るだろうが。知り合いに吹矢を自作している人が居る。これはスポーツとしての吹矢だが、飛距離命中率とも想像以上らしい。つづく

【作業日誌 3/27】
植木レスキュー
ドッグラン柱塗装
ユスラウメ、木イチゴ植樹P1010428

写真撮ってたらじょんが散歩から帰ってきた。


 
 今日のじょん:吐き戻したり、お腹のグルグルは無くなったが、病み上がりで元気が無い。じょんが元気が無いと家の中が暗くていかん。体重も減って首輪もゆるゆるになってしまった。しかし元気の無さはどうも腹が減って力が出ないような感じだ。夜は薬を止めて御飯をしっかり食べたので、明日はちったあ元気になるかな。P1010426

元気の無さがワカルカナ。 

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雪中八策 防獣編(23) 3/26

2012-03-27 | 日記・エッセイ・コラム

2012.3.26(月)雪、曇

 狩猟、防獣について法律的には鳥獣保護法(鳥獣の保護及び狩猟の適正化に関する法律)に基づいて行われるのであるが、この法律が現状に対応できているのかはなはだ疑問である。と言ってこの法律を読んでみようとしたのだが、ものの数行読んで降参してしまった。法律というのはかくも難解なものなのか、これを読んで理解しようと思えば半年はかかりそうで、雪中八策どころか暑中八策になるのであてずっぽうで書いていくので錯誤があるようならばご指摘頂きたい。
 この法律は名のとおり自然の鳥獣を保護するためにあるようで、基本的には人間による開発が自然の鳥獣を絶滅に追いやっているという考え方に基づいているのではないだろうか。
 つまり自然のバランスが壊れて人里に出て来た害獣(人間の都合で害獣と言ってるのだが)を元の居場所に戻そう、増えすぎた害獣を彼らの居場所で棲息できるように減らそうという本来の活動に合致した法律では無いと言うことだ。
 例えばアライグマを捕獲するのに申請が居るとか、ハクビシンを捕獲したら当局に叱られて始末書を取られたなんて話を以前に書いたことがある。本来外国からペットなどの目的で動物を輸入できること自体が問題であって、自分の作物を荒らされて、捕獲したら罰せられたなんてのは本末転倒である。Img_1653

これがアライグマだ。上林はなんでもいるぜ。


 熊の捕獲だってそうだ。先日山を歩いていたら、「ここら辺は捕らえた熊を逃がした所やから気いつけや」と言われた。何でも里に出没した熊は、捕らえると山に放して、再度出て来たら殺処分するのだそうだ。これは法律かそれをもとにした条例かなんかで決まっているのだろうけど、わたしの言うところのABCD地域がはっきり機能している時代は有効な方法だけど、山も里山も彼らのテリトリーとなった現在、無意味なばかりで無く、山に入ろうとする人に対する妨害行為である。
Img_3358  
この辺熊放したんだって、かんべんしてよん。 


 法律とは関係ないかもしれないが、獣害対策に天敵となる狼を輸入して育成しようという意見があって、賛同する人もあるそうだ。確かにニホンオオカミがかつて生存していて、鹿などの子を捕食していたのは事実である。しかし鹿や猪が増えたのは狼が絶滅しただけが理由では無いし、狼が人間に及ぼしていた害も無視できないだろう。最も効果のある、人間が山に入るということを困難にしてしまうだろう。沖縄のハブ対策にマングースを導入して、どういう結果になったかを見れば、狼導入説がいかに滑稽なことかが解るだろう。つづく

今日のじょん:今朝は幾分元気に見えたが、やはり食事は摂らない。P1010413P1010418

今朝の雪、ながいおしっこ。


  予定どおり店を午後からにして氷上の病院に行く。一昨年も三月だったので、季節の変わり目におきる自律神経失調症か、食物のアレルギー反応かもというところだそうだ。血液検査して特に臓器の異常は無いようだが、注射や点滴をするなど我々と変わらない医療である。違いは保健がきかないことと医療費控除が受けられないこと。P1010424



殊勝な顔して点滴を受けている。

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雪中八策 防獣編(22) 3/25

2012-03-25 | 日記・エッセイ・コラム

2012.3.25(日)雪

 農耕と狩猟のバランスとは「狩猟者が農耕地の周囲を猟場にし、野生鳥獣を捕獲する。」という言葉につきる。しかしそういった猟師が不足していることは現実だし、後継者が居ないということも現実だろう。つまり農耕と狩猟をバランスよく育てていこうという社会にはなっていないということだ。狩猟のみでは生活できないということだが、農耕と狩猟を兼業でやるとしても、農耕は機械化などで老齢化をカバーできる部分があろうかと思うが、狩猟は高齢者には難しい。そういう意味でとても農耕と狩猟のバランスなど成り立たない。
 わたしは猟師の公務員化を提案する。今の世の中公務員の数を減らすことに躍起で、頭数さえ減らせばそれで良いという風潮である。しかし本当に必要な部署まで同じように減らして、国民にとって実害が出ているのでは無いだろうか。
 公務員による狩猟と言えば、北海道で自衛隊が鹿の駆除をしたことがあった。昨年のことであるがこれが大失敗で、ヘリコプター、高機動車などまで参加して、人員も道や猟友会などあわせて120名で大挙し、28頭という惨憺たる結果であったそうだ。これは当然と言えるが周囲から強烈な批判を浴び、その後の取り組みが報道されないことを考えると立ち消えになった可能性が高い。
 しかしわたしはこの姿勢を応援したい。問題は自衛隊の狩猟に対するノウハウ、考え方がまるでないところにあるのであって、公の組織を使って狩猟、獣害駆除をするという考え方は正しいと思う。Img_41191
 
これって猟みたいでしょ。交通事故なの。え゛~ん。




 狩猟と戦闘は銃を使うところだけが一緒であとは全然違うものなのではないだろうか。そこをはき違えて戦闘訓練と同じ要領で鹿を追ったところに作戦のミスがあるのではと思われる。自然の中における戦いは人間よりも野生動物の方が戦いにくいということだ。ジャングルでゲリラ戦が勝利したベトナム戦争を思い起こされる。
 さすれば自衛隊が戦闘訓練として狩猟、害獣駆除を取り入れる要素は充分あると思うのである。演習場でポンポンやってるより、少数精鋭で猟をする方がよっぽど訓練になるし、世に貢献できると思うのだ。
 地方自治体で公務員の猟師は聞いたことが無い。あったとしたら拍手喝采をおくりたい。つづく

今日のじょん:かみさんの添い寝も効なく元気にならない。今日は吐くことは無かったが、何も食べないしぐたっとしている。それにしても病気というのはいつも土曜日に起きるんだろう。わたしほど病院に縁の無い人間でも思いだすのは休日診療ばかりである。休日診療が無い時代には週が明けるまでじっと我慢しているのだ。一番ひどかったのはひょう疽のときである。土曜日の夕刻に傷みが来て、診療所の看護婦さんに聞くと月曜の朝に来て下さいとのこと、土日とどんな痛みに耐えたことか。月曜に診療所に行ったときには指先は完全に膿んでしまって手遅れ、爪が剥がれ、いまだに変形している。
 じょんも同じだ、いつも週末から週明けまで苦しんでいる。P1010410 Img_4003
 
今日の雪と2010.3.11の雪。どちらもじょんが大変な日。



 それともうひとつ、じょんの病の日っていつも季節外れの雪が降るのよね。P1010411



今日のじょん、昨日と同じ様な写真だけど、、。

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大成・三郡山(4) 3/24

2012-03-24 | 山・峠

2012.3.24(土)雨

 道標の広場から南東に道を辿ると緩やかで広い所に出る。ちょうど三郡山の西に当たる等高線が緩んでいる場所だ。植林が生えて薄暗いが、本当は随分気持ちの良い緩斜面である。これがいわゆる”なる”地形で長者ヶ成(ちょうじゃがなる)というのはここのことだろう。長者が住んでいたという伝説があり、節分の晩に黄金の鶏が鳴くという話や、牛の好きな女中の話が伝わっている。P1010364 P1010362 P1010363_2
 



左:長者ヶ成の三郡山に近い部分は植林。
中:土塁のように見える部分。
右:雑木の向こうに綾部市街や大江の連山が見えるのだが、、、


 しかし屋敷跡や井戸跡など生活の痕跡が在るわけで無く、第一周囲に水があるような感じはしない。水が無いので大成と大原の蛇ヶ谷に下ったと言う話しもあるが、そんなところなら最初から住まないと思うのだがどうだろう。おおい町川上の廃村宝尾だって、あんな高いところに住めるものかと思うのだが、しっかり水は出ているのだ。やはり人が居住するのには水は絶対条件であろう。
 土塁のように土が盛り上がったところがあるが、これは北山でもよく見られる山道ではないかと思う。愛宕山辺りでもこういう山道をよく見かける。
 綾部やその向こうの大江連山の展望が良いのだが、木々が邪魔になってよく見えない。少し進んだところに木々が切れた展望の良いところがある。ここで昼食をとる。P1010365
 
長者ヶ成の外れ辺りか、一番展望の良いところ。送電線は致し方ない。



 昼食後ほとんど登り降りの無い稜線を西南に進むと、指さしの絵が描いてあるおしゃれな道標地蔵がある。このあたりが主稜線から蛇ヶ谷へ降り始める地点なんだが、山林の作業道が入り込んでいて不明瞭である。出来るだけ山道を辿りたいと思うが、林道で寸断されたりするので、林道を行った方が確実かもしれない。
 やがて左方から蛇ヶ谷の源流が出合ってくる。大成峠に至る沢は蛇ヶ谷の支流であって、こちらが源流のようだ。P1010367 P1010368
 
この天保時代の道標はよく見るとかなり精巧な彫りである。



 下方に堰堤らしきものが見えてくると大成峠への分岐点だ。その少し下方林道脇に新たな石柱発見、「此ノ山上内藤重則戦歿之地」とあり、教育委員会が立てている。この地域の山域は内藤宗勝が討ち死にしたとされているが、それは内藤重則であるという説もあり、そういった経緯でこの石柱が立てられたのだろうが、史実として定かで無いことを教育委員会の名で立てるというのは如何なものかと思う次第である。P1010371 P1010376
 
内藤重則の石碑とげんさん屋敷近くの地蔵。



 さて、少し戻って蛇ヶ谷本流と大成峠への支流との二股に廃屋跡がある。これがげんさんの屋敷と言われているもので、かつては山仕事で財をなしたという屋敷跡である。明治の地図にも二棟が建っており、道を挟んでトタンの小屋跡もある。ここには手水鉢などがあり、作業小屋跡のようにも見えるが、残存状態から屋敷より新しいものかも知れない。また土手を少し上がったところに地蔵さまが祀ってある。ブロックのお堂や花筒をみると誰かが管理しお詣りをしておられるようだ。
 ここから大成峠までは植林の中の陰気な谷を遡る道である。P1010379P1010354

大成峠への登りと峠から蛇ヶ谷側を見る。



  数時間前に通った峠にたち、少し休憩の後元来た道を観音堂の所まで降りる。自動車で立木駅まで出て解散、有意義な半日であった。山行記録終わり。

今日のじょん:昨日ジローの調子がよろしくないというので様子を見に行った。食欲は異常なほどあるそうだが、全然身につかず怖ろしく痩せこけている。というより腰からお尻の筋肉が落ちているということだ。歳も歳だから致し方ないということだが、なんとも気の毒だ。老いるということの辛さ哀しさが身に浸みる。
 なーんて他所のワンを心配していたら、じょんが具合悪くなってきた。今朝は一回吐いていて、その後も二回吐いてしまった。三回目は少し吐瀉物に血が混じっているようで、人間で言えば胃潰瘍のようだ。P1010406
 それよりなによりかみさんの弱りようが堪らない。落ち込んでしまって布団かぶって寝てしまう始末、、、、こちとらが病気になりそうだ。
元気ネエゼ。

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大成・三郡山(3) 3/23

2012-03-24 | 山・峠

2012.3.23(金)雨

 大成峠に向かう道は両脇に廃屋跡が続き、もの悲しい感がする。大成の大部分がこの道沿いに住まいしていたと見て良い。常夜灯から少し登ったところ、左側にコンクリート枠の池が残っている。聞くと防火用水だということだ。これほど高いところに来ると水は豊富には無い。火事に対する用心は相当であっただろう。消防ポンプもどこか備えてあったそうだ。
 
この地域は離村が早い時期であったようで、土蔵など残っている家は無い。柱や家財の一部が残っているもののほとんどが自然に還ろうとしている。ただ屋敷跡がはっきり分かる石垣だけはしっかり残っている。すべてではないが誰が住まいしていたかが分かる塩ビの標柱が立っている。これは何のためだろうか。P1010342 P1010343 P1010347
 



左:植林の中に屋敷跡の石垣がつづく。
中:柱の残骸に街灯の破片
右:屋敷跡に立てられた塩ビの表札、何かの調査の跡か。


 そしてある一軒にお墓の跡が残っていた。これは妙なことである。なぜならお墓は下流の集合墓地に移されたはずだからだ。明治何年だかの先祖代々の石塔があり、その付近にかなり古いと思われる五輪塔などが苔むしている。そして右手に朽ちかけた木造の龕があり、中にはこれまた古そうな五輪塔が入っている。
 このような形で墓地が存在することは、この地も両墓制であったのだろうか。
また、ここ一軒だけに墓地が残っているのは共同墓地が出来る以前に離村をされた家かもしれない。明治期に既に二軒が離村しているからだ。P1010345 P1010346
 




 屋敷跡が途切れて勾配もきつくなったあたりに二股があり、道標がある。「右大ばら左やま」とあるのだろうか、大原神社への参詣の盛況さを物語る。大原神社に参詣することを大原指(おおばらざし)といい、春指、秋指などと年中祭礼があったようだ。
 大原への道を辿ると杉木立の中の大成峠に着く。大原神社お詣りの人々がここを越えて蛇ヶ谷へ下っていったのかと思うと、嬉しい峠である。大原まであとは下りなんだから。P1010350 P1010353
 
「右 大ばら 左 やま 江」、そして大成峠。



 小休止の後三郡山(みこおりやま・479.9m)へつづく稜線を辿る。送電線の保守道路になっているためか歩きやすい。闊葉樹の明るい尾根道を登って行く。木々の間から長老が岳方面、上林の山々が白く見える。今朝も雪が降ったそうだ。
 やがて左、長者成へゆく道と右、三郡山山頂に行く道とに分かれる。数分で山頂に着くが見通しもきかないなんて言うことも無い山だ。P1010355

三郡山山頂


 早々に北向きの尾根を降りて行くと、ちょっとした広場があり、地蔵や板碑、道標などがある。P1010360P1010359P1010358




左:「右ハ かアい 大原 左ハ大なる」
中:一番古そうな板碑
右:「右 上ばら ???下のかいち」弘化三年の仏蔵道標 


    ここは一種の交通の要衝的なところで、上原、下原からの道は登りが終わったところだし、ここから下替地(したのかいち)、大成、大原へと分かれる所でもある。大成へは今来た道を辿れば良いし、大原へは長者成から蛇ヶ谷への道を辿れば良い。下替地へは三郡山の北を捲き、何鹿船井郡堺の尾根を下って途中から下替地に向かう支尾根を行く道があったのではなかろうか。またその支尾根の分岐から南に行くと大成の片山さんや樋口さんの家、いわゆる北谷にむかう道もあったようだ。つづく

今日のじょん:大好きないくみちゃんが居るのでヒコヒコ。でも雨降りで植木市には連れてってもらえないでがっかり。しゃーないので見送りの車には一緒に乗せてもらっていきやした。疲れた、、、。P1010391 P1010397 P1010403
 

  

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大成・三郡山(2) 3/22

2012-03-23 | 山・峠

2012.3.22(木)曇

 観音堂の裏手を北に細い山道をトラバースしていくと樋口家の屋敷跡がある。屋敷は完全に壊れて、土蔵のみが残っている。土蔵というのは湿気にも腐蝕にも強いのだろう。完全に廃村となったのが1966年ということだから46年以上経過しているから驚く。わたしの家の土蔵(川合)など30数年で崩壊してしまっている。建物の大きさに関係しているのかとも思う。この山間の斜面に建てられた土蔵は一回り小さい、屋敷にしたって跡地を見る限りかなりこぢんまりしている。貯蔵用の穴や貯水の枠など生活の跡が偲ばれる。P1010328
P1010329P1010330 



左:樋口家土蔵 中:庭石か 右:貯蔵用の穴

 さらに北に向かい谷を渡ると片山家の屋敷跡があり、同様に土蔵が残っている。ここは出身のご婦人が参加しておられ、ここがお風呂、ここが座敷と説明をして頂いた。村を出て以来半世紀近くたって初めての里帰りをされ、どのようなお気持ちだったのだろう。わたしは彼女が小さい頃、あの山道をランドセルを背負って学校に通っている姿を思い浮かべる。学校は一、二年生は立木(たちき)の分校に通い、それ以降は安栖里(あせり)の小学校に通ったそうである。立木までは2Kmぐらいだが、安栖里まではそれから5Kmほどある、立木からは汽車を利用していたのだろうか、聞き忘れてしまった。今では植林で陰気なところだが、かつては開かれた明るい村だったろうと想像される。それにしても道巾や傾斜は変わらないところであり、子供の足では通学も大変であっただろう。P1010333 P1010332 P1010338






左:片山家土蔵 中:手吹きの瓶 右:家の手前の谷、かつては橋が架かっており、水車もあったそうだ。


 廃村後土蔵は荒らされるものらしい、各家にあった什器などは置いていくからだ。わたしの家の土蔵も荒らされたが、ここも同様に荒らされたようだ。皿や漆器などさしたる価値が無いとしても、骨董市では相当の値段で取引されているようだ。
 それでも持って行きようのない手水鉢や壺などが残っており、生活の跡が偲ばれる。その中に手吹きガラスの瓶が数個と何に使うか分からない道具があったので、かつての住人にお断りして戴くことにした。道具は田の草取りの農具だった。歯車式のは一般的だが、すくい取るタイプのこの農具は初見であった。
 家の横の谷には橋も架かっており、水車もあったと言うことだ。観音堂から奥には明治の古地図には三軒の家が載っており、もう一軒はかなり上部にある。集落全体がいわゆる高地性集落と言えるのだろう。
 再度観音堂への道を還り、大成峠への道に向かう。等高線の緩んだこの緩斜面が大成の名の由来であり、大成集落の中心地だと言える。林道の脇に大きな常夜灯が立っており、この林道の上が参道であることが分かる。常夜灯は巨大なもので、元治元年(1864年)の銘が刻んである。大成のシンボリックなこの常夜灯をいつまでも残して欲しいと思う。つづくP1010339

常夜灯から右へ参道があり、真っ直ぐ登ると大成峠に続く大成のメインストリート。


 今日のじょん:じょんたんの記事(3.20)に肝心のじょんの写真を忘れていた。改めてアップしておくことにした。ただしあんまり良い写真では無いので期待しないこと。
 パオパオさんのコメントに誕生日がはっきりしている云々とあったのだが、本当のところは分からない、信太山のスタッフが観察を続けていて、その前後関係から3月20日となっているだけのことだ。
 

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大成・三郡山(1) 3/21

2012-03-22 | 山・峠

2012.3.21(水)晴れ

 廃村を訪れるのは表現のしようのない郷愁感のようなものを覚える。ましてや幼い頃にその地を離れ、一生訪れることは無いだろうと思っていた人が半世紀ぶりに自分の育った家、いやその家のあった場所を訪れたら、それはどんな気持だろう。
 離村、廃村の哀しみは、非可逆性にあると思う。絶対にその村には帰らない、帰れないということである。
 村を出たものはそのことが最も幸いで、最良の判断であったと思い続けなければならない。しかしその地は数百年、千数百年前に先祖達が入植し、何代も何代も同じ事を繰り返しながら、少しずつ生活を改善してきた土地なのである。その長い年月の人間の営みを一瞬にして破壊し放棄するのが文明のせいであるとしたら、文明って人間にとって何だろうと思わずにいられない。

 里山ねっと・あやべの計らいで、大成(おおなる)、三郡山(みこおりやま)を訪ねることが出来た。立木駅に集合したメンバーは総勢14名、その中には幼い頃を大成で過ごされた方がおられた。

 立木駅集合     9:00  分乗して出発
 林道終点出発    9:40
 観音堂出発     9:55
 樋口家土蔵出発  10:10
 片山家土蔵出発  10:20
 大成峠出発     11:14
 三郡山着      12:00
      発      12:10
 長者成昼食     12:30   
 出発         12:55
 大成峠        13:55
 林道終点着     14:18

  立木駅に集合して、自己紹介ののち車に分乗して出発する。大成川は岩盤の渓谷で美しい。鏨の跡のある岩などもあり、良い石材が出たのだろうか、石柱や石板に向いた石が見える。かつての大成道は川沿いの道で、川を渡る所もあり大変な道であったそうだ。右岸には田んぼの石垣が続いており、耕地の少ないこのあたりでは厳しい耕作が行われていたのだろう。今冬の雪で倒木があるが、林道はきれいに整理されている。どうやら山仕事に入っておられるようだ。右岸上部に共同墓地跡があると聞いたが、乗用車の中では確認できなかった。
 谷間に博打岩という大岩がある。上流側がえぐれていて、いかにも博打場風になっているが本当に博打が打たれていたかどうかは定かで無い。P1010381
 
立木駅から大成に向かう林道、車上から上手く撮れなかったのだがこの少し上に博打岩がある。


 やがて観音堂下の林道終点に到着、駐車の後観音堂にむかう。この観音さまは養蚕にご利益があるということで、例祭時には近郷近在から多くの参拝者で賑わい、狭い前庭には十軒もの出店が出たという。P1010323
 
観音堂から林道終点駐車場


P1010321
観音堂、よくぞここまで管理してこられたと思う。


P1010324
この前庭に多くの出店が出たという。


P1010325
裏手にある地蔵や五輪塔、相当古そうだ。


 ご本尊は十一面観音だそうだが、管理が困難なため近々麓のお寺に預かってもらうというお話を聞いた。残念なことである。
 観音堂の裏手に石仏や五輪塔で相当古いものがあり、歴史を感じさせられる。

今日のじょん:木下ぽんぽこぽんも慣れてきたとはいえ、なかなか大変な時もある。なだめすかしてやっと成功する状態である。
 最初はボールの位置が判っていても、知らん顔している。P1010312




そのうち励まされながらボールを取ろうとするんだが、なんとも腰の引けた頼りない様子だ。P1010314
 



近づいて励ますとようやくボールを取って、なんとも自慢げな顔。P1010315
 
 

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じょんたん 3/20

2012-03-21 | 日記・エッセイ・コラム

2012.3.20(火)曇

 ハッピバスディ じょんちゃん
 ハッピバスディ じょんちゃん
 ハッピバスディじょんちゃん
 ハッピバスディ デュア じょんちゃん
 ハッピバスディ ツユー

 てなわけでじょん君が四歳になりやした。信太山の野犬のレンの子として2008年の今日生まれたそうだ。その3ヶ月後にじょんのび村に来たわけだけど、あれから四年、まあ色々なことがあったなあ。マーブルだってくるみちゃんだって、同じ時に同じお母さんから生まれて、みんなそれなりにそれなりの犬生を歩んでいる。運が良いとか悪いとか、幸せだとか不幸せだとかそういうことじゃ無くって、生きていることが幸せだと思ってなきゃあやってられない。そりゃあ人間だって同じ事、生きていることが最低限の幸せなんだよ。Img_0749

じょんのび村に来た日(2008.6.19)


 レンがどうなってるか分からない、信太の仲間がどうなってるか分からない、それだって良いじゃないか、君たちが生きていて、幸せがあるんだから、、、。
 てなわけで今日は特別に肉の混じったフードを頂いている。わーてんのかなあ?
P1010318
肉入りのフード食べてるところ。



【作業日誌 3/20】
郵便受け箱庇取り付け
P1010317_2
雨が降り込むので急遽取り付け


じゃがいも植えつけ(キタアカリ、ニシユタカ)

コメント (1)
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上林氏 3/19

2012-03-20 | 日記・エッセイ・コラム

2012.3.19(月)雨、曇

 上林氏(かんばやしし)っていうから、歴史カテゴリーかなと思いきや、そうではないのだ。上林君ってえのが来じょんして上林姓のルーツを探るためと言うから驚きだ。群馬県から休暇を利用して来たという、生まれは山形県の庄内と言うから嬉しいじゃありませんか。
 上林に住む人だって上林氏の経緯についてさしたる興味も持たないのに、山形に生まれ群馬に住む彼が自分と同じ姓の上林を訪れてみたいとは、頭の下がる思いである。P1010307
 他のお客さまもあって詳しいことは語れなかったが、ざっとのところだけお話しして、城山に行くようにとアドバイスした。
 上林氏九代の氏忠が宇治に出て、その後茶業で名を馳せたことは多くの知るところだが、他の末裔がどこでどうなったかは定かで無いようだ。上林に上林姓が無いほど徹底的に追放された理由は、上林氏が浅井長政と同盟を結んでいたからということを川端先生からお聞きした。さほど強大でも無い上林の一勢力を、敵と同盟関係があるというだけで徹底的に殲滅するという戦国時代の非情さが今更ながら感じられる。Img_2744Img_4764   
Img_4769 



上林城趾、古井戸跡、看板



 上林君の言によると学生時代の先生が舞鶴市出身の上林姓であったと言うことだ。上林のこともその先生から聞かされたのかも知れない。
 ここで上林の読みについて考えさせられることがある。わたしは「かんばやし」というのはこの地方独特の訛であって、普通は「かみばやし」と読むのだろうと考えていた。ところが全国に散見する姓をみても「かんばやし」と読ませるのが一般的なように思われる。地名については調べたこともないので何とも言えないが、興味のわくところである。
 信長によって攻め滅ぼされた上林氏の末裔がどこかで生き延びたのだろうか、はたまた絶えてしまったのだろうか、舞鶴の上林姓は脈絡があるのか、知らないことばかりである。上林君には「晴徨雨読」を見てくれって言っておいたのだが、何時の日か上林氏について真剣に取りあげてみたい。

今日のじょん:心臓の悪い人は、写真を見ないこと。
「堰のとこに大きいもんが死んでるそうやで見てきて」とかみさんが言うもんだから、おっかなびっくりじょんと赴く。堰に近づくと数十匹のカラスが一点から飛び立つ。何とも気味の悪い光景だ。
 やがて斜面に立派な角のでかい鹿がお尻をこちらに向けて倒れているのが見えてくる。一部赤く見えるのはカラスにつつかれているのだろうか。
 猟犬のどんべえは遺体の方へ引っ張っていくそうだ。じょんは知ってか知らずか知らん顔している、これって幸いかな。P1010308 P1010310

 

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三和の軽トラ市 3/18

2012-03-19 | 日記・エッセイ・コラム

2012.3.18(日)曇

 丹波みわ・コトおこしってことで、三和で軽トラ市が開催された。どんなもんかなと午前中店を抜け出して、村上さんも骨董品なんかを出店しているというのでひやかしを兼ねてじっかんさんと見に行く。
 10時のオープン前に行くが、結構な人出で沢山の出店が出ている。雨天の昨日は志賀郷の最後の三土市(さんどいち)が開かれて、天気が気の毒だったが今日は雨の心配は無さそうでまずまずといったところだろう。P1010303


開会前からちらほら。

P1010305

いろんなイベントで盛り上がり。


 ステージでは会長さんの挨拶ではじまり、その後は太鼓やダンスのイベントが続く。概して食べ物が多いが、アクセサリーや工芸品の店などもあり楽しめそうだ。
 こういうイベントが各地で目白押しになってきて、専門に廻っている業者も多くあるそうだ。その店のファンはいつでも楽しめて良いかもしれないが、逆にどこにいっても同じ様相でがっかりという方もおられるだろう。弘法さんで出てる店が天神さんでも出ていてなんじゃいなと思うようなものだ。やはり各イベントで特色のある、他のイベントでは無いような店を用意することが必要だと思う。
 村上さんの店はこのイベントでは特異な存在で、どうなることかと見ていたら、なかなかの人気で、こういう古い物が好きな人はいるもんだと感心する。おまけに良心的な値段で、かなりお得に買えそうだ。P1010300 
 
蓄音機からは福知山音頭が、、、。



P1010302
壺、徳利、猪口お買い上げ。



 後で50円のネギを買って帰ろうと思っていたら、あっという間に無くなっていた。やはり三和ならこういった野菜などを中心にやってもいいんじゃないか。
 店があるので早々に帰るが、軽トラ市帰りのお客さんもあり、「どうでした?」と聞いていると、まずまず成功という声が多かった。今回限りでは無く続けてやって欲しいイベントだ。P1010304

軽トラ市で軽トラ売ってる、シャレが効いてて思わずパチリ。



 今日のじょん:楽しいぽんぽこぽんもジャーキーも上の空、いくら呼んでも応えない。この集中力はなんだ、その視線の先には近所の人が池さらえをしているのだ。P1010298 P1010299  

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続・峠再生情報交換のつどい 3/17

2012-03-19 | 山・峠

2012.3.17(土)雨

 由良川から大原に流入する文化の流れは大簾(おおみす)から中津戸へ入る峠を想定していた。それは大原神社が美山の樫原から遷宮されたということからである。その間にどのようないきさつがあったか調べていないのだが、古くからのつながりがあったことだろうと推測する。しかし地形図で見る限りでは由良川と大原の最短ルートは和木ー蛇ヶ谷、下原ー蛇ヶ谷なのである。
 大原には沢山の興味深い伝説や風習があるという。民俗学的に大変興味深いところだが、わたしが知り得ているのは蛇ヶ谷の大蛇伝説、産屋そして今回聞いた鮭を食さない習慣などである。調べれば多くのことが発見させるのだろうが、実はもう手一杯なのである。大原については自然体で調べていこうというのが本音である。
 いつか大原について解明したいと思うのは、若狭に対する大唐内と由良川に対する大原が同様の立場にあるというふうに思うからである。
 今大原について調べたいことは、過去の文中に述べていることだが、引地地名があることだ。「引地のこと」の記事は随分中断しているのだが、それは進展が無いからである。引地地名は全国に無数に存在するのに、近隣には見つからない。上林で大字をなしている地名が大原の小字にあるのだ。面識のある方に尋ねたことがあるが、どこにあるか不明で、どうも山間の小字のようだ。
 もうひとつはわたしの母が尋ねたという井戸堀職人のことだ。大原神社から数キロ谷を遡ったというとだが、蛇ヶ谷なのか中津戸の谷なのか、はたまた何という姓なのか。どうでも良いようなことに思われるかもしれないが、凄い宝物が飛び出してくる玉手箱のような気もするのだ。
 今回のつどいに配付された資料に「丹波高地東部における廃村化と耕地荒廃の過程」という論文があった。対象は京丹波町和知の大成、草尾、塩瀬の三集落である。上林からは山一つ向こうという所だが、源流域ということではなく、むしろ由良川中流域の支流の地域で、国道や鉄道にも近く、廃村と言うには違和感を憶える地域である。Img_3676

大簾、草尾、塩瀬方面の山を望む。


 
北山を巡る山旅の中でいくつかの廃村を訪れているが、見過ごしているものも多く、意識しても単にノスタルジックな感傷に浸るだけのものであったが、この資料を読むに当たって、深く考えさせられるものがあった。それは自分自身が経済的、その他の不幸な事由で生まれ故郷を去らなければならなかった一家の一員であったと言うことも大きく影響している。しかもわたしも家族も離村したことが正しい判断であって、そのことが幸せであったという風に思っているから余計複雑である。
 廃村、離村と言うものがいかに不条理で不幸なことであるかと思ってきている。経済的社会的変化の犠牲、高度経済成長、工業化の人身御供となって農山村は潰されてきた。そしてその補償は何もなされていないのだ。これは人の権利の問題である。
 つどいの中で廃村大成に残された土蔵やお墓の映像があった。虐げられ見すてられた者たちの苦渋に満ちた声が聞こえるようだ。
 21日に大成、三郡山方面を訪れる山行が計画された。今まで行った廃村八丁や廃村宝尾とは違った視点で大成を見てきたい。この項おわり。

今日のじょん:昨日じょんのび村の雪が解消した。ピーク時の2月5日と比べて頂戴。雪遊びおわり~ん。P1000986 P1010295   

 

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峠再生情報交換のつどい 3/16

2012-03-17 | 山・峠

2012.3.16(金)曇

 里山ねっと・あやべ主催の峠再生情報交換のつどいに参加する。今回は第三回目で、「三郡山(みこおりやま)の大原越えと大成(おおなる)・長者ヶ成」という議題で山家(やまが)公民館で開催された。
 2月5日(日)  大栗峠とその古道 綾部市観光センター
 2月18日(土) 小畑の宗峠と秋葉さんの尾根 本城奥公会堂
と開催されて、今回が最終と言うことだった。大雪のため宗峠(そうとうげ)の回には参加できなかったのだが、それぞれの峠に思い入れがあって楽しく参加させて頂いた。
 大栗峠については「大栗峠考」の中で詳しく書いているので割愛するが、宗峠は文化の先発隊が大江から綾部に入ってきた重要な峠の一つと思われる。わたしは「瀬尾谷のこと」(2012.2.18他)で述べたシオ地形が宗谷の地名由来と予想していたのだが、里山ねっとの朝倉氏に「鉄を表すソフもありますよ」と言われて一本取られた感じである。思えば峠の向こうは大江山の鉱山地帯である。小畑には金谷、別所といった金属関連地名も存在する。ともあれ宗谷、宗峠を実際に目にしたいと思うところである。
Img_3421
2009.11.14、偶然に撮った写真。宗峠あたりだろう。


 4月14日(土)、綾部里山交流大学の一環として、宗峠周辺の清掃登山が開催されるのだが、店の都合もあり参加が難しそうだ。

 本日開催された三郡山の大原越えというのは、山家(やまが)から三郡山を越えて福知山市三和町大原(おおばら)蛇ヶ谷に至る峠道で、多くの石仏、石標があり、伝説の長者ヶ成などもあって興味深い。また、立木(たちき)から大原に向かう途中、三郡山南東斜面には大成という廃村もあり、ここも一種の高地性集落ではあるまいか。
また和木から大原峠を越えて大原蛇ヶ谷に到る道も古くから交流のある峠と言われている。Img_6283
 
元旦の大原神社の賑わい(2008年)


 これらの峠道はやはり大原神社詣での信仰の道といった性格が強いが、大原神社が遷宮されたという弘安二年(1279年)以前にはどうだったかということになる。もちろんもっと太古から峠道はあっただろうし、それは日本海からの文化の通り道であったろう。大原の文化は由良川、土師川、川合川を遡ったわけでなく、若狭湾から直接上林や綾部に到り、由良川の流域から直接峠を越えて流入したと考える。つづく

【作業日誌 3/16】
薪切り出しP1010294

三日かかって一週間分かな。



 今日のじょん:久々にシャンプーをする。体重測定をするとなんと18.8g、一ヶ月で400g増加だ。一応許容範囲ではあるが、食事のコントロールが必要とかみさんは言っている。
マーブルママにもらった高級な、おそらくおとーが使っているよりずっと高級なシャンプーを使ったので、毛がふかふか。P1010296



といっても写真じゃ分からないか。 

 

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