晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

屈辱からのスタート 3/31

2013-03-31 | Dog

2013.3.31(日)曇

 Wan's  Game 2013 in みわ に参加する。レトリーブとドギーダッシュにエントリーし、ここ2週間ぐらいかバッチリ練習を重ねてきた。その様子は本ブログでお知らせのとおりで、完全に優勝圏内である。

</object>
YouTube: 当日練習

</object>
YouTube: 本番

 ところがだ、このビフォアアフターの動画を見てくれ、悲惨な結果である。
 能力がないのなら諦めよう、実力がないのなら諦めよう、充分それらは揃っているのに本番で発揮できない。こんな悔しいことがあろうか。
 主催者は「順位じゃないですよ、飼い主とふれあう1日が大切なんですよ」なーんて言ってくれるんだが、そんな気持には決してなれないんだ。中型犬のクラスはボーダーコリーが上位独占である。雑種なんざめじゃねえと言われているようで悔しいんだ。

P1040179  



ボーダーコリー、これだもんね。カッコいい。

 「なんでいつもどおり出来ないんだ」とじょんに当たりたくなるが、それがじょんのせいではなくて自分自身のせいなのはよく解っている。
 「こういう性格なんだから無理やで」というかみさんの言葉に、もう競技的なことは止めようかとも思ってしまう。
 鉛を呑み込むような昼飯と夕飯を過ごして、ますます悔しさが増してくる。
 性格なんて変えられる訳がない、でも性格変えなくても自分の能力を最大限発揮できることはでるんじゃないか。そしてそれがじょんにとってもわたしにとってもHappyなことだったらそれは最高である。
 場慣れすることですよといわれるのだけど、催しが毎月のように在るわけじゃ無く、あったところで店している私たちがそう出かけられるものじゃない。今日だって無理矢理休業して参加したんだ。
 出かけられないなら来て貰えば良いんだ。幸い6月からドッグランどを設置予定だし、みんなで練習すれば楽しいし場慣れもする。
 な~んてちょっと前向きな考えが出て来た。もちろんしろーとのすることで、競技会なんて出られないけど、草レースで良いじゃないの、じょんのびのドッグランどで練習したワンが自分の力を目一杯発揮できたらそれでいいんじゃないの。
 京都から来たキクちゃんには完敗、キクがえらく見えてきたぞ。じょんは落ち込んで帰ってきたが、キクはずいぶん得るもんがあったんでねいかい。
P1040175 P1040197




キクちゃんのビフォアーアフター。


【晴徨雨読】186日目(2007.3.31) 佐世保~平戸口
 何の変哲もないところを走る。平戸街道の看板につられて江里峠を越えるが、なんともうら寂しい山道であった。
 平戸口のYHは値段も良いけど温泉有り、ヒラメ料理(オプション)ありでいい宿である。
Img_3733 




部屋は段ベッドだけどとても清潔。

【今日のじょん】:本文登場でお休み 

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上林の盃状穴(12) 坂尾呂神社-1 3/30

2013-03-31 | 歴史・民俗

2013.3.30(土)曇  上林の盃状穴(11)は2013.2.16参照

 坂尾呂神社(綾部市睦寄町鳥垣)は須佐乃男尊を祭神とする古社である。
 第二義的盃状穴の場合は古社であるか否かは関係ないが、この周辺には十数基の古墳があり、古代の上林の中心地であったと考えられる。そのため、古代祭祀にまつわる第一義的盃状穴があるかもという淡い期待を抱いて昨日坂尾呂神社を訪れる。
 そしてもうひとつの期待は3月3日に発見した鉄滓の出所が解るかもしれないというこれまた可能性の低い期待である。P1040146
 



坂尾呂神社参道入口、急な石段で三段となっている。

 馬場先といわれる坂尾呂神社の参道から石段をひとつづつ観察して行く。
石材には多くの窪みがあるが、それは自然のものである。盃状穴の条件はきれいな円状に穿たれていること、内面が滑らかであることであろうか。それは石材で盃状穴を穿った場合そうなるからである。
 最初の石段は3段となっている。中段の中程でそれらしい穴を3個見つける。真円状に穴が穿たれており、内面も滑らかだ。他の石段にある窪みとは明らかに違う。
P1040148



4個の一直線上に並んだ盃状穴らしきものを見つけるが、穴が浅くて不鮮明である。

 スケールを当てて写真を撮ろうとすると、3個の穴の右にもうひとつあることに気付く。都合4個の穴があったのだが、気になるのは穴の深さが壱鞍神社のものと比べて浅い。
 写真に納めて先を急ぐ。しかしこの長い石段には他に見つけることは出来なかった。
 石段を上がりきると、坂尾呂の里として整備された公園となっている。土壌はこの地方特有の赤土で、ここは特に赤っぽい。石造物はほとんど無いので盃状穴の可能性もない。この場所は周囲を見渡せるすこぶる気分の良いところで、植樹された桜などが成長したら上林でも有数の名所となるであろう。P1040150
 



坂尾呂の里から鳥垣、草壁川、庄方面を望む。鉄滓を発見したのは左隅下で、流れ着いたとしたら、草壁川のいずれからかとなる。

 さて、この坂尾呂神社の馬場(参道)はひょこりひょうたん島のようになっていて、本殿に向かう部分は瓢箪のくびれのようになっている。そして鳥垣から小野田に向かう道路が横断している。この舗装された道路が往古から有ったものか解らないが、少なくとも坂尾呂の里から下って本殿に向かう石段は新しいものである。このコンクリート製の石段に盃状穴が在るはずも無く、省略して本殿に向かう。P1040151 つづく



道路が参道を横切っている。

【晴徨雨読】185日目(2007.3.30)長崎~佐世保
 海岸線を走ったので風光明媚なところではあるが、興味のわくようなものも無かった。ただどんな田舎の村でも切支丹の歴史が残っていることには驚く。池島探鉱は興味があったが、どうやって渡航するのか、面倒な気がして行かなかった。
 佐世保の街も見るほどのものも無く、名物佐世保バーガーも買ってきて食べたが、冷えていたためかまずかった。Img_3717




海岸から池島は見える(右端)、白く廃墟のビルも見える。

【作業日誌 3/30】
ドッグランど柱造り

【今日のじょん】:いよいよ明日はわんわん運動会の本番である。天気が心配だったのだが、夜の予報ではなんとか持ちそうなので安心する。申し込むときは楽しいのだが、近づくと憂鬱になるのは、トライアスロンの試合や大きな山行も同じである。P1040165




朝一番に山の方に向かっていった。夕べなにか来ていたのだろうか。

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続・じょんのびアラカルト ’13.3  3/29

2013-03-29 | 日記・エッセイ・コラム

2013.3.29(金)曇

 鹿の角を拾う
 鹿は春に角の生え替わりとなる。3月ぐらいに田や山に行くとよく落ちている。今回は特別両角揃って落ちていた。これはなかなか珍しいことだそうだ。あまり立派なものではないのだが、刀の台でも作られたらと村上さんにあげる。P1040094




3月19日

 レンギョウがもう咲いた。
 3月3日に植えつけたレンギョウ15本がもう咲いた。まだ花は少ないが総てしっかり咲いていて来年以降が楽しみ。ホームセンターでは1本1,000円近くするそうで、国松さんありがとう。P1040095




これは3月19日咲き始め、今ではもっと咲き誇っている。

 渡辺淳(すなお)さんの絵展示中
 第二弾、猫の絵と川、佐分利川かな、の絵を展示中。
猫じゃらしと猫の絵がとていい、新たな絵手紙の本も追加、是非見に来てね。P1040119 P1040163

 




春を告げる食材
 春はなんといってもフキ味噌、しこたま作ってしまいに飽きてくる。でもこれは2月のことで、本格的な春はイカナゴのくぎ煮である。
 ロードレーサーに乗っている時代にはやっと走れる季節になり、周山街道を一走りして高山寺の茶店でこのくぎ煮で一杯やるのが楽しみであった。そんなくぎ煮を中尾さんが作ってくれるのだ。このくぎ煮は市販のものと違って贅沢な内容で、食べていると生姜と山椒が交互に味と香りがして絶妙、熱燗によし御飯によし、春を感じますなあ。P1040121

 


この味を伝えられないのが残念

椎茸の怪
 植えつけて5年の椎茸が続々と出ている。ほとんどのホダ木は腐ってぼろぼろなんだけど、ちょっと元気な木からは出てくるものなんだ。もう捨てようかと思っていた木だけになんか得したような気分である。
 逆に二夏を越した2世代椎茸の出が悪い。どうもホダ木が悪かったような気がする。細々と半分ぐらいの木から出て来てはいるのだが、幹のところからではなくて切り口のところから出ているのが多い。そんなとこに打ち込んでいないのになあ。
2世代が頼りないので、3世代を5本ばかし植えつける。これはいいホダ木なので期待大だ。P1040137 P1040136 P1040138

 


初代、2世代、3世代。


Windows8導入
 2005年から使ってきたレッツノート、日本一周を共に旅したノートパソコンだが流石にくたびれてきた。というより画像だの動画だのが増え、プログラムもやたら重くなって動きが悪くなってきたようだ。レッツノートはそれなりにいいパソコンだったが、目が悪くなってきたのでデスクトップにする。XPになったときもカルチャーショックだったが、8もなかなかのものだ。より広範囲の作業を誰でも出来るようにしてあるようだが、我々オールドユーザーはなんとなくブラックボックス化されたものには拒否反応がある。
 普通に動かす分には簡単だが、新たなことをしようとしてヘルプを見ると何のこちゃか解らない。メーカーやソフト会社に電話で問い合わせると、かかりにくいのは従来どおりだが、対応は素晴らしくいい。今日はメール設定、今日はウィルス対策ソフト導入、今日はプリンタ接続などと一日一工程で進めている。従来どおり稼働できるまで一ヶ月はかかりそうだ。P1040107




2台同時稼働で狭いこと。


【晴徨雨読】184日目(2007.3.29)長崎滞在
 長崎の原爆関連の施設や遺跡をめぐる。被害の状況は広島も長崎も変わらないのだが、資料館などの展示の方針はやや違ったものを感じる。広島は被害の悲惨さが強烈に出ているが長崎は科学的分析といった面が大きいと感じた。
 余談だが長崎カトリックセンターYHは清潔さは日本一だ。Img_3695




ここで永井博士のことを知り、津和野で乙女峠を訪れることとなる。


【作業日誌 3/29】
ドッグランど、柵作り

【今日のじょん】:今朝、畑に土器片があるのを発見、ネットがあって入れない。遠回りして入っても良いのだけど、じょんが大会前の大切な時期なので、危険なところに行ってはだめだって。P1040144

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シデの山・大栗峠マップ完成 3/28

2013-03-28 | 山・峠

2013.3.28(木)曇

 「鳥垣渓谷からシデの山・大栗峠を訪ねるマップ」が完成しました。
カフェじょんのびではこのマップを設置して、一部100円の協力金を頂いて配布することと致しました。P1040142




 鳥垣渓谷からシデの山、大栗峠にいたる道は山に入る人が居なくて随分荒れていたものを鳥垣自治会の取り組みで整備されました。
 この間坂尾呂神社馬場先の「坂尾呂の里」を整備され、かつて茅場であったシデの山を紹介する冊子「シデの思い出」を発行されています。
 鳥垣渓谷からシデの山に至るルートについては数年かかって倒木を取り除き、薮を払い、道を造ってこられました。特に渓谷部分は倒木や砂利が溜まって大変だったと思います。P1030277
 



鳥垣渓谷第三の滝(晩秋)

茅場であったところは道が確定しておらず、道標やロープなどで案内しております。
登山の楽しみはなんといっても苦労のあとの眺望です。特に丹波の山では植林の成長や雑木の繁茂で眺望のないのが一般的です。
 そのため登山道が鳥垣林道と出合うみとやシデの山山頂では、不要な枝などを整理し眺望が確保できるように整備しました。
 みとには新たに案内板と俯瞰看板を設置しました、天気の良い日には丹後半島や日本海が望めます。P1030286




みとの眺望、日本海まで見渡せます。ここに案内板が設置されました。
 

 みとから主稜線に登る新道はまだわたしも歩いていないのですが、ふりかえる景色が登るにつれて変わってくるという楽しみがあるそうです。
 ハイキング道は人が訪ねてこそ維持されるものです。是非「訪ねるマップ」を手に鳥垣渓谷、シデ山、大栗峠を楽しんでください。P1030299




シデ山頂から丹波の山々、遠く篠山方面まで望めます。

P1030300 P1030303


 


大栗峠への尾根道と峠の地蔵さま、一番好きな所です。


なお、協力金100円は今後の登山道などの整備に使用されます。

【晴徨雨読】183日目(2007.3.28)島原~長崎
島原市と福知山市が姉妹都市であることを知る。三河の深溝(ふこうず)松平の殿様が福知山、島原と国替えしたからだそうだ。現在でも福知山市役所に普賢岳噴火のアルバムなど設置されているのはそのためだそうだ。
 ところがこの殿様、松平忠房公福知山城の文化遺産をすっかり持ち出したために、福知山には何も残らなかったということだ。島原の本光寺に福知山藩の領内絵図などが残っているのもそのためだ。しかしそこまで持って行かなくても良さそうなものと思うが、なにより福知山藩の葵の御紋の謎がここで解けたかに思えた。だが意に反して、この松平家の家紋は葵ではなく、謎は旅の終わり、福知山城訪問まで持ち越されることとなる。Img_3646Img_3648




福知山藩領国図と丹州亀山絵図、こういったものが島原にある訳が解った。

【今日のじょん】:朝の散歩時、31日必着締め切りの応募書類をポスト投函に行く。我が家から500mはあって面倒なのはこの上なく、じょんがひとりで投函してくれたらなあと思うのである。P1040134
  

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じょんのびアラカルト ’13.3 3/27

2013-03-28 | 日記・エッセイ・コラム

2013.3.27(水)曇、雨

 山の写真展
 舞鶴の写真家一瀬さんが沢山の山の写真を見せてくれた。特に大江山に魅せられて、大江山賛歌「わが心の山」で展示された写真や北海道の山々の写真など素晴らしいものであった。特に大江山の池の写真は大江山にこんな池があるのかいなと思わせるきれいな写真である。羅臼岳の写真ははがきサイズのものを頂いたので、店で展示しておこう。P1040044 P1040043





 うなってくれ、高橋
 高橋をうならせたら50万、というキャッチフレーズで第17回手帳大賞が募集されている。実は高橋の手帳はここ数年使っていて、実によくできているので愛用している。手帳大賞は商品企画部門と名言・格言部門がありそれぞれ応募した。内容は未発表のものに限るのでお見せできないが、入賞の暁には公表されるだろう。
 うなってくれ。うーん。お前が唸ってどうすんねん、じょん。P1040071





 薪集めの季節
 雪が少なくて、早くも薪集めの季節がやってきた。とたんに近所の廃材置き場によい薪材が運ばれてきた。さっそく了解を得て貰いに行ったが、軽トラで1分の最高の位置である。せっせと運んで一月分ぐらいはありそうだ。
 もう一箇所はシデ山周辺だが、ここも良質の薪なんだが、現地まで小一時間、しかも運び上げるのに5,60m登るだろうか、大変なところである。でもそこだけで一冬分はありそうだ。P1040069

 


ここから引っ張りだす。(資材置き場)

野焼き
 昨年中止となった野焼きが今年は順調にとりおこなわれた。日曜日の午後で参加は出来なかったのだが、折からの乾燥と風で恐ろしく燃え上がった。
 一夜明けると上林川周辺は見事に焼け野原で、ダニも虫も焼け死んだだろう。P1040086 P1040091




しっかり燃えて、すっかり焼け野原。

【晴徨雨読】183日目(2007.3.27)島原滞在
島原城や武家屋敷など市内巡り。島原鉄道の南線が廃線になりそうというので自転車を止めて鉄道で行く。島原鉄道といえば「まぼろしの邪馬台国」の宮崎康平氏を思い起こす。失明しながらも精力的に取り組まれ、素晴らしい業績を残された氏には驚くばかりである。
 白土湖の樋川洗い場は今になって思うのだが、沖縄の樋川(ヒージャー)と同じものである。どちらが先の文化なのだろう。Img_2922 Img_3635




沖縄垣花樋川と白土湖樋川、同じ文化だろう。


【作業日誌 3/27】
檜皮むき

【今日のじょん】:野焼きが済んで河原周辺の地面が出てきた。写真の場所は最初に鉄滓を拾った場所である。ところが防獣ネットが張られて入れない。でも草が生えてくる前に一度しっかり再調査してみたい。じょんも入れないのだ。P1040133

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ウッドデッキ奮戦記(9) 3/26

2013-03-28 | DIY

2013.3.26(火)曇

 板を張り終え、階段を造り、暗渠排水をした所で一応の完成としたい。それは予算的に完成ということである。???P1030948
P1030702 




階段とポール立ての作業


P1040016P1040026 


 

西側植木ホールと暗渠排水溝掘り

P1040083



とりあえず完成。3月17日。


まだ周囲柵の作製やイス、テーブル、犬のつなぎなどすべきことは沢山残っているのだが、予算5万円の分はここまでなので、そういう意味で一応の完成としたい。
品名             単価   数量  金額

 

<colgroup><col width="143" style="WIDTH: 107pt; mso-width-source: userset; mso-width-alt: 4576" /><col span="3" width="72" style="WIDTH: 54pt" /></colgroup>
アングル 58 4 232
アングル 82 9 738
アングル 218 2 436
アングル(大) 110 8 880
一文字 98 2 196
角材90×90×3m 1150 5 5,750
沓石180 0 1 0
沓石240 810 9 7,290
沓石300 980 6 5,880
ゴム板 158 3 474
ゴム板 108 1 108
198 2 396
セメント 398 1 398
刷毛 248 1 248
バラス 148 2 296
ペイント薄め液 980 1 980
ボルト 84 4 336
水糸 78 1 78
木材保護材1.6L 2880 1 2,880
木材保護材3.2L 4880 1 4,880
0 0
合計 47,604

一応予算内であるが、この間に買った工具等や手持ちの材料や塗料等は入れていないので、細かく換算すれば予算どおりかもしれない。
前回以降の行程は、
パラソル立て据え付け、西側植木穴作製、床張り終了、階段作り、暗渠排水である。なお、今後の行程はドッグランどづくりの一部として紹介していく予定だ。

【晴徨雨読】182日目(2013.3.26)熊本~島原、平成新山をめぐる。
普賢岳の噴火は記憶に新しいところだが、現場に行くと何とも表現のしようがない恐ろしい光景が広がっている。特にその時に多くのニュース映像が流れたので、その火砕流の映像などが思い起こされる。自然というのは何とも恐ろしくも
Img_3578 、偉大なものである。
 




壮絶な火砕流の跡

【作業日誌 3/26】
ウッドデッキ柵用柱穴掘り、柱準備
薪割り

【今日のじょん】:ワンちゃん達の毛抜けの季節となっている。いつもの河原に行くと毛を梳いた跡がある。以前にも同様の毛があったのだが、不思議なのはそういう毛色の犬が近所にいないことだ。また、近所でそこまで世話をする様な飼い主もいそうにない。ということは誰かがこの河原に来て毛を梳いているんだろうか。都会なら何でも無いことだが、気になる一件である。
P1040129


くんくんくん。

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雨読 和鋼風土記(2) 3/25

2013-03-27 | 雨読

2013.3.25(月)曇、雨

 こうして中国山地を旅しているとたたらの跡や資料はいたるところに現れ、否応なく興味を持つようになるのだが、旅が終わって数年後これほどまでたたらや古代の製鉄に関心を持つようになるとは思ってもみなかった。そういう意味でも今、菅谷を通らなかったこと、自身の目でみることができなかったことが悔やまれる。
 たたら炉や地下構造、たたら製鉄の技術的な事柄や言葉、用具や職人の役割など様々な事柄を書物の上では何度も読んで知っているつもりでいたが、本書の中で今更聞けない重要なことを知ることとなった。
 それは砂鉄、真砂(まさ)と赤目(あこめ)のことである。
 わたしが考えていた砂鉄に関する分類は、真砂とは出雲等で産出される山砂鉄でチタン分の少ない良質の砂鉄で鋼作りに使用される砂鉄、赤目とは日本中どこでもとれるチタン分やリン分の多い低質な砂鉄ぐらいの中途半端な稚拙な考えである。
 ところが現実の製鉄をなしえた本書による砂鉄の分類はこのようなものではなかった。
 操業一日目には赤目、あるいはコモリ小鉄(こがね)という山砂鉄を入れる。一日目の目的は炉内の温度を上げることだから、炉壁や木炭と反応しやすい砂鉄を使うということだ。赤目は粒子が小さく還元しやすいという理由である。赤目は銑(ずく)になりやすいという。この日使った赤目は大正年間に菅谷たたら周辺の山で採ったものということである。
 また2日目移行に使われる鋼になる真砂小鉄(まさこがね)は皆生海岸で採取した浜砂鉄だということだ。
 また出雲の中でも真砂系、赤目系どちらも産地が存在する。
 わたしの認識では出雲の主要たたらで鉧押しする場合、近隣でとれた真砂系の山砂鉄で製鉄を行っていたというものだが、実は山陰の浜砂鉄を使い、近隣の赤目系山砂鉄も使われていたというわけだ。認識とは逆の事態で驚いている。
 この際真砂、赤目についてはっきりしておこうと手持ちの鉄に関する文献を繰るが、実に様々な分類がしてあって中には正反対のことを言っているものもある。しかしながら、本書の場合現実の村下達が現実にたたら製鉄を成し遂げたのだから、ここに書かれてあることが正しいと思う。おわり

【晴徨雨読】181日目(2007.3.25)熊本滞在、金峰山登山
 自転車が元どおりになって喜び勇んで金峯山なる熊本市民に愛着のある山に登る。といっても頂上まで自転車で行ける665mの山だ。西に霞んだ島原半島を見て、明日行ってみることにする。Img_3555 Img_3550




この向こうに島原、雲仙岳が見えるはずなんだが、、、。



【作業日誌 3/25】
薪運び、シデ山P1040127 P1040124





みとの案内看板が完成、周囲の山名もすぐに解るようになった。

【今日のじょん】:期待じょん桜。2才の誕生日に記念に植えたじょん桜、大きくなったが花は少なく、昨秋には鹿に囓られどうなることかと思ったが随分蕾が着いている。今春は期待できそうだが、この寒さでは今少しかかりそうだ。P1040123

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雨読 和鋼風土記(1) 3/24

2013-03-25 | 雨読

2013.3.24(日)晴れ

 1969年6月から1年間かかって行われたたたら製鉄復元の全貌を記した本である。 
「和鋼風土記 鉄の日本史ーよみがえるタタラの世界」山内登喜夫著 角川選書 昭和50年7月初版 古書
P1040122
 



 消え去っていこうかというたたら製鉄を歴史上最後となる村下(むらげ、製鉄の技師長)や鋼造りなどの技術者を探し出し、実際にたたらを作って行うという画期的な事業の記録である。なお筆者の山内氏が脚本演出をされて岩波映画社の記録映画としても作製されている。
 たたらの技術は一子相伝、門外不出のものであったから、こうして記録に残さない限り永久に消え去る運命にあったと思われる。そういう意味でたたらの造築からなされたということは相当な苦労があったことだろう。
 現在たたら炉の地下構造などは書物でうかがい知ることができるが、おそらくこの復元計画が実行された時の実績によるものなのだろう。各書物に掲載されている写真などもほとんどがこの時のものである。
 高殿(たかどの)の建築、炉の建設、鉄穴流し(かんなながし、砂鉄の採取選鉱)
、炭焼などの準備作業も感動するが、やはり実際の鉄作りの一代(ひとよ、鉧押しの場合3昼夜)は文章で読んでも感動する。これは是非映像で見てみたいものだ。
 たたら復元のストーリーが書かれているのだが、機材や道具、製鉄の技術について具体的なデータも残されていて学術的にも意義のある内容だ。
 この計画が実行されて菅谷(当時飯石郡吉田町菅谷)は一躍脚光をあびることとなったのだが、2007年島根県を訪れた際には、見事に菅谷を迂回してその両脇を通過しているのである。興味の無いということはそのようなものである。
 それでもその東の奥出雲町ではたたら跡を訪問しているし、広島県西条市民俗資料館ではたたら関係の展示も多くあり、三次市の県立歴史民俗資料館では古代の製鉄に関する展示なども豊富にあり、「中国山地のたたら製鉄」という冊子も購入している。つづくImg_4667
Img_4761



穏地たたら跡(奥出雲町、近世)と古墳時代のたたら(復元、広島県立歴史民俗資料館)

【晴徨雨読】180日目(2007.3.24)熊本滞在
 ホイールの組み立てが今日できるのだが、猛烈な雨で取りにいけない。熊本城では無料のガイドを依頼したところ、妙齢の美人に担当して頂く。しかも団体の出た後だったのでわたし一人がお客だった。若い女性と二人でめぐるのもいいけれど、なんとなく落ち着かなくて城見の雰囲気ではなかった。
 酒田市の本間美術館で見た浜田智明氏の彫刻をたずねて県立美術館に行く。さすがに地元であって常設されているのだが、出展数が少なくやや不満。それでも雨の美術館で喫茶室など入っておしゃれな時間を過ごす。浜田氏の作品集はじょんのびにあるのでご覧になりたい方はひとこと。Img_3510




ガイドさん写真撮っとけばよかったなあ。

【作業日誌 3/24】
ウッドデッキ、柵の作製
薪割り

【今日のじょん】:じょんの好きな杉皮。本当は檜の皮なんだけどこれを咥えるとなぜか走り出す。これもじょん犬反射か。P1040117

  

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雨読 沖縄地名考(3) 3/23

2013-03-24 | 雨読

2013.3.23(土)曇

 奥武島(おうじま)について、葬送の地ではないかという記事を書いた。(2011.3.6参照)本書では祓い島の意と解いている。民俗行事の中に害虫や害獣を払って封じ込めるという所作がある。羽地にも同様の四月畦払(あしぶばらい)という行事があり、神職が鼠や害虫をヂャールマ島に流すという。ところがかつては名護市の奥武島に流していたものが、奥武島に人が住むようになって変えたということだ。Img_2571




現在は羽地の向かいの奥武島、屋我地島、古宇利島と架橋されている。写真は運天港からなので屋我地島か。


  そういう意味では南城市の奥武島ももとは無人であったのでは、と書かれている。
 害虫、害風を封じ込めることと葬送の島は矛盾するものではない。現在では多くの奥武島、青島、大島などは有人となっているが、かつては無人であったのかもしれない。そしてその特徴は陸地に近く、小さな島であることだ。Img_2942
 



南城市奥武島の地図、葬送や虫送りの島であったとしてもそれは無人の時代だとしたら、地名や旧跡にそれらしいものがあるはずがない。地名などは人が住んで初めて付くものだから。


 「地名を歩く」(2013.2.27参照)で紹介した、今帰仁村のクンジャーは、汲み井という風に解かれていたが、本書ではクイジ、クンジ(後地)の意味ではないかと書かれている。運天港が前地で運天漁港が後地という意味だろうが、この方が信頼性がある。
 さて本書の中に大変興味ある記事がある。原義の失われた語として、「あか」(久米島、慶良間島の阿嘉)、「ふな」(富名腰)、「てー」(汀間、天仁屋、勘手納)などを紹介している。
 「あか」は崖、「ふな」は坂、「てー」は港ではないかということである。
「あか」といえば小樽近郊に赤岩山というロックゲレンデがある。もちろん強烈な岩場である。赤石岳や赤岳と言った著名な山も色彩の赤(赤石岳は赤石沢の鮮紅色の岩石、赤岳は酸化鉄の色)という説が有力だが、崖という意味があるのかも知れない。
 「ふな」は湯舟、馬船など一定の説があるが、実は坂という意味にすると一致する地名が沢山あることに気付く。この事は別に一項設けたい。
「てー」は、例えば天満などはどうだろう。伝馬船は港の中で使われる船だし、「てー」の意味が生きているのかも知れない。
 このような死語となった言葉も面白いが、本土で死語となった言葉が沖縄や北海道のアイヌ語で生きているとしたら、これほど興味深いことはない。沖縄地名を調べることによって、解らなかった地名の意味が解ってくるかも知れない。おわり

【作業日誌 3/23】
薪割り

【晴徨雨読】179日目(2007.3.23)杖立温泉~熊本市
杖立温泉から中津江、上津江、菊池などを通って熊本に到る道は、金属関連地名の続く道で、鯛生金山などは是非立ち寄ってみたかった。少し離れるがトンカラリンの遺跡もこのあたりだろう。しかしホイルの修理は第一である。いつ壊れるかとヒヤヒヤしながら熊本に行くことしか考えていなかった。そして熊本のクシサイクルさんで実に親切に、しかも旅先とて安価にてホイルを作って頂いた。Img_3506




本当に親切にして頂いたクシサイクルのクシさん。

【今日のじょん】:ワンワン運動会を前にして、気になることが起きてきた。右前足に傷があるみたいで、昨日から血が付いているのだ。朝の練習時に出ているので力を入れたときに出るのかもしれない。普段なら「そのうち治るよ」なーんて言ってられるのだけど大会をひかえて調整が難しい。朝飯も妙な恰好で食っている、何か変でしょ。P1040120

 

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雨読 沖縄地名考(2) 3/22

2013-03-23 | 雨読

2013.3.22(金)晴れ

 沖縄での読み方が解らないと、その語源は探しようがない。だから宮城氏がこの地名は沖縄ではこう読むから、こういう意味がある、という風に解説されると納得するのだが、他の地名について自分で考えようとすると、沖縄での読み方が解らないから仕方がない。
 そのためには沖縄語、ウチナーグチを学習しなければならない。「沖縄語の入門」という本を図書館で探して読み始めているがなかなか難しい。
 今ひとつの問題は、ウチナーグチがヤマトーグチ化していることだ。宮城氏が研究されている大正から昭和初期の時代でもそのことを指摘されているのだから、現在となれば多くの地名や言葉が標準語読みと変わってきているだろう。
 首里の元の村名に寒水川というのがあった。スンジャガーとでも読むのだろうか。今では寒川町(さむかわちょう)と読むそうだ。これでは地名考証は出来ない。
 本書の中でも、アイヌ語との一致を言われている地名がいくつかある。先程のヒラもそうだし、ヤチ(湿地帯、谷)中城村屋宜なども言われているが、本書の中の変わった地名を紹介しよう。
 それは武見坂(ブミビラ、国頭村辺戸)国頭三坂として知られ、勾配はなはだ急にして三十幾曲がりのつづら折れ云々と書いてある。宜名真の南に武見というところがあるが、辺戸ではないのでこの坂の位置は解らない。Img_2764
 




辺戸の山原の森の中にこの坂があると思うのだけど、、。

 武見坂のもとは「ホーミビラ」で女陰見坂という意味である。本土では尻見坂とか尻見峠とか急登の坂の意味で、前を行く人の尻が目の前に来るぐらい急登ということだ。沖縄では尻が女陰になっているわけだが、”ホー”というのをアイヌ語辞典で調べると、「尻、女陰」とある。
 なるほど沖縄語とアイヌ語が一致するのだと思うところだが、実は本土で”ホド”というのが記紀の時代から存在する。女陰を表し、地名としては谷間の奥まった辺りに多い。保土谷は有名だし、丹波では仏主(ほどす)などもそういう地形だろう。
 宮城氏も沖縄の言葉がアイヌに行ったともアイヌの言葉が沖縄に来たとも書いておられない。日本の古い言葉がアイヌや沖縄に残ったという風に考えていいようだ。
つづく

【作業日誌 3/22】
門柱立て
芝生草引き
薪割りP1040115




門柱兼案内板吊りが完成、芝生の緑は雑草、トホホ。

【晴徨雨読】178日目(2007.3.22)山国~杖立温泉
200日以上に及ぶ自転車の旅のなかで自転車のトラブルというのは意外に少なかった。パンクが2回、タイヤ交換1回、ホイル交換1回ぐらいである。ホイル交換は最大のトラブルで、自転車は随分頑丈に作ったものの、後輪はレース用の軽いホイールを使っていた。そのホイールが割れてきたのがこの日である。ブレーキシューに石が噛んで出来た傷が段々成長してひび割れとなったようである。このホイールを交換できるのはこのあたりでは熊本市しかない。サイクルショップにアポとってもらって、熊本に急ぐことにする。日田にも一泊したかったのだが、そんな余裕はなかった。Img_3466




伏木峠の下りから日田市を望む。


【今日のじょん】:今年2回目のシャンプー、体重18,6Kg

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雨読 沖縄地名考(1) 3/21 

2013-03-22 | 雨読

2913.3.21(木)晴れ

 「地名を歩く」に続く沖縄地名の第二弾、発行年度は同様のものだが本書は著者の宮城真治氏が亡くなられて36年後に発行されているのである。
 「沖縄地名考」県下の地名、三百四十一の意味を解く (宮城真治著)沖縄出版発行、平成6年第三刷、古書
 この本を読む場合、「解説 宮城真治氏の沖縄地名研究について」(P183~)を先に読んで欲しい。氏が沖縄地名の研究に着手されたのは大正6年3月(1917年)で、昭和7年7月(1932年)にひとまず「沖縄地名考」が整えられたとある。つまり随分昔に書き上げられた内容なのである。ところが中身は実に科学的で、現在の地名考の手法以上に読者に納得のいくものである。
 実に多くの語呂合わせ的、あるいは神話説話に基づいた地名考に出合ってきたが、これだけ古い時代の研究であって科学的な根拠に従って解明されているものは見当たらない。P1040111
 




 文字に惑わされずに音韻で解釈すべきと言う地名考の原則もこの当時からはっきりと言っておられる。ところが沖縄の音、訛というのは本土の者には尋常に理解できるものではない。ところが本書では沖縄の言葉、沖縄弁、ウチナーグチをストレートに考証されているので、書かれている事項については理解できても、他のものに応用することが難しいのだ。
 例えば首里の町名に「平良」というのがある。”ひらら”と読んで平な土地をイメージするが、沖縄では”てーら”と言うそうだ。余計に平らな地を想像するが、本当は”たーひら”と読まれるもので、高い坂を意味するという。”ひら”が坂とか崖を意味するのはアイヌ語のピラ、比良山のひらなどでも理解できるだろうが、沖縄の転訛する前のよみを知らないと絶対に解けない地名である。つづく

【晴徨雨読】177日目(2007.3.21)宇佐~山国
今日のメインは青洞門、耶馬溪なんだが、宇佐から耶馬溪に向かう県道44号線と耶馬渓鉄道廃線路のサイクリングロードが、通行も無く岩峰の景色が素晴らしい道で、自転車冥利に尽きる一日だった。岩峰って好きなのよね。Img_3420 Img_3437 Img_3440




県道44号線沿い、耶馬溪鉄道サイクリングロードから見る岩峰。

【今日のじょん】:かみさんがビョウーインとビヨウインにでかけたので、じょん君はお留守番。見送るときはこれだもんね。「連れてってくれ~」P1040108




カーテンの隙間から出て行く車を見送っているところ。 

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鉄滓(6) 3/20

2013-03-20 | 歴史・民俗

2013.3.20(水)雨

 3月3日(日)に切った庭木を戴きに鳥垣に行く。馬場先と呼ばれる坂尾呂神社の参道石段の下東北側の畑とも空き地ともいえる切り倒した梨の木が積んであった。薪になりそうな部分を戴いて後片付けをしていると泥にまみれた10cmあまりの穴のあいた石を拾った。もちろんこの石、なにかあるなという思いがあったので、屋敷の庭に積まれている庭石もしっかり観察する。しかしそれらの中には似たような石は見当たらなかった。もちろん庭に散らばっている小石も同様で似かよったものは無い。P1040019 P1040018
 




 自宅に帰ってブラシで泥を洗い流す、濡れている間は黒っぽい感じだが、乾燥すると濃い灰色となる。径5mm~15mmの穴がいくつか開いており、全体には微小な穴が無数に開いている。
 片面は割れた跡のような断面だが、そこの穴はモグラの穴のように横に走っている。つまり気泡が移動したような形状なのである。
 表面は灰色だが、中は薄い黒色である。
 表面に細かい砂状の物が付着しているが、これは欠けた断面には見られず、泥に埋まっている間に沈着したものではないだろうか。この砂粒のようなものは、清水鋳物師の鋳物滓に見られるセメント状の部分とは明らかに異質のものである。
 そして全体にネオジウム磁石を付けるだけの磁性がある。

 結論としてこれは自然石ではない。自然石でないとすればスラグの可能性が高い。磁性があることから見て鉄滓ではないかと考えるのである。
 磁性があるから鉄滓だという論理が成り立つものか自信は無いのだけど、砂鉄なり鉱石が溶融して粘土等と反応すれば弱いながらも磁性があるのではないかと素人考えで想像してしまう。精錬滓だとすると一応鉄が出来上がっているのだから、磁性があってもおかしくないと思うのである。
 逆に上林谷で他の鉱滓が出るとしたら、銅滓の確率が高いだろう。銅滓に磁性があるのだろうか、こうなると専門家に聞く意外にない。

 これが鉄滓であるとなると、わたしが追い求めていた清水鋳物師による鉄滓のありうる場所以外の初めての発見となる。
 上林川で初めて鉄滓を発見したとき、椀形滓らしき鉄滓を発見したとき、そして今回の発見はわたしのビッグ3の発見で、凄く興奮している。
 鉄滓、鉱滓はその発生する場所に驚くほど多量のものがある。逸散したとしてもそれなりに存在するはずである。草壁川、古和木谷、上林川上流域、そしてそれらの支流域のいずれかに必ずあるはずである。
 雲をつかむような状態から、一筋の可能性が見えてきた。小さな石ころが大きな夢を運んできてくれた。おわり

【晴徨雨読】176日目(2007.3.20)別府~宇佐
 国東半島の磨崖仏は高校時代から行ってみたいところと憧れていた。なるほど立派な磨崖仏で感激するが、観光バスの来るような有名な磨崖仏でなく、村々にある苔むし、消えかかったような磨崖仏に惹かれるのは何なのだろう。Img_3385 Img_3394
 



有名な熊野磨崖仏とひっそりとした大門坊磨崖仏、賽銭箱が威張っているが、、。

 熊野磨崖仏から快適に山を降る途中、真木大堂に立ち寄って写真を撮っている。一体何のために立ち寄ったのか、何を見てきたのか一向に記憶に無いのだが、写真があるから行ったのには違いない。実はここに、現在研究中の盃状穴に関係する「燈明石」なるものが存在するのである。そんなことはいざ知らずチラリと寄って過ぎ去っているのだが、しっかり見ておけばよかった。Img_3393




真木大堂

【作業日誌 3/20】
新型パソコン導入、移行作業が大変。P1040107




こんなに大きさ違うのだ。

【今日のじょん】:5才の誕生日である。といっても信太山の山中で生まれた野犬の子なのではっきりした誕生日はわからないのだが、観察を続けていたボランティアの方の言なので間違いないだろう。ハッピバスディじょんちゃんってことでストーブで焼いた焼き芋をあげたところ、随分気に入ったようだ。P1040103 P1040106
 
 

 

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鉄滓(5) 3/19

2013-03-19 | 歴史・民俗

2013.3.19(火)快晴

 念道で発見される鉄滓の多くは清水鋳物師に由来するものと思われるが、総てがそうであるかということは解らない。上林谷で製錬、精錬が行われていただろうと予想するも、鉄滓が近世の鋳物滓である限りそのことは証明できない。清水鋳物師以外の鉄滓の発生を探るには、清水の下流域以外で鉄滓を発見することである。
畑口川清水上流、上林川畑口川出合上流域、上林川支流域で発見することが第一であると気付いた。と言ってもこれは恐ろしく広範囲で雲をつかむような話である。
 これ等の地域に行った際に必ず河原や神社、遺跡の周辺をつぶさに見ることとしている。同じ上林川流域でも支流での岩石構成はかなりの違いがある。そんな特質が解ってくるのだ。Img_3657 Img_3539
 



例えば左は市志の河原、右は市茅野の河原である。

 しかし鉄滓らしきものは見つかることはなかった。しかし念道の府道の北側で1個の鉄滓を拾うことができた。上林川堤防から50mあまり離れている。同時にその地域は土師器や須恵器の破片が多く見つかっている地域である。これ等の土器を作る事ができるのは、鉄を溶融する温度を得られることでもある。鉄滓の形状は例の鋳物滓と似かよってはいるが、流路から離れているので清水鋳物滓とは無縁の物かもしれないという期待も出てきた。P1020895
P1020898



流域から離れたところで発見した鉄滓と発見場所。

 しかしその地点は現在ゲートボール場となっており、造成された土地のようだ。ということはもともとその地にあった過去の遺物が出てくるとは考えにくい。やはり堤防と同じく他所の土砂を運んでいるのではないだろうか。もっと山側で発見されれば別だが、現在の位置では清水鋳物滓と別物と考えるのは難しい。
 そんな時偶然にも新たな発見があった。つづく

【作業日誌 3/19】
耐火レンガ搬入P1040097 P1040096




約300個の耐火レンガをゲット、石窯でも作るべか。右は昨年流れ着いた石材。

【晴徨雨読】175日目(2007.3.19)大分~別府
鹿児島上陸以来九州は随分寒かった。別府では周囲の山々には雪が見えていた。別府は過去にも数回来たことのある温泉で、入ってみたかった泥湯に浸かる。でも街中の庶民の温泉が安くていい。Img_3374 


竹瓦の湯、100円


【今日のじょん】:3月は鹿の角のシーズンだ。落ちたてほやほや、しかも両角そろいである。これはなかなか珍しい。P1040094

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鉄滓(4) 3/18

2013-03-19 | 歴史・民俗

2013.3.18(月)雨

 謎1.清水鋳物師の鉄滓捨て場はどこか?
 ここ2年間で念道周辺で見つけた鉄滓が上流清水から流れ着いたとしたら、大元の清水には相当多くの量の鉄滓があったはずである。
 井関家の先祖が鋳物技術を持って清水に来住したのが元和3年(1617年)といわれる。(綾部史談 鋳物師に関する研究 村上真澄)明治期まで操業したとして250年間の間に出てきた鉄滓は莫大な量であると想像する。
もちろんその間に洪水などで順次流れたとしても、鉄滓捨て場には多くが残っているはずである。
 ところが地元でそのような話を聞いたことは無いし、井関氏がたたら場周辺で集められた鉄滓も一抱え、数Kgに過ぎない。必ず大量に捨てられた場所があるのだろう。この探索は今後の課題でもある。P1020568

 


井関伝助氏跡地、鉄滓など出るがごく少量。


 謎2.清水鋳物師の鉄滓が流れ出たとすると、念道以外の上林川でも発見出来るはずである。
 畑口川出合い周辺、小山橋周辺を調査したことがあるが発見には至っていない。但し河床部分の調査なので、堤防周囲の調査が必要かもしれない。今後機会があれば歩いてみたいと思うが、念道周辺のように細かく見ることは不可能である。ただ念道周辺意外でまったく見つからないとなるとこれは謎である。清水鋳物師発生説を考え直さねばならなくなる。

 謎3.近世鋳物師は鍋釜、農具などの鉄製品を作っていたが、後世に残って出所の解る銅製品もつくっている。梵鐘や灯籠、仏具、仏像などである。これ等の鉱滓も当然出てくるはずであるが、それはいったいどのようなものだろう。文献も少ないので解らないのだが、今までに発見したものについては弱い磁性があったり、赤錆が発生したり(酸化鉄)しているので鉄滓というふうに考えているのだが。

 謎4.椀形滓と流動滓
 鍛冶炉の底に溜まった鉄滓は椀の形になり、中には炭を残している物もあるという。これは鍛冶滓といわれ、鉄の精錬の際に出てくる鉄滓だそうだ。
 実は念道橋下流100m右岸堤防内側で1個採取している。内部に炭を含んでおり、鉄片らしき部分もある。Img_2869
 



下部の窪みに炭が存在、右上の赤錆の上部に鉄片らしき部分がある。

 もしこれが鍛冶滓であれば、清水鋳物師の鋳物滓とは異質のものとなる。出来た場所も清水以外ということも考えられる。
 流動滓という言葉もあるのだが、それがどのようなものか解らない。ただ他の鋳物滓と見られるものとは違った、流れ出て固まった鉄滓を2個採取している。これは念道橋下流100m左岸堤防外農道で発見したものである。P1030046
 
 



 これ等総ての鉄滓について、化学的成分分析や年代分析などを行う設備や知識を持たないものにとっては目視で判断するか、専門家に見て貰うぐらいしか確かなことが解らない。もちろん文献による学習は続けていくが、確証が持てないのが辛いところである。つづく

【作業日誌 3/18】
耐火レンガ搬入

【晴徨雨読】174日目(2007.3.18)佐伯~大分
自転車ならではの旅が戻ってきた。車で走っていては絶対に見つけられない物が見つかる。ひとつは鯨墓である。鯨の墓だけでも驚くが戒名から卒塔婆まであり、法会が行われているところもあるという。鯨が経済的に大きなウェイトを占めていただけでなく、精神的にも人と同様に扱われていて民俗学的にも価値ある遺跡だと思う。もうひとつは上浦町暁嵐公園の河童伝説である。河童と相撲を取る像と伝説の看板があるが、九州なら”ひょうすべ”ではないかと思うのだが、そのような記述はなかった。津久見に入ると椎茸栽培の創始者の案内があった。これ等の情報はやはり自転車でなくては得られないものだ。Img_3334 Img_3340 Img_3344




鯨の墓、六兵衛と河童の相撲取りの像、椎茸栽培創始者源兵衛の碑



【今日のじょん】:昨日の野焼きのお蔭で散歩コースはすっきり、くっきり、なにより憎っくきダニ野郎が焼け死んだと思うとこれほど気持ちの良いことはない。そのうちまた鹿やイノシシが持ってきてくれるだろうが、それまでの間は安心しておこう。P1040089 P1040091



 

 

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鉄滓(3) 3/17

2013-03-17 | 歴史・民俗

2013.3.17(日)晴れ、曇

 2012年5月26日清水の鋳物師井関家のたたら場を訪問する。(2012.5.26~28、「上林の鋳物師をたずねる」参照)
 井関八左衛門の末裔である井関先生が生前にたたら場周辺で集められた鉄滓を見せて頂いた。上林川念道付近で採集したものと色、形状は同一である。違いといえば、表面のガラス質の有無と大きさである。予想はしていたのだが、反面がっかりする。全然別物だと採集した鉄滓の出所を探す楽しみがあるからだ。
 参考に典型的な鋳物滓1個を頂いて保管している。P1010819
 



井関氏から頂いた鉄滓と上林川で見つけた鉄滓。ガラス質による表面の光沢の違いが判る。

 鋳物滓といっても実はどのようなものか解っていないのが問題だ。鋳物、鋳物師に関する本をいくつか読んでいるのだが、それでもよく解らない。鉄滓について書かれている部分は極わずかなのである。鋳物滓の現物を見たこともない。
 清水に鋳物師が居てそこから出てきた鉄滓だから鋳物滓なんだろうというだけのものである。近世の鋳物師が鉄製品を作る場合には地金という鉄を搬入して溶かし、型に流し込んで作るというものである。鉄滓が出るとしたら地金を溶かす際や型に流し込んだ際にあふれ出る溶けた銑鉄ぐらいしか考えられないのだ。
 そうすると、あのセメント状の部分は一体何なのだろう。溶けた鉄と粘土が反応したものと考えられるのだが、鋳物の場合型と溶鉄が反応してできるのだろうか。P1010813




地金と思われる鉄塊を撮ったのだが、下に写っているのはコンクリートではない。鉄滓の一部である。溶鉄と型土が反応したものと思っているのだが、、。


 鉄を溶かす際に鉄の炭素濃度を変え、用途に合った性質にするため鉄の精錬が行われているのだろうか。そうするとこれは精錬滓といえる。
 などとげすの勘ぐりしか出来ないことに悲しい思いがするが、いずれ本当のことが解ってくるだろうという希望がわたしを押してくれる。
 とまれ念道周辺で採集した鉄滓は上流清水の近世鋳物師井関氏のたたら場から出てきた鉄滓だと断定して良いだろう。
 そうだとしても謎はまだまだ拡がっている。つづく

【作業日誌 3/17】
ウッドデッキ階段完成
耐火レンガ集め
檜皮むきP1040083P1040084





【晴徨雨読】173日目(2013.3.17)延岡~佐伯
 延岡から佐伯に向かう国道10号線沿いはなんとも印象の薄い所である。日豊本線と並行して北上するのだが、何の変哲も無い山間地といったところである。じっくり滞在すれば何かと素晴らしいものが見つかるかもしれない。佐伯の街も天空の佐伯城や麓の武家屋敷などは風情がある。さりとてもう一泊という気にはなれなかった。Img_3323




佐伯城から番匠川。

【今日のじょん】:腰ひけ二題。P1040077 P1040081

 
 

初めて渡る鉄板の橋、ポールの脇のぽんぽこぽん。腰引けてまっせ。

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