晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

年末大雪 12/31

2010-12-31 | 日記・エッセイ・コラム

2010.12.31(金)雪

 朝起きると真っ白になっている、10cmぐらいの積雪か。天気予報で全国的に荒れ模様と騒いでいたので、まあこんなもんかと思っていたら、段々激しくなってきて14時には35cmの積雪となった。喜んでいるのはじょんだけで、埋まってしまう程の雪野原をいつまでも飛び回っている。今日の雪はいつもと違う、大体朝から雪起こしの雷がガンガン鳴り、気温は-2℃と低く、風もあり、ついには竜巻注意報まで発令された。今までのようなベタ雪でなく、さらりとした雪である、こういう雪は積もるのよね。このまま来年まで降り続いたら1mはいくんじゃないかと予想していたが、夕方になって小康状態となった。Img_2008 Img_2021
 8:30と15:30、同じ場所とは思えない。


 今日はなんとしてもガーデンシェッドの屋根を作り上げようと思っていたのだが、それどころではない。通路の雪かき、庭木のレスキュー、第一雪の中の作業は雪だるまになってしまう。屋内作業と決めつけ、窓枠造りに専念する。前回通風用の窓枠を作ったが、なんとも不細工で木工の難しさを思い知らされた。今回4mmのアクリル板を村上さんにいただいたので、ちょっとこましな窓を作ろうと頑張ってみた。
1×4材の両側にトリマーで5mmの溝を切り、二つに割る。接合部を斜めカットにしたのが工夫で、しかも裏面からビス留め出来るようにした。トリマー、電気カンナ、丸ノコ、サンダーなどDIY用具を駆使して、満足なものが出来上がった。しかし一日かかってこれだけかいなと情けなく思う。Img_2029
 夜になって雪は収まってきたようだが、油断は出来ない。上林名物の停電がある。古屋では正月に三日間停電したそうだ。その間の生活はいかばかりかと想像する。私たちは如何に電気製品に包まれて生活しているか思い知らされる。石油やガスの器具があっても、電動となっているものが多い。一応手動式の石油ストーブ、カセットコンロ、懐中電灯など停電対策はしてあるし、暖は薪ストーブでとれるわけだからどうって事無いわけだが、風呂、給湯、灯り、冷凍庫、冷蔵庫など困るわけだ。特に都会生まれの都会育ちのかみさんは停電にかなり恐怖を感じているようだ。
 今夜も二度ばかり停電したが、数分で復旧したので特に問題はなかった。問題は明日朝の雪の量だ。雪かきで始まる新年となりそうだ。

今日のじょん:一年間のご愛読に感謝して、雪で大喜びの写真、大公開。Img_2018Img_2015



  Img_2023
Img_2009  来年もよろしく、ワン。

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ガーデンシェッド(7) 12/30

2010-12-30 | DIY

2010.12.30(木)曇、雪

 年末年始の荒天が予想されている。積雪が来る前に屋根を完成させないとどうにもならなくなりそうだ。建物が出来る前に部材が腐ったりなんかして、、、、。
 というわけでとにかく屋根を完成させようと朝から取り組む。屋根の桟を面いちに修めようとしたのが間違いで、手間のかかること夥しい。クロス部分は全て相欠き継手という面倒な作業となった。実はツーバイフォー工法では何でもかんでもコーススレッドで繋ぐだけというのがどうも気にくわなかったのだが、こうやって単純ながらも昔ながらの方法で木を組んで行くというのは理想である。思えば全て隠れてしまうところなんだが、まあ自己満足の範疇だろう。今日は四つのクロス部分を扱ったので、都合八つの切り欠き部分を作った。最初は鋸で切り目を入れてノミでこつこつ、作業時間約20分てところか、残りの作業を考えるとぞっとする。
 次に丸ノコで切れ目を入れる方法を思い出し、丸ノコ+ノミでやると、時間は半減、それでも面倒な作業だ。次には浅めにしていた丸ノコの刃の出具合を、切り欠き深さ-1mmとし、切れ目も5mmに細かくし、添え木を当てて最後までしっかり切れ目を入れる。そしてノミを真横から当てると一枚一枚きれいに割れて、将棋倒し状態となる。こうなると仕上げもほとんど不要なぐらいきれいに仕上がる。時間的には5分程度で工夫したかいがあろうというものである。Img_1995 Img_1998 Img_1999
 



①墨付けをし、鋸で端の切れ目を入れる。丸ノコより正確に切れ目を入れられる。
②丸ノコで5mm間隔に切れ目を入れる。添え木を当てて端まで刃を入れる。
③ノミでひとつずつ倒して行く。早くて簡単。Img_1993

巾等確認しながらノミの刃を逆さにして彫刻刀のようにして微調整する。


てなわけで今日は一日かかって桟の部分が完成、明日はなんとか屋根葺きまで進みたい。Img_1996 Img_2000

途中雪も降ってきたが、今日はここまで。



 今日のじょん:鹿事件。朝の散歩に行くと念道橋の向こうのワイヤメッシュの柵のところに鹿がいる。日が昇ってもまだ居るとはふてえ野郎だと近づくが一向に逃げない。よく見るとワイヤメッシュに足がかかって逃げられないのだ。足は変に折れ曲がって血が出ている。じょんも複雑な顔をして見ている。かわいそうになって上田さんに知らせに行く。猟師さんに言って始末して貰うのだ。怪我した鹿はどのみち生きていけないのだ。帰ってきたらいつものような元気がない。好きなジャーキーも食べない。「鹿が怖かったんやろか」とかみさんは言うが、そんなことは無いとは思うのだが、、。

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年末休業 12/29

2010-12-29 | 日記・エッセイ・コラム

2010.12.29(水)晴

 12月29日(水)~新年1月4日(火)まで休業いたします。
というよーな予告を出していなくて、今日も来店のお客さまがいらした様子である。大変申し訳ない。
 さて休業たって余計に忙しい訳なんだが、昨日はじょんのシャンプーとじょん部屋、お風呂の掃除、今日は材木のいただき物とガーデンシェッドの屋根造り、そして車庫倉庫の片付けと大忙し。明日はトイレ、洗面所の掃除とガーデンシェッド、明後日は各部屋と窓ガラスなど大掃除とちっとも休養にならない。
 それでも楽になったのは年賀状を止めたこと。
 今年の漢字一文字は「壊」だったのだが、ここにきてかみさんのくるくるドライヤーと軽トラのバッテリー上がりが来た。軽トラのバッテリーは少し前から上がり気味だったのをブースターでだましだまし乗っていたのである。そのうち安いのでも買ってこようと思っていたところへ、昨日村上さんから連絡があり、製材所の処分する材木が手に入るで~と言ってきた。今日の九時に行くようになったので、バッテリーのチェックをしておこうとエンジンを掛け、少しチャージして置いたのだが次にはかからなくなった。これはえらいことだと、交換することにしたが天気は嵐になり、おまけにビールまで飲んでるので買いに行くことが出来ない。割高となるが近くのスタンドに依頼する。Img_1987
 それでも材木は柱や床材など高価なものが沢山あって、バッテリー代は充分還ってきたかなあと思う。人間万事塞翁が馬、もう何も壊れんといてよ。

【作業日誌 12/29】
ガーデンシェッド屋根作り

今日のじょん:雷も花火も平気なじょんだが妙なものが怖い。発泡スチロールの箱とか、肥料の袋とか、風でゆらゆら揺れるものが超苦手。夕べもサークルに立てかけた断熱材のマットが揺れたか倒れたかで大騒ぎ、自分の寝床で寝られないもんだから、居間で寝てたようだ。というより寝られなかったのか、昼間熟睡してけつかる。Img_1986
    

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大唐内のこと(25) 聞き取り 12/28

2010-12-29 | 歴史・民俗

2010.12.28(火)曇、雨

(10)お日待ち、日のお供のこと
 実は大将軍(ダイジゴ、ダイショーゴン)について聞いたのだが、そのようなものは知らないということだった。大将軍はどういうものかよく解らないのだが、ニソの杜などの杜の信仰にあたるものだとされている。武吉町浦入や井倉に地名も残っており、綾部にもそのようなものがあったそうだが、今のところ知っている人には会っていない。
 ダイジゴは大唐内に残っていなかったが、元々の杜が残っていた。これは後述する。
 お日待ちは丹波地方のどこでもあったようで、私の故郷川合(現福知山市三和町上川合)でも行われていたのを憶えている。多分12月に行われていたように思う。大唐内のお日待ちは、4月14日、21日、11月14日に行われているそうで、大唐内年中行事にも載っている。お日待ち講については様々ないわれがあって一概に言われない。開催日も春秋とか、年末とか、新年正月とか色々である。日神祭祀の行事として、冬至のころ、太陽の最も勢いがないときにその勢いを出すように行うという説もあるし新年などの朝日を拝むというのもある。全国各地、様々な時期にこの行事はあるようでつかみ所のない行事だといえる。
 日のお供には驚いた。酒井さんにお聞きしたことだが、ある日夜明け前に日が昇る東の端に行き、日とともに西に歩いてゆく行事だという。聞いたときはあまり気にしなかったのでひにちや実際の行動、祭事など聞くことはなかった。帰路の車の中で、どっかで見聞きした事だなあと考えていたら、「知られざる古代」(水谷慶一著)に日を追う女という章で、ヤマトヒメが一日太陽の軌跡を追って歩き続ける光景をテレビで再現したと書かれていたのを思いだした。また柳田国男が日の御供(ひのおとも)として春の彼岸に行われる行事を紹介している。この二つの行事については後ほど詳しく考察することとし、こういう行事があったと言うことを書き留めておきたい。Img_1989

参考文献の数々。


(11)杜のこと
 おおい町大島のニソの杜については民俗学的に貴重な遺産で、一刻も早く現地で現物を見てみたいと思うのである。自転車旅行で行った沖縄久高島のクボー御嶽の印象が強烈であった。杜の信仰が南九州、壱岐対馬、山陰海岸と存在しているのを見ると先住海洋民族の残した信仰と思えるのだが、目下学習中ではっきりしたことは言えない。大島にはっきりと残る杜の信仰が大将軍(ダイジゴ)と形を変えて丹波の地にもあるのではと調べてみたのは前述の通りである。大将軍は無かったけれど、杜の現物が大唐内に残っていた。これははっきり驚愕であった。ひとつは大唐内の谷の本流、胡麻峠に向かう道の出合い下流のえん堤の下に藤木杜という杜が存在していたということだ。というのは28年の水害(上林では28水と呼ぶ)で崩壊したということだ。流出したのか埋没したのか解らないが、また確認してみたい。あと二つは木和田谷の左岸、支流を挟んで現存し、大蛇が杜から杜へ飛んだという伝説があるそうだ。Img_1988

西田さんに大唐内の歴史マップを書いてもらった。
つづく (大唐内のこと(24)は2010.12.27)

(12)W家のお墓のこと
 大変興味深い事だったのだが、個人のお墓のことなので私の考察も伝えて、了解が得られれば公表することとする。

今日のじょん:やっぱし太っていた。シャンプーの際に量ったら18,2Kgだった。前回より400g増えているのだが、この体重で400gは結構大きいのかなあ。まあ別に太ってるわけで無し、20Kg以内ならいいかというところである。Img_1976

許容範囲。 

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大唐内のこと(24) 聞き取り 12/27

2010-12-28 | 歴史・民俗

2010.12.27(月)曇

 老富でお話を聞いたことは忘れないうちに書いておかないといけないので、興味のない方には申し訳ないが、当分続けることとする。
(4)海人族的習俗について
「西丹波秘境の旅」(澤 潔著)に海人族に特徴的な習俗がいくつか記述されていたので、大唐内に残っていないか確認した。
①寝宿(ねやど)
 いわゆる若衆宿のことで、若者が家を離れ一定の宿舎で集団生活をするものだが、そのような習慣は無かったと言うことだ。ただし世間一般的にそういうものがあったと言うことは知っておられたので、遠い過去にはこの地にも有ったのかもしれない。子供時分には正月など連日皆が集まって過ごしたということはあったそうだが、寝宿の習俗とは違うものだろう。

②産小屋、月小屋
 福知山市三和町大原にある産小屋はこの習慣である。月小屋は月のものの際に過ごす小屋のことだろう。大唐内ではこういう習慣、建物は無かったと言うことだ。ただ、かつては産敷(さんじき)といって土間にお産用の床を作ってお産をしたそうだ。Img_5894
 
大原の産屋


③年齢集団
 意味がよく解らなかったので聞き取れなかった。

④頭上運搬
 無し

⑤泣き女
 無し

(5)薬師さん、聖神社について
 大唐内薬師日課経という冊子と聖さんという広報紙を頂いた。いずれも成り立ちや歴史を紹介されており、信仰のテキストのようなものである。
また、今般作製された大唐内の年中行事というパンフレットも頂いた。気になるところは、聖神社に白髭神社の御分霊を合祀したという説があるということ、薬師さんに土印という赤土で作った印を押す風習があるということだ。実はこの風習はニソの杜で有名なおおい町の大島にも存在するのである。

(6)湯にまつわる伝説のこと
 大唐内薬師は行基菩薩によって開かれたと言われており、湯屋ノ内、湯屋谷などの地名があることから、温泉が湧き出でていたと信ずる人は多い。私自身は湯というのが温泉ではないと考えているのだが、弓削の薬師堂に関する古文書の話をしていたら、同じような伝説があると聞かせていただいた。
「昔薬師さんの脇には豊かな温泉が湧いていた。ある日乞食(ママ)がやってきて、
その湯で洗濯をした、すると途端に湯がでなくなってしまったとさ」
 ちなみに弓削の薬師堂の話は次のとおりである。
 「湯ノワク古跡 今ニ湯坪アリト云 蟻通フヨリワキ止ト云 湯ノ薬師迚(とて)三間四方堂 沸ト云。」

(7)墓制のこと
 両墓制である。

(8)飯森山について
  飯森山、イモリヶ岳、サントウ山、サントラ山など文書によって呼ばれているが三国岳の南東にある545mのピークのことで同じ山をさすようだ。大唐内の人は丸山と呼んでいる。廃村生守(イモリ)のことは知識として知っておられるようで、伝説として伝えられているようには感じなかった。

(9)山師のこと
  鉱脈を探す山師についてはWTさんが以前に山中で見かけたということだったが、Sさんが行きずりの人に「大唐内にはいい鉱脈があるらしいなあ」と言われたことがあったそうだ。また、Wさんの家には山林の仕事をする人が寝泊まりしていたそうだが、元々は山師であったということだ。

今日のじょん:ジャンプ踏みきりの写真である。立派な筋肉だと思うのだが、かみさんは「何となく動きが重そう、きっと体重増えてるで」と言っている。そうかなあ。Img_1978
 

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大唐内のこと(23) 聞き取り 12/26

2010-12-27 | 歴史・民俗

2010.12.26(日)曇

 昔の大唐内のことを聞く寄り合いは栃の公民館で行われた。大唐内から酒井さんと西田さんが出席されて、貴重なお話を聞かせていただいた。お二方は水源の里の活動で見聞きしており熱心に取り組んでおられて尊敬しているところである。

 (1)鉱山跡について
 残念ながら昔の銅鉱山ということではなかった。おそらく戦前のマンガン鉱道の跡らしい。二箇所有り、その場所も詳しく教えていただいた。Wさんが銅鉱山といったのはその地で黄銅鉱を拾ったからだろう。鉱石については標本を見ても何が何だか解らないものだが黄銅鉱だけは誰でも容易に判別できる。私の子供時代にも黄銅鉱を持っている子供が何人かいてとてもうらやましい思いをしたものだ。二つの坑口には来春にでも案内していただくこととなり、そこで銅の形跡をなにがしかでもつかめたらと思う。Photo

こういう坑道跡を期待していたのだが、、、(小畑町長谷)

(2)鬼の岩屋、鬼の洗濯場について
 「丹波志」及び「丹波負笈録」に次の記述がある。

「市茅野大唐内二谷の奥サントラ山若州と両境 サントラ山ハ俵積し如丸石ありて一俵宛の如是ヲサントラ岩と云 俗ニ小浜の市ハ是を見る故繁盛すと云 丹波の方に二ツの鬼の穴と云あり 岩を積重ねたる岩穴入口四尺許 二里許奥に入りて戸口あり 是より奥へ行人なし 今は口を破て入口なしといふ 三俵山は海上目当の山なり イモリケ嶽と云」。

「丹波ノ方麓大唐内村奥ニ鬼ノ洗濯場と云ナベガ滝五尺許落 滝壺丸の鍋の形一間半四方 深四尺余 磨て清浄なりと云」。

このようなものが本当にあるのかと思うのだが、両氏は即座にその位置を地図に書いて示してくれた。なんでも鬼の岩屋は丸山(生守岳、飯盛山)の上林側にあるそうで、鬼の洗濯場は大唐内の谷の奥、胡麻峠への道の分岐の先にあるようだ。鬼の洗濯場は古文書の通り滝壺のようである。水害で埋まっているようだが、その場所は解りそうである。鬼の岩屋はいわゆる桟俵石のところにあるようで、期待する鉱山跡では無いようだ。これらも来春の探索を約する。

(3)桟俵石
 さんだわらいしと呼ぶ、よく俵石とか枕石とか言われる柱状節理の玄武岩のことだろう。Img_1985

これが玄武岩だ、ただし桟俵石ではないぞ。


  桟俵とは米俵の両端に付ける蓋のことで、古文書にあるサントラ山、サントウ山というのが桟俵のことを言っているとも考えられる。この石があるところは丸山と言われている。実は私が最も行ってみたい、見てみたいところなのだ。それは桟俵石をこの目で見てみたいというのもあるが、謎の廃村生守村があっただろう場所でもあるし、この山が古代葬送の地、あるいは月山や葉山のように死者の魂が行くところという信仰があったのではないかという想像が出来るからだ。
 桟俵というのは流し雛や精霊流しの舟として使われる。つまりあの世とこの世を繋ぐ舟のような役目をするとされていたようだ。丸山というのは単に丸いからいうのではなく非常に深遠な意味がある。(日本山岳伝承の謎、「マル」地名の謎を追う)桟俵石だって形から言えば単に俵石で良さそうなものを桟俵と呼んでいるのも意味があるのかも知れない。これらのことは後ほど詳しく書いてみたいと思うが、とにかく大唐内の奥、三国岳の南東にそういう石があるという。
つづく(大唐内のこと(22)は2010.12.25)

今日のじょん:超寒くなって、人間どもは散歩に出るのに準備が大変になってきた。オーバーズボンに毛糸の帽子、そのうちヤッケやオーバーミトンまで要るようになる。その点じょんは簡単だ、夏も冬も一緒だもん。もう一つ困るのが水飲みだ。カチンカチンに凍って飲めやしない。Img_1981


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大唐内のこと(22) 聞き取り 12/25

2010-12-26 | 歴史・民俗

2010.12.25(土)曇

 本格的な冬、いわゆる厳冬期がやってきた。といっても朝の気温で0℃、夜中には氷点下だろうが、昔から比べれば暖かいのかもしれない。しかし身体は慣れていないから超寒く感じる。この冬何度目かの衣替えをし、オーバーズボンだのマフラーだのを出してくる。
 大唐内について書いているのを知って、大唐内の昔のことを語り継ごうという会に招待を受ける。これは大変ありがたいことだ、不思議に思ってることでも聞けばすぐに解決することもあるだろうし、新たな情報も入ってくる。いろんなお話を聞くことが出来、貴重な資料も頂けて、今後の大唐内研究に大変役立つこととなった。それにしても夜道の上林街道は寂しい、30分程の間往路は一台、帰路は二台の車に合うだけだった。さておき忘れてしまうので、さっそく文章化しておきたい。
(1)鉱山跡について
(2)鬼の岩屋、鬼の洗濯場について
(3)桟俵岩について
(4)海人族的習慣について
(5)薬師さん、聖神社について
(6)湯にまつわる伝説
(7)墓制のこと
(8)飯盛山のこと
(9)山師のこと
(10)お日まち、陽のお供のこと
(11)杜のこと
(12)W家のお墓のこと
など順次書き留めておきたい。Img_1729
つづく (大唐内のこと(21)は2010.12.18)
大唐内の集落

 今日のじょん:夕方同じような時間になると、カーテンの間から外を覗き、何かおるでという風に吠える。一体何かいなと外を見に行ったりしてきたが、どうも夕飯の皿を持って来るとあっさりサークルに入って静かになる。これって催促かい。それにしても手の込んだ催促だ。
Img_1982
じょんはじょんなりの意思伝達方法があるわけだ。

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年末に頑張る人 12/24

2010-12-24 | 日記・エッセイ・コラム

2010.12.24(金)曇時々晴時々雨

 天気予報何を言っても全てが当たるという天気がまだ続いている。今日は買い物も含めいろんなところに行く用事があり、またいろんな情報を仕入れてきた。
 まず、石原のことぶき屋さんにクリスマスのワインを購入に行く。酒焼酎には詳しいがワインはよく解らない。但し高級なワインと安物のワインは飲み分けることが出来る。学生時代に某一流ホテルでアルバイトをしており、宴会終了後残り物の超高級ワインを頂いていたお陰である。ことぶき屋さんにはワインセラーがあり、通にはたまらないワインもあるのだろうが、我が家は簡単である。「安くて美味しいワインください」と言うと、ご主人も奥さんも心得たもので、どうのこうの能書きを語るわけでなし、「はいどうぞ」と包んでくれる。これが嬉しい対応で、間違いなく安くて美味い。最も某ホテルで飲んだバブリーなワインとは違うようだ。
 ことぶき屋さんにはナルミちゃんとジナンくんとサリーちゃんが店番をしていた。一番親近感を憶えるジナンくんは、なんでも隣に洋食屋さんができたとかでリードに繋がれている。食いしん坊のジナンは臭いに釣られて洋食屋さんに入ったり、パンを一斤たいらげたりと面白い話がいっぱいである。Img_1961 Img_1963  

ジナンくんとナルミちゃん、右は看板嬢のサリーちゃん


 その後あちこち買い物をしたり、用事をしたおして、志賀郷の竹松うどんに行く。新しく開店されて、テレビなどにも紹介され超満員が続いたようだ。もう落ち着いてるだろうと訪ねたところだ。さぬきうどんのさぬきよりさぬきらしい味と店が嬉しい。華美でおしゃれになりがちな食べ物が実はシンプルでピュアなものこそ美味しいのだと思う。さぬきで拾ったというバニラちゃんという犬がいる。年齢のせいもあるが、寒さに弱って元気がない、もっと寒くなれば暖かいところに入れてやって欲しい。Img_1965 Img_1966
この秋開店、竹松うどん店、蔵にもテーブル席有り。 



 駐車場にたこ焼き商をしながら日本一周を目指しているパンチさんの軽ワゴンが停まっている。なんでも屋根の上の箱の中で寝泊まりするとか、冬は南に向かったら、、と思う。記念に二舟頂く。Img_1968 Img_1967
 
この上の箱で寝るんだって、バニラちゃんも寒ソー。


 帰り道に農家民泊を来年開こうと頑張ってる秋元さんちに寄ってみる。新しく薪ストーブを入れたとかですぐに解る。大工さんが部屋をなぶっていたり、ご主人が台所周りをやってたり、なかなか大変だ。庭も畑もこれからで、自分たちの苦労を思い出しぞっとする。Img_1972
 
南向きの大きなお家、茅葺き屋根にもうまく煙突が着くんだ。


 これまた帰りに、パン焼きの試行を始めたおとんぼさんに立ち寄る。私たちのために大型の食パンを焼いてくれた。菓子パンも沢山あってとっても楽しみ、頑張って軌道に乗せて欲しい。
 新しい店を開いた人、これから店や宿を始める人、大変な時代だけどがんばろうぜ。

今日のじょん:久々の留守番に又しても雨風が強かったようだ。例のごとくペットゲートを開けて行ったら、面白いところで出迎えとなった。Img_1973

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中途半端バンザイ 12/23

2010-12-23 | 日記・エッセイ・コラム

2010.12.23(木)曇、晴、雨

 10分ぐらいで晴れと雨と曇が交替しながら一日が暮れるという感じの日が数日続いている。洗濯物を外に干したら雨が降ってきて、取り入れたら晴れてくる。ガーデンシェッドの作製に取りかかろうとカバーを外し、道具を出してきたら雨が降り出す。片づけたら晴れて来るというなんとも中途半端な腹立たしい天気である。そうこうしているうちに床のボードや壁板のボードが濡れてくる。そのうち接着剤が剥がれないか、カビが来ないかとこれまた心配である。なんてったって我が家で一番気象条件の悪いところに建てているので、一旦濡れると乾くのはなかなかである。これで雪でも降った日にはいつまでたっても溶けない場所である。一刻も早く屋根を取り付けないと材料がおシャカになりそうなんだけど、この天気で進まない。Img_1956
 やもたまらずパネル三面を立ち上げる。本当は西の壁は狭くて作業が出来ないので、完成品にして立ち上げたかったのだけどとりあえず雪が来るまでに屋根の形を作らなければならない。とまあこういった切羽詰まった状況というのが作業の後押しをしてくれる。そうでなければちっとも進まない、中途半端で止まってしまうのだ。
 最も古いのは犬小屋である。2008年春に作り始めて屋根を残しておいたまま、作業場で邪魔になってしょうがない。次が店の看板、これも材料は3年前からあるがちっとも進まない。ドッグランもこの春から作り始め、夏の暑さで頓挫、再開の目途も立ってない。藤棚もあと組み立てるだけになってストップ。イノシシのネットも杭一本建てただけ。その他木小屋3号、物置のコンクリ打ち、薪割りなど中途になっている作業は夥しい。まあ性格だから仕方がないと諦めもするが、救いは中途で放り投げないことである。長いことかかるけれど最後までやるのでご安心を。Img_1953 Img_1957 Img_1958 Img_1955 Img_1954




中途半端列伝。



【作業日誌 12/23】
ガーデンシェッドパネル三面立ち上げ

今日のじょん:本来は玄関横に犬小屋置いて、フェンスで仕切って外飼いをする予定だったのだが、どういう訳か部屋飼いになってしまった。これは単に犬小屋未完成のせいではない。仮に犬小屋が完成していても、部屋飼いになったと思う。それはお互いのコミニケーションがいいという利点もあるが、部屋で暮らせるじょんの生活態度というものも関係している。
Img_1952

束の間の陽だまりを楽しんでいるじょんくん。

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山の本 12/22

2010-12-23 | 雨読

2010.12.22(水)雨

 雨読では歴史、民俗関係の本ばかり紹介しているが、実は最も沢山所有しているのは山岳関係の書籍である。18才から山登りを始め、大学の山岳部、岩登り主体の街の山岳会、地域に根ざした労山などで山登りを続けてきたが、そこで得たものはやはり山仲間である。その後マラソンやトライアスロンに打ち込んだが、所詮個人競技なのだろうか仲間意識というものは生まれず、丹波の片田舎の店に顔を見せてくれるのは山の仲間である。トライアスロンの仲間で店を訪れてくれたのはただ一人、審判仲間で一緒に苦労した新潟の吉井氏だけである。最も綾部在住のアスリートは二人ばかり来ていただいたが、、、、。その点山の仲間は20年30年来の仲間がたまに訪れてくれる。先日も大学の先輩の河野さんがひょっこり訪ねてこられてびっくり、感激である。
 若い時分に目指していたのは近代アルピニズムというものである。雪よ岩よと登っていたのが、今では歴史を訪ねる峠めぐりといったところである。
 山登りを続けていたのは仲間のお陰もあるが、山の本に支えられているところもあった。旅行に行く前に地図を広げて胸を膨らますように、山の本は自分が山に登っているように思わせる。居ながらにしてアルプスでもヒマラヤにでも行けるわけだ。そんな書物が数百冊になり、いづれは高校の図書館、市の図書館に寄付しようと考えていたのだが、果たして本当に読みたい人に読まれるだろうかという不安を感じるようになってきた。本はやはり読みたい人が、苦労してお金を払って手にするのが本当なんではないのかと思い始めた。自分自身がそうであったからだ。神田の古本屋に毎日のように通い、アルバイトで貯めたお金を握りしめて行く、そんな思いをしながら買った本の方が図書館で気楽に借りる本より値打ちがありそうだ。
 そんな訳でアマゾンなんかで販売する方法を考えた。ところがこれは探ってみるとビジネスに徹するとか常に金勘定していないとやってけないという風に感じた。だといって古本屋さんに買い取りして貰うという方法はほとんど私の思いは活かされないと同時に思い切り安い。ネットオークションという手もあるが、書籍部門を覗いてみるとどうもレベルが低い。Img_1951
 
リストアップして整理中。


 てなわけで模索している状況だが、今日ネット販売をしている山好きの書店を見つけた。早速メールして私の思いを告げたのだが、大手のキロなんぼの古本買い取りではなくて私の思いを買い取ってくれる、カモシレナイ。アマイカナ?

今日のじょん:枕で連獅子やったりゴジラ振り回したりするのは実は遊びではなくて何かを要求しているときの動作のようだ。たとえば御飯くれとか散歩連れってってくれとか、遊んでくれとか、そんな時普通は吠えるんだろうがなぜかこの動作になるようだ。ウーウーウーと声を出してやるのが面白いImg_1734


連獅子でも聞いてもらえなければ枕をフェンスの外に落として注意をひいているみたい。

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薪集め始まる 12/21

2010-12-21 | 日記・エッセイ・コラム

2010.12.21(火)曇、雨

 3年目の冬を迎えて来年用の薪の収集が始まった。収集ったって拾い集めるんじゃなく、大木を切り倒して、切断、運搬、玉切り、薪割りと気の遠くなるような作業が待っている。初年度は森林組合で貰った木っ端などで間に合わした。といっても一ヶ月余りなのでなんとかしのいだが、その年の冬は苦労した。栗の枯木を切ってきたものと使わなくなった薪軽トラ一杯もらったもの、植木屋さんに貰った庭木の木っ端でしのいだ。次の冬はチップ材として伐採されている木の細いところをしこたま貰って間に合った。しかも約一ヶ月分ほど余って、今でも使っている。そして現在は自分で切り倒して、運搬してと何から何まで手をかけて作った薪を炊いている。満足感はあるけれど、その労力に驚いている。つまり時間と労力、おまけに危険性までかけてやっている割には思ったほど備蓄できないのだ。というよりあっという間に使ってしまうということだ。最終的には三年分ぐらいは備蓄したいと思うのだが、いくら頑張っても一年分と少ししか貯まらない。
 山は九ヶ月ぶりに入ったのだが、その間誰も入っていないぐらい荒れている。いわゆる立ち枯れになっている大木が林道に覆い被さっている。まずこれから片付けなければならないのだが、いきなりチエンソーが始動しない。思えば半年は使っていない。燃料は抜いているがやはり駄目、プラグの掃除をしても駄目、やむなく農協に修理依頼に行く。担当の方がいて、こちょこちょとやったらエンジンがかかった。やっぱりコツがあるんだ。又山に戻り切り始める。M村さんはこの間にも数本倒していた。今日は切り倒すだけと決めていたので、バンバン倒して10本ぐらいか。椎茸のホダ木になりそうなのを10数本持ち帰る。Img_1944

これが今日一。
 ホダ木を切りながらふと倒した雑木に眼をやると、強烈な熊の爪痕がある。これでやられたらひとたまりもないなあと思ってよく見ると、えらい高いところまで登っている。爪の跡から見ると相当でかい熊のようだが、そう太くないこの木をどうやって登るんだろうかと感心する。枝の先に実のへたが枯れてぶら下がっている。やっぱりこれは柿の木だ。作業している僕らをどっかから見ているのかなあと思うとぞっとする。 Img_1945 Img_1949

見てくれ、この凄い爪痕。そして先の方まで爪痕がある。


【作業日誌 12/21】
山仕事
薪割り

今日のじょん:じょんカレンダーができた。じょんのいい写真は沢山あるのだが、あくまで季節をメインに作ったので写真の出来は余りよろしくない。来年一年店に出るのでヨロピク。メー登場の7月がgood。
Img_1950

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今年の漢字 じょんのび編 12/20

2010-12-20 | 日記・エッセイ・コラム

2010.12.20(月)曇

 四年前の今日、日本一周自転車旅行の前半戦を終えて京都に帰ってきた日だ。今年と同じく怖ろしく暑い八月の一日に出発し、142日の旅を終えて前半戦が終わった。本当にやれるんだろうかという不安に押しつぶされそうになりながら走った道を、なんと軽やかな気分で帰ってきたことだろう。だけどそれは後半戦への挑戦、その後のじょんのび村開拓への激動のスタートでもあった。Img_2357
 
木津の流れ橋でやっと京都に帰ってきたという感がした。


 さてそれから四年、やっとじょんのび村の生活にも落ち着いてきたかなと思いきや、ちっとも楽はさせてくれない。かみさんの入院がやはり最大の出来事だった。生老病死の四大苦を克服することが悟りではなくて、生老病死の存在を認識し、受け入れることが悟りであると悟った。
 というわけで、今年のじょんのび村の漢字一文字は「壊」とすることにした。テレビ、カメラ、ハンドクリーナー、カーナビ、エコキュート等のものが壊れ修理や買い換えに怖ろしく出費がかさんだ。夏の暑さで庭の植物群もすっかりやられて、洋芝は全滅、高麗芝は一部、コニファーは10本程度、樹木も数本が枯れてしまった。じょんも春に大病をして大騒ぎをしたし、かみさんの入院は大事だった。もう今年は壊れるものも無いだろうと思っていた矢先に軽トラのバッテリーがあがってきた。もう今年はかんべんしてよん。来年はちったあいい年になって頂戴よ。

今日のじょん:昨日のことだが、朝のぽんぽこぽんが終わってもちっとも帰ってこない。何事かと見に行くと、北のネットのところで動物とにらみ合っている。アライグマなどの凶暴なやつだと困るので無理矢理家に入れるが、動物の方はじっとしたままだ。近寄ると逃げるどころか寄ってきて、木小屋に居ついてしまった。どうやらタヌキのようだ。何となく弱っていそうでかわいそうだが、居つかれても困るので山に追い返す。道ではねられたりしているが、家に来たのは初めてだ。Img_1941 Img_1942_2

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じょんのび流行語大賞’10 12/19

2010-12-19 | 日記・エッセイ・コラム

2010.12.19(日)曇

 じょんのび村で最も流行した言葉は、3年連続の”よっこらじょん”である。連日20回~30回は使うだろう。ところが、昨年に既に「よっこらじょんは不滅です」ってことで永久欠番になっている。そろそろ広辞苑から問い合わせが無かろうかと思っているところだ。
 というわけで、今年の流行語大賞は、内容的におもしろく、年の後半によく使われ出した、”うらめしじょん”に決定。かみさんが発明した言葉で、言葉の意味とはうらはらに、気持ちが良くのんびりしているときにするポーズで、こころなごむ姿である。写真を見ていただければ納得の大賞である。
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8年7/17、8/10、8/15、8/31

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9年2/22、8/9



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10年5/24、6/20、10/12

【作業日誌 12/19】
ガーデンシェッド右パネル作製

今日のじょん:もちろんお休み。

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大唐内のこと(21) 鬼伝説 12/18

2010-12-18 | 歴史・民俗

2010.12.18(土)曇、雨

 まず丹波志とはいかなる古文書であるか、府立総合資料館の資料によると以下のごとく説明してある。

「寛政6(1794)年にまとめられた丹波地域の地誌です。福知山藩士古川茂正と篠山藩士永戸貞著が、丹波6郡を対象に編纂を目指しましたが、天田・氷上・多紀郡を成稿したのみで没してしまい、未完に終わりました。しかし、大正年間にいたって北村竜象によって新たに丹波六郡の地誌「丹波誌」が完成しました。」

ということは何鹿郡については大正になってから書かれたものだろうか。その中に「草ヶ部村ニ高野聖リ住シ当山ニ来リ祈リ退治ス」とあるのが大唐内と有安を結ぶ重要なポイントだろうと思う。かつては有安は草壁の一部だったのだろうか。角川の地名辞典では草壁村も有安村も近世以降のことしか記述が無くて確認ができないのだが、少なくとも草壁については古代からの村だろうと推察される。
 草ヶ部村の高野聖が祈祷によって退治したのと、有安村の藤元善右衛門が弓の神技によって退治したのとの二つの説話があるということだ。これは古代の伝説に弓で名を馳せた名人が付加されたものと考えたい。草ヶ部村の高野聖はおそらく有安村に住んでいたものだろうし、ひょっとしたら藤元一族の先祖に当たるものかもしれない。そういう風に考えるのは、大唐内に有安谷、有安迫という地名を見いだすからである。Img_1308
 大唐内にはいると仏徳谷、有安谷と続く。

もちろん大唐内と有安を結ぶ大きな伝統行事は甘酒講である。
 また、弓の名人藤元善右衛門が大蜘蛛退治の主人公となった背景に、酒呑童子退治の影の主人公渡辺綱がたいそうな弓の名人であったということも考えられないか。次に大蜘蛛退治伝説の真相を探るために、かすかな状況証拠ではあるが、有安の地名、日下部一族とは、聖大明神、藤姓についてなど述べていきたい。

 話は変わるが先日老富町のWTさんから大唐内のとある家で温石石(おんじゃくいし)が取れるという情報を頂いた。もちろん現在では使わないが、懐炉の原型のようなものである。そこでしか取れないということだったが、黒色ということだったので安山岩、角閃石あるいは蛇紋岩かもしれない。次に大唐内を訪ねるのが楽しみになってきた。つづく
(大唐内のこと(20)は2010,12,17)

今日のじょん:じょんカレンダーを作製依頼する。じょんのいい写真というより季節の景色を重点に置いたので、そういう眼で見ていただきたい。ワン。表紙はじょんのび村に来るまでの写真。Img_1938

 

 

 

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大唐内のこと(20) 鬼伝説 12/17

2010-12-17 | 歴史・民俗

2010.12.17(金)快晴

 (2)有安の弓の名人
 奥上林村誌の大蜘蛛伝説をもう一度紹介してみよう。
 

 
時代は詳かではないが睦寄の里に、悪な武家くづれが徘徊、暴力勝手の振舞に人々は殊の外に難渋し不安の毎日を送った。其の頃有安に藤元善右衛門と云ふ弓の名人あり、人びとの苦しみを絶たんとして一日山上より矢を放って悪人の胸板を貫き名声は頓に上がった。(射殺現場の有安の畑の一隅には石塚が現存する)
 この頃大唐内の大くも谷に大蜘蛛一族が棲み、暴ぎゃくをほしいままににした。安住の危機に直面した住民はひそかに善右衛門に救いを請うた。義侠の雄善右衛門は求めに応じて大くも一族と対決し、終に其の神技によって悪霊を退治した。住民は後難を慮り一社を建立してねんごろに其の霊を弔ふ。大くも神社(現在の聖大明神)が即ちこれである。

 
そのまま読んでみると、丹波志にある文とは幾分相違があるようだ。前半部分は丹波志にはまるでないし、「時代は詳かではない」と言いつつも「武家くづれ」などと書かれ中世以降の事のように書かれている。睦寄で暴れていた「武家くづれ」が有安で殺されているというのも少し変に感じる。この石塚というのは有安にある「や神さま」のことだろう。奥上林地域振興協議会の発行されている「おくかんばやしイラストマップ」には「や神さまと弓の名人の墓」として次のように紹介してある。

 狼藉を働き、百メートル離れた山上から「や(脇腹)」に矢を射られたろくぶ(君尾山の僧兵のワルとみられる)は「『や』の悪い人を救う」と言って息絶えた。村人は墓標を建て「や」が痛むと祈った。有安の中心地にあり「や神」さんと呼んでいる。弓の名人は藤元善右衛門。村を見おろす山上に墓がある。

 「や」というのが脇腹というのは初めて知った。方言辞典でも国語辞典でも漢和辞典にも載っていない。この話がどのような文書にあるのか不明なんだが、墓があったりして、実在の人物のようである。もちろん藤元家というのも現在まで脈々と続いている。や神さまも何度か訪ねていったが、道を走ってるだけでは解らなかった。今度は人に尋ねて探してみよう。
 何となく丹波志にある大蜘蛛伝説と藤元氏の山上から悪者を射たという話は別物で過去からある大蜘蛛伝説に藤元氏の高名が重なって同一の伝説となったような感じがする。しかしながら、大唐内と有安の間に深い関係があることには間違いない。つづく(大唐内のこと(19)は2010.12.15)

【作業日誌 12/17】
ガーデンシェッド左側パネル作製

今日のじょん:上林に初雪が降った。といってもうっすら白くなった程度で、8時になると跡形もなくなった。じょんも喜んで駆け回るというほどではなさそうだ。
Img_1936 

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