晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

楽しい肩痛-1 8/30 

2020-08-30 | 健康

2020.8.30(日)快晴
 
 65歳で腰痛を治し、67歳でひざ痛を治し、手のしびれ(頸椎)を68歳で治してきた。肩は55歳で五十肩となり、56歳で治っている。五十肩だけは何もせず自然治癒を待ったが、噂通り一年余りで治った。あとの腰、膝、首は最初に徹底的に原因を突き止め、自分自身で工夫した治療法で治した。その大部分が運動療法なんだが、灸や指圧、入浴法なども取り入れている。運動は止めてしまうと再発の可能性があるので、全ての運動を続けていかなければならない。従って平均すれば一日約1時間の運動をこなしている。他人から観れば大変そうに思うかもしれないが、本人はいたって平気で、むしろストレスの解消になっている。どの痛みも一生続くかと思われ、医師にもそう言われていたので(ひどくなったら手術してあげると言われるのが常)それをすべて治癒できたのはずいぶんな自信である。ところが今回、その自信を揺らがす事態が起きてしまった。
 日記には昨年の10月3日となっているが、左上腕にかすかな痛みを感じた。(自分の痛み度基準では0.1)水泳の後に痛みが残るのだがささやかな痛みで気にもならない。筋肉のようだからそのうちに治るだろうと水泳も筋トレも続けていた。ひどくはならない代わりにいつまでたっても治らない。8月19日、出先で何気なくテレビを観ていると、肩の痛みについてやっていた。「腱板断裂(けんばんだんれつ」、なんとも恐ろしい名の病気なんだが、症状を見聞きしているとわたしの症状にぴったりなのだ。薬や運動から手術までの療法をメモし、テキストを購入する。

きょうの健康テキスト
 自分の診断ではこれに違いないと思うが、正確にはMRIの検査等が必要だ。早速明治国際医療大付属病院の整形に行く。

明治国際医療大付属病院、腰痛で初めて登院(2015.6) 
 腰の時は糸井部長、首の時は乾先生に看てもらったが、今回は糸井先生になった。なんで遠く南丹市の病院に行くかというと、ここの整形は触診してくれるから~(チコちゃん風に、、、)
 触診なんて医者なら当たり前と思うだろうが、最近触診する医者って貴重なんですぞ。それとわたしのように症状の軽い患者もちゃんと対応してくれるということ。特に整形なんかは、周囲には車いすや松葉杖、包帯ぐるぐるとか痛みに顔がゆがんだ患者さんばかりで、わたしのように日常生活には何の問題も無いような患者は恐縮してしまう。大抵の病院ではレントゲンだけ撮って、鼻であしらわれてしまう。「ひどくなったら来なさい」と言われてしまうのだ。ひどくなってからでは遅いのだ、今だからこそ対処のしようがあるんじゃないか。そんな患者でも親切に診察し、説明してくれるから明治を選んでいる。鍼治療を選べる利点もあるけどね。はっきり腱板断裂じゃないかと言って、MRIを撮ってもらう。8月26日、糸井部長は手術で往診できないので、藤井医師に説明を聞く。やはり腱板断裂で、治療について色々と聞くが、こちらの方針も定まっていないので一般的な話ばかりになる。手術のことも話されるのでドキリとするが、この病気根治は手術しかないようだ。つづく

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畑口川遡行ー考察編 8/29

2020-08-29 | 上林たんけん隊

2020.8.29(土)晴れ

 畑口川出合いから清水の間で鉄滓(鋳物滓)を一個も発見できなかったのは意外だったのだが、この件に関して考察してみたい。
 2011年4月に念道橋下流上林川右岸堤防で初めての鉄滓を発見して以来、念道周辺ではいくらでも発見でき、流動滓や椀形滓、炭の断片を含むものなど様々な鉄滓が集まった。そしてそれらが清水鋳物師に由来する鋳物滓であることも解った。清水の家々に残され、盆栽の石とされているものと形状が同一であることがその理由である。上林で古代の製鉄が行われていたという夢はあえなく消え、近世の鋳物師に由来するというのは残念ではあるが、信憑性は高い。
 鉄滓集めは止めたが、今でも河原を歩いているとこぶし大の鉄滓を拾うことがある。また清水では前栽に祀られた大きな鉄滓の塊を見つけることも出来た。
 
上林川念道付近で収集した鉄滓、左上のものは忠の河原で拾ったもの。
右二枚の鉄滓は清水で見つけた鉄滓、これほど大きなものは初めてだ。
上林川中流域でこれだけ収集できるのだから、畑口川ならいくらでもあるだろうと思うのは無理も無いことである。それが一個も見つからないのはどういうことだろう。
1.中流域で見つかる鉄滓は清水鋳物師に由来するものではない。
2.鉄滓は比重が軽く、畑口川にあるものはすべて流れてしまった。
3.流れ出て、残ったものは新しい土砂に埋もれてしまった。
 などの理由が考えられる。
1.を証明できるのは、上林川の畑口川出合いより上流、もしくは畑口川清水より上流で鉄滓を発見することである。畑口川上流は今回市志まで遡行したが発見は出来なかった。上林川上流はいずれ遡行してみたいが、予想としては見つからないだろうと思っている。清水で大量の鉄滓が出たことは事実であり、形状も一致している訳だから。
2.はあり得ることと考える。中流域で発見した鉄滓は全て、川岸の高いところ、堤防の外側で発見されている。出水のたびに流れ出て、比重の軽さ故岸の高いところに留まったのではないか。また、畑口川清水から上林川までは傾斜はさほどないが、比較的直線的で蛇行が少なく、出水の際は一気に流れたと推測される。
3.28水以前の畑口川の様子を私は知らないが、どこの川でもそうであったように蛇行あり、瀬あり、淵あり、岩礁あり、砂洲ありの川で、堤防も石や土の貧弱なものであっただろう。そんなだから清水から出た鉄滓も至る所に堆積していたと思われる。明治以降の大水で少しずつ流れたとしても、大きなものや複雑な川の地形に留まる小さな鉄滓もあったと思われる。それが28水以降の河川整備で随所に堰堤が築かれ、かつての河床が埋まってしまいその下に隠れてしまったのではないか。また両岸の護岸工事で岸辺に留まっていた鉄滓もすっかりコンクリートや新しい土砂に埋まってしまったのではないか。畑口川出合いから、市野瀬まで実に同じ景色が続くのである。川床は平たんで広く、両岸はコンクリートの堤防となり、同じ大きさの砂利で埋め尽くされている。水防には完ぺきな条件だが、過去の川の面影はみじんもない。この変化のない砂利の下に清水鋳物師が残した鉄滓が眠っているような気がしてならない。

木住川出合い、典型的な畑口川の景色。
【今日の”のびちゃん”】NO.38
のびちゃん寝てばっかで体重増え気味なので海に連れて行く。いくみちゃんもいくというので若狭の海へと意気込んだが、あいにくの雨。なんで今日だけ、、といいつつおおいのロンドさんで昼食、ここは犬連れOKで嬉しい。諦めて帰ろうとしていたら三松辺りで雨が上がり、三松海岸を楽しむ。

青い海は無かったけど、雨が上がってよかったね。

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畑口川遡行 8/18

2020-08-18 | 上林たんけん隊

2020.8.18(火)曇り

 上林川の鉄滓探しを止めて何年にもなるが、年に一個ぐらいは自然に見つかる。もちろん清水の鋳物師跡から流れ着いたものだろうが、畑口川ならもっと多くの鉄滓が見つかるだろうと考えていた。そして畑口川の清水より上流、あるいは上林川畑口川出合いより上流で鉄滓が見つかれば、これは事件だと思っていた。これらの川の遡行をずっと考えていたのだが、なかなか実現できなかった。元々山行する予定だったが、流石の猛暑で、これ幸いと畑口川遡行に切り替える。
行程 畑口川出合い~市野瀬~市志
メンバー 小原英明 工忠 照之
タイム  いきいきセンター出発 8:25
     畑口川出合い     8:35
     清水         9:35着 10分休憩
     市野瀬       10:45着 20分昼食
     市志        12:25着 
     遡行時間 3時間30分

畑口川出合い、左手が畑口川、正面が上林川本流。大町から5分。
 遡行は地下足袋に草鞋が最高だが、草鞋の準備は出来ていない。工忠君は地下足袋の経験も無いのでニューバランスのジョギングシューズでスタートする。滝登りをするわけではないので二人とも問題なく歩ける。折からの晴天続きで、水は深くて膝ぐらいでバシャバシャと気持ちよく歩ける。面倒なのは数ある堰堤で、腰ぐらいの高さなんだが、周囲は苔でヌルヌル、何とか足がかりを見つけて乗り越すが、遊里の一箇所だけ右岸を高巻きした。
 
 木住川出合い、右が畑口川本流。工忠君はこのスタイル。
 さて問題の鉄滓なんだが、予想に反して一個も見つからなかった。沢山落ちていたら袋に詰めて土手に置いておき、後で取りに来ようかとまで皮算用していたのだが、ショックである。そして清水から上流でもそれらしいものは見つからなかった。このことは期待していなかったのでさほど気にはならない。鉄滓に関する考察は後で述べることにして、遡行の様子をお知らせしよう。
 畑口川出合いから市野瀬水梨川(だと思うのだが)出合いまでは両岸の護岸工事が進み川面は広く、直線的で昔の川の面影は無い。淵や瀬や中島もなく蛇行もしていない。そしてこの間川底が現れることはなく、同じ大きさの砂利に覆われている。小さい頃に川遊びをした年代なら憶えているだろう、岩盤あり、砂場あり、大岩あり、背の立たない淵があり、水が渦巻いているような早瀬がありだ。きっと28水以前の畑口川はそうだったのではないか。もちろん水防のためには致し方ないことだが、寂しい気もする。景色も変わり映えしないので退屈だが、清水の辺りで妙な木杭の残骸を発見、100m程か流れに沿って立っている。かつての岸なのか、それとも簗漁の残骸なのかいつか清水の年配の方に聞いてみよう。
 
 清水の謎の木杭、わたしはいつもの行者スタイル。
 水梨川出合いを過ぎても護岸はコンクリートだが、所々途切れて自然が残っているところもある。工忠君自慢の河原は、左岸は砂場で右岸は岩盤となっており、小さな淵あり、木陰ありでなかなかの景色だ。

クチュール淵とでも名付けておこうか。
 工忠君に言わせると「中上林一番ですよ、ひょっとしたら上林一かもしれない」と言うことだが、少なくとも畑口川一番のスポットだろう。というのは市野瀬から上流、市志まで期待していたほどの景観が無いのだ。そして河原歩きに付きものの変わった漂流物、流木や土器、鉄滓、変わった岩石などなにも見つからなかった。以外と早く市志に着いて、橋の少し上流で残りの昼食を食べて今日の遡行は終了。森さんに送ってもらって、クチュールでコーヒーいただいて、ありがとうございました。

今日はここまで、市志の河原、いつもの夏なら子供達の姿も見られたんだけど、、、。
 
  

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がん・認知症・老化(5) 8/15

2020-08-15 | 健康

2020.8.15(土)晴れ  老化とは何か:免疫系の二つの顔-1
                がん・認知症・老化(4)は2020.4.20
 2019年11月16日(土)メルパルク京都でひと・健康・未来研究財団の助成研究発表会が行われた。その際に「老化とは何か:免疫系の二つの顔」というタイトルで京大の湊長博先生の特別講演が行われた。湊先生と言えばオブジーボの開発でノーベル賞を受賞された本庶教授と共同研究をされていたという方で、こんな機会はそう無いと思い参加した次第である。湊先生は随分若い方だと言う印象だったのだが、実は私と同い年と知って驚いている。髪は黒々ふさふさ、顔は張りがあって艶やか、何か秘策があるのではないかと聞きたいくらいである。そしてもっと驚いたのは、今年の7月21日に京大の次期総長に選出されたことである。驚くことではないのかもしれないが、次期総長の講演を聴くことが出来たのは何か嬉しい気がする。

湊氏の次期総長決定の新聞記事、京大には立て看や吉田寮などの問題があり、前途多難か?

講演当時は京都大学プロポスト 理事・副学長の肩書きだった。
新聞紙上に老化細胞の関連記事もよく見られる。
 講演内容は予想通りよくわからないもので、後日発行される会報の記事を待った。この間いくつかの文献を読み、新聞記事なども集めていたので、講演内容の記事を見るとその内容は概ね理解することが出来た。
 がんは遺伝子の変異が積み重なって発症するもので、加齢とともに変異の回数が増えるので老齢になるとがんの発症は増えるというのは誰でもが理解できることである。この講演では、老化細胞と老化関連T細胞(SA-T細胞)ががんの発症に影響するというものである。正常細胞は分裂をし、やがて死んでしまうのだが、加齢やストレスによって、死なないのだが分裂は止めてしまう老化細胞が出来てくる。細胞のがん化を防ぐという防御的側面もあるが、多くの炎症因子を放出するという一面もある。免疫細胞にも老化細胞があって、SA-T細胞と呼ばれているが、T細胞本来の機能はなく、大量の炎症因子を放出する。本庶先生の免疫チェックポイント阻害療法(オブジーボ)についてもこの講演でよく理解できたが、この素晴らしい免疫療法も全てのがんに効くわけでは無いというところにSA-T細胞の存在が関与しているとも言われている。
 加齢とともにSA-T細胞は増え、免疫機能の低下と炎症反応の増加といういわゆる老化現象を引き起こす。がんは炎症環境を好み、免疫機能の低下はがんの増殖を促進するものだから、細胞老化とがんは関連性が高いものである。
 ざっとこのような内容なのだが、身体の表面的な老化と細胞の老化は深くかかわっていることと、がんと老化の関係もよく理解できる。
 老化細胞は生理現象だから避けられないが、増加してくると様々な障害が出てきて病的老化が始まる。この対処について二つの方法が考えられる。一つは細胞を若返らせる、いわゆるアンチエイジングだが、湊先生は可能性の証拠は無いとおっしゃっている。それよりも可能性があるのは、老化細胞を取り除くことである。正常細胞を残し、老化細胞だけを取り除く事は困難が予想されるが、動物実験はすでに行われており、海外では人体での治験もあるとかないとか。これが可能になればがんだけでなく認知症や心臓病、糖尿病などあらゆる病気の治療に多大な貢献をするものと期待されている。
【今日の”のびちゃん”】NO. 37
 夏の散歩は人ものびも厳しい。おにいのお下がりのクールネックバンドをしてるのだが、水分に反応してぺろぺろとなめまくっている。
 
暑くても変わったところへは行ってみたいようだ。好奇心旺盛。
 
 

 

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がん-4000年の歴史(上下)ー補遺 8/14

2020-08-14 | 健康

2020.8.14(金)快晴

  自分自身の細胞が変異して増殖し、元の身体を滅ぼしてしまうというのは自然淘汰の考え方からみると大きな矛盾だと書いたが、よく考えるとそうでもないという気がしてきた。雨読「残酷な進化論」(2020.2.10参照)で書いたのだが、「生殖が終われば進化は個体の生存など考えてくれない」ということと「自然淘汰が働くためには死ぬ個体が必要だ」ということならば、老化した個体にがん細胞が発生し、その個体を死に至らしめるのは矛盾でもなく、進化の道理である。

 ただ先の文書で「生殖が終わる年齢は20代の中盤、、」と書いたのは間違いである。改めて訂正致したい。それは女性なら閉経となり、男性なら更年期障害の出てくる50代と見るのが妥当だろう。この年代ががん発生のひつのピークでもある。ここでがんについての興味深い実験を見つけたので紹介しよう。研究者が使うがん細胞株で最も悪性なのはS180という細胞株で、マウスにの体内に注入すると例外なく1ヶ月以内に死亡するという。ところがあるマウスだけががんにかかることなく通常に生きたという。研究を続けるためにはマイティマウスと呼ばれたそのマウスの子孫を作らねばならない。がんに対して抵抗力の無い雌との間に子孫が出来、その孫の1/2は同じように抵抗力があったという。(潜性遺伝であれば子にはで出ないので孫を使用した)何百倍のS180を投与してもがんにはかからず腹水もたまらなかった。ところが不在にしていて研究室に戻ったとき異変が起こった。全てのマウスががんに冒され、腹水が溜まっていたのだ。それが二週間(人間の1~2年の相当)するとまたがんが消え、腹水も無くなったのだ。がんに抵抗力のあるはずのマウスががんに冒されたのは生まれて6ヶ月後、人間に相当すると50歳ということだ。これは人間のいわゆる更年期障害の起こる時期ではないだろうか。マイティマウスではこの時期に免疫機能が低下したと考えられる。私の周囲で60代半ばでがんによって亡くなられた方が複数おられる。遺伝子の最初の変異は10年~15年前といわれており、50代ががん発生の一つのピークといわれているのもうなづける。
 生殖機能がある間は子供を作るのが仕事なら、それが終われば死ぬことが仕事になる、進化(自然淘汰)とは残酷なものだが、それが生物の宿命なら致し方ない。そうすると自分の細胞が変異して増殖をするというがんは、死に至るための約束されたメカニズムなのかもしれない。そう考えると、がんをむやみに恐れることはないのではないか。それよりも、がんと言われたときにどうするか、しっかりと心構えをしておくことが肝要かと思うのである。

【今日の”のびちゃん”】NO. 36
 かみさんがじょんの夢を見たという。わたしはじょんではなかったが見たこともない捨て犬を抱いて歩いている夢を見た。「お盆やし帰ってきてるんやで」線香を焚いて般若心経をあげる。

おにい、帰ってきてたらのびにおせーてやってくれ、「寝てばっかいんじゃねえぞ」

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がん-4000年の歴史(上下)その3 8/12

2020-08-13 | 健康

2020.8.12(木)
 
 治療と予防に関する歴史が述べられてきたが、わたしが一番知りたいのはがんの真の姿である。がんの本当の原因、転移とはなにか、なぜがんができるのかこの三つがわたしの知りたいことである。
 下巻の中盤からこれらのことが主題になってきた。がんが細胞の過剰な増殖というのは十九世紀中頃には解っていたが、その原因がなぜかというのは解らなかった。十九世紀の後半に染色体が発見され(フレミング、1979年)、その弟子フォン・ハンゼマンによってがん細胞の染色体に著しい異常があることが発見された。がんの原因が細胞の内部、染色体の異常であることが解ったわけだ。その後遺伝子、DNA,RNAなどが明らかになり、突然変異が起こりうることも明らかになって、がんの発生する原因が遺伝子の変異に起因することが解ってきた。X線、ウィルス、タールなど発がん性物質も遺伝子の変異を誘引するものでがんの直接的な原因ではないといえるのだろう。そしてがんは部位によってもひとりひとりによっても少しずつ違うことが理解できる。変異は偶然的に何度も起きるものでがん細胞の遺伝子はすべてが違ったものとなって、人によって部位によって発症の仕方が違うのだ。だから同じ抗がん剤を使っても効果のある人とまるで効果の無い人が出てくるし、あっという間に亡くなる人もあれば、がんが消えてしまうという人もあるわけだ。もちろん患者の側の免疫力、体力、抵抗力などと言う要素もあるだろう。
 がんの原因については本書ではもっと詳しく書かれており、専門的でもありすぐには理解しにくいが、何度も読み返してその概要が解ったとき、がんに対するあらゆる疑問が解けてくるのである。寿命が延びるほどがんが増えてくるのは変異の回数が増えるからであり、がんが難治なのはがん細胞は元々自分の細胞であり、がんの活動というのは自分自身の活動であるということではないだろうか。
 がんの原因が分かればそれに対する治療法というのが随時登場する、本書では最終的に分子標的療法というのが出てくるが、本庶先生の免疫チェックポイント阻害療法はまだ現れない。仲野先生の解説の中にようやく登場するのだが、それらをもってしてもがんは無くならない。仲野先生が「大いなる未完」とタイトルされたのはそういうところなのだろう。がんはわたし達自身なんだから、がんが無くなるということはわたし達自身が無くなると言うことなのだろうか。と段々哲学的な思考に陥ってしまう。
 進化と言うことから考えれば、変異によってより環境に適した形質が残り、生存に有利になっていくのが普通なのだが、自分自身の遺伝子が変異によってがん化しやがては元の身体を滅ぼしてしまうと言うのは矛盾である。常々このように考えていたのだが、本書の最終項に近くなってそのことに書かれている。
 極端な話をすれば、正常の生理機能を絶え間なく模倣し、悪用し、濫用するがん細胞の能力は、何が「正常」なのかという不吉な問題を提起しているともいえる。-中略-がんはわれわれにとっても正常なのかもしれない。われわれはもしかしたら、悪性の終局に向かって歩き続けるよう運命づけられた生き物なのかもしれない。-中略-やがてがんはほんとうにわれわれにとっての新しい正常に-不可避なものに-なる可能性がある。だとしたら問題は、この不死の病に遭遇したらどうするかではなく、遭遇したときどうするか、となるはずだ。
 遭遇したときどうするか、わたしはまだ遭遇していないのだが、バイブルとなるかもしれないだろう一冊を見つけた。

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がん-4000年の歴史(上下)その2 8/12

2020-08-12 | 健康

2020.8.12(水)快晴
 X線は1895年にントゲンによって発見されたが、1896年には乳がんの治療に試用されている。年代の誤記ではないかと思ったが、事実のようで驚いている。その当時は根治的乳房切除術が行われ始めた時期で、がんの治療が切迫していたのだろう。患部以外を覆うために中国茶の箱の底に入っていたアルミ箔を使ったと言うからすさまじい。腫瘍は潰瘍を作り硬くなって縮んだというから効果があったわけだが、患者は他に転移したがんで死亡することになる。その後放射線治療は様々な進歩をするが、局所的な効果にとどまり転移したがんには使えないという弱点があった。そして逆にその放射線が新たながんを発生するというジレンマもあった。
 これで現在でも主流となっている手術、化学(薬物)、放射線療法が揃ったのだが、その発見から発展の経過は医師、研究者の凄まじいまでの奮闘があるのだが、本書では特に患者ひとり一人について実名で詳しく紹介している。がんの歴史において患者も主人公の一人だという作者の意図が感じられる。またがんを取り巻く行政組織や、研究や治療の資金などについても随所に書かれている。治療だけではがんの歴史は語れない。

下巻はがんに対する疑問の多くを解消してくれた。
 下巻に移ると、まずがんの予防という考えが出てくる。端的なものが喫煙問題だ。健康に対するたばこの害についてはわたしの記憶では三,四十年前に言われ始めた。その当時は男性ならほとんどが喫煙していたし、それが健康を害するという意識はなかった。ただスポーツをするには心肺能力の点で不利だろうなあと考えていた。十八世紀のイギリス、煙突掃除の少年たちの間で陰嚢がんの発症が相次いでいた。もちろんその当時がんとは解らないので、一種の性病とみなされていた。これが煤(タール)とがんの最初の結びつきのようだ。ところが増え続ける喫煙者とがんの関係は二十世紀中頃まで発見されなかった。発見されても社会には受け入れられなかった。企業にとっても国家にとっても煙草は大きな財源だったのだろう。研究者と煙草会社の長い戦いが行われるのだが、訴訟による賠償や広告の禁止、警告文の表示などに至り、喫煙者は激減することとなる。警告文が付き、値段が上がり、喫煙箇所が限られ、健康に悪いことがはっきりしても煙草は街角で売られており、止められない人はいつまでも吸い続け、新たに喫煙をする若者も出てくる現状はどうしたものか。
 がんになる前に予防しようという試みは、胃がんに対するピロリ菌除菌や乳がんに対するマンモグラフィー、子宮頸がんに対するワクチンなど様々な発見から発展して誰でもできる予防法となっている。つづく
 


 

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がん-4000年の歴史(上下) 8/11

2020-08-11 | 雨読

2020.8.11(火)快晴
がん-4000年の歴史-(上) シッダールタ・ムカジー著
 早川書房2016年6月発行 八幡市立図書館借本
 2013年「病の皇帝「がん」に挑む 人類4000年の苦闘」を解題し、文庫本として発行されたものである。ピュリッツアー賞などを受賞している。この本を読むきっかけは、愛読している「ひと・健康・未来」という冊子の中に「(できるだけ)がんにならない暮らし がんは運である?」(仲野徹)という記事があり、「養生訓」、「死すべき定め」と本書が紹介されていたためである。筆者の仲野氏は阪大大学院の病理学教授だが、本書下巻に解説として「大いなる未完」と題して執筆されている。

「ひと・健康・未来」は年に数回発行されるが、シンポジウムとともに楽しみにしている。
 若いとき、がんなんてどこか別世界のことと思っていた。周囲にがん患者なんて居なかったし、がんで亡くなる人も居なかった。ただがんとは不治の病で、罹患したらお終いという恐怖感は持ち合わせていた。それが60才を超えたらどうだ、周囲にはがんがあふれ、あっけなく亡くなる人も出てきた。これは何なんだ、情報も治療法も格段に向上しているはずなのに、死者は増え続け、遂に死亡原因のトップに躍り出た。がんが二人に一人といわれる70才を目前にして、もしがんになったらどうするか、その時になって変更してもいいから決めておくべきと考えた。そのためにはがんのなんたるかしっかり見極めることが必要だ。この本を読み始めた理由はこういうところにもある。
 紀元前2500年のパピルス写本に「乳房の隆起するしこり」に関する記述があると言う。エジプト人医師イムホテプの教えを書き写したものだそうだが、この症例に対しては「治療法なし」というのが衝撃的だ。もっとも他の症例についてもいかがわしいものばかりなのだが、兎に角治療法が書いてあるのだ。 2000年前のエジプトのミイラから骨盤に浸潤した腫瘍が見つかっている。また200万年前の顎の骨にリンパ腫の痕跡があると言うことも書かれている。がんは最古の病気ということも言えそうだが、腫瘍というのが痕跡として残りやすいということかもしれない。古代から中世におけるがんの治療というのがいかに悲惨であるかは想像に難くないが、それはインチキというものではなく非科学的と言うべきで、当然なことである。四体液説の黒胆汁ががんの原因だというのも長く信じられていた。ただこの時代のがん患者というのは極希であったと思われる。それはがんが老化に関係した病気だということであり、寿命が40,50の頃にはがんができるまでに死亡しているという訳だ。

上下巻で800ページを超える大作だが、興味深く読み進められる。
 上巻では古代から中世のがんの様子も書かれているが主に一九世紀二〇世紀の治療の様子が書かれている。原因もわからず、確たる治療法もない中で患者は増え続け、医者たちは試行錯誤するのだがそれは戦争と呼ぶに等しい状況であった。最も古い治療法はやはり切って捨てるという手術療法だろう。特に乳がんに対しては古くから行われており、日本でも華岡青洲の手術など有名である。乳房切除してもその周辺から再発を繰り返すため小胸筋から大胸筋まで切除する「根治的乳房切除術」が行われる。それでも再発があり鎖骨、
リンパ節にまでおよび、体の形が変わってしまうまで切除するのだが、それでも完治しないことがあるのだ。次に現れるのが化学療法で、最初の化学薬品は染料から始まった。もちろん抗微生物剤として登場したのだが、最終の目的としてがんに使用され始めた。白血病に対して葉酸を投与したら白血病が進行してしまった、それならばと葉酸拮抗薬を投与すると白血病が寛解し始めた。やがては再発するのだが、このようにありとあらゆる化学薬品を試験的に投与する状況が続いた。あるものは寛解を促したがまるっきり効かないものもあった。寛解となったものもやがては再発し、完全に治癒することはなかった。化学療法も手術と同様に超大量化学療法となるのであるが、常に副作用との戦いに明け暮れることとなる。つづく

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