JAZZを聴きながら ふたたび

恥も顧みないで再々開、よろしければお付き合いを

プロデューサーもまた逝く

2008年02月25日 | m-o

風はなんとか治まってきたものの、これも中休みで明日夜からは次の爆弾低気圧が日本列島を襲ってくるとか、『台風より怖い爆弾手気圧』被害がこれ以上拡がらないことを祈るばかりです。(我が家も含めて)

去る2月19日、名プロデューサー、テオ・マセロが亡くなったという訃報が舞い込んできました。享年82歳、詳しい死因は把握していませんが、病死との発表であったようです。
マセロといえば、やはり「KIND OF BLUE」以降、マイルスの全てのアルバムに係わったことで知られた人。マイルスにとってはプロデューサーであり、良きアドバイザーであり、公私共にもっとも係わりの深かった人物でもあります。

もともとはジュリアード音楽院で作曲も学んだミュージシャンであり、チャールズ・ミンガスのジャズ・ワークショップへも参加をしていました。
ダウンビート誌の1955年11月2日号のなかで、マイルスが「チャーリー・ミンガスやテオ・マセロが少人数のグループ向けに書いているような曲については、つまらない現代芸術みたいだったり、何だか気が滅入るようなのもあるね。ミンガスはもっと良い曲が書けるはずだ。・・・・・・・」といった発言をし、これに対しミンガスが同誌にマイルス宛ての公開書簡を送るてなこともありましたっけ(「JAZZ legends ダウン・ビート・アンソロジー」で確認できます。)
そのマイルスとマセロが、後に切っても切れぬ仲になっていったというのも、なんだか面白いですよね。

セロニアス・モンクの映像「STRAIGHT NO CHASER」の中でも、コロンビアのスタジオでの録音を前にモンクと談笑するマセロの姿が映っていましたけど、「優しい気遣いの人」といった雰囲気が漂ってます。(ピアノを弾く彼も見られますよ)

モンクやマイルス、ビル・エバンスといった一癖も二癖もあるジャズメンとお付き合いするには、そうとうの気苦労もあったでしょうに、あの穏和な顔立ちで上手く付き合ってきたわけで、これはひょっとしたら、秘めたしたたかさを持つ恐るべき人だったのかもしれません。あっ、だからこそ名プロデューサーに成り得たわけですよね、納得納得。(笑)
そんなマセロをプロデューサーの道に誘い込んだジョージ・アバキァンにも、いちジャズ・ファンとして感謝しなければいけません。
ちなみにマセロの初プロデュース・ジャズ・アルバムは、デイブ・ブルーベックの「GONE WITH THE WIND」、そうそう宮野弘紀(g)のデビュー盤をプロデュースして話題にもなりましたっけね。

とにもかくにも、私のようなオヤジが愛したミュージシャン達があっちの世界に逝くのも寂しいですが、私が最もご厄介になったレコード達をプロデュースしてきてくれた彼らの死もまた寂しく、時代の流れを感じてしまうわけです。
マセロにも感謝とともに心よりご冥福をお祈りいたしましょう。

さて、今日の一枚は、テナーマンとしてのテオ・マセロをなんとか紹介できないかと、チャーリー・ミンガスのこんなアルバムを選んでみました。
ミンガスとピアニストのウォーリー・シリロの曲が半分ずつ各面に収められたアルバムで、アレンジにはマセロも係わっていたようです。

この後「直立猿人」へとつながっていく過程がうかがえるアルバムであり、ジャズ・ワークショップの目指したものが随所に感じられる一枚だと思います。

テナー・マンとしてのマセロの出来はいかがなものか?
できればご自分の耳でお確かめ下さい。

JAZZ COMPOSERS WORKSHOP No.2 / CHARLES MINGUS
1954年10月31日[1-4], 1955年1月30日録音[5-8]
CHARLES MINGUS(b) TEO MACERO(ts,bs)
JOHN LAPORTA(cl,as) GEORGE BARROW(ts,bs) MAL WALDRON(p) RUDY NICOLS(ds)[1-4]
WALLY CIRILLO(p) KENNY CLARK(ds)[5-8]

1.PURPLE HEART
2.GREGARIAN CHANT
3.EULOGY FOR RUDY
4.TEA FOR TWO
5.SMOG L.A.
6.LEVEL SEVEN
7.TRANSEASON
8.ROSE GERANIUM