おかあちゃん牧師の日記

新船橋キリスト教会の牧師です!
日々の生活のこと、教会のこと、
家族のことなどを書いています!

どうしてそんなに

2020-03-27 18:06:36 | 信仰 聖書
さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」 マルコ4:35~41(新改訳聖書第3版)

新型コロナのせいで「恐れ」が
世界中を覆っているように見える。
私たちクリスチャンも
主につぶやいていないだろうか。
「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、
何とも思われないのですか。」と。

そんな私たちにイエスさまは言われる。
「どうしてそんなにこわがるのか」と。

そりゃこわがるでしょう。
こんな大波なんです!
誰がウイルスを持っているかわからないのです。
教会で感染者が出たらどうするんですか!

でもイエスさまがいっしょにいるでしょう?
イエスさまは私たちのことを
「なんとも思わない」わけがないでしょう。
命がけで愛してくださっているのに。

いや、こわがってもいい。
ちゃんとこわがって、
気を付けることは気を付けたらいい。
手洗い、うがい、換気…
オンライン礼拝もいい。
確信をもって決断したらいい。

でも、「そんなに」恐がることはない。
世の人と同じように恐れにとらわれないようにと、
イエスさまはそう言っておられるような気がする。

大丈夫、大丈夫♪
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聖職者

2020-03-27 10:54:27 | 時事問題

FBでもシェアしたのですが、
こんな記事を目にしました。
いろいろ考えさせられます。

カトリックにとって「病者の塗油(終油)」は、
7つの(秘跡)サクラメントの一つ。
手をもってオリーブ油を塗って
病の回復を祈り、
特に臨終の床にある場合には、
そこで告解(罪の告白)を促し、
罪の赦しの宣言をし、
聖体拝領(ミサ)をして
祝福をもって送り出す。
まさにどれをとっても濃厚接触です。
感染は避けられないでしょう。

でもカトリックの聖職者にとっては、
これらは大切な職務なのです。 
特に看取りは、
なくてはならないもの。
その人が御国に行けるかどうかが
かかっているわけですから。

カトリックの教理によると、
この世で告白しない罪が残っていると、
煉獄での苦罰を受けることによって、
自らを清めなくてはいけないようです。
またこの煉獄にいる霊魂のために、
今生きている私たちは祈ることをもって、
清めを助けることができるとも?
それからやっと天国に行ける?

すみません。
カトリックの教理はあまりわかりません。
でも、彼らにとって、
聖職者に看取られることは、
非常に意味があることがわかります。

プロテスタントは、
一度のイエス・キリストの十字架によって、
それを信じる者のすべての罪は贖われ、
義と認められ、
新しいいのちと御国の約束をいただける
という教理を持っているため、
死ぬ間際の告解は必要ではありません。
また万人祭司の教理は、
聖職者が最後を看取らなければいけないという
縛りもありません。

だから、
私はプロテスタントでよかったということではなく、
むしろカトリックの聖職者たちの献身というか、
命がけの牧会に敬服します。

以下の記事にもいろいろと考えさせられたことでした。


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