ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

これだけは伝えタイムマシン

2015年08月28日 | 通信-科学・空想

 糞暑いせいで畑を休んでいるのか、最近、近所の大先輩農夫N爺様が姿を見せない。もっとも、最近雨の日が多い、私も8月に入って2日は休んだし、遅い時間に出勤ということも数日あった。N爺様も雨の日は概ね畑に来ない。そのせいでもあろう。
 N爺様からは、彼が若い頃の話をいろいろ聞いている。爺様の若い頃は戦中戦後だ、興味深い事項もいくつかあった。その話をまとまった文章にしようと思ったのだが、聞きながらノートをとるということをしていなかったので、「あれ、何でそうなったんだったっけ?」など思い出せない点がいくつかあって、まだ文章にできていない。
 4月から5月にかけて数回、N爺様とじっくり話をする機会があって、計4時間ばかり会話をした。爺様は終戦の1945年、17歳で、もう少し経てば兵隊にとられたが、その時は軍需工場で勤労奉仕していたらしい。そして、既に結婚していたとのこと。結婚したてで、しかも戦火が激しい頃で幸せな結婚生活は送れぬまま、妻を失くしている。新妻だけでなく、自分の両親も一緒に失くしている。爺様の両親と妻は北部へ疎開する道中、同じ日同じ時間同じ壕の中で米軍によって焼き殺されたとのこと。

 N爺様は淡々と語ったが、そのことに思いを馳せるように遠くを見るような眼差しをした。爺様には問わなかったが、それはとても悔しい思いをしたのだと思う。
 今度N爺様と話をする機会があったら聞いてみようと思っていることがある。「亡くなってしまったけど、両親と奥さんに伝えたいことがありますか?Nさん、そんな手紙書いてみませんか?」と。爺様の話をまとめる時に、爺様から聞いたことを私が文章にするだけだと深みが無いので、その手紙をメインにしようと思ってのこと。
 そこで、想像力の豊かな私は、これだけは伝えたいと思うことを、時代を遡って伝えることのできるタイムマシンがあればと想像した。もしも私がその場にいたら、
 「鬼畜米英なんて嘘だ、「出てきなさーい」と聞こえたら手を挙げて壕から出るんだ、命どぅ宝(ヌチドゥタカラ)だ、生きていさえすれば何とかなる」と、壕の中にいる人々を説得したと思う。もしもそこに日本兵がいて「何だとーこの野郎、臆病者が、非国民めが、黙れ!」と私に切りかかってきたら、私はその兵隊を殺してでも皆を救いたい。
          

 「日本国民なら辱めを受ける前に自ら命を断て」と日本軍国主義によって洗脳されていたウチナーンチュには、終戦を前に自決した人も多くいたと聞く。彼らにも私は、
 「生きなさい、戦争が終われば平和な世の中になる。皆が飢えの心配をせず生きていける世の中になる。戦後すぐ沖縄芝居が隆盛となり、映画に人が集まり、やがてテレビが茶の間に広がる。多くの人がマイカーを持ち、休みの日には家族そろって海辺でバーベキューパーティーをする。結婚して、家庭を持ち、子供たちが大人になり、結婚してたくさんの孫ができ、その孫が大人になって、結婚して曾孫も産まれる。あなたの未来は今と比べれば遥かに明るく、幸せに生きていける。だから生きなさい」と伝えたい。

 6月23日の慰霊の日までに「N爺様の時間旅行」のようなタイトルで一文を書いて、それをブログに載せようと思ったが叶わなかった。ならば8月15日までにと思ったがそれも叶わなかった。今度N爺様を見かけたら、声をかけ、話を聞こうと思っている。
          

 記:2015.8.28 島乃ガジ丸


果実酒3

2015年08月28日 | 飲食:飲物・嗜好品

 300坪の畑ナッピバルが忙しく、長いこと放ったらかしていた宜野湾の小さな畑ナツヤ、今年6月中旬、久々に覗いてみたら、雑草が蔓延り大いに荒れていた。雑草も蔓延っていたがパッションフルーツの蔓が縦横に蔓延り、畑の面積の三分の一強を占めるほどとなっていた。そして、多くの花が咲いており、多くの実がついていた。
 6月29日、「もしや」と思ってパッションフルーツが蔓延っている中、蔓を持ち上げながら覗いてみたら実が落ちていた。30個余り拾った。7月3日と7日も同じようにして3日間合わせて100個余の実を拾った。親戚友人に少し分けて70個ほど残った。別の親戚友人にも分けようかと思ったが、ここで閃いた。「どうせ傷だらけの果実、静岡の美女Kさんに贈ることもできない、他の人にあげるくらいなら」と、70個ほどの内、熟しすぎて腐ったものなどを除いて60個程を酒にしようと仕込んだ。
 果実を割って、中身だけを取り出し、広口瓶に入れ、三温糖と水を加え寝かせる。これまでに果実酒は何度も挑戦しているが今回、今までと違うことを一つ試してみた。パン作りに用いるイースト菌を翌日に加えた。そのイースト菌が功を奏したのかどうか判らないが、7月4日に仕込んで、一週間後の11日には飲めた。8合程の量があった。
     
     
     

 7月3日と7日、落果した実を拾っている時、蔓にはまだ実が、熟するのを待っている実が多く着いているのを私は確認していた。「2週間後には100個位は収穫できそうだな、現金収入になるぜ」と思い、ニヤリと笑いを浮かべていた。パッションフルーツは小さいくせに高く売れる。売るためには表面がきれいでなければならない。落下すると傷が付く。なので、色付いたら収獲しなければならない・・・と思っていた矢先、
 7月10日、台風9号が沖縄島を襲った。12日と15日にナツヤへ行き、落果したパッションフルーツを拾った。合わせて100個余。割れているものや色付かない内に落ちたものも同じくらいあった。拾ったものも全てが表面は傷だらけだった。これらは売りものにならない。傷だらけの果実は静岡の美女Kさんにも贈れない。
 売れないパッションフルーツ、贈れもしないパッションフルーツ、どうする?と考えるまでも無く、もちろん今回もまた酒にした。使えたのは前回とほぼ同じ60個程であったが、果実が平均して大きかったのか、熟度が進んでいたからか中身の量は2割増しくらいに多かった。前回と同じく、水と三温糖とイーストを加える。1升の酒ができた。

 パッション酒、まあまあ美味しいのだが、これはしかし、いくら酒好きの私でも勿体無いと思う。傷だらけでなければ贈り物として、とても喜ばれる品だ。300~400個売ったとしたら5~6万円の収入となる。6万円なら4ヶ月分の食費だ、価値が高い。
 パッションフルーツ、農夫としては売った方が良いと認識している。それでも、何年か続けて台風の来ない年もあったが、沖縄は概ね台風が襲来する。したがってパッションフルーツも、露地栽培の場合は無傷で収穫できるのは稀と考えた方が良い。現金収入が得られないというのはとても残念だが、台風で傷付いたパッションフルーツは酒にすれば良いとなれば、酒好きの私にとって、それはそれでとても幸せなこと。
 猿酒とは「猿が木のうろまたは岩石のくぼみなどに貯えておいた木の実が、自然に発酵して酒に似た味となったもの」(広辞苑)のことだが、パッションフルーツは「自然に発酵」は期待できず、イースト菌を加え、その力で酒になる。私の理想は猿酒なのだが、とにかく酒であれば良し。それが不味く無ければ私の幸せとなる。台風で傷付いた果実も私の猿知恵によって人(私1人だけだが)の幸せに変化するのだ。めでたしめでたし。
     
     

 記:2015.8.22 ガジ丸 →沖縄の飲食目次