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ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

ウチナーグチは直訳で

2009年07月31日 | 通信-音楽・映画

 小中学校が夏休みに入る頃からは真夏である。空が晴れて、ギラギラの太陽がガンガン照りつける日は、散歩も辛くなる。しかし、やる。まるで苦行僧のように、あるいは、鞭打たれて快感を覚えるマゾのように、ダラダラ汗をかきながら歩く。
  この時期の散歩は概ね夕方となる。だいたい4時から7時の間の1、2時間となっている。そんな時間でも沖縄の夏は、日向を歩くとダラダラ汗をかくのだ。
 先週土曜日も計一万歩を越えた。一万歩のうち約八千歩は、この時期としては珍しく真昼間、その内のほとんどは家からバス停、バス停から桜坂劇場、桜坂劇場から実家までの歩き、つまり、炎天下を八千歩近く歩いたのは、映画を観るためであった。
          

 観た映画は『トライアングル山のミックス(仮名)』、作り手の意欲は何となく解る。なので、「頑張ってるなぁ」と思い、「これからも頑張ってね」と応援したくなる。が、映画の出来は、あくまでも私の感性による意見であるが、残念ながら、炎天下の八千歩という苦行に見合うものではなく、ここで感想を述べるほどのものではなかった。
 ということで、今回は沖縄の映画全般について、私の思うこと。

 沖縄の映画でウチナーグチ(沖縄口)が使われる場合、ウチナーグチを理解できない倭人、及びウチナーンチュの若い人たちのために字幕スーパーが入る。ウチナーグチをヤマトゥグチ(大和口)に翻訳するわけだが、それについてちょっと注文がある。
 例えば、
 山ぬマジムン ユルンユナカに ヌーガナワサミチョン
これを、「山の魔物が夜中に何やら騒いでいる」と訳す。確かに、解りやすくて簡潔な文章となるが、しかし、私としてはこの場合、
 「ユルンユナカに」は「夜も夜中に」と、端折らないで訳して欲しい。
 また、例えば、
 クヮッチーシコウティ 浜にウリトンドー
これを、「ご馳走持って、浜に下りているよ」と訳す。確かに、解りやすくて簡潔な文章となるが、しかし、私としてはこの場合、
 「クヮッチーシコウティ」は「ご馳走準備して」と、より正確に訳して欲しい。

  「端折らない、意訳ではなく直訳で」は、耳で聞いた言葉が、字幕のどの文字に当たるのかを視覚的に捉えることができ、ウチナーグチの単語を観客が理解してくれるかもしれないと思うからだ。特に、ウチナーグチをあまり知らない若いウチナーンチュたちのためにそうして欲しい。単語を覚えたなら、使ってみたいと思うかもしれない。

 ついでに、私の感性では理解できなかったことを一つ、
 『真夏の夜の夢』は確か、シェークスピアの作品であり、それに合わせたメンデルスゾーンの組曲もある。『トライアングル山のミックス(仮名)』はシェークスピアの作品を下敷きにしたらしいが、使われている音楽は何故かバッハであった。エンディングの音楽もまた、ずいぶん的外れであった。何の意図なのか、私には理解できなかった。
          

 記:2009.7.31 島乃ガジ丸


少数派は慎ましく

2009年07月31日 | 通信-その他・雑感

 日曜日(7月26日)、買い物その他の約2時間を除いては、朝7時過ぎから夜9時前までを畑仕事をさぼって、テレビを観たり見たりしていた。ガジ丸HP用の記事を書きながら、部屋の掃除をしながら”見”たり、時々は集中して”観”ていた。
 見たり観たりしていたのはフジテレビの26時間テレビ、総合司会は島田紳助。同番組は去年も観たり見たりしていた、その時の司会は明石家さんま。島田紳助と明石家さんまは同じ歳で、芸能界に入ったのも同期で、初期の頃はコンビも組んでいた仲らしいが、その感性には大きな違いがあることを今回、私は感じた。
 明石家さんまは「面白いかどうか」を唯一最大の価値にしていて、島田紳助はそれプラス「感動するかどうか」も大きな価値にしている、と感じた。

 私は、こう書くと「冷たい人間」と思われるかもしれないが、まあ、その通りなのかもしれないが、「感動するかどうか」で作られた今回の企画、三輪車レースなどはつまらないと思い、その実況をやっている時間は概ねテレビから離れた。
  お涙頂戴が苦手である。どうだ、がんばっているだろう、すごいだろう、感動するだろう、涙が出るだろう、なんて言われてもだ、そんな状況をわざわざ作らなくてもいいんじゃないの?と思うだけだ。炎天下で頑張っている?・・・私の同僚達は、12時間とまではいかないが、ほとんど毎日炎天下で頑張っている。日常のことである。
 できれば、次回は、「炎天下で三輪車」では無く、「炎天下で畑を耕す」企画にして欲しい。日本には休耕地が多くある。各地域で、一日にどれだけ耕せるかを競う。耕した畑には地域の有志が種を植え、作物を育てる。そうすれば国土が潤う。日本の食糧自給率のアップにもいくらかの足しになるに違いない。視聴率は取れないだろうが。
         

 歌にしろドラマにしろ、聴いている人や観ている人に感動を与えることが良い作品であることの評価に繋がると思うが、感動を与える方法があまり作為的だと、私は却って白けてしまう。作為的の度が過ぎると、気持ち悪いとさえ思ってしまう。
  三輪車レースを完走した亭主に、(離婚したかったらしい)女房がその目の前で離婚届を破るというシーン(たまたま見てしまった)があった。そういうのが私は気持ち悪い。わざわざテレビの前でやることではなかろうと思う。
 家に帰って、風呂に入って、子供たちも寝て、夫婦二人っきりになって、酒でも酌み交わしながら、「お疲れさん」と言い、「応援ありがとう」と返事し、二人の周りを優しい空気が流れ、そんな中、「実はこれ」と、女房が離婚届を出す。そして・・・。

 まあしかし、島田紳助の目論見通り、三輪車レースにはたくさんの人が感動したのであろう。それはそれでちっとも構わない。気持ち悪いと感じた私は、「俺はやはり少数派であるか」と再認識するだけのこと。ただ、そんな私でも、翌日の宮里藍には感動した。流れる涙を帽子で隠す姿に、4年間の努力と苦労を感じて、思わずもらい泣きした。

 さて、ガジ丸通信は今週、別項で映画を批評しているが、取るに足らない少数派の感性によるものなので、多少の辛口は許してね、・・・という、これは前置き。
          

 記:2009.7.31 島乃ガジ丸