私は食べるのが遅い、子供の頃からそうであった。「何をだらだら食ってるんだ!兵隊なら殴られているぞ!」と親父によく怒鳴られていた。しかし、祖母と母は「よく噛んで食べなさい」という教えだった。私は父への反発もあって、よく噛んでいたかはどうかは覚えていないが、わざとのようにダラダラとゆっくり食べていた。
オジサンとなってからは、よく噛むことに気を付けるようになり、特に、玄米食を始めた20年前頃からは自然によく噛むようになった。玄米はよく噛むと旨味が出てくることに気付き、「旨ぇじゃないか!」と知り、他のものもよく噛んで味わう癖が付いた。
先日、試にと、一口当たりの噛む回数を数えてみた。口に入れる量で異なると思うが、私は1口の量が少ない(大さじ1杯程度)。それでも、豆腐のような柔らかいもので30回ほど、その他、煮た野菜や煮た薄切り豚肉などは60回ほど噛んでいた。
昔、私の部屋にテレビがあった頃、テレビの食べ物番組などで、タレントが何かを食べて「柔らかくて美味しい」というセリフを何度か耳にしたことがある。別に「甘くて美味しい」というセリフもあった。「柔らかくて美味しい」、「甘くて美味しい」に私は「何言ってやがる、堅くて旨いものが多くあるぞ、よく噛んで感じるほんのり甘さの方が旨いぞ」などと、テレビのタレントと世間の一般論に盾突いていた。私1人の感性に限って言えば、私の意見は正しいと、玄米食を始めて20年経った今は自信を持って言える。
その玄米だが、ここ1年ほどは、スーパーで玄米弁当なるものを買って食べたことは何度かあるが、家で玄米を炊いて食べたことは無い。300坪の畑を始めた約5年前から、玄米食から芋(サツマイモ)食へと徐々に移っていった。ただ、ここ数ヶ月、芋掘りをしていないので芋食もご無沙汰している。ここ数ヶ月はパンと麺類が多い。
麺類では腰のあるウドンを好んで食べ、よく噛んでいる。食パンや菓子パンなどは「よく噛む」には不適だが、私が好んで食べているパンはほとんどが堅いパン。私が若い頃はフランスパンと呼ばれていたものが約5割、あるパン屋さんに置いてあるライ麦パンはとても堅くて、それが約3割、その他が約2割といった割合となっている。
私の好物のライ麦パンは、普通のフランスパンの3倍位は堅い。その堅いものを噛んで噛み切って(私は、歯は丈夫な方)、咀嚼する。ライ麦パンはたぶん、一口100回くらいは噛んでいる。よく噛むとライ麦の雑味が出てくる、それが旨い。
よく噛むことの効果は、前述したように、食物の旨味が判るようになるということだと思われる。芋(サツマイモ)はそう多くはないが、玄米一口の咀嚼回数はライ麦パンと同じく100回くらいだ。すると、玄米の雑味が出てくる、それが美味い。
咀嚼とは何かを改めて広辞苑を引いた。その第一義に「かみくだくこと。かみくだいて味わうこと」とある。食事とは(私に限って言えば)まさしく「かみくだいて味わう」ものなのだ。飲むようにして食べていたら甘い、辛いなどといったインパクトの強い味を表面的に感じることはできても、噛み砕いて味わうことで得られるほんのりとした旨さを感じることはできないものと思われる。よく噛むと唾液が多く出る。唾液は殺菌効果があると聞いている。虫歯予防になり、免疫力アップにも繋がるのではないかと思う。
記:2017.10.27 島乃ガジ丸
9月8日付ガジ丸通信『食べ物の気』で「私は揚げ物をあまり食べない・・・ケーキ食べない、牛乳飲まない、フライドチキンやハンバーガーなどファストフードも食べない」というようなことを書いたが、私があまり食べない、飲まないものは他にもある。
サプリメントの類は一切飲んだり食べたりしない、コーラや人工甘味料入りのジュースなどもほとんど飲まない。それらもまた『食べ物の気』で書いているように「それらの発する気が、私の体の気と相性が悪いのだと思っている」となっている。
いや、サプリメントを摂らないに関しては別の大きな理由もある。体内に栄養を摂り入れる際には、美味しいものなら「旨ぇ」と感じる大きな幸せがある。サプリメントにはそれが(摂取したことが無いので断定はできないが)、おそらく無いと思われる。見た目でも「美味しそうなサプリメントだなぁ」というサプリメントを私は見たことがない。
ビタミンCはサプリメントで補うよりもゴーヤーで摂り、カルシウムはサプリメントで補うよりもヒジキで摂り、「旨ぇ」と幸せを感じる方が私は好きである。
私の飲食物摂取は、生命維持のための遺伝子が成せる欲望が基本にあるが、幸せを感じたいという私の脳の欲望でもある。たっぷり汗をかいて、たっぷり疲れて畑仕事を終え、家に帰って、先ずは料理をする。今晩何を食うかは既に頭にある。食材は、たいてい昼間の内に購入しており、畑からの収穫物を加えて料理する。料理の出来上がりを「旨ぇだろうなぁ」と想像し、ビールや酒の旨さも想像し、主夫は嬉々として料理している。
料理を終え、シャワーを浴びて、食卓に料理を並べ、ジョッキにビールを注いで、先ずは一口、二口、三口ほど食べて、それからジョッキを掴み、グビグビ飲む。あー、想像しただけで幸せになる。料理が予想通り旨ければ私の脳の幸せは100%満たされる。
料理は概ね私が食べたいものである。私の好みはほぼ定まっている。煮物焼物が中心で生野菜も時々ある。フライパンに油を引いてという料理はあまり無い。揚物はまったく作らない。揚物は、疲れた時などにスーパーの総菜を買ったりする程度、稀である。
摂取した経験のほとんど無いサプリメントの類を除けば、私が飲まない食べないものに共通することがある。それは「味が濃い」ということ。私の舌と胃袋と腸がそう感じている。「これって本当に美味しいの?インパクトのある味が美味しいものであると、どこぞの誰かに洗脳されているんじゃないの?」と、常々疑問に思っている。
「味の濃いもの」を、体は欲していないのに、頭の中の欲望が欲しているのではないかと思うようになり、体が欲するものは何かを考えるようになって、「自然のもの」に私は辿りついている。「そこはかとない」味を好むようになった。私の家にマヨネーズ、ケチャップなどは無い。味付けは概ね塩と醤油と自作のウージ液糖で済ませている。
畑仕事をして汗をかいて、シャワーを浴びてビール(発泡酒)を飲む。ビールにどんな栄養があるかは知らないが、その時に「旨ぇ、生きてて良かった」と感じるのはこの上ない幸せだと思う。幸せを感じることは心の栄養であり、体の栄養でもあると思う。
という論法でいけば、「味の濃いもの」を食べて幸せを感じられればそれでいいじゃないかということになる。もちろん、味覚は人それぞれなのでそれで良い。ただ、生命維持のための欲望はたぶん、「味の濃いもの」はさほど望んでいないと思われる。
記:2017.10.6 島乃ガジ丸
実家に住んでいる頃、私の部屋にクーラーは無く、東京に住んでいる頃も、実家を離れて首里石嶺のボロアパートに越してからも部屋にクーラーは無かった。首里石嶺から宜野湾市我如古のワンルームに越したが、そこにクーラーはあったが、使わなかった。
生きるために必要なものをなるべく少なくしたいという考えから、私は自給自足芋生活を目指している。食べ物のほぼ全てを自産したいという目標を持っている。同じ考えからガソリンをなるべく使わない、電気をなるべく使わないということも目指している。ガソリンも電気も全く使わないということはできないはずだが、車を運転する時間を減らす努力はしているし、電力消費の大きいクーラーを使わないようにしている。
ところが、今年の夏の糞暑さは前代未聞の糞暑さ。7月は何とか耐えたが、クーラー使わない主義の私も8月はついにギブアップ。日記を調べると、7月も2回は使っている。7月11日に「試に」と1度、寝る前の2時間ばかり使い、7月31日に「日中の暑い時間帯に使うと効果あるかも」と午後3時から5時まで試験的に使ってみた。
8月は家でクーラーを使った日が14日ある。10日間ほどは図書館、または従姉の夫の事務所で日中を過ごしているので、日中家にいる時にクーラーを我慢した日はたったの6日だけ。8月の日中、クーラーの効いている環境で過ごしたのは25日間となる。
そして9月、9月になればいくぶん涼しくなるだろうと思い込んで、5日まではクーラーを我慢したが、しかし、9月になっても糞暑い。6日から12日までの7日間を私は、図書館などで過ごした日も加えて、不本意ながら日中はクーラー環境にいた。
「クーラーをなるべく使わない」は上記の通り、「電気をなるべく使わない」という理由もあるが、もう1つ大きな理由がある。免疫力アップのためということ。
体がある程度の体温調整をする、暑ければ汗をかき、寒ければ震えるといったようなもの。それは生きる上でとても大切なことだと思う。ただし、あんまり寒いと凍え死んでしまうので、また、凍え死んでしまうほど日本の冬は寒いので、暖炉など何らかの暖房は必要であろう。一方暑さはどうかと言うと、今年の糞暑さは厳しいが、日陰にいれば何とか凌げる。「冷房が無いと生きていけない」ということは無い、と私は思う。
「冷房が無いと生きていけない」は無いが、「冷房が無いとグッスリ眠れない」ということはあるようだ。私は、日中の3時間ほどはクーラーを使っているが、夕方にはクーラーを消し、夜は窓を開け、扇風機の風だけを頼ってクーラー無しで過ごしている。そんな条件での私の睡眠はどうかと言うと、今週月曜日辺りから、夜は幾分涼しくなってグッスリ睡眠に近付いているが、それまでは暑苦しくてグッスリとはほど遠い睡眠だった。
免疫力を養うには上質な睡眠が必要だと私は思っている。クーラーの力を頼れば上質な睡眠が得られるかもしれない。しかしながら一方では、免疫力を鍛えるには安易に科学の力に頼ってはいけないとも私は思っている。科学の力に頼ると野生の力が失われるのではないかと考えている。野生の力には自らを生かそうとする力がある。つまり、自然治癒力がある。私は、私の体に野生の力が備わることを願う。よって、暑かったら汗をかいて体を守るという力も鍛えておきたい。よって、なるべくクーラー使わないとなる。
記:2017.9.15 島乃ガジ丸
昨年12月に新居に越してから、同じ屋根の下の、隣に住む大家さんからしばしば食べ物を頂いていた。私はその日の晩酌の肴になるもの、翌日の朝食昼食はたいてい準備しているので、大家さんから頂くものは概ね余分なもの(小食なのでたくさんは食えない)となる。よって、その旨を告げ、「そんなに要らないですよ、たまにでいいですよ」と何度も言っているが、大家さんは「これくらい入るでしょ」と強引に押し付ける。
先月の初め、日記を調べると8月12日だった。夕方、大家さんがコンビニの鶏唐揚げを持ってきた。ついでに日記を調べると8月に入って3度目の差し入れ、ついでに調べると7月は7度もあった。差し入れの品が野菜や缶詰類なら日持ちするのでありがたいが、その日か翌日までには消費しなきゃならないものは困る。しかも、大家さんは肉料理や揚げ物が好きみたいで、そんな時はさらに困る。で、8月12日は、「私は、揚げ物はあまり食べないんですよ、それは要らないです」と断った。大家さんはなおもしつこく勧めたが、私が固辞すると、不機嫌そうな声で「なら、いいわよ」と唐揚げを引っ込めた。
私は、揚げ物を全く食べない訳ではないが、食べる機会はごく少ない。先ず、自分で作ることはない。天ぷら鍋は持っていて以前はよく使っていたが、ここ7、8年は使っていない。その天ぷら鍋は今、畑の倉庫の中に眠っている。揚げ物は、スーパーの割引き弁当をたまに買った時、その中に入っている唐揚げや天ぷらを食うくらいだ。
今週日曜日(3日)、旧盆のウンケー(御迎え)で、火曜日がウークイ(御送り)だった。たぶん、沖縄の慣習、あるいは我が家の慣習では、ウンケーには仏前に提灯、グーサンウージ(グーサンは杖、ウージはサトウキビ、サトウキビを50センチほどの長さに切って御先祖の杖と見立てたもの)、スイカ、パイナップル、バナナなどの果物、クンペンなど沖縄の伝統的お菓子で飾り付け、ウンケージューシー(御迎え雑炊)を供える。
中日にはぜんざいを供え、ウークイには御馳走を詰めた重箱を供える。重箱の中味は昔から変わらない。豚三枚肉の煮付け、結び昆布とゴボウとコンニャクの煮付け、厚揚げ、カマボコ、カステラカマボコ(玉子が入った蒲鉾)、魚、イカ、野菜の天ぷらなど。揚げ物は厚揚げと天ぷらがあるが、多くは煮物、蒸し物が占めている。ところが、
旧盆前、及び正月前になると、各スーパーでは沖縄の伝統的重箱料理の他にオードブルという名の、たぶん、パーティー料理なるものもが、まるで旧盆正月には当然必要なものとして店頭に並べられる。そのオードブルが凄まじくカロリー過多。
私の母は料理上手で、盆正月の料理もカマボコ以外は手作りしていたので、私はオードブルなるものがあることはスーパーに並んでいるので知っていたが、その中身がどういうものかをつい最近まで知らなかった。去年の大晦日、12月に越して来たばかりの私に大家さんから「正月に食べて」と差し入れがあった。それがそのオードブル。これについては既に、2017年1月6日付ガジ丸通信『肉食系穏やか人種』に詳しく書いているが、若い頃ならたいしたボリュームでは無いのだが、今は完食するのに2日かかった。
私は私の体感を信用している。体が欲しないものは食べなくてもよいと思っている。ケーキを食べない、牛乳飲まない、フライドチキンとかハンバーガーなどのファストフードも食べない。それらの発する気が、私の体の気と相性が悪いのだと思っている。
記:2017.9.8 島乃ガジ丸
先週のガジ丸通信『幸せという免疫力』で「幸せな気分でいること、それが免疫力を高める最も良い方法だと私は思う」と書いたが、それが正しいとすれば、免疫力を高める手っ取り早い方法は、幸せのハードルは低い方が良い、ということになる。
「幸せのハードルは低い」というのは、極端に言えば「生きているだけで幸せ」ということになる。ボロでもいいから住む家があり、ボロでもいいから着る服があり、芋でいいから食うものがあり、生活していけるだけの金(私の現在の状況だと家賃やら光熱費やら含めて月10万、将来畑小屋に住むことができたら月5万で十分)があれば、地位も名誉も必要無く、マイホームが無くても、家族がいなくて一人ぼっちでも構わない、他人の物を奪うといった反社会的な行動をしないで済む限り、それで十分幸せとなる。
「生きているだけで幸せ」を最低限の幸せとして、もっと幸せに生きるために必要なものが私にもある。大きなものから言えば「自由と平和」・・・と書きながら「いやいや、それこそ大事」と思ったので前言撤回。「生きているだけで幸せ」では無く、「生きている社会が自由と平和であれば、生きているだけで幸せ」と訂正したい。
戦争状態の中、常に殺し合うことを意識し、実際に殺し合いをすることもある中で幸せを得るのは難しかろうと思う。そして、考える自由、行動する自由を奪われた、つまり、奴隷のように生きなければならない社会でも、幸せを得るのは難しかろうと思う。
「生きている社会が自由と平和であれば、生きているだけで幸せ」と訂正した上で、改めて、もっと幸せに生きるために必要なものが私にもある。
上記の通り「ボロでもいいから住む家があり、ボロでもいいから着る服があり、芋でいいから食うものがあり、生活していけるだけの少しの金はある」という条件下で、順不同で思い付くままに書き出していけば、私を好いてくれる美女、灯、ラジオが聴ける、パソコンができるほどの電力、畑仕事ができ、タバコが吸えて酒が飲めるほどの体力と健康、夏は耐えられるほどの暑さに留まり、冬は耐えられるほどの寒さに留まり、年間通じて雨が適度に降ってくれる自然環境である、などとなる。以上、「私を好いてくれる美女」を除けば、あー、何という身の程を心得た謙虚さであることよ、と自画自賛。
「私を好いてくれる美女」は私の思い上りで論外だが、電気もじつは無くてもいい。紙と鉛筆があれば私はきっと退屈しない。畑は無くて良いし、タバコも無くて良い。しかし酒は何とかあって欲しい。体力と健康は、これは何としてもあって欲しい。
金持ちにならないと幸せになれない、社会的に高い地位にあり多くの人から尊敬されないと幸せになれない、結婚しないと幸せになれない、愛すべき女房子供がいないと幸せになれない、などといった身の程以上のハードルを私は、私の人生から取っ払っている。上を目指さない私は、したがって楽である。あれが欲しいこれが欲しい、あーなりたいこーなりたいという欲望が少なければ悩みも少なく、人生は楽だと思われる。
こんなこと若者に教えられるものではないが、ご高齢となってもなおガツガツしている方々にとっては良い意見の1つにはならないだろうか。と書きつつ、「あっ、大事なもの1つ忘れていた」と気付いた。人生に必要なもの、その大事な1つは「愛」。SEXしたいという恋愛の愛ではなく、この人の幸せを願うという純粋な愛。欲しいなぁ。
記:2017.9.1 島乃ガジ丸