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ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

捌けた相棒

2017年10月27日 | ガジ丸のお話

 新しい安アパートは以前住んでいた首里石嶺のアパートに似て、1階2世帯の2階建てで、掃き出し窓のある部屋の外は小さな(3坪ほど)庭が付いている。庭は駐車場の傍にあり、フェンスで区切られている。私はその1階に住んでいる。
     
 引っ越してから数ヶ月後、私の庭の傍に若い女性がポツンと立っていた。可愛い女性であるが、髪の毛、化粧から見て「元ヤンキー」のような印象。私は、可愛い女性に声を掛けるのは得意な方なので、目が合うとすぐに「どうしましたか?」と訊いた。
 「ここ借りるつもりだったけど、断られちゃった。」と答える。確かに、1階のもう1世帯は空室となっていた。何で断られたかについては、「身分がちゃんとしていないからだと思う」と本人は言うが、見た目の影響もあるんじゃないかと私は思った。
     

 「住むところが無いの?」
 「今、借りているところがまだある。」
 「何処?ここから遠いの?」
 「歩いて1時間近くかかった、西原町の○○です。」
 「そこからここまで歩いて来たんだ、バスもあるだろうに。」などとユンタク(おしゃべり)している内に私は彼女に惹かれていた。で、
 「送っていくよ。」、「ありがとう。お世話になります。」となった。

 私は当然、車で送っていくつもりであったが、車は何故か前に勤めていた会社の駐車場に置いてあった。で、2人で歩いて前の会社へ行く。が、会社は宴会でもあるようで、駐車場は一杯で、奥に停めてある私の車は出せそうに無かった。で、車は諦める。
 「バスで行こう。バスも覚えておくと役に立つよ。」となる。
 
 バスに乗って後側のシートに座る。座ると彼女はすぐにもたれかかって来た。「摩れた女だなぁ、夜のお仕事をしているんだな、きっと。」と思った。バスの中に客は我々以外に数名いたが、みな前の方の席で、後ろを振り向く人はいない。それもあってか、彼女はさらに大胆になり私に抱きつくようにベッタリくっつき、そして、目を閉じた。
 彼女は甘い匂いがした。甘い匂いは淫靡な匂いとなって私の脳を刺激し、私の股間を刺激し、そこはビンビンに堅くなった。彼女の腕が私の股間に当り、それを察知すると、彼女は上目遣いに私を見て、そこを手で撫でてニヤッと笑う。「刺激するんじゃないよ、こんなところで抱けるわけ無いだろ」と言うと、「そうだね」と大人しくなった。「摩れた女だなぁ」と、またも思った。やはり、元ヤンキーだったに違いない。
 その時、私にもたれていた体を起こして、窓の外を見た彼女は、「あっ、この辺だよ私の家」と言って、下車ボタンに手を伸ばした。その手を押さえて、
 「今は立てないから次のバス停にしよう。」と私は言う。
 「何で立てないの?」
 「下が立っているから。」というと、「あー、そっ」と彼女は納得した顔をしてニコッと笑った。あいにく、その時私はユルユルのズボンを履いていたのだ。
     

 1つ乗り越したバス停から歩いて彼女の家に向かう。田園風景を少し歩くと、すぐに建物が多く集まった集落になり、そこに彼女の住む家があった。建物は2階建てでまあまあ大きい。玄関から中へ入ると、右手の部屋に小さな女の子2人を含む一家族がいた。父親母親と思われる2人に会釈して、左手にある階段を彼女の後に続いて上がった。
 2階に上がるとダイニングキッチンがあり、その正面と左右にいくつかのドアがあり、そのドアの1つを彼女は指差して「あそこが私の部屋」と言う。バスの中での後始末をしてもらおうと、彼女の指差したドアへ歩きだした私を彼女は止めて、「先ずは、コーヒーでもいかが、そこに座って」と彼女は私を食卓の前に座らせ、お湯を沸かし、コーヒー豆をミルで挽いて、ドリップでコーヒーをいれ、私に飲ませてくれた。美味かった。
 その時、彼女の部屋ではない別の部屋のドアが開いて若い男が出てきた。男は私を見て軽く会釈して、階段を下りて行った。コーヒーを飲み終わる頃にはまた、別の部屋のドアから、別の若い男が出てきて、同じく私に会釈して、彼女を呼んで、少し離れたところでひそひそ何やら声を交わして、そして同じく階段を下りて行った。
 「同居人がいるんだ?今流行りのルームシェアーってやつか?」
 「そう、私の他にもう1人女の子がいたんだけど、2ヶ月前に出て行った。」
 「で、女1人では危険だからあなたも出て行くってこと?」
 「危険って?あれのこと?」
 「うん、男2人に襲われたりしないかってこと。」
 「Hはいいのよ。私は気持ち良くさせて貰っている方なんだから。」
 彼女はそう言いながら、使ったコーヒーカップなどを洗って、それを食器乾燥機の中に仕舞うと、私の方を向いて、「する?」と訊く。面白い女だと思った。捌けている。

 「いや、もう少し話をしよう。・・・だけど、引っ越そうと思ってるんだ。」
 「うん。出て行ったもう1人の女の子、ナツキって言うんだけどね、彼女、料理が上手だったの、私もまあまあ料理はできるから一緒に食事するのが楽しかったんだ。男は2人とも料理しないし、掃除とかもあまりしないし、Hタイム以外は楽しいことが無いのさ、だから、出て行く。来月にはさっきのアパートに越しているつもりだった。」
 「そういうことか。ところで、家賃を支払い、生活できる稼ぎはあるの?」
 「うん、それは大丈夫、昼間はスーパーで、週末は夜のお仕事している。」
 「それなら、私があのアパートの大家さんに話をつけてあげよう。」

 ということで、それから1ヶ月後、彼女は私の部屋の隣の住人となった。引っ越してから数週間後には、彼女は時々、私の部屋に上がり込んで、食事したり、酒飲んだりするようになった。一緒の時間を過ごすことが日を追う毎に長くなっていった。
 彼女は、女にしては正直だった。彼女の言葉は概ね真っ直ぐであった。最初会った時に「摩れた女」だと思ったが、それは間違い。大人になっても天真爛漫が残っていると言い換えた方が近い。「捌けた女だ」とも思ったが、それは概ね正しい。捌けた女は私の好物である。半年後には半同棲みたいになった。私に捌けた相棒ができた。
     

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆ 

 2017年10月の沖縄、日中、陽が射していると「バッカじゃないの?」と太陽に怒鳴りたくような天気が続いているが、朝夕は幾分涼しくなり、窓を開け、扇風機で外の空気を流し込めば、夜はグッスリ眠れている。グッスリ眠れると私は多くの夢を見る。夢はハッキリクッキリしたものも多く、そのいくつかは起きても覚えていた。
 上の文章は10月に見た夢の1つ。何年かぶりの淫夢で、登場した相手の女性が可愛かったし、夢の内容も概ねはクッキリ覚えていたので文章にした。あらすじとしては上記の通り、細かい所は、覚めてから想像し付け加えた箇所も多くある。他人の夢の話などつまらないかもしれないけど、せっかく書いたのでブログに載せることにした。

 ちなみに、摩れるは「世の中でもまれて純真さを失う。馴れ馴れしくずるくなる」(広辞苑)という意、捌けるは「世なれていて物わかりがいい」(〃)という意。2つとも別の意もあり、上記の意は2つとも、広辞苑ではその第三義として載っている。

 記:2017.10.21 島乃ガジ丸 →ガジ丸の生活目次


セッカの願い

2017年10月20日 | ガジ丸のお話

 「あっ、あの人間、もしかしたら・・・」と思って、慌てて巣の近くへ戻った。その人間はいつもこの畑で何やら作業しているヨーガリ(痩せ)たオッサン。何やら作業はしているが、畑作業のようにも見えるが、作物はあまり出来ていない。
 オッサンはダラダラと作業しているので、畑の多くはたいてい雑草で覆われている。長いことチガヤで覆われていた一角をこのオッサン、今日になって草刈している。
 「バカッ、何するつもりよ!」と私は思わず怒鳴った。オッサンは辺りを見回して、そして、私に気付いた。私には気付いたが、自分の目の前、50センチ先にある私の大事な子供達には気付いていない。気付かないまま草刈を続けた。
 「あー、お願い、これ以上草を刈らないで」と私は願った。巣の中にはまだ孵らない私の大事な卵が、やがて子供となる卵が5個、私の温もりを待っている。その巣が、周りの草を刈られて、周囲から丸見えになったら落ち着いて卵を温めることができない。無防備となった私自身が敵に襲われる。「あー、お願い、これ以上は」と、さらに願う。
 しかし、私の願いは叶わなかった。ヨーガリーオッサンは巣のすぐ傍のチガヤまで刈り取ってしまった。そうしてやっと、巣の存在に気付いた。そしてやっと、作業を止めた。オッサンは、私の巣を傍のチガヤの中に押し込んで後、その場を去った。
 オッサンが去って、その姿が見えなくなってから私は巣を確認しに行った。5個の卵は無事であったが、周囲から丸見えの状況に私は絶望し、そして諦めた。

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆ 

 今年(2017年)6月3日、畑で草刈作業をしていると1羽のセッカが私の周りを飛び回って、時折近くに止まって鳴き声をあげる。「煩せぇなぁ、俺は鳥を恋人にする気なんかこれっぽっちも無ぇぞ、そんなに言い寄っても無駄だぞ」と言ってやったのだが、言葉が通じないみたいで、セッカはまだ周りを飛び回っていた。
     
 それから30分も経ったか、セッカが騒いでいる理由が解った。私が草刈している箇所にセッカの巣があったのだ。気付くのが遅くて、巣のあるチガヤを刈り取る寸前となってしまい、巣は剥き出しとなった。巣の中には5個の卵があった。温めている最中だったと思われる。まだ刈り取っていない側のチガヤの中に巣を埋めるようにして隠した。
     
 チガヤの中へ巣を隠して、私はその場から10m以上は離れた別の場所に移動し、そこの草刈作業をしつつ、「卵は大丈夫かな、まだ温められるかな?」と気になって、しばしば巣のあった箇所に目をやる。親セッカが時折近くを飛んでいるのが見えたが、巣の埋もれた箇所のチガヤにまでは近付かない。翌日からも気になって、巣のある箇所を遠くから観察したが、親セッカは、もはや、辺りを飛び回ることもなかった。

 6月11日、セッカの巣を覗くと、5個の卵はそのままだった。
     
 6月18日、卵に異変があった。親の温もりではなく太陽の熱で育ったのかもしれないが、5個の内2個が割れていて、その中の1個からは雛らしきものが見えていた。それは成長途中で止まったようで命の光は見えなかった。
     
 7月11日、卵は全て消えていた。他の動物の餌食になったのであろうと思われる。
     
 7月20日、そことは15mほど離れた場所で2~3羽のセッカが辺りを飛び回っているのに気付いた。親セッカに比べると小さいように見えた。子供のセッカのようだ。私のせいで卵が孵らなかったのではと、申し訳ない思いでいたのだが、「あー、もしかしたらあの卵、残っていた3個は無事に孵化したのかなぁ」と思って、少しホッとする。
     
 8月20日、2~3羽のセッカが辺りを飛び回っていた場所の草刈をしていたら、チガヤの中に鳥の巣を見つけた。大きさ形からセッカの巣と思われた。「あー、そうか、前にこの辺りを飛び回っていた子供セッカはこの巣のものだ」と判明。
     

 6月のセッカの願いは、やはり叶わなかったようである。でも、同じ親セッカかどうかは知らないが、別の巣から子供たちが巣立ったのだ。それで私の罪悪感は薄まった。
 ちなみに、 
 セッカ(雪加・雪下) 
 スズメ目ヒタキ科の留鳥 熱帯、温帯に広く分布 方言名:チンチナー、ガイチン
 方言名のチンチナーは鳴き声から。鳴き声は独特で、姿は見えなくともすぐにそれと判る。初めチャチャッ、チャチャッと鳴き、しばらくするとチン、チン、チンと変る。

 ちなみに、9月8日、クワの木にぶら下がっている鳥の巣を発見、セッカの巣とは材料が少し違う。大きさも少々小さい。メジロの巣だと思われる。
     

 記:2017.9.28 ガジ丸 →ガジ丸の生活目次


余命1年

2017年09月22日 | ガジ丸のお話

 今年3月25日の深夜、午前1時過ぎに目が覚めた。いつものように小便。歳相応に私も頻尿になっている。であるが、小便で目が覚めるのはたいてい午前2~3時頃、「今日は早いな、昨夜水分(アルコール入り)を飲み過ぎたかな」と思いつつトイレ、ベッドに戻ってすぐに地震、ラジオを点けるとしばらくして情報があった。震度3とのこと。
 地震の前に目覚めるとは、小便のお陰ともいえるが、野生人を目指している私にもとうとう危険予知能力が付いたかと勝手に判断し、ニヤリと笑って、また夢の中。

 8月17日深夜、時計を見なかったので正確には知らないが、たぶん、午前1時か2時頃、ガラスの割れる大きな音に目が覚めた。眠いので横になったままま考えた。「何だ何が割れたんだ?部屋に割れるものはあるが、勝手に落ちるようなものは無いぞ、外か?庭に風鈴があるが、風鈴が割れるような小さな音ではないし、風鈴は今も鳴っているから割れてはいない、何だ何だ?あの世からのお知らせか?」と思いつつ、気にはなったが、起きて調べることはせず、眠いのでそのまま寝入ってしまった。
 ガラスの割れる大きな音の正体は翌朝、起きてから気付いた。食器棚のガラス戸が勝手に落ちていた。勝手に落ちた訳も判明した。何の不思議も無いことであった。
     
     

 危険予知能力が備わることはとても嬉しいことで、もしも、あの世からのお知らせがあったとして、それが「気をつけろ、もうすぐ大地震が起きるぞ」といったことならそれも嬉しいことで、「お前、そろそろ死ぬぞ」という知らせでも有難いと思っている。
 ところが、霊感なるものは私に無縁で、ユーリー(幽霊)、マジムン(魔物)の類に出会ったことはかつて一度もない。なので、そういう類の存在は信じていない。であるが、何かワサワサしているものがいる雰囲気を感じたことは過去に何度かあった。なので、そういう類の存在は「もしかしたらいるかも」といった程度には思っている。
 「もしかしたらいるかも」と思っているので、もしも母や父の霊が異次元のどこかにいて、この世のことをある程度感じることができるのであれば、と想像して、であれば、母や父、及び祖父母が喜ぶであろうと思い、時々位牌を訪ね供え物をしている。
 位牌は首里にある観音堂という寺に預けてある。年に何回位牌を拝みに行っているかを数えてみたら、正月(旧正)、旧盆は初日から最終日まで合わせて4回、祖父母、父母の命日4回、清明祭、春秋の彼岸、月見、冬至の計14回あった。平均月1回強だ、先祖も「まあまあ良くやっている」と喜んでくれているのではないかと思う。
     

 霊感なるものには無縁の私、と思っているが、かつて、若い頃から「ひょっとしたらそうではないか」といったようなことを何度か感じたことはある。
 母があの世へ行ってから今年は10年目、10月には満10年となる。じつは、母が逝く7ヶ月ほど前(2007年3月)から私の周りにワサワサ雰囲気があった。部屋の中で霊か何か判らないモノが運動会をしていて、煩くて(音を立てていたわけでは無い、雰囲気が何か煩く感じた)、夜中何度も目を覚まして、寝不足となる日が何日もあった。そのワサワサ感は三週間続いた。それから1ヶ月ほど経った4月20日、母が入院したと聞いて、病院へ行って担当医の話を聞く。母には膠原病という持病があり「余命1年」とのことだった。実際には、そう聞いた半年後の10月18日に母は亡くなった。
 それ以後、ワサワサ雰囲気をほとんど感じていない。あるいは、たとえ感じたことがあったとしても忘れている。オジサンとなってから霊を信じなくなっているので、多少のワサワサがあっても印象に残らず、すぐに忘れてしまう。例えば、父の死の前にもひょっとしたらワサワサ雰囲気があったかもしれないが、まったく忘れてしまっている。私の関心は母に対してはまあまああったが、父に対しては少なかったせいだと思われる。
     

 関心が濃いか薄いかでいえば、私は、父よりも母が好きであったことは確か。そして、同じ意味で言えば、母よりもなお、自分のことが好きである。これも確か。
 私は母より自分に関心がある。母の死の7ヶ月前にその予兆であるワサワサ雰囲気を感じたならば、より関心の深い私自身なら1年位前に予兆のワサワサ雰囲気はきっと現れるはず。つまり、私が次にワサワサ感を感じたら、その1年後が私のその日となる。
 ワサワサ感を感じて1年後ということは、今日ワサワサ感を感じたとしても私には残り1年の命があるということになる。1年あれば終活は余裕でできる。
 
 記:2017.9.14 島乃ガジ丸 →ガジ丸の生活目次


環境良ければ

2017年09月15日 | ガジ丸のお話

 今年の夏の糞暑さに、週一日記やガジ丸通信など他の記事でも「暑いぜ!」と何度か書いているが、しかし実際に私が「暑いぜ!」と発していることはほとんど無い。私が暑さに腹を立てて口から発している言葉は、概ね「アチさよ!」である。アチは「暑」の沖縄語読みで、「アチさよ!」は「暑いぜ!」とほぼ同義となる。そして、「アチさよ!」に続く言葉も時には出てくる。額から顎からポタポタ汗を垂らしながら空を見上げ、「フリトゥどぅウミ!」などとブツブツ呟く。「気が振れているのか!」といった意。
 暑さのせいか作物の生育が悪い。ゴーヤーは実着きがとても悪く、やっと着いたとしても小さい内に黄色くなる。ヘチマに至っては全く実を着けない。オクラはまあまあ実を着けてくれ私の食卓に毎日上っているが、トマトは成長せず、キュウリは枯れた。
     
     

 そんな暑い8月が終わって、9月になれば少しは涼しくなるかと思ったら、今年は9月になっても真夏のように糞暑い。7月8月が糞暑かったことは私だけでなく、沖縄に住むほとんどの生きものたちも感じたはずだ。そしてまた、9月になったら少しは涼しくなるだろうとは、私だけではなく動物たちも思ったに違いない。
 「おかしいなぁ、何でこんなに暑いんだ!こんなに暑かったらここでは過ごせないぞ、しばらく避難するか」と思い、彼は北へ向かって飛んで行った。
 「暑ぃなぁ!沖縄だよな、いつから熱帯になったんだ?こんなに暑かったらここで子作りなんてできないぞ」と思い、彼らは木を降りて地中へ引っ込んだ。

 9月7日、クマゼミの声を聞いた。クマゼミはその日午前中の一時(20~30分)鳴いただけで、その後は全く聞こえなくなった。その数日前にはアカショウビンの声も聞こえた。アカショウビンも9月7日までは聞こえたが、その後は無い。
 クマゼミは真夏の蝉、アカショウビンは夏鳥だが、今年はどちらも8月には消えていた声だ。動物たちも今年の夏の暑さには勝てなくて、どこぞへ避暑にでも行っていたのだろう。そして、9月になって「もう大丈夫」と思っていたらこの暑さ、アカショウビンはまたも北へ向かい、クマゼミは「ダメだ、今年はもうお終い」となったかもしれない。
     

 私の両親が生前、たくさんの植物を自宅、屋上とかベランダで育てていた植物の内、そのいくつかを形見と思って畑で保存している。門前花壇にあった桜、玄関前にあった鉢植えのクチナシ、屋上にあった鉢植えのアデニューム、鉢植えのシキカン、ベランダにあった鉢植えのサクララン、鉢植えのサボテンなど。それらの内、鉢植えのアデニュームは大きな鉢ごと、シキカンは鉢から出して従姉の夫の土地に置いたり植えたりした。シキカンはゴマダラカミキリに食害され、今はほとんど枯れている。アデニュームは毎年花を咲かせ、今年春、枝を切り取り鉢植えを3鉢作って、今元気に育っている。
 シキカンとアデニューム以外の植物は現在私が借りている畑に植えた。サクラもクチナシもスクスク育ち、実家にあった頃よりサクラは5倍、クチナシは10倍位の大きさになっている。サクラランは枯れてしまった。サボテンも生育が悪かった。
 今年(2017年)7月1日、「サボテンまで枯らしたらあの世に行った時、オヤジにバカにされそうだな、そうだ、鉢上げしてみよう」と思い立った。
     

 地植えしているのを鉢上げする意味は、専門家では無いので「たぶん」となるが、管理がしやすいからだと思われる。その植物に合った気温、光の加減、風当たり、水遣りの加減などが調整しやすいからだと思われる。で、サボテンを鉢上げする。
 両親の形見のサクラランとは別に、友人から頂いたサクラランも畑に植えていた。植えた場所はどれも木陰となる場所で、土は畑の水捌けの悪い土。サボテンも、クチナシが大きく育ったおかげでほとんど木陰となり、土は同じく水捌けの悪い土。鉢上げの際は土に砂と堆肥を混ぜて水捌けを良くし、両方同じプランターに植え、日向に置いた。
     
 それから数日後、そのプランターを見ると、サクラランの葉の多くが枯れていた。「何だ、何が悪いんだ?」と改めて図鑑を開く。サクラランの生育環境は「林内」とあった。「そうか、日向が良く無いんだ」と解った。で、プランターを日陰に置く。
 その後、サクラランは成長もせず枯れもせずであったが、サボテンもまったく成長しない。よーく考えると、サボテンは砂漠に育つ日向大好き植物だ。というわけで、7月31日、サクラランとサボテンを別々の鉢に移して、サボテンは日向に置いた。
 その後、サクラランは変わり映えないが、サボテンはスクスク育った。サボテンを鉢に移して日向に置いてから約40日後の9月10日、サボテンは倍の高さになった。
     

 環境さえ合えば作物は育つ、自然はきっと作物が育つような環境を提供し、人間はその環境に合った作物を栽培すれば良いのだ。ところが、去年の環境と今年の環境が違ってしまえば、去年育った作物が育たないということも有りうる。私が農夫としては劣等生ということもあろうが、この夏、私の畑の作物は概ねが不作。しかし、周りの先輩たちに訊いても今年は作物の出来が悪いとのこと。環境が大きく変動すると農夫は困る。困るので私は、地球温暖化を憂慮し、地球環境に配慮した生活がイイねの立場にある。

 記:2017.9.12 ガジ丸 →沖縄の生活目次


ろうかの足音

2016年10月07日 | ガジ丸のお話

 19年間住んでいた首里石嶺のアパートは2階建てで、2世帯ずつの計4世帯という小さなアパート。私の部屋は階段を上った2階の奥で、手前の部屋には、私が越してきた時には若夫婦が住んでおり、その後、2人の娘(中学生と小学生)連れの女性3人家族が長く住んでいて、彼らが去った後は女子大生が数年、その後も女子大生が住んでいた。
 最後の女子大生(たぶんその時既に卒業していた)は音大生で、丸い眼鏡をかけたメイドカフェにいそうな可愛い娘であった。私がそのアパートを去る1年半ほど前に彼女は去っていて、その1年半の間、アパートの2階には私しかいなかった。

 部屋の入口側に台所の窓とトイレの窓があり、普段台所の窓は数センチ、トイレの窓は開けっ放しにしている。なので、部屋の中にいても階段を上る足音、廊下を歩く足音がそこから聞こえる。丸い眼鏡の可愛い娘が隣に住んでいる頃、彼女は概ねスニーカーで、その足音はそうであるとだいたい判断できたので、階段から上がってくるその足音がいつか私の部屋の前までやってくるのをオジサンは密かに期待していた。ドアをノックする音が聞こえる。ドアを開けると彼女が立っている。「私を抱いて下さい」と彼女が言う。そんな妄想をオジサンは描いていた。「バッカみたい」な妄想であると自覚しております。
 現実には、階段から上がってくる足音が私の部屋の前までやってくるのは郵便配達人、NHKの集金人、新聞の勧誘員くらいだ。そういった人達の足音は重い、彼女とは違うので、まったく期待はしない。ドアを開け、事務的処理をするのみである。
 彼女が出て行ってからの1年半の間に、階段から上がってくる軽い足音が私の部屋の前で止まったことが1度ある。彼女が出て行って間もなくのことだ。「あなたのことが忘れられません」と彼女が言うのではないかと呑気なオジサンは妄想したが、ノックの音は聞こえなかった。彼女が出て行ったのは2010年4月、私の父が死んだのは同年5月、私の部屋の前で止まった足音は彼女では無く、あの世の使いだったかもしれない。
     

 さて、表題の「ろうかの足音」の「ろうか」、以上長々と書いたどうでもいい「廊下」のことでは無い。「roukanoasioto」と入力して、「廊下の足音」を想像し、以上のどうでもいい話を思い付いただけ。ここで言う「ろうか」は老化のこと。

 私は、歯は丈夫な方で私に金歯銀歯は1本も無い。20年ほど前に虫歯が1本、右下奥歯にできて、金でも銀でもない何かを詰めて貰う治療を2度(2度目は7~8年前)やっているが、それ以降虫歯の治療はやっていない。
 虫歯は無いが、2年ほど前から熱いもの冷たいものを食べると左下奥歯が少し、右下奥歯が激しく沁みて痛かったので去年の2月、歯医者へ行ったら歯周病と診断された。「定期的治療」を歯医者に勧められたが、「年相応、歯が弱るのはしょうがないこと、去る者追わずだ、抜ける者も追わずだ。」と私は思い、その後歯医者へ行っていない。
 小康状態だった右下奥歯の痛みが2ヶ月程前からぶり返した。1ヶ月程前からは口に何も入れなくても痛みを感じるようになった。あまりの痛さで目が覚める日もあった。「この痛さは虫歯か?詰め物が取れたか?」と思って、9月30日、鏡の前で口を開け右下奥歯を見てみた。虫歯である一番奥の歯が小さくなっていたが、詰め物は取れていないようであった。指を入れて触ってみた。「おっ!」と驚いた。歯がグラグラしたのだ。

 他の歯も調べると、右下奥歯の2本と左下奥歯の1本がグラグラした。特に、虫歯でもある右下一番奥の歯は、指で摘まんでグラグラさせて引っ張ればそのまま抜けるのではないかと思われるほど動いた。グラグラさせるだけでも痛いのに、抜いたら激しく痛いだろうなと思い、引っ張るのは止めて、少し浮いていた歯を押しこんだ。
 「そうか、こうやって歯が1本1本抜けていくんだな、そして、やがて入れ歯になるんだな、これが老化ということなんだな」と納得する。歯(正確には歯の根元の歯茎辺り)の痛み、歯がグラグラする、歯が抜けていくなどは老化の足音であると判断した。
 歯をグラグラさせたのは拙かったようで、その後ずっと右下奥歯辺りに違和感が残り、四六時中痛みを感じる。何もしなければ激しい痛みではないが、食べ物を右下奥歯で噛むと激しく痛い。冷たいもの熱いものも右下奥歯へは送れない。何もしなくても鈍痛はずっとある。グーで軽く連打されているような痛み。鬱陶しいことこの上ない。
 歯医者へ行かないのには「老化ならばしょうがない」という理由だからではない。痛みが鬱陶しいので少なくともその痛みを緩和するような治療はしたいと思っている。今住んでいるアパートのすぐ近くに歯医者はあるが、鬱陶しい痛みを我慢し続けている。
 何故我慢しているかと言うと、歯が抜けたら入れ歯になる、抜けるのにも入れ歯を作るのにも時間がかかるはず。歯医者とは長い付き合いになるはず。であれば、次の住まいとなるアパートへ越してから、そこから近くの歯医者へ行こうと思っているから。しかし、新居となるアパートはまだ見つかっていない。我慢はもうしばらく続くかも。
     

 実は、歯が痛みだしたのは2ヶ月ほど前からだが、1ヶ月ほど前に血圧を計ってみたらとても高くなっていた。それ以降ほぼ毎日のように計っているが、160超えが普通、170を超える日もあった。脈拍数も70近い数値、「歯痛は痛いだけでなく、身体全体の健康にも関わるんだ」と認識する。高血圧が原因で脳梗塞とか心筋梗塞で倒れる。高血圧の原因は歯痛である。「奴は歯痛が元で死んだ」と言われるかもしれない。
 うーん、そう言われるのはちょっと情けない気もする。すぐにでも近くの歯医者へ行こうかと思ってしまう。でも引っ越ししたい。どうしようかと今悩んでいるところ。

 記:2016.10.4 ガジ丸 →ガジ丸の生活目次