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ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

平泉の旅2004秋

2014年02月18日 | ガジ丸の旅日記

 1、スズカケノミチ
 平泉と言えば藤原氏、学校の勉強が嫌いだった私だが、日本史はまあまあ好きだったので、そのくらいは知っている。中尊寺という有名な寺があることも知っていたが、ガイドブックにあった毛越寺は知らなかった。「モウエツジ?有名なんだ、中尊寺から近いな、ついでに行ってみよう」となった。ちなみに、モウエツジでは無く、モウツジ、またはモウツウジと正確には読む。毛越寺を知らない程度の日本史好きである。

  毛越寺を観て、そこから歩いて中尊寺へ向かうことにする。で、先ずは毛越寺、庭がきれいであったという感想しかなかった。中尊寺へ向かう。毛越寺を出て山道へ向かうために左に折れる、と、その角に立て札があった。「鈴懸の道 昔、修験者が金峰山に入峰の節、ここで鈴懸をつけたと伝えられ、・・・云々」とある。
 「スズカケノミチと言えば"鈴懸の径"だろう。灰田勝彦だろう。スズカケノキの並木道だろう。修験者?金峰山?鈴懸をつける?・・・何だそれ」と思った。
     

   鈴懸の径  唄:灰田勝彦
 友と語らん 鈴懸の径
 通いなれたる まなびやの街
 やさしの小鈴 葉かげに鳴れば
 夢はかえるよ 鈴懸の径

 スズカケノミチと言えばこの曲(歌詞は知らなかった)しか思い浮かばなかった私は、毛越寺の立て札の「鈴懸の道」が気になって、旅から帰ってすぐに調べた。広辞苑。

 すずかけ(篠懸・鈴掛)
 修験者が衣の上に着る麻の衣。深山の篠の露を防ぐためのものという。

とある。なるほど、立て札にあった「鈴懸をつけた」の「つけた」は「着けた」で、鈴懸は衣のことだったのだ。となると、スズカケノキのスズカケが気になる。広辞苑。

 すずかけのき(篠懸の木)
 スズカケノキ科の落葉高木。普通、属の学名プラタナスで呼ばれる。高さ約10メートル。小アジア原産。庭園樹として栽培。(中略)春、葉のつけ根に淡黄緑色の花を頭状につけ、晩秋、長い柄の先に球形の果実を下垂するのでこの名がある。材は器具用。街路樹には本種とアメリカスズカケノキとの雑種モミジバスズカケが多く使われる。

とある。しかし、最も知りたいところの名の由来がはっきりしない。「長い柄の先に球形の果実を下垂するのでこの名がある。」と書いてあるが、「長い柄の先に球形の果実を下垂」したら何で鈴懸なの?なのだ。で、スズカケノキの写真を探して、見た。
 どうやら、長い柄の先に球形の果実を下垂している様が、球形の果実が鈴で、長い柄がそれを吊るしている紐に見えるらしいのだ。確かに、そのように見えないことは無い。

  毛越寺の鈴懸の道は100mに満たない道。修験者がどーのこーのはよく解らなかったので、道沿いに植わっている木がスズカケノキ(写真撮っておけば良かった)だろうと思い込むことにして、ジャズナンバーでもある灰田勝彦の『鈴懸の径』をハミングしながら私は歩いた。鈴懸の道が終わって上り坂になってもしばらくハミングは続いた、・・・200mくらいまでは続いた。しかし、平均勾配10度くらいの坂は、その先を見ると、まだずっとずっと続いていそうで、既に息を切らしているオジサンにとっては、「先は長いぜ、息が続かないぜ」と、とてもハミングどころではなくなった。
     

 2、奥の心細い道

 毛越寺を一回りした後、案内所に行って「ここから中尊寺まで歩いて行きたい。それも、山道を通って行きたい。どのように行けばいいですか」と道を訊ねた。「お勧めはできないんですが」と案内所の女性は断って、パンフレットにある簡略図を見せながら山道の道順を説明した。彼女の話が一通り終わった後、
 「お勧めできないというのは、どういう意味ですか」と訊くと
 「ニュースでやっている通り、最近、熊が出るんです」と答える。それを聞いて私は「止めよう」とは微塵も思わなかった。お勧めはできないけれど、それでも道順を教えるってことは、熊に遭遇する確率はさほど高くは無いってことだろうと踏んだのだ。ある日、森の中、熊さんに、出会うのは、3億円の宝くじに当たるくらいの確率であろう。3億円どころか、3千円を超える宝くじにさえ当たったことの無い私は、熊に出会う確率は限りなくゼロに近いと判断した。

 鈴懸の道(別項)を100mほど歩き、左折する。坂道を登る。しばらくは民家もポツポツとある舗装された道路。5分に1台くらいは対面から、または後方から車が行き交う何の不安も無い道。その道を登りきった峠から少し下ったところの右手に山道の入口があると聞いていた。
  歩き始めて1時間弱、峠に着いた。展望台があったので一服しようと思い、そこへ向かう。展望台の入口付近に目立つ看板が立っていた。仁王立ちした恐ろしげな表情の熊のイラストを背景に「注意 熊出没」という文字が書かれていた。いることはいるんだと少し不安を感じる。
 展望台からは広く平地の景色が見渡せた。稲が刈り取られた後の田園風景、その後ろに連なる山の稜線、いずれも沖縄では見られない。涼しい風の中、ペットボトルのお茶を飲み、煙草を1本吸う。そうしているうちに、少しあった熊への不安も「3億円なんて当たる人にしか当たらない。俺にはきっと縁が無い」と考えが及んで、不安が消える。山道散策決行を決定する。
     

 山道の入口に看板が立っているというので、毛越寺の案内所の女性が言う「少し下った」の"少し"が具体的にどのくらいの距離なのかは訊かなかった。貰った簡略図を見ると、毛越寺から展望台までの距離の約五分の一くらいだった。300mくらいになる。300mが"少し"の範疇に入るかどうか疑問はあったが、看板を目当てに峠を下る。
 行けども行けども看板は見当たらなかった。毛越寺から中尊寺へは山道もあるが、車の走る舗装された道路もつながっている。その舗装道路を私はずっと歩き続けていた。テクテクと歩き続け、そして、毛越寺から峠の展望台まで歩いた時間と同じくらい歩いたところで、やっと看板を見つけた。そこは、中尊寺側にある山道の入口だった。
 展望台側からの山道の入口に、実は心当たりはあった。入口を示す看板は無かったけれど、山に入っていけそうな細い登りの道があったのだ。それはあまりにも展望台の近くにありすぎて、毛越寺の案内所の女性が言う「少し下った」の"少し"では無かろうと判断したのだった。「熊出没」の看板を撮った写真、看板の右後ろに見える柵を立ててある所が見える。そこが入口だったのだ。まったく、簡略図なんかをロードマップのようにして信じた自分が悪かった。

 けして熊に出会いたいからでは無く、木立に囲まれた中を歩きたいと言う欲求から、中尊寺側にある山道の入口から毛越寺に戻るようにして山道に入った。山道の入口には「新奥の細道」と書かれてあったので、山の中で一つ俳句でも、と思ってもいた。
  山道は整備された散策道で、ずっと上りの坂、及び階段ではあったが歩きやすい。が、落ち葉の積もり方を見ると、人が頻繁に通っている様子は無い。ひょっとしたらここしばらく誰も歩いていないのではないかとも思われた。中尊寺側の山道の入口にも「注意 熊出没」の看板があったことを思い出す。道の先を見ると、樹木が鬱蒼と茂り暗くなっている。「平泉の山中で沖縄出身の中年男性が、熊に襲われ死亡」なんていう新聞記事を想像した。今、大声をあげても誰も気付かないだろう。携帯電話も通じない。独り、だった。山道は奥の心細い道となった。引き返した。
     

 3、オランダ親分

  さすがの沖縄も11月になって朝夕涼しくなった。タオルケット1枚では明け方肌寒く感じるようになり、先々週の土曜日、ついに掛け布団を出した。半年振りの羽毛布団の温もり、ぐっすり寝ることができている。
 その夜、土鍋を出し、今期初の鍋料理(牡蠣鍋)で日本酒を飲む。先週末は七輪を出し、今季初の炭焼き料理(ブリカマの塩焼き)で日本酒を飲んだ。いよいよオジサン好みの食の季節到来となった。ただれた脳味噌が本来の固さを取り戻して、オジサンは絶好調となる。「鍋旨ければ、酒なお旨し。炭焼き旨ければ、酒さらに旨し。」と唄も出てくる。カッ、カッ、カッ、と笑いも出る。
     

 冬の料理はもう一つ、ダッチオーブンによる料理がある。これは次の週、つまり、今日から明後日にかけてやるつもりであったが、去った月曜日、週末の予行演習をしようと思い、ダッチオーブンを使って、ベイクドポテトを作ることにした。
  オランダ親分と呼んでいる私のダッチオーブンは、3月以来、袋に入れられて台所の棚に仕舞われたまま。先ず、ジャガイモ2個を洗って、芽を取り除いて、それからオランダ親分を棚から出し、袋から出す。蓋を開けて愕然とする。私のオランダ親分の内側はカビがたくさん生えていた。食材を乗せる足つき網はところどころ錆びていた。
 洗ったり、錆び落としをしてまでダッチオーブン料理をするかというと、オジサンは概ね、そのような情熱は持ち合わせていない。オランダ親分を粛々と元に戻す。
 ジャガイモは2つに割ってオーブントースターで焼く。表裏5分ずつ焼くと、適度に焼け焦げの付いた焼きジャガイモができ上がる。焼きジャガイモ2個と豆乳500ccがその日の夕食となった。焼いたジャガイモはスライスチーズを乗せて食うと旨い。いつもはそうしているのだが、あいにくチーズが切れていて、ジャガイモだけ食う。 ちょっと不満の味。一口目のジャガイモで歯茎の裏を火傷するというオマケも付いて、11月最初の夜をオジサンは、不快な気分で過ごしたのだった。
     
 平泉に高舘・義経堂というのがあった。そこは、眼下に北上川が望める丘の上。「匂い優しい白百合の・・・」と口ずさみながら歩く。敷地内に高舘宝物館というのがあり、覗く。名前は忘れたが、野外用の鍋が陳列されていた。ダッチオーブンそっくりの足付きの鍋だった。追われる身の義経一行、ある日のひと時、義経も弁景もダッチオーブン料理を楽しんだのだろうか。
     

 記:ガジ丸 2004.11.5 →ガジ丸の旅日記目次


オジサン5人旅 4、長崎編

2014年02月18日 | ガジ丸の旅日記

 14、快適でない鉄道の旅

 旅の疲れと、二日酔いと、いびきのせい(私もいびきをかくので非難はできない)による寝不足で、朝、身も心もだるい。だらだら寝て、だらだら起きて、だらだらする。
 MMは朝から元気。ビールを飲み、味噌汁を飲み、大量のパンを食い、チーズを食い、クラッカーを食い、コーヒーを飲み、煙草を吸う。とてもオジサンとは思えない。ずいぶん丈夫な消化器官をお持ちのようだ。よし!っと、私も気合入れる。
 佐世保駅まで全員出て、電車の出発時間までユンタクしたり買物したりする。私はスーパーの総菜屋で揚げ物数種を買い、地酒の4合瓶を買い、ビールを1缶買う。「向かい合って飲み食いする鉄道の旅パート2」を始めるつもりだった。今日、沖縄へ帰るZYと、地元のUTとはここでお別れ。ZYの飛行機は最終便なので、時間はたっぷり。2人はこの後、なぜかボーリングとのこと。「?何で?」と私は不思議に思いつつサヨナラ。
 UTお勧めの電車は、シーサイドライナーという名の、佐世保から長崎まで主に湾岸を走る電車だった。名前からしてカッコいいし、速そうだし、新しそうだし、何より慣れているUTのお勧めだ。「これしか無い!」と言っていたほどのお勧めだ。期待した。
 ホームに停車していた青い電車は、ただの2両編成の、古い形式の、古ぼけたちゃっちい電車だったので、オジサン4人とも「これじゃ無いんじゃないの?」と戸惑った。大村に住むERが「これ」というので、何か釈然としないまま電車に乗る。電車は2両とも禁煙車。周りの雰囲気からして、おそらく通勤、通学用の普通の快速電車のようであった。なもんで、飲み食いがし辛い。シートも狭くて固くて、電車の揺れも激しいものだから尻が痛い。酒は飲めないし、ガタガタ煩いし、尻は痛いし、快適でない鉄道の旅になってしまった。唯一の救いは景色が良かったくらい。途中、ERの家を見ることができた。
 後で、ERに訊いたら、「ハウステンボス号」という新しい快適な電車もあるとのことであった。わざわざ古い電車を選んだのは、情緒を楽しんで欲しいというUTの、友人を思う心優しい計らいであったのかもしれない。

 15、欲望を満足させる手段

 快適でない鉄道の旅から開放されて、長崎駅に着いたのは午後1時頃。ホテルに荷物を預けて、路面電車に乗り平和公園、原爆資料館などを見学する。
 私たち沖縄人は、小さい頃から沖縄戦の悲惨さを教わってきた。学校の先生だけでなく、親や親戚や、あるいは地元のテレビ局で放送される番組などを通してだ。だから私は、沖縄戦がいかに悲惨であったかということが、まるで実際に体験したかのように心に刷り込まれている。去年の8月、たまたま観ていたテレビに広島の原爆ドームが映っていた。「俺は沖縄戦の悲惨は知っているけれど広島や長崎の悲惨を知らない」ことに気付いた。「原爆ドームを観に行こう」と思いつき、去年の秋、広島へ行った。広島で原爆資料館を見学しながら、「これは、もう一箇所の被災地へも行かねば」と思い、で、長崎。
 今回の旅の目的は、名目上は「淋しい思いをしているかもしれないUTに会いに行こう」であったが、事実上は「オジサン同士飲み食い旅」であり、私は密かに「長崎の悲惨を知ろう旅」であった。そして、知ったのは悲惨だけでなく、悪魔の欲望でもあった。
 原爆を落とすと何人の人が死ぬか、どのように死ぬか、などを知りたがっている人々が存在した。机上の計算が正確かどうか実験したがっている人々が存在した。それらの人々の欲望を満足させる手段として、広島、長崎の悲劇が起きた、ようなのだ。

 16、友情の深さ

  ERは今、IRといい、長崎県の長崎空港に近い大村市に家族と住んでいる。大村から佐世保までは、およそ那覇から名護までの距離、その距離を、2組の蒲団とビールやおつまみを積んで、娘の運転する車でやってきた。
 娘は、親の良いところばかりを遺伝したような美人の女子大生、21歳。その歳には過ぎるほどの感性の持ち主のようで、オジサン6人がいる部屋に自然に溶け込み、何の違和感も無く穏やかな雰囲気で、オジサンたちに話を合わせてくれた。
 そんな、できた娘を産んで育てた賢母は、佐世保の夕方から長崎の夜遅くまで我々に付き合ってくれた。いや、付き合ってくれたのではなく、世話をしてくれたと言った方が正しかろう。楽しい時間を過ごせた。そして、深い友情を感じた。感謝、感謝。
     

 17、この旅一番の美味

 1次会が終わって、長崎駅でIRを見送って、2次会場所を探す。既に10時を過ぎていた。GTが目を付けていたというホテルの近くの料理屋へ行く。閉店。ホテルの人に飲み屋を紹介してもらう。すぐ目と鼻の先に1件あるという。そこに決める。が、MMがぐずる。「かわいい女の子のいる店を紹介して」とホテルの人に頼み、そのホテルの人が馴染にしているという、かわいい女の子のいる店を教えてもらう。
  「そこへ行こう」というMMの言葉を無視して、近くの居酒屋へ行く。Nという名の店は、閉りかけていた。MM、喜ぶ。「さっき紹介して貰った店に行こう」というのをまたも無視して、「終りですか」と訊いた。人の良さそうな初老のオヤジさんは、「いや、いいよ。そんなに長くならなければ」とニコニコして言う。で、入った。
 店には馴染らしい客、我々よりいくつか年上の男が1人。そして、昔はとても可愛かったであろう、今でも可愛い感じの女将さんがいた。3人とも気さくに話し掛けてくれる。楽しい長崎の夜となった。女将さんが作ってくれた魚の味噌汁が旨かった。GTとMTが頼んだのを少し味見させてもらったのだ。この旅一番の美味、といってもよかった。
     

 18、オジサン1人、暴走する

 居酒屋Nに入ってから、MMがやけにはしゃいでるのが気になった。後でMTから聞いたところによると、MMは既に1次会の終わり頃から酔っていて、IRに失礼なことを言っていたらしい。危険水域を越えていたらしい。確かに、Nのオヤジさんと客に向かって、「飲みに行きましょう。店を紹介して」などとしきりに喚いていた。
 翌朝7時、食堂に朝食を食いに行ったらMMが既に座っていた。ホテルに帰ったのは4時だったらしい。元気というか無謀というか、やれやれ、だ。長崎の夜を、彼は暴走して、気付いたら財布の中には5千円しか残ってないとのこと。ホントに、やれやれ、だ。

 19、とても快適な鉄道の旅

 最終日、歌にあった通り長崎は、やはり雨だった。昨夜からポツポツ降ってはいたが、この日は本降り。ホテルで200円の傘を買い、長崎駅へ歩いていく。
 駅で土産物などの買物を済ませ、電車の中で食うための肴を買って、博多駅行き特急白いかもめ号に乗る。かもめ号は、シーサイドライナーとは雲泥の差、みどり号よりも格上。フローリングの床に黒いレザーのシート。ゆったりとした広さにクッションも良い。
 ビールを飲み、春巻を食い、シーサイドライナーで飲む予定だった日本酒を開ける。煮しめた高野豆腐を食い、日本酒を飲む。イカの煮物を食い、日本酒を飲む。快適な鉄道の旅ができた。隣のMMに酒を勧めた。鉄の胃袋もさすがに疲れたらしく、酒はほんの少し口をつけただけ、自分で買った弁当も、ちょっと箸をつけただけ。人間だったのね。

 20、鈴木亜紀を探して

 博多に着いて、模合用の食材の買出し。ふぐ刺し4~5人前を2皿、ふぐちり4~5人前を2皿購入し、宅配を頼む。それから酒、4合瓶3本を買う。
 飛行機の時間まで余裕があったので、それまで各自、自由行動。MTとCDショップへ行くが、1件目の店でMTとはぐれる。あとは1人で別のCDショップ、本屋など数件をまわる。探していたのは鈴木亜紀のCD、ウッディーアレンのDVD「カイロの紫のバラ」など、どちらも見付からなかった。本屋でも探し物は見付からなかった。
 そうこうしているうちに時間が過ぎて、MT、MMとの待ち合わせ場所に10分ほど遅れた。MMも私と同じくらい遅れた。待ち合わせ場所を探すのに手間取ったらしい。空港でのGTとの待ち合わせ時間にも遅れた。でも、この日は平日。混んではいない。手続はすぐに済ますことができて、今回は走ることなく待合室へ着けたのだった。

 21、肩に食い込む日本酒4本

 かもめ号の中で皆で飲もうとした日本酒は、私が半分飲んだだけで、半分は残っていてバッグの中にあった。それに加えて模合用の3本とその他の土産類がバックの中に入っている。バッグの重さが肩に食い込んだ。行きはヨイヨイ、帰りはヒーコラの旅となった。

 22、ティサジのお返しに

  旧く琉球では、旅発つ恋人にティサジ(ウチナーグチで手拭いのこと)を贈ったのだそうだ。「無事に帰ってね」という愛情表現だ。オジサン5人は旅立つ前にIさんからティサジを頂いた。ティサジは佐世保に住むUTの分まであった。嬉しいことだ。
 ティサジのお返しに、男は女に何をあげたんだっけ。ジーファ(かんざし)だっけ。ティサジのお返しに、オジサン6人はIさんのための土産を買いはしたが、それは慣習にのっとたものではない。ティサジでもジーファでもない。福岡名物、辛子明太子だった。情緒の無いオジサンたちだった。でも、私は別にIさん用の土産を買ってある。有田で買った少し情緒のある品物。こんなことで好感度の点数を稼ぐわけだ。ずるい奴です。
     

 23、旅の収穫は、想い出

 那覇空港に着いて、GTの提案で、「福岡、長崎オジサン5人旅」の無事終了の祝杯をあげることになった。場所は空港ビルの4階、キリンビールの店。終わってみれば、あっという間の3泊4日。楽しかったこと一杯、そうでないこと少しあった旅だった。予定していたことは半分もできなかった。福岡で山頭火のラーメン、カロのうろんを食うはずだったことも忘れてしまっていた。それでも、とても楽しい旅だったのだ。乾杯。

 以上、オジサン5人旅終わり

 記:ガジ丸 2003.10.18  →ガジ丸の旅日記目次


オジサン5人旅 3、佐世保編

2014年02月18日 | ガジ丸の旅日記

 10、権威に弱いJR

 有田駅から各駅で佐世保へ向かう。佐世保に4時に着くように、と考えて乗る予定にしていた各駅電車が10分ほど遅れた。この電車は早岐駅が終点で、早岐駅から佐世保行きに我々は乗り換えなければならない。ところが、早岐に着いた時は、既に佐世保行きは去った後。10分も遅れたのだから当然だが、遅れたのは我々のせいではない。JR九州のせいなのだ。次の佐世保行きまで30分以上待たなければならない。
 「時間に間に合わないじゃないか!どうしてくれるんだ!」と思ったが、JRはどうもしてくれなかった。
 我々と同じ様な境遇の、初老のスーツ姿の男が1人、駅員に食って掛かっていた。駅員はペコペコし、近くでは無かったので正確には聞き取れなかったが、どうやら次に来る特急電車に乗っても良いということになったらしかった。
 特急電車が来た。初老のスーツ姿が乗り込んだので、私は近くにいた別の駅員に、「電車が遅れたせいで時間に間に合わないのですが、この特急に乗ってもいいですか」と丁寧に訪ねた。駅員は大柄な口調で「特急料金300円を払えば、いいですよ」と答えた。「しかし、遅れたのはJRの責任じゃないですか」と言うと、この大柄な駅員は、遅れたことを謝りもせず、顔をそむけたまま「とにかく、300円を払えば乗れますよ」と言うのだ。私が丁寧にではなく、初老のスーツ姿と同じ様に怒り口調で文句を言ったら、駅員はどのような態度に出ただろうかと考えた。しかし、貧相なジーパン姿では、どうやっても見下されたであろう。昔の国鉄の名残だ。権威には弱いJRということなのだ。

 11、悲惨だったらしい佐世保組

 JRに少し腹を立てながら佐世保駅に着く。ハウステンボスで何があったか不明だが、迎えにきてくれるUTは遅れるとのこと。遅れた我々よりも、彼はさらに遅れたのだ。近くの衣料品店へ行き、薄手の上着を買う。いいかげんな情報のせいで、着ていた上着が汗で汚れていた。着替えが必要だったのだ。しばらくして迎えが来て、UT邸へ。
 駅から車で約10分、UTの住むマンションに着く。傍には稲荷神社があって、鬱蒼と樹が茂っている。UTによると、夜は真っ暗になって無気味らしい。祠は長い階段を上ったところにあるらしいが、怖いので、彼は1度も上ったことがないらしい。私から見るとそれほど不気味でもないのだが、心にやましいことがあると狐も怖いのであろう。
 部屋は2LDK、ベランダもあって、1人住まいには少し広い。掃除が大変だろう。台所は機能的できれい。冷蔵庫は小さい。台所がきれいで、冷蔵庫が小さいということは、ほとんど自炊をしていない証拠。UTに確かめると、「その通り」と答えた。
 佐世保組のうち、ZYは畳の上に座っていたが、あとの2人、MTとMMはベランダにいた。室内禁煙ということで、ベランダで煙草を吸っていた。煙草を吸いながらMMは、顔からダラダラ汗を垂らしていた。太っているせいだけでは無いようだった。
 「どうだった?ハウステンボスは」と訊くと
 「どうもこうもない!」と言って、この後、ハウステンボスでエライ目にあったと、ダラダラ汗を垂らしながら5分間くらいしゃべり続けた。
 ハウステンボスでの悲惨な話は、私は見ていないので詳しくは語れないが、MMの話を要約すると、UTに振り回されて、長い時間歩き続けて、疲れ果てて、結局、ハウステンボスのごく一部しか見られなくて、ワイン飲んで、チーズ食っただけだったとのこと。
 腹は立ったかもしれないが、しかし、こういうことが将来、思い出として残るのだ。我々が爺さんになった時、思い出すのはこういうことが多いのだ。爺さんになったMTやMMが、爺さんになったUTをつかまえて、お前、あの時はひどかったよなぁ、などと話題になったりするのだ。思い出作りができたと思って、UTに感謝してもいいくらいだ。ということで、お三人さん、少しは慰めになったでしょうか。

 12、佐世保に来た甲斐

 UT、ER、MM、GT、MT、ZY、私の7人で佐世保の夜に繰り出す。UTの選んだ店は、美味しくはあったが、別に佐世保でなくても、という店だった。佐世保の旨い物とか佐世保名物とかいったものでは無かった。佐世保に来た甲斐は無かった。
  二次会に行く。女の子のいる店がいいって言ったのはUTだったか、MMだったか覚えていないが、こんな店、沖縄にいっぱいあるじゃないか、しかも、沖縄の方がかわいい女がいるじゃないか、という店だった。なおかつ、オジサン達はカラオケを始めやがった。何でわざわざ佐世保まで来て、へたな歌を聞かされなければいけないんだ。と私は心の中で憤慨する。隣の女は、今年高校を卒業したばっかりだという18歳、佐世保の人間だというが、地元のことはよく知らないらしくて、何を聞いても首をかしげるばかり。お前は首振り人形かと、私は心の中で憤慨していたのであった。わざわざ佐世保まで来て。
 それでも、佐世保に来た甲斐も少しはあった。UTのチョンガー生活を見られたことは、そうたいしたことでもないが、ERと会って、話ができたのはうれしかった。特に、旨い日本酒が手に入るという情報は、それだけで、私を幸せにした。
 家に泊めてくれて、店の手配もしてくれて、あれこれプランを考えてくれて、暑苦しいオジサンたちをハウステンボスへ案内してくれて、いろいろ難儀してくれたUTに感謝はするが、佐世保に来た甲斐は、ERに会えたというくらいしか無かった。悪いけど。
     

 13、いびき合戦、ダントツ一位

 首振り人形のいた店から、寄り道せずにUT邸へ。ハウステンボスで買ってきたというチーズを肴に、同じくハウステンボスのワインを飲みながら、しばしユンタク。今日3度目の、ハウステンボスでいかに難儀したかという話を聞く。他人の不幸は何回聞いても面白い。その後、長崎の飲み屋でも、博多行きの特急電車の中でも聞いた。
  ERが、わざわざ大村の自宅から持ってきた2組の蒲団と、UT邸にあった2組の蒲団を敷き、足りない分は毛布を敷いたりして7人、仲良く寝る。
 私は、畳の上に薄いシーツのようなものを敷いた上に寝ていた。いつもベッドの上で寝ているので、畳の上の固さが不慣れで、背中が痛くて、何度か目を覚ました。目を覚ますと雷のような大いびきが聞こえる。疲れてはいるのに、酔ってもいるのに、すぐには寝られないほどの大音響だった。よく聞くと、いびきは3、4箇所から聞こえてくる。3、4人がいびきをかいている。しかし、1人のいびきがあんまり大きな音なものだから、他のいびきがかき消されて、すぐには気付かなかったのだ。
 大いびきの主は、見なくてもだいたい見当がついた。・・・そう、あの人です。
     

 記:ガジ丸 2003.10.18  →ガジ丸の旅日記目次


オジサン5人旅 2、有田編

2014年02月18日 | ガジ丸の旅日記

 7、快適な鉄道の旅

 博多から佐世保までは、特急みどり号で行った。2時間近くの鉄道の旅、私の予定では、車内でオジサン同士向かい合って飲み食い旅、だったが、朝早い時間(8時25分)の出発で、朝食をしっかり食べたこともあって、肴がお腹に入らない。で、酒がすすまない。昨晩買って置いた日本酒は、私一人でちびちびとやっただけだった。
 電車は揺れも少なく快適、沖縄では見られない田園風景を車窓から眺めながら、昨夜の屋台のこと、一昨夜の同窓会(旅の前夜、高校の同窓会があった。10年ぶりの同窓会でもちろん、遅くまで飲んだ)のことなど語りながら、気持ちの良い時間を過ごした。
 佐世保手前の有田で、GTと私は途中下車。残った3人はそのまま終点の佐世保まで行き、佐世保に単身赴任している友人UT(この旅の目的の一つは、彼を励ますこと)に迎えられて、UTコーディネートの佐世保観光の予定。私の関知しない佐世保観光の顛末は、3人から後で聞いたところによると散々だったらしいが、これは後述。

 8、柿右衛門のコーヒーカップで

 有田の町を、GTと二人でブラブラする。先ずは、有田駅から歩いていける場所にある佐賀県立九州陶磁文化館へ、展示内容は質も量も充実していた。見応えがあった。今まで、「これの何が良いのだろう」と疑問に思っていた青磁が、本物の一流の作品をじっくり観て、「この緑の深さを、愛する人は愛したのだ」ということが解った。収穫だった。
  駅に戻ってバスに乗り、終点の有田焼直売会館前で降りる。そこからブラブラ、あちこち覗きながらオジサン二人、歩く。金木犀の花が咲いていて、甘い匂いを漂わせていた。
 「コーヒー100円」という看板が目に入った。歩き疲れてもいたので、躊躇なくその建物の中へ入る。有田館という名の観光案内所だった。その2階が喫茶室。壁いっぱいに陳列されているたくさんのコーヒーカップの中から好みのものを選んで、それにコーヒーを入れて飲ませてくれるという。私はやはり、柿右衛門にすぐ目が行った。選んだ。
 オジサン二人、煙草を燻らせながらコーヒーを飲む。おそらく2万円くらいはするであろうコーヒーカップに100円のコーヒー、美味かった。気分は上々。
     

 9、観光地では無かったのね

  昼飯時はとうに過ぎていたので、コーヒーの後、食い物屋を探す。無い。あっても閉っている。日曜日だから閉っているのだ。食い物屋は少ないし、休日に閉っている店が多いということは、つまり有田の町は観光地では無いということだ。
     
 壷屋焼きと違って、有田焼は世界的なネームバリューがある。物を作って日本各地、世界各地へ販売する、という製造業のみできっと、生活は成り立っているのだろう。観光客を呼んで、観光客相手に商売をしなくてもいいわけだ。だから、その日、連休の中日だというのに町行く観光客の姿は少なかった。我々が見かけたのは、同じバスに乗 り込んだ2人の若い女と、3人の西洋人くらい。今衛門の店に入った時に10人くらいの客がいて、いるところにはいるんだと思ったのだが、それでも全部足して20人に満たなかったであろう。・・・有田陶器市の日には大勢の観光客でごったがえすとのことだった。
 有田市役所前に蕎麦屋と飲み屋を足したような店があった。営業中と出ていた。喉がビールを欲しがっており、腹が何か食う物を欲しがっていたので、入った。有田名物の“ごとうふ”という口に入れた感触はジーマーミトーフ、味は普通の大豆の味というのがあって、蕎麦とその“ごとうふ”を肴にビールを飲んだ。蕎麦も“ごとうふ”も旨かった。静かな町の佇まい、陶磁文化館の質の良さ、金木犀の匂い、100円のコーヒー、柿右衛門のコーヒーカップ等々、オジサン2人は大いに満足して、有田の町を離れたのだった。
     

 記:ガジ丸 2003.10.18  →ガジ丸の旅日記目次


オジサン5人旅 1、福岡編

2014年02月18日 | ガジ丸の旅日記

 1、オジサン5人、走る

 出発の日、迎えに来てくれるMTが10分遅れた。空港にも予定より10分遅れた。GT、MMは早くに到着、ZYは私たちより少し前、見送りのIさんも既に待っていた。
 私の旅はたいてい木曜日か金曜日に出発するので、搭乗手続きカウンターが混んでいたということは無い。少なくとも自動手続機は空いている。今までに手続に時間がかかったという記憶が、私には無かった。ところが、この日はたくさんの人がカウンター前に並んでいた。うかつだった。連休初日であることを私はまったく考えてなかったのだ。
 なもんで、5人分の搭乗手続きにはえらい時間がかかってしまった。見送りのIさんとコーヒーでも飲みながら、ユンタクでもしようかと予定していたのだが、そんな余裕は無し。ぎりぎりの時間。オジサン5人は走った。4人はバタバタ走り、1人はドタドタ走り、4人は少し汗をかいて、1人はびっしょり汗をかいて、なんとかセーフ。

 2、いいかげんな情報のせいで

 佐世保のUTからのメールに「朝晩は12、3度、寒いので上着が必要」とあったので、ブルゾンをバッグの中に入れておいた。そのブルゾンは、旅の間、一瞬も着ることは無かった。福岡は暑かった。有田も佐世保も長崎も暑かった。4人は汗を滲ませ、1人は汗を滴らせ、旅中を過ごした。長崎の夜は少し肌寒く感じたが、それでもブルゾンを着るほどでは無かった。私の赤いブルゾンは、バッグの中でずっと邪魔者扱いされていた。

 3、オジサン4人半、歩く

  福岡空港から地下鉄に乗り、午後2時前に博多駅に着く。そこから大宰府へ行く予定だったのだが、ブルゾンのこともあり、泡盛を3本も持っている人もいたりして、皆、荷物が多い。で、身軽になるために、先にホテルへ行き、チェックインを済ませる。昼飯にビールを飲んだりして、そんなこんなでのんびりしすぎて、時間が足りなくなって、大宰府観光は中止。博多の街、中洲辺りをオジサン5人、ブラブラすることになった。
 暑い中、早足のGTの後を皆が続く。4人は汗を滲ませ、1人は汗を滴らせ歩く。途中、紅毛碧眼の若い美人にニヤニヤしたり、ヒッチコックの「鳥」を彷彿とさせる鷺の立ち並ぶ姿に驚いたり、博多山笠の山車の大きさに感心したりする。概ね2時間、4人は歩き続ける。残る1人は途中でリタイヤし、帰り道をバスに乗った。
     

 4、お姉さん、暴走する

 博多の夜は、Iさんの友人、Tさんが女将をやっているという「割烹M」で飲み食いすることになっていた。「割烹M」は福岡空港から博多駅とは逆の方向、空港からは車で15分ほど行った所。オジサン5人、空港で待っていると、Tさんが迎えに来てくれた。
 車はオレンジ色の軽貨物。前に1人、後のシートに3人、荷台部分に1人乗せて、Tさんは車を走らせた。山へ登っていくような感じの道、細い道、暗い道を走った。
 「割烹M」ではおいしい料理を食べることができた。酒もまぁまぁの味。ただ、皆には料理よりも、Tさんの気合の入った運転が強く印象に残った。彼女は昔、暴走族だったのではないか、と思われるような運転だった。店の仲居さんから、Tさんは以前、とても大きなオートバイに乗っていた、との情報があった。さもありなん、だった。

 5、MM、せせら笑う

 ホテルに戻って、シャワーを浴びて、10時頃、「屋台へ行かないか?」と皆に声を掛けた。GTとZYは「難儀」という返事だったので、残りの3人で近くの屋台へ行く。
 屋台は4軒、客の多いのが2軒、少ないのが2軒。客の一番多い店は3人座ると窮屈そうだったので、2番目に多い店に入る。主に焼酎を飲む。
 私が頼んだ肴の一つ、牛筋は歯が立たないほど固く、噛んでも噛んでも噛み砕くことができない。不味い店を選んだかなと思ったが、もう一つのモツ煮は美味しかった。何より大将が気さくな感じの人で、楽しく飲めたのが良かった。
 三人それぞれ違う銘柄の焼酎を飲みながら、その焼酎の話になって、MMが「蕎麦焼酎って初めて聞いた」と言うので、「蕎麦焼酎雲海ってあるじゃないかと」と私が応えると、「バッカだなぁ、雲海は芋焼酎だろう。ははは」とせせら笑った。あまりにも自信を持った言いようで、反論しても、へへっと笑われるだけだった。
 しばらくして、「そうだ、大将に聞けば判るだろう」とMMが言い、で、大将に聞いた。気さくな感じの大将は穏やかに「雲海は蕎麦です」と答えた。すると、「あー、芋じゃなかったのか。蕎麦だったのか。それじゃ二人とも間違えていたな、ははは。」とトンチンカンなことを言う。「俺は蕎麦と言ったんだ」と静かに言うと、「あー、そうだったっけ」ととぼけて、「でも、大将が間違えているかもしれない」と往生際が悪い。
 気さくな感じの穏やかな大将は、笑顔を見せながら一升瓶を取り出して、そのラベルを我々に見せてくれた。ラベルは、「蕎麦焼酎雲海」と書いてあった。

 6、愛知からオジサン7人

  オバサングループの旅行は、旅先でよく見かける。いつでもどこでも大声でしゃべって煩いので、よく目立つ。オジサン数人が連れ立って旅をするのは、そうはいないだろうと思っていたら、我々が飲んでいる屋台にオジサン7人が入ってきた。我々より歳は少し上の愛知から来たという7人は、トヨタ自動車に勤めている同僚同士で、年に1回はこの仲間で、こうした旅をしているとのことだった。陽気な人たちで、楽しく話をすることができた。思いがけなく愉快な時間を過ごせた。
 オジサンになっても仲間で旅を楽しむことができるのは、心の余裕に繋がるのかもしれない。今まで楽しいことが一杯あったんだろうな、と彼らの陽気さを見て、思った。
     

 記:ガジ丸 2003.10.18  →ガジ丸の旅日記目次