折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

男の友情~魂を揺すられた弔辞

2008-09-13 | 日常生活
先日葬儀があり、茨城まで遠出をしてきた。

かみさんの弟の奥さんの弟が亡くなったのだ。


普段はラフな格好で毎日を過ごしている身にとって、久しぶりにワイシャツにネクタイを締め、式服を着るのは窮屈この上ない。


思えば、昨年11月に亡くなった、かみさんの妹のご主人のKちゃんは60歳、この度の弟さんは51歳である。

そんな年齢だから、二人には、それぞれまだお母さんが健在である。

斎場へ向かう車中で、「親より先に逝くなんて、最大の親不孝よね」と言うかみさんの言葉に大きくうなずきながら、わが子に先立たれた親の気持ちはいかばかりかと思わずにはいられなかった。


逝くには余りにも早すぎる年齢である。
そのため、深い悲しみに覆われた告別式であった。

その象徴が、幼なじみが友人代表として読んだ弔辞であった。

嗚咽をこらえて、一言、一言搾り出すように遺影に向かって呼びかけるその姿には、「ガキ」の頃から、「おい」、「おまえ」の「男同士」の付き合いをしてきた、かけがえのない「竹馬の友」を失った、その早すぎる死への無念さと悲しみが、ひしひしと伝わってきて会葬者一人一人の胸を打った。

その真心あふれる弔辞に、期せずしてあちこちから会葬者の啜り泣きが漏れた。

小生も胸をつかれ、熱いものがこみ上げてきた。


弔辞を聞きながら、この二人はきっと子供の頃、ガキ大将として他の子供たちを従えて、夕方暗くなるまで遊びまわった、それこそ「天真爛漫」に古き良き子供時代を過ごした仲だったのだろう、そして、そういう子供の頃の原体験が長じて後も、固い「絆」で結ばれた友情を育む源となったのだろうと思った。

その、人もうらやむようなこんな二人の関係って、何と素晴らしいことか、そして、こんな友がきに恵まれた故人は、きっと幸せだったことだろうと思った。

今は、何でも「お金」で買える時代である、と言われているが、この二人の「人もうらやむような関係」、即ち、固い絆で結ばれた「友情」は、決して「お金」では購うことのできない大切なことの一つである、とつくづく感じた次第である



小生も、会社に勤めていた一時期、仕事の一環として何度も弔辞を書いたが、その経験に照らして言うなら、今回の弔辞は魂を揺り動かすその内容といい、長からず、短からずの分量といい、そして、全身全霊を込めての読み方といい、まさに完璧な弔辞であった。

そして、弔辞は「頭で書くのでなく、心で書くものだ」ということを、改めて教えてもらったような気がした。

「季節の移ろい」を感じた朝

2008-09-10 | 日常生活
その日の朝の佇まいは、昨日までの朝と明らかに違っていた。


先ず、空の色が違っていた。
抜けるような青空であった。

そして、空気が違っていた。
さわやかで頬に当たる風が何とも心地よかった。


愛犬のパールと朝の散歩コースを歩きながら、季節が移ろい、夏が終わって秋が来たことを肌で感じた。


いつもはそのまま通り過ぎてしまう公園のベンチに座って、思いついたことをメモする。


* 今までだったら、歩くとじっとりと不快だった汗が、今朝はさらっとして、微風が心地よい。

* 昨日までは、暑さのため長い舌を出して、ハアッハと荒い呼吸をしていたパールの呼吸が今朝はすっかり落ち着いている。


しばしメモの手を休めて風に揺れる満開の<黄花コスモス>をカメラに収める。



散歩コースにある公園に咲く<黄花コスモス>
手前はメモを書いたベンチ


そして、メモの書き込みを再開する。


* 考えて見れば、これまで季節の移ろいを肌で感じたことなどあったろうか、恐らく初めてだろう。

* 自分もこういうことに興味、関心を持つような年齢になったということなのだろう。

* つかの間、こんなことを考えさせるのも、秋が来たと言う証なのだろう。


朝日が差し込む公園のベンチに座って、しばし取りとめのない物思いの時間を楽しむ。


散歩を終えて家に戻るとそんな陽気に誘われてか、その日たまたま休暇を取っていたかみさんが、朝食が終わるとカーテンを洗濯したり、家中の大掃除をしたりと俄然張り切りだした。(お陰で、小生は居場所に困ったのだ!)

さわやかな季節は、人をリフレッシュし、やる気を起させるようだ。


翌日の朝、新聞を読んでいたら、こんな文章に出会った。

<夏と秋とゆきかふ空のかよひぢはかたへ涼しき風や吹くらむ>と古今和歌集にある。
二つの季節が行き交う空を、「ゆきあいの空」と呼ぶ。体ひとつで暑さに耐えるしかなかった古人は、秋が夏を追いやる日を待ち焦がれたことだろう。(9月9日付け朝日新聞「天声人語」より抜粋)

昨日の今日のことなので、「おっ、さすが天声人語!」と我が意を得たりの思いで興味深く読んだ。

「一球入魂」~映画「ラスト・ゲーム」 最後の早慶戦を見る

2008-09-07 | 映画・テレビ
このところの残暑のせいもあってか、いささか夏バテ気味。体がだるくて、やる気が沸いてこない。

そこで、気分転換にと久しぶりに映画を見に行く。

見たのは、「ラストゲーム」~最後の早慶戦である。


           
           <野球(ベースボール)、生きてわが家(ホーム)に
           還るスポーツ>(写真は、劇場用解説書より) 


昭和18年10月16日。(昭和18年は小生が生まれた年でもある。)

時は太平洋戦争の真っ只中。

二度と帰れないかもしれない若者たちに「生きた証」を残してやりたい、と早慶戦の開催に奔走する信念と勇気を持った二人の男がいた。

慶應義塾大学の塾長小泉信三と早稲田大学野球部顧問の飛田穂洲の二人である。

しかし、時は厳しい戦時体制下、単に好きな野球をやらせたいということさえも周囲からさまざまな圧力がかかる。
そうした幾多の困難を乗り越えて、遂に「最後の早慶戦」=「出陣学徒壮行早慶野球戦」が実現し、その試合が早稲田大学戸塚球場で行われる。

この映画は、そんな実際にあった出来事を野球というスポーツを通じて友人、師弟、親子など、人と人とのつながりの大切さ、平和のありがたさを描いたヒューマン・ドラマである。

「一球入魂」。

この飛田穂洲が唱えたモットーは、この映画のさまざまな場面でてくる言葉で、この映画の一つのキーワードとなっているように思える。

先ずは、早慶戦の開催に強硬に反対する早稲田の総長との交渉において、一歩も引かず、学生たちに試合をさせてやるためなら、全ての責任を取り、反対する者とあくまでも戦うと断固意志を貫らぬいた姿勢の中に「一球入魂」の精神の表れを見る思いがする。

そして、最後の早慶戦。
結果こそ10対1と大差のゲームとなったが、一瞬、一瞬を懸命にそして精一杯生きた証としてこの試合にかけた思いの深さにおいて、まさに飛田が提唱した「一球入魂」の真髄を体現した試合であったと思う。

試合終了後両校の学生が一緒になって校歌、応援歌を大合唱する場面は本当に感動的で胸が熱くなった。


それから5日後の10月21日、出陣学徒の壮行会。

折からの降りしきる雨を突いて神宮外苑の競技場を行進する出陣学徒の中に、早慶戦を戦った選手たちの顔があった。

次々と映し出される選手たちの顔の中に、主役を演じた早稲田大学の戸田順治がクローズアップされる。

そして、画面が切り替わりテロップが流れる。

「戸田順治をはじめ、幾多の若者たちが戦場に散り、帰らぬ人となった」と。

次に、米艦に体当たりして行く飛行機の実写フィルムが重なる。

何とも切なく、哀しく、胸をかきむしられるシーンである。


この戸田選手には仲の良い軍人の兄がいたが、出征して戦死したばかりである。

目に入れても痛くない(戸田選手の父親の言葉。実はこの父は、長男の戦死は名誉と心ないうそで自分を偽っていたのだ。)ほど愛していた息子二人を相次いで戦争で失った両親の思いはいかばかりかと、思うと涙がとめどなく頬を伝って落ちた。

そして、平和ボケしていると言われる昨今の日本であるが、一人の親として少なくとも子供たちを戦場に送らないで済む平和な時代に生きていることを心からありがたいと思った。

同時に、「球を打ち、ホームベースに還ってくるのがルールの野球を愛した若者たちが、なぜ、自分自身のベースである家族の待つ家へ帰れない戦場へと送られなければならなかったのか?映画を見終わったとき、そう思わない人は一人もいないはず」と映画評論家の渡辺祥子さんがいみじくも書いているが、小生もこれから先、大切な家族を戦場に送ることは決してあってはならない、許してはならないとこの映画を見て改めてそう思った。

小生が見た映画館は、平日にしては観客の入りはまずまずであったが、高齢者の姿が目についた。

この映画を撮った神山征二郎監督がインタビューの中で、「20歳前後で、命と直接向かい合わなくてはいけなかった若者たちを描くことで、見る人に何かを感じてもらえたらと思いました」と言っているが、「ラストゲーム~最後の早慶戦」が行われたあの時代がどんな時代であったか、若い人たちにも是非この映画を見て知ってもらいたいと思った次第である。

ブログが取り持つ「縁」となりうるか?

2008-09-04 | オーディオ談笑会
小生のブログのコメント欄への書き込みは滅多にない(ちょっと寂しい)のだが、その日は珍しく書き込みがあった。

その書き込みは、小生が今年5月9日に書いた「取り持ってくれた幾つもの<縁>に感謝」と題するブログの記事に対するものであった。


そのブログの内容は、本ブログでしばしば登場するオーディオ談笑会の主宰者Kさんが、今から20年ほど前に、英国の著名なスピーカー<タンノイオートグラフ>のエンクロージャー(スピーカー・ボククス)を自作した時のエピソードを、取り持ってくれた4つの<縁>を中心に取り上げたもので、これら幾つもの<縁>に恵まれてはじめてオートグラフのエンクロージャーが完成した、と振り返り、感謝の気持ちでいっぱいである、と今のKさんの心境を紹介したものであった。



Kさんが自作したマニア垂涎のスピーカー<タンノイ・オートグラフ>が
鎮座するリスニングホール


さて、件(くだん)の書き込みであるが、要約すると

タンノイオートグラフのエンクロージャーを自作すべく図面を書き始めたが、わからないことだらけで困っていた所、サイトの検索でこのブログを見つけた。もし、可能ならブログにあるKさんに質問したいことがあるのだが、どうすればよいか

と言う内容であった。


この書き込みを見て、小生のブログにたどり着くまでには、それなりに苦労もし、大変だったんだろうな、と推察した。

小生はエンクロージャー自作にまつわる<縁>をテーマに書いたのだが、この書き込みを一読して、これもまた一つの<縁>だなと思った。

同時にブログで紹介した4つの<縁>は終わっていないのかも知れない、ひょっとしたら新しい<縁>につながっていく可能性も無きにしも非ずだな、とも思った。

そして、これはブログが取り持っ一つの<縁>であり、この<縁>を大切にし、できるならばこの<縁>が叶うよう応援してあげたい、と心から念願し、Kさんにその旨連絡し、協力を要請した。

Kさんからは、状況が許せば最大限の協力をしたいとメールがあった。

書き込みをしてくれたIさんには、Kさんのメールを転送した。


小生としては、あの4つの<縁>のエピーソードの後に、新しいもう一つの<縁>が加わることになれば、ブログを書いた当事者として、それこそこの上ない喜びである。

「ネタ切れ」の恐怖

2008-09-01 | ブログ
2年間もブログを書いていると、この間書けなくなって、これから先、続けて行けるだろうかと不安に思ったことが一再ならずある。

書けなくなる理由は、大きく分けて二つある。

一つは、書く内容について、大まかなイメージはあるのだが、文章としてうまくまとまらない、あるいはそれにふさわしいフレーズが思い浮かばなかったりする場合である。

もう一つは、書く材料が見当たらない、いわゆる「ネタ切れ」の場合である。

前者の場合は、あれこれとこねくり回しているうちに、例えば愛犬との散歩の時とか、入浴中にとか、トイレに入っている時にとか、突然思いついたりして解決する場合が多いが、後者の場合は、全くお手上げである。


      
      小生のブログは、ブログ通信簿で23歳の女性が書いていると
      判定された


今は、中2日ないしは中3日の間隔でブログを更新しているが、一日たち二日過ぎても、全く何にも書くテーマを思い付かない時の焦りは、パニックといっても良い。

ブログは「書くことがある時に書けばよい」のであって、中2日、中3日などと決めること自体がおかしいのよ、と周囲からはよく言われる。

それはまさにその通りで、自分でもわかっているのだが、一旦「タガ」を緩めてしまうとそのままずるずるといってしまうのではと言う不安もあるし、また、一度こうと決めたことは頑なに守ろうとする性格もネックになっている。

それに、この2年間、折に触れブログを読んでもらっている皆さんの期待にも応えたいという思いも強い。

そんなことをあれこれ考えると、書くことがある時に書けばよい、というようには中々割り切れない。


ネタ探しのための努力は、ムリのないものなら好奇心が脳を刺激してプラスに働くだろうが、過度になれば「ストレス」となってマイナスになる。

この辺の兼ね合いが実にむずかしいと最近つくづく思う。

これからも「ネタ切れ」の恐怖と何とか折り合いをつけながら、ブログを書き継いで行きたいと思っている。

今日でブログを書き始めて「250回」目、一つの節目である。