折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

ええ!ほんと、マジかよ!!

2006-09-10 | 友達・仲間
都市対抗野球が、つい先日終った。
この都市対抗野球では、一つの思い出がある。

もう随分と古い話になるが、ある日、大学時代の親友H君から手紙が届いた。
中に、1枚の新聞記事が入っていた。

それを見て、「ええ!おい、ほんと、マジかよ!!」と絶句した。

その新聞記事は、大学卒業後地元に就職した彼が、都市対抗野球の地方予選に出て、活躍している様子を伝えていた。


<送られてきた、新聞記事>

瞬時に思いは、大学時代の剣道部の部室の横にあった、バレー・コートにタイムスリップしていた。

このバレー・コートは、二人が暇さえあればバッティング練習に励んだ、思い出の場所である。

と言っても、小生も彼も野球部員であったわけではなく、サークルは剣道部であったが、その当時、彼は剣道よりも野球の「打撃」に強い興味を持っていて、特に王選手の「1本足打法」に心酔し、この打法を「理論」と「実行」両面から極めようと、日夜熱心に取り組んでいた。

ある日、彼が「1本足打法をものにした。」と自信満々で、小生を例のバレー・コートに誘った。

小生にも、中学時代「エースで4番」と言うチームの絶対的存在で、当時は真剣に将来は「プロ野球選手」を夢見た時代があったので、「打たせるものか」と誘いに応じた。

かくして、二人の自信とプライドが激突する、バッティング・ゲームがプレー・ボールとなった。

そして、来る日も、来る日も、傍目には「遊び」に見えても、本人たちにとっては「真剣」な「二人だけのゲーム」が続いた。


<チーム紹介の記事の中に、彼の名前も見える>


この対決を通して、彼のボールを遠くに飛ばす能力には、並々ならぬ「素質」を感じたが、それはあくまでも「素人芸」であって、その域を超えるものではない、と思っていたので、この記事には正直びっくり仰天すると同時に、自らの「不明」を恥じた。

それにしても、「球界」で全く無名の「ど素人」が都市対抗野球の世界に飛び込む、と言う一見無謀とも思える行動に、衝撃を受けると共に、その決断をした勇気を本当に、凄いと思った。

多分、そこには言うに言われぬ幾多の困難があった筈であり、それらを克服して掴み取った「4番の座」は、いちずに努力した者のみが手にすることができる、大いなる「勲章」と言えるだろう。

そして、彼のこのような努力を支えた根源には、野球、特に「バッティング」に対する熱い思い入れが、いつも彼の心の中にあったからに違いない。

あのバレー・コートで切磋琢磨した彼が、「素人芸」をはるかに飛び越え、さらなる「高いステージ」に到達したことを喜ぶ一方、何か、自分が一人取り残されたような寂しさと、ある種の羨ましさも同時に味わった。

思えば、あのバレー・コートでバッティング・ゲームに熱中した時から、既に40数年が経っている。

叶うならば、あの場所でもう一度、「二人だけのゲーム」を楽しんで見たい。

ピンチ・ヒッター

2006-09-07 | 音楽

ブログを書く時、内容が音楽に関わりがある場合は、<今日の1枚>として、事前にその音楽を聴き、その時のエピソードに思いを馳せながら、原稿を書くことにしている。

その音響装置が、聴き終って電源を落とす時に、スピーカーからノイズが出るなど、このところ調子が悪かったので、ちょっと心配になり、熱烈なオーディオ・マニアで、「談笑会」の主宰者K氏にメールで診断を依頼したところ、多分、コンデンサー類の経年劣化、即ち、アンプのパーツの寿命ではないか、メーカーにメンテナンスしてもらったらどうか、と懇切丁寧な回答を頂戴した。

(「談笑会」については、7月30日のブログ「究極の音、至福の時」を参照ください)




そうこうしている内に、先週末、遂にアンプが故障してしまった。
早速、メーカーを呼んで修理を頼んだが、10日ほどかかるとのことで、その間、ピンチ・ヒッターとして、数年前に購入したボーズ社のウエーブレディオCDに代役を務めてもらうことにした。

本機は、一般紙にも広告が載り、カタログハウスの「通販生活」では、必ず上位にランクされる、スグレもので、小さなボディの割には、臨場感溢れる音が聴けるので、ピンチ・ヒッターとして、十分役割を果たしてくれると、期待している。

むしろ、普段余り聴く機会がないので、改めて本機を聴き直す絶好の機会かもしれない。

昨日、ジャズピアニスト・本田竹広の「ふるさと」を聴いて見たが、ピアノが生々しく、朗々と鳴っているのに満足した。



ピンチ・ヒッターと言えば、音響装置だけでなく、ブログについても、「音楽にまつわる思いを、折々のエピソードを交えて綴る自分史」と言う本来のテーマに照らして見れば、最近の内容は、まさにピンチ・ヒッターのようで内心忸怩たる思いが、しないでもないのだが・・・・。

ブログも2ヶ月間書き続けてくると、やはりと言うべきか、思ったとおりと言うべきか、本来のテーマだけを書き続けることのむずかしさを、今さらながら実感している。

かくして、ピンチ・ヒッター的な投稿が多くなるのだが、今は、とにかく続けることに意義があると割り切って、色々なことを、思いつくまま、綴っていこうと思っている。

母と映画

2006-09-04 | 映画・テレビ
母は、近頃めっきり足が弱って、外出することが少なくなったが、少し前までは、近くにいる息子たちの所に、出かけて来ていた。

その時も、母が我が家に泊りがけで遊びに来ていたのだが、たまたま、小生に小用ができて30分ほど外出しなければならなくなり、留守中の慰みにと、見てもらったのが映画「砂の器」のビデオであった。




急いで用事を済ませて帰ってきた。
「ただいま、留守番させちゃってごめん。お茶にしようか」

「・・・・・・・・・・・・・・・。」

母は、テレビの画面を食い入るように見つめたまま、返事をしない。
テレビを見ると、場面は主人公の加藤 剛がピアノを弾きながら、子供の頃「業病」の父親と巡礼の旅に出る、回想シーンであった。

これから先が、この映画のクライマックスである。お茶は後回しにして
最後まで一緒に見ることにした。

時々、そっと母の表情をうかがう。身を乗り出すように、真剣に画面に見入っている。





「何て良かったんだろう。感動したよ。」と母が興奮を抑えかねて、堰を切ったように、しゃべりはじめた。


「業病の父親と子供が、あてどもない放浪を続け、行く先々で辛い目に会うのには、本当に哀しくて、胸が詰まってしまった。」

小生
「四季の織りなす風景が美しいだけに、余計哀しみが際立つね。」


「お前は、まだ小さかったから覚えていないかもしれないが、昔は、ああいう物乞いが家にも来ていたんだよ。」


「父親のいる駅に向かって、必死に線路を走る子供。駅舎での別離を前に固く抱き合う父親と子供、涙が溢れて止まらなかったよ。」

小生
「あの辛い旅の中で、きっと親子の『絆』がいっそう強くなったんだろうね。」


「『おらあ、しらねえ!!』と父親が声を振り絞る場面、圧倒されたよ。あの俳優の演技、凄かった。何と言う役者なの?」

小生
「『加藤 嘉』と言うんだけど、この映画で一躍有名になった。」


「わたしは、丹波哲郎が大好きなんだけど、『彼は、いま、父親に会っている。いま、彼は、音楽の中でしか、父親に会えないのだ。』と言うせりふも、思いやりがこもっていて、とても良かった。」

小生
「音楽もよかったろう。『宿命』と言う曲なんだけど、美しくも、哀しい、そして時に激しい音楽が、映画全体を盛り上げていたよね。」

次々に、感想が口をついて出てくる。
ビデオといえども、映画を母と二人だけで見たのは、初めてであり、見終わってお互いが、感想を話し合うと言うのも、勿論始めてのことであった。

「砂の器」は、映画はもとより、DVD、テレビ放映等で何回も見ているが、この母と一緒に見た「砂の器」は、特に印象深いものとなった。

<今日の1枚>

「砂の器」サウンドトラックより ピアノと管弦楽のための組曲 『宿命』

音楽監督=芥川也寸志/作曲・ピアノ演奏=菅野光亮/演奏=東京交響楽団/指揮=熊谷 弘

 



オヤジVS息子たち

2006-09-01 | 家族・母・兄弟
小生の兄弟は、みんな将棋が好きである。
最近こそ少なくなったが、盆や正月に皆が集まると、兄弟のうちの誰かが将棋盤を出してきて、「1局、お手合わせ」となる。

兄弟4人全員が将棋盤の前に集まってしまうので、他の人たちからは「将棋ばかりしていないで、少しは兄弟で話をしたら」と顰蹙を買っている。

将棋盤をはさんでの会話、盤上の駒の動きを通しての対話等々、直接話をしなくても、結構当事者同士は、心が通じ合っているものなのだが、傍目にはそうは見えないようで、「また始まった」とばかりに非難の目で見られる。




<王将を「金矢倉」に囲って、「棒銀」で攻める。オヤジの得意の戦法であった。>



将棋は、兄弟みな小学校の時にオヤジさんから教わった。

晩年、オヤジは息子が実家に帰ってきた時に将棋を指すのが、楽しみの一つであったらしい。

「どうだ、いっちょやるか。」とにこにこしながら、いそいそと将棋盤を出してくる。

訥々として、多くを語らぬオヤジにとって、多分将棋は息子と心おきなくコミュニケーションを図ることの出来る格好の「場」であったのだろう。

そのオヤジも、年をとるにつれ、いつの間にか息子たちが対局する盤側で、にこにこしながら観戦に回ることが多くなった。

そこで、息子たち4人が揃った時、今日はオヤジを主役に息子がオヤジとそれぞれ1局ずつ指そう、ということになった。

オヤジは、「もう、年だから」としり込みしていたが、皆から「思い出になるから、やんなよ」と勧められると、「そうか」と嬉しそうに将棋盤の前に座った。

オヤジにしてみれば、息子4人を相手に将棋を指すのは、最初にして、最後のこと、気力を込め、真剣に指しているのが、盤側に伝わってきた。

結果は、息子側の全勝で終ったが、この一時は、我々息子たちにとって、かけがえのない、忘れえぬ、それこそ思い出の対局となった。

きっと、オヤジも将棋を通して息子たち一人一人と交わした「対話」を心いくまで楽しみ、記憶に止めてくれたのではないだろうか。

我々、息子たちも、それぞれ年をとって、皆が集まっても将棋盤を出して、一局やろうという、元気がなくなってきた。

あの世で、オヤジが「もう、兄弟同士で将棋を指さないのか。」と、さぞかし、残念がっていることだろう。