ロシアの下院選挙は、政権与党「統一ロシア」の得票率が過半数に達せず、事実上与党の敗北に終わった。党首のプーチン首相は結果が判明してからも「議席は過半数を超えており、問題ない」と強弁しているが、前回同様、絶対多数の3分の2の議席獲得を狙っていただけに、敗北感を抱いているのは間違いない。なぜ、与党はこんなに敗けてしまったのか。その敗因を探ってみたい。
第一の敗因は、プーチン首相が来春の大統領選に出馬、当選することが確実となり、「プーチン流強権政治」がさらに6年(任期6年)、あるいは12年(連続2期まで可能)続くことへの拒否感が有権者の間で強まったからだろう。その証拠に、プーチン首相の支持率と与党「統一ロシア」の支持率が、次期大統領選の候補を決めた9月下旬の党大会後の世論調査で大幅に下がっている。とりわけ、一貫して70%台の高支持率を維持してきたプーチン氏が60%台に下がったのが印象的だった。
プーチン氏は2000年から2期8年大統領を務め、その後、大学の後輩のメドベージェフ氏に大統領を譲り、自分は首相として大統領を支える「双頭体制」(別名、タンデム=2人乗り自転車)を敷いた。これは憲法で連続3期務めることが禁止されていたための便法だったが、国民からみると、メドベージェフ氏が大統領職に習熟し、プーチン氏に代わって独り立ちするまでのモラトリアムと考えられていた。
ところが、メドベージェフ大統領が1期4年務めたところで2人が交代し、大統領と首相が入れ替わることになった。プーチン氏から見れば、メドベージェフ氏が大統領としての実績を残せず、これ以上国政を任せるわけにはいかないとして入れ替わったのかもしれないが、国民からすれば「冗談じゃない。また元の政治体制にもどるのか」という思いがしたに違いない。そこで「プーチン、帰れ」コールが起きたということではないか。
第二の敗因として、プーチン流の政治に対する反発がここにきて強まっていることが挙げられる。プーチン流とは、形式的には民主主義を掲げ、法律も制度も民主主義を基盤にしているが、実態はソ連型の政治を踏襲している「見せかけの民主主義」である。共産党書記長にあたる最高権力者が後継者を指名し、直接選挙で大統領を決める形になっているが、プーチン氏が絶対多数を占める与党の党首なので指名した時点で事実上大統領は決まってしまう。つまり、選挙は一党独裁のソ連時代と同様、形式的になっているのだ。
民主主義の根幹である「言論の自由」にしても、最大の影響力を持つ全国ネットのテレビ局の「言論の自由」を封じ込め、政権批判をする野党指導者はテレビに登場させない。とくに大統領選にでもなると、政権与党の候補者ばかりをテレビに登場させ、野党側の候補者は形ばかりの紹介しかしない。これでは、有権者が野党の意見を知るのは事実上不可能だ。
また、野党が選挙に参加しようとしても、政党の登録に難くせを付け、新規登録を拒否するケースが多い。やっと登録を受け、選挙運動に参加できても、下院選挙で議席を得るには得票率が全体の7%を超えないといけない。このため、リベラル派の政党は今回も議席を獲得できなかった。少数派の切り捨てである。
第三の敗因は、貧富の格差が拡大していることへの不満が鬱積していることが挙げられよう。プーチン氏が大統領に就任した2000年ごろから原油の価格が高騰し、国家財政が豊かになり、年率7%前後の経済成長を達成できた。その半面、大都市と地方都市、さらには金持ちと貧者の格差が年々拡大している。この背景には、エネルギー資源に依存する経済の体質改善が進まないことが響いている。メドベージェフ大統領は、ハイテク経済への転換を推進しているが、プーチン氏の国家主義的経済がそれを阻んでいるのが実情だ。
政権側は今回の選挙で首都モスクワに治安部隊を配置し、投票日の集会を一切禁止する強硬措置をとった。だが、投開票日の翌日、野党側がモスクワで開いた抗議集会には5000人以上の市民が参加し、「新しい選挙を実施せよ」「プーチン抜きのロシアを」などと、シュプレヒコールをあげた。これほどの数の市民が街頭行動に参加するのは近年なかったことだ。今後、プーチン政権がソ連流の政治を改めないと、「アラブの春」のような民衆の反乱が起きないとも限らない。プーチン時代の、終わりの始まりかもしれない。
第一の敗因は、プーチン首相が来春の大統領選に出馬、当選することが確実となり、「プーチン流強権政治」がさらに6年(任期6年)、あるいは12年(連続2期まで可能)続くことへの拒否感が有権者の間で強まったからだろう。その証拠に、プーチン首相の支持率と与党「統一ロシア」の支持率が、次期大統領選の候補を決めた9月下旬の党大会後の世論調査で大幅に下がっている。とりわけ、一貫して70%台の高支持率を維持してきたプーチン氏が60%台に下がったのが印象的だった。
プーチン氏は2000年から2期8年大統領を務め、その後、大学の後輩のメドベージェフ氏に大統領を譲り、自分は首相として大統領を支える「双頭体制」(別名、タンデム=2人乗り自転車)を敷いた。これは憲法で連続3期務めることが禁止されていたための便法だったが、国民からみると、メドベージェフ氏が大統領職に習熟し、プーチン氏に代わって独り立ちするまでのモラトリアムと考えられていた。
ところが、メドベージェフ大統領が1期4年務めたところで2人が交代し、大統領と首相が入れ替わることになった。プーチン氏から見れば、メドベージェフ氏が大統領としての実績を残せず、これ以上国政を任せるわけにはいかないとして入れ替わったのかもしれないが、国民からすれば「冗談じゃない。また元の政治体制にもどるのか」という思いがしたに違いない。そこで「プーチン、帰れ」コールが起きたということではないか。
第二の敗因として、プーチン流の政治に対する反発がここにきて強まっていることが挙げられる。プーチン流とは、形式的には民主主義を掲げ、法律も制度も民主主義を基盤にしているが、実態はソ連型の政治を踏襲している「見せかけの民主主義」である。共産党書記長にあたる最高権力者が後継者を指名し、直接選挙で大統領を決める形になっているが、プーチン氏が絶対多数を占める与党の党首なので指名した時点で事実上大統領は決まってしまう。つまり、選挙は一党独裁のソ連時代と同様、形式的になっているのだ。
民主主義の根幹である「言論の自由」にしても、最大の影響力を持つ全国ネットのテレビ局の「言論の自由」を封じ込め、政権批判をする野党指導者はテレビに登場させない。とくに大統領選にでもなると、政権与党の候補者ばかりをテレビに登場させ、野党側の候補者は形ばかりの紹介しかしない。これでは、有権者が野党の意見を知るのは事実上不可能だ。
また、野党が選挙に参加しようとしても、政党の登録に難くせを付け、新規登録を拒否するケースが多い。やっと登録を受け、選挙運動に参加できても、下院選挙で議席を得るには得票率が全体の7%を超えないといけない。このため、リベラル派の政党は今回も議席を獲得できなかった。少数派の切り捨てである。
第三の敗因は、貧富の格差が拡大していることへの不満が鬱積していることが挙げられよう。プーチン氏が大統領に就任した2000年ごろから原油の価格が高騰し、国家財政が豊かになり、年率7%前後の経済成長を達成できた。その半面、大都市と地方都市、さらには金持ちと貧者の格差が年々拡大している。この背景には、エネルギー資源に依存する経済の体質改善が進まないことが響いている。メドベージェフ大統領は、ハイテク経済への転換を推進しているが、プーチン氏の国家主義的経済がそれを阻んでいるのが実情だ。
政権側は今回の選挙で首都モスクワに治安部隊を配置し、投票日の集会を一切禁止する強硬措置をとった。だが、投開票日の翌日、野党側がモスクワで開いた抗議集会には5000人以上の市民が参加し、「新しい選挙を実施せよ」「プーチン抜きのロシアを」などと、シュプレヒコールをあげた。これほどの数の市民が街頭行動に参加するのは近年なかったことだ。今後、プーチン政権がソ連流の政治を改めないと、「アラブの春」のような民衆の反乱が起きないとも限らない。プーチン時代の、終わりの始まりかもしれない。