お互いが、譲ることなく主張しあうばかりでは、最終的には「戦争」しかない。それが、正しい選択だろうか。多大な犠牲、新たな憎しみの発生、悲劇の誕生が継続する。
相互理解ができないのであれば、この結果を免れない。だが、「譲り」を選択するならば、問題はたちどころに解決する。譲れるものであれば、何でも譲ってしまう。対立は生じないから、事件は起こらない。残るのは、譲った側の心理状態である。
譲れる心理状態は、どのようにして可能になるだろうか。もっと低レベルでの段階で、満足できるようにするのか、あるいは、より本質的なレベルでの解釈、理解があって、解決できるようにするのか、何らかの方法論が獲得できるのならば、それは可能な手段となる。
常に、対決を避けながら、新たな水準に移行して、問題を解決していく。対立の中身を、よくよく分析して、どんどん譲っていくのは、無理というものだろうか。
喧嘩を恐れていては、どこまでも軽く扱われ、その事態のすすんだ究極は、結局お互いのためにはならない、という見方も考えられる。侮りを受けても、これに抵抗しない、ただただ受け入れるばかりでは、動物としての人間の基本的存在に関わることかもしれない。
とすれば、妥協なんてありえないとなって、戦争するしかない、とならざるを得ない。何が正義か、譲ってはならないのは何か。余分なものを、そぎ落として、考えていくと、いろんな解決策がでてくるかもしれない。
明石家さんまが、自分の娘に「いまる」という名前をつけた。「生きてるだけでまるもうけ」の考えであるという。これは、深い考えである。基本がここにあれば、大抵なことは譲れる。世界に繋がる「思想」と思う。