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空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

どう生きるかどう死ぬか

2019年10月30日 22時49分54秒 | 思考試行

 人間にとって、誠実こそ大事なのではないかと思い始めている。何が誠実か、そうでないかは、当事者しかわからない。いちいち他人が介在しない場合もある。あくまで、その当事者がみずからの判断において、誠実か、そうでないかの行動をとることになる。

 その時、どのような選択をするのか。誠実なのかそうでないのか。そのために自身の命をかけることになっても、誠実を選びうるのか、結局のところ自身の命が惜しくて、誠実とは思えない行動を選ぶのか。

 人間はそういう場合、どういう行動をとってきたのだろうか。誠実ではない道を選ぶのが普通なのか、それとも人知れず命を落とした人のなかに、誠実の道を選んだ人がいたのではないか。

 その道を選んだからといって、誰からも褒められることもなく、知られることもなく、その生涯を終えた人もいるに違いない。そんな人は絶対にいない、とは言えない。そんな人は必ずいるに違いないと思いたい。

 人間という生き物は、そんなことをやる生き物である。一方では、とんでもない人間とも思えないことをやる人間もいる。

 総じてどう考えたらいいのだろうか。自らの欲望のままに生きることが人間として生きたことになるのか、それとも、自らの欲望を抑えに抑えて、「やるべきことをやる」ことを徹底して、人知れず、その命を終えて良しとするのか。

 飢えた獅子に、我が身を投げ出した仏がいる。そんな仏画をみたことがある。それも人生なのだと教えているようだ。飢えるものに、自らの肉を与えて生涯を終える。

 まさにため息のでる選択である。そんなシチュエーションに出会ったとき、自分はどうするのか。そんな場面で、命を投げ出すことができるのかどうか。 

 この世に生を享けて、自らの命を守るために、どれほどの命をうばってきたことか。それに気づいた今、自らの命が他者に提供されるべきだと感じたときに、逃げ出すことができるのかどうか。

 その時が来たときは、潔く命を差し出すことができるかどうか、そこに真価が現出するのかもしれない。なにか大義を設定して、自ら命を絶ったものがいる。彼らは、その生涯を真に全うしたのだろうか。

 真に理解できない今は、彼らの生涯は、無駄な意味のないものとしか見えない。そう思っている者がいるとして、彼らはどう思っているだろうか。苦笑いしているのであろうか。


生物環境の存続のための方策を立てるべきである

2019年10月29日 21時59分03秒 | 思考試行

 ありうべき考え方とか、条件が決まった時の方向性というのは、だいたい決まるのではないかと思うのだが、世の中全体では、相当まちまちの考え方、価値意識があって、それが原因となって、紛争が巻き起こり、止むことを知らない。事態はそんなことをしている余裕はないはずなのだが、そのようには動いていない。

 人類がこののち、何年生き残ることができるか、今のままでは、人類自体の行動によって、自ら滅ぼしかねない雰囲気である。そこからは、全体として、相互に協力しあい、存続を図るという考え方には、そもそも立っていないようにみえる。

 自らの国、地域、利害関係に基づいて、行動指針を決めているようで、全体の条件については、関心が薄く、行動を決めるについて、かなり近視眼的な判断のもと、行動を決めているようにみえる。

 個人の名誉だったり、権力の維持だとか、単純な利己的理由だけではないだろうが、結果的には、個人の利益追求と変わらないようにしかみえない行動をとっている指導者なり、権力者が多いようにみえる。

 そもそも、全体について、どうするかという差し迫った問題意識は持っていないようにみえる。個々の人間についても、全体について、問題意識をもって、それに沿うような日常活動をするまでには至っていない。

 人類全体の行動は、その総和となるから、個々人が、そのような全体を考慮した行動パターンをとるとすれば、地球上の事情は相当な変化をもたらすことだろう。

 そのための目標値が研究されてもいいと思う。どこをどうすれば、維持できるのか、その指標がだせるならば、大したものである。今の人類の科学技術水準では、不可能なのだろうか。

 気象関係は、スーパーコンピューターの計算で、予報の当たり具合が、ますます精度をあげていて、台風進路などは、ぴたりとあててしまう。

 気象予報が当たるだけでは、被害を防ぐことはできず、今年も手ひどい目にあわされているわけだが、この対策に、効果的な対処ができていない。大まかな方針さえ出ていないかのようである。

 治山治水の原点から、個々の家屋、農業関係の対策など具体的な方針がたたないようでは、人類の存続はいよいよ深刻な状況にある。これがどうなっていくのか、目先のことに逃げているわけにはいかない。為政者は、どのような対策をとっていくのか、手腕が問われている。


何ができるだろうか役を見つけたい

2019年10月28日 11時23分20秒 | 思考試行

 放送大学[名誉学生」の称号を与えられて、こういうことの意味を始めて考えてみた。こんなことは、今までの、生涯でなかったことだから、本当に新鮮な感じである。

 自分の行動の今後について、こんな称号をもらっていい加減なことはできないなと思うと同時に、これから、どんな風に生きていくのかが問われているようにも思えた。

 たかが、放送大学で全コースを卒業したに過ぎないのだが、確かに年月がかかり、それなりの努力も必要であるが、いわば、継続しさえすれば可能なことで、特別な才能があるわけでもなし、格別に創造的な仕事をしたわけでもない。

 いわば、創造の仕事は、今後にある。これから何らかの仕事を発見して、できればこれに着手することが自分にとっての課題である。

 なにもしないという可能性はおおいにあって、それが一番ありそうなのだが、そうならないようにしたいというのが自分の希望である。

 課題をどう見つけ、それを実行につなげることができるか、と大上段に振りかぶったところで、意識的に行動しなければ、実現することはないし、可能なこと、自分にできることを見つけることが大事である。

 子供の頃は、小説家になりたいと思った。だが、思っただけで、挑戦したわけではない。そもそも世界を組み立てて、ストーリーをつくりあげるなんて自分には不可能としか思えない。

 それでも、このブログも始めてからかなりの年月が経つ。思いつくままに駄文を書き綴ってきたのだが、累計すれば、少なくない人々が、通り過ぎていかれたようになっている。

 このブログは、あくまでも私見であり、しかも特別の研究をして、それを発表しているわけでもない。

 何かの役にたっているかといえば、なんの役に立っていないというのが正解だろう。それでも自分自身にとっては、バッティングの素振りのような効果があって、なにかいい題材があれば、文章にすることができるような気がしている。

 技量があがったというのではなく、要するに「慣れ」がでてきて、心がけ次第で、勉強していけば、ひょっとすれば、一つぐらいの作品はできるのではないかという錯覚が生じてきている。

 錯覚でも間違いでも、せっかくこの世に生を享けて、少しでも人々の役に立てる仕事をしたいものだ。


放送大学名誉学生になって

2019年10月27日 00時35分18秒 | 思考試行

 長年、放送大学を続けていて、ついに全コースの終了を迎え、名誉学生となったらしい。放送大学から、銘板に名前をのせていいか、との問い合わせがあり、それは、うれしいことだと回答した。

 おもえば、7コースを卒業したのだから、しつこいものだと我ながら思う。放送大学の学費は安いと思うのだが累計すると、それは結構な金額となる。しかし、長年かけてのことだから、それほどの負担感はなかった。

 振り返ってみれば、長い年月をかけて、全コースをクリアしたといっても、その成果はどれほど、身についているのだろうか。

 その時その時は、一応テストはクリアしているのは確かだけれど、残念ながら、学習の成果、記憶は直ぐに忘却の彼方へと消え去り、跡形もなく、なにごともなかったような気さえする。

 それでも、自身が気付かぬところで、何ほどかの痕跡があるのだとすれば、それが唯一の救いであるのだけれど。

 ながい年月のなかで、いろんな場面があった。 ある科目、到底、受かるはずもない状態で、テキストはとても歯がたたず、放送を聞いても、どうしようもなく、単位認定テストを受けても、意味がないと思っていた科目だったが、いざテストを受験してみれば、問題が素晴らしく、まさに、テストの最中に勉強ができて、問題に導かれて、思いもかけぬ、いい出来の答案が書けたことがあった。

 結果は、最高水準での合格であった。しかし、その喜びもつかの間で、実はその成果が身についていないのである。中身が濃い科目であっただけに、テストはなんとかクリアしたものの、身についていないという自覚は、いささか寂しいものがある。

 全般に、全科目について、その傾向があるような気がする。単位は確かにとったのだけれども、身についていないというのは、どう考えたらいいのだろうか。

 それで、すべてゼロなのかといえば、そうとも言えない面もあって、どこかに、痕跡が残っている風でもある。それは、なんとなくであり、どこともいえるものでもなく、したがって、自慢できるものではないのは当然なのだが、なんとなくあるような気がするのである。

 たよりないことで、もちろん誰にも自慢などできるものではないが、その感覚こそが、放送大学名誉学生の意味なのかもしれない。単位を取ってきたのは確かなのだから。


理不尽なことには付き合わないでいいではないか

2019年10月25日 21時32分23秒 | 思考試行

 韓国の日本に対する姿勢というか、もめ具合はどう考えても韓国側に問題があると思う。過去の日本の仕打ちが忘れられないということだろう。

 しかしながら、今となっては、当事者の方はほとんどいないわけで、恨みを忘れないように続けてきた努力の「成果」が今日の事態となったということだろう。

 歴史を振り返る意味は、過去の出来事のなかから、今後繰り返してはならない事象を忘れないようにすることであって、現在のなかで、なにかことを起こすためにあれこれいうために、振り返るわけではない。

 韓国のやり方は、過去の恨みつらみを忘れず、現在の今の今、どうやって、このうらみをはらそうかという考え方のようにみえる。絶対に、過去のことを忘れないし、この恨みをいつまでも言い続けるのだと、そしてその話になったら必ず日本は謝るべきだというようにしかみえない。

 ドイツは、いまでも謝り続けているという。それに引き換え日本は、いつまでも謝り続けるのは嫌だといっているように見えるといわれている。

 主体的に、謝り続けるのはいいのだが、相手から謝れ謝れといわれるのは、時が過ぎ、世代が交代するなかではいささか行き過ぎではないだろうか。

 ドイツは、主体的に謝っているのであって、謝れ謝れと言われ続けているから謝っているわけではない。戦争となれば、どこの国も極悪非道のことをやっている。

 多くの人びとがひどい目にあってきた。いまもなお、その事態は続いている。人類は、はたして生存をつづけていく「資格」があるのだろうかとも思える。

 非科学的な考え方が、いまだに政治の世界に影響を与え、それを知りつつ、選挙で勝利するためには、そういう考え方を「尊重」する動きさえある。せっかくの科学的成果も平気で無駄にしてしまうのである。

 おそるべき不合理がのさばり、せっかくの合意事項も平気で「ひっくりかえす」し、そこには、問題解決の糸口さえみえない。なにしろ「一度や二度合意したからといって問題は解決しない」と大統領が言うのだから初めから、合意なんてするつもりはないのだろうと思う。

 合意なんて、そのつもりはないのかといえば、いや話し合いが必要だという。いったい、何を話し合うのだろうか。


意思疎通のためにどうすればいいのか

2019年10月17日 22時38分13秒 | 思考試行

 認識が違う相手とどうやって意思疎通を図ることができるかどうかであるが、真剣に意思疎通を図りたいというお互いの意思があればともかく、まったくその気のない相手とは不可能と思われる。

 絶対に、同じ土俵にはたたないという決意のもと、とことん水掛け論にしようと当事者の一方、がそう決意すれば、おそらく合意することは、不可能であろう。

 ところが、証拠があって、一方が、どうにも逃げ切れなくなった場合は、決着がつきそうなものだが、それでも、頑張って、証拠さえ認めない相手の場合は、これは交渉相手ではない。こんな相手とは、話し合うこと自体が無駄というものだ。

 今の日韓関係は、そんな風にみえる。

 今後どのように展開していくのか、先のことはわからないけれども、正しいと思うところを実行していくほかあるまい。相手が、困る状況を作り出すことに力を出そうとする様子さえみえて、これは、とうてい理性的な相手とは思えない。どう関係を良くしていこうかという気がない。

 それどころか、ウソや捻じ曲げや事実の隠ぺいや、情報の改変など、ありとあらゆる陰謀をしかけてくる。こちらは、相手の変なところ、ごまかしているところをキチンと証拠に基づいて反論するほかない。感情的ではなく、あくまで理路整然と解明すべきである。

 歴史問題だから、歴史問題を洗いなおしてみたらどうか。当方の都合の悪いところも、相手に損害をどう与えたかも、なぜそうなっていったかの分析とともに、堂々と明らかにすべきである。

 韓国の歴史そのものも、明らかにすべきであろう。日本の歴史も同様である。国際情勢との関連において全体をみなおし、明らかにし、どんな悲劇があったのか、そこから、今後どうしていけばよいのか、双方が、将来を見通していくことである。

 そのためには、相当なエネルギーが必要だろう。簡単にはいかない。すぐに、相手を否定し、その言い分にまったく耳をかさないというのではなく、論点を整理して、徹底的に分析論議すべきである。

 日本の国会の論議のような、意図的なすりかえや、問われたことには答えず、ずらしていたずらに時間稼ぎばかりをして、最後は議席数で決まりというようなやり方では、とても無理な相談である。その意味では、現政権には信頼がおけない気分も否定しえない。本当に誠実であってほしいものだ。


人は人、吾は吾、でいいだろうか

2019年10月12日 21時38分57秒 | 思考試行

 他人に左右されるようでは、いけないのだが、社会のなかで、個人は概ね,他人に影響されていて、個人は、自主的に、そんな風に動いている。

 人事権を握った政権は、官僚組織ばかりか、検察、裁判所、マスコミにまでその影響を広げている。

 安倍政権のように長期化すると、その傾向は、ますます顕著となり、少々の不具合があっても、政権の意向どおりに動くと、個人は心を決め、周辺の動きにそって、流れていこうとする傾向が強くなる。

 それぞれの人が、自分と家族とのことを考えた場合、政権の意向に反するような行動は自ら自制し、政権が望むであろう方向を選択するのである。あたかも、自分の意見がそうであるようにして。

 安部首相の意向を忖度するようになる傾向が普通になると、安倍首相は、論理はどうでもよくて、野党の言うことなどまともにとりあげようともしない。

 論点を、すりかえたり、外したり、国会議論をみても、論理的でなくてもいいから、余裕があるような態度を貫き、議論らしいカッコウをすることで乗り切ろうとする。論議にならないようにするのが、彼の作戦である。

 野党は、国会論議でどのように攻勢をかけるか、であるが、本当に弱者の側に向いているかどうかは、実は定かではない。姿勢がもう一つピリッとしないからである。野党は、ピシッと弱者の側に立つべきだと思うのだが。

 政権側は、支配層の意向によりそい、富裕層を優遇し続ける。どうとでも、言い抜け、国会の議論を切り抜ける。

 そして基本方向は、弱者を食いものとし、どうしょうもない、馬鹿どもとして扱う。本音のところ、弱者を救うのだという姿勢は、毛頭ない。

 弱者の側は、自分が悪いと思い込み、落ち込み、静かに自身の小さな幸せを見つけて、自分をごまかし、収奪を許し、この世を去っていく。健康を害せば、離婚し家族バラバラとなり、孤独に生を終えるしかない。

 弱者が寄り添い、助け合って、楽しく生涯を終えることができないものであろうか。それには、為政者の政策が必要である。意図的な配慮があればそれは可能であると思う。そんな社会を構築できるかどうかは、為政者がそうするかどうかを考えているかどうかで決まる。

 考えもしないことは、実現なんてするわけもない。

 


ラグビーと韓国と

2019年10月08日 11時20分27秒 | 思考試行

 ラグビーの俄かファンになってしまった。今や、日本国民は、熱狂といっていいほどの状況である。いろいろルールが変わっているらしいが、審判の判定が明確で、選手同士も潔く判定に従うので、みていて気持ちがいい。そして、ゲームがおわれば、ノーサイドで選手同士の交歓風景もすばらしい。

 世界のトップクラスの激闘に、観客もすっかり魅了させられて、ものすごい人気である。そして、日本が3連勝とこれ以上ない好成績で、いうとこなしである。

 それぞれの選手が何故、日本代表に加わったかの事情など報道されていて、かれらの日本に対する思いが伝わってくると、たまらないほど、国際交流のすばらしさを感じる。

 各国の選手の特徴、国情などなど、ラグビーの世界大会は、多くの新しい情報をもたらしている。直接、体と体をぶつけるゲームだけに、うそのない真実を感じるのだろう。

 いま、日本と韓国の関係が、険悪で、どうにもこうにも収拾がつかない。どこへ落ち着くのかはわからないが、ラグビーのような戦いにならないのが、歯がゆい。ルールがはっきりせず、これでは、どうにもこうにも解決のしようがない。

 そういえば、韓国はラグビーをやらないのだろうか。ラグビー精神のような共通のものがあれば、もう少し、うまく両国の関係もほぐれるのではないかと思うのだが、「一度ぐらいの合意では・・・」などと公言する国の元首だから、これはとても簡単な話ではない。

 

 


若者よ、大丈夫かい?

2019年10月05日 22時56分12秒 | 思考試行

 人類は、ひょっとしたら滅亡するのではないか。このところの、世界情勢を眺めれば、だれしもそう感じるのではなかろうか。世界全体を考えて、国の政策を論じたり、地球環境について、真摯に話し合うという様子が、為政者にみられないから、その考え方は、至極当然であると思う。

 特にトランプ大統領の登場、および中国の指導者の様子、さらに、トランプ大統領の「家来」のような安倍首相などみていると、そう思わざるをえない。世界の指導者がこんなに視野狭く、考えが浅く、こんな連中が、世界のリーダーだということが、大きな要因である。

 ここから、世界が生き延びる展望を見出せるのだろうか。

 日本の場合、安部一強政治が展開され、今や、司法、立法、行政を事実上、安倍首相が支配した感じがある。みんな忖度している。安倍政権が官僚の人事権を一手に握ったことにより、すべては、彼の手中に落ちた。彼の意向に沿わないと、どんな人事的な報復をうけるかという恐怖に震えているのである。

 あとの手立ては、選挙で彼の勢力を削ぐほかないであるが、若者達が、安倍政権を支持しているというのだから、もはや、それも難しいように見られる。彼は、宿願の憲法9条を空文化して、いつでも、戦争のできる体制を作り、日本を「一人前の国とする」決意を固めている。

 世界はいよいよ混沌の世界に突入し、地球環境は、ますます恐るべき状態となる可能性が高くなってきた。台風の大型化、異常気象の連発、インフラは破壊され、ひとたび災害が勃発すれば、あとは、基本個人まかせであり、国や公共団体の対策は全くお粗末であり、無策に近い。災害が起きたときの、きめ細かな対策ができていない。

 それはそうだろう。もともと、「シモジモのこと」に関しては、よくしようという意欲、意識はないのであって、為政者の関心は、富裕層であり、支配層であり、かれらの階級の人々のためのものであって、シモジモは、そのおこぼれをやればいいのであって、適当に扱えばいいのである。シモジモには、最低限のものにしておけばいいという感覚なのである。

 要するにカッコウをつけておけばいいのである。そんな奴らに、若者たちはだまされてしまった。そして、アニメの世界の恋人に夢中なのである。

 


後期高齢者の決意

2019年10月02日 22時49分43秒 | 思考試行

  このところ、体調が不安定である。四六時中頭が、なんとなくはっきりしない。血流が悪いのか、突然に脳貧血の状態が起こる。そうなると、目の前が白くなり、気分が悪くなって、とても立ってはいられない。

 座り込んで、昼食に食べたものをもどす。

 こんなことが今年の一月、八月、そして九月とおきて、九月にはその前兆が三回ほどあった。

 そこで受診したところ、待ちに待たされ、予約の患者の最後の最後だろうか、ようやく順番がまわってきたものの、思いもかけぬ、違う展開となった。かつて何回もやった心臓の冠動脈がまた詰まってきたのではないかという推測だったのだが、当該医師は、それではないだろうという。

 そこで聞いたことのない検査をすることとなった。あえて、その「気分の悪かった状態を再現して」みる検査のようだ。検査自体に条件があって、医師の条件とか、スタッフの条件とか、ネットでみるとあまり気持ちのいい検査ではなさそうだ。

 それでも、この検査で、バランスが悪い状態の原因がわかるとなれば、これはありがたいことである。ずっと、薬の副作用と思ってきたのだが、症状の真相に近づけそうで、ある種の期待もある。

 いつの間にか、後期高齢者とよばれる年齢になり、これからさまざまな「病気」に襲われることとなる。絶対に、逆方向はないのであるからここは覚悟をきめて、流れるままに、身を任せていくほかない。

 考えれば、今更、なにをしなければならぬとか、心残りがあるわけでもない。生涯をおえるまでに、少しでも、あとに続く人々のためになる仕事が、できたならと思うだけである。思うようには、仕事ができない現状があるが、隙をみつけて、とにかく、平然と生きていく人々が増えることを期待して、なにごとかの仕事をしていきたい。

 今日、放送大学の修士選科生の授業料等を送金してきた。新しい、なにごとかの認識、世界観が自分にわきあがってくることを期待している。こんなことを考え、実行している間は、まだまだ、「若いのう」と自覚できる。

 生きていくということは、なにやかやあって、それが、予想とは少しずつ違って進む。だが、大きな方向としては、それほど突飛な出来事ではない。とはいいつつ、いつ何時大団円となるやもしれぬ。そういう実感が背景にある。