人間にとって、誠実こそ大事なのではないかと思い始めている。何が誠実か、そうでないかは、当事者しかわからない。いちいち他人が介在しない場合もある。あくまで、その当事者がみずからの判断において、誠実か、そうでないかの行動をとることになる。
その時、どのような選択をするのか。誠実なのかそうでないのか。そのために自身の命をかけることになっても、誠実を選びうるのか、結局のところ自身の命が惜しくて、誠実とは思えない行動を選ぶのか。
人間はそういう場合、どういう行動をとってきたのだろうか。誠実ではない道を選ぶのが普通なのか、それとも人知れず命を落とした人のなかに、誠実の道を選んだ人がいたのではないか。
その道を選んだからといって、誰からも褒められることもなく、知られることもなく、その生涯を終えた人もいるに違いない。そんな人は絶対にいない、とは言えない。そんな人は必ずいるに違いないと思いたい。
人間という生き物は、そんなことをやる生き物である。一方では、とんでもない人間とも思えないことをやる人間もいる。
総じてどう考えたらいいのだろうか。自らの欲望のままに生きることが人間として生きたことになるのか、それとも、自らの欲望を抑えに抑えて、「やるべきことをやる」ことを徹底して、人知れず、その命を終えて良しとするのか。
飢えた獅子に、我が身を投げ出した仏がいる。そんな仏画をみたことがある。それも人生なのだと教えているようだ。飢えるものに、自らの肉を与えて生涯を終える。
まさにため息のでる選択である。そんなシチュエーションに出会ったとき、自分はどうするのか。そんな場面で、命を投げ出すことができるのかどうか。
この世に生を享けて、自らの命を守るために、どれほどの命をうばってきたことか。それに気づいた今、自らの命が他者に提供されるべきだと感じたときに、逃げ出すことができるのかどうか。
その時が来たときは、潔く命を差し出すことができるかどうか、そこに真価が現出するのかもしれない。なにか大義を設定して、自ら命を絶ったものがいる。彼らは、その生涯を真に全うしたのだろうか。
真に理解できない今は、彼らの生涯は、無駄な意味のないものとしか見えない。そう思っている者がいるとして、彼らはどう思っているだろうか。苦笑いしているのであろうか。