若き頃、「どう生きるべきか」という命題が、頭をかすめていた時期があった。あるとき、国語の教師が、授業中に、倉田百三の「出家とその弟子」亀井勝一郎の「愛と認識の出発」そして西田幾多郎の「善の研究」を読むよう勧めてくれたことがあった。
人生とは何か、を考えることは思春期の大きな課題であると、今頃になって思う。当時はまさに考え込むほどには、悩んでいたわけではないけれど、前記の教師の話は響いた。後に同窓会などで、その話をしてみたが、そうだった、という声はきいたことがなく、みんなに響いていたわけではなかったらしい。
私は、当時、さっそくこの3冊の本を買い、読了した。すべてを理解できたわけではないが、それでも、読書で感動するという体験をし、そして、特に「善の研究」から、結論的な人生の指針を得た思いがあった。要するに、人生は生涯にわたって成長をめざすことだ、成長する努力をすることだ、という結論である。
映画を見に行った帰り道だったか、寮へ帰る道を歩いていたその時、不意にそう思った記憶がある。はっきりした目標があるわけではなく、先送り感いっぱいの考え方であるが、それなりに、腹構えができた気持ちがした。以後、思想的には、大きな方向では、ぶれることなく今に至っている。素直に世の中を眺める姿勢である。
最近の世相を、政治の状況や、コロナ感染対策のあれこれの対処をみるとき、政治家が国民をみる目、彼らの人心掌握の手法、高級官僚の犬のように主人と目されるものに対する卑屈な従順さ、主人を守るためには、ウソをつくこともやむなしとする。自ら自身も騙しきっているようにみえる。
背景には、単なる自己保身を第一とする姿勢が目立つ。政権の意向をどこまでも守ることこそ、自己保身と出世のために必須のことのようだ。しがらみを絶ち、やるべきことをやることが、自分を真に生かすこと、大事にすることであることは、百も承知だろうに、官僚として、具合の悪いことであっても、下へ押し付け、我慢して生きているようにみえる。
裁判官が自分の人事への影響を考え、政権に阿る判決をしたりするとすれば、これは、国家の組織として仕組みがうまく機能していないことを意味する。政治権力が妙なことをしても是正されることはないからだ。何のための三権分立かということになる。
国民のためにどうするかという観点こそが大事である。そのようにすることこそ、人生いかに生きるべきかの解答である。お互いが、お互いを考え、全体を考え、個別の問題を考えるようになれば、世の中は相当変化するはずである。また、そのように変化していくべきだろう。コロナはいろんな問題を提起している。