空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

”筋金入り”は死んだのか

2020年07月22日 13時48分09秒 | 思考試行

 若き頃、「どう生きるべきか」という命題が、頭をかすめていた時期があった。あるとき、国語の教師が、授業中に、倉田百三の「出家とその弟子」亀井勝一郎の「愛と認識の出発」そして西田幾多郎の「善の研究」を読むよう勧めてくれたことがあった。

 人生とは何か、を考えることは思春期の大きな課題であると、今頃になって思う。当時はまさに考え込むほどには、悩んでいたわけではないけれど、前記の教師の話は響いた。後に同窓会などで、その話をしてみたが、そうだった、という声はきいたことがなく、みんなに響いていたわけではなかったらしい。

 私は、当時、さっそくこの3冊の本を買い、読了した。すべてを理解できたわけではないが、それでも、読書で感動するという体験をし、そして、特に「善の研究」から、結論的な人生の指針を得た思いがあった。要するに、人生は生涯にわたって成長をめざすことだ、成長する努力をすることだ、という結論である。

 映画を見に行った帰り道だったか、寮へ帰る道を歩いていたその時、不意にそう思った記憶がある。はっきりした目標があるわけではなく、先送り感いっぱいの考え方であるが、それなりに、腹構えができた気持ちがした。以後、思想的には、大きな方向では、ぶれることなく今に至っている。素直に世の中を眺める姿勢である。

 最近の世相を、政治の状況や、コロナ感染対策のあれこれの対処をみるとき、政治家が国民をみる目、彼らの人心掌握の手法、高級官僚の犬のように主人と目されるものに対する卑屈な従順さ、主人を守るためには、ウソをつくこともやむなしとする。自ら自身も騙しきっているようにみえる。

 背景には、単なる自己保身を第一とする姿勢が目立つ。政権の意向をどこまでも守ることこそ、自己保身と出世のために必須のことのようだ。しがらみを絶ち、やるべきことをやることが、自分を真に生かすこと、大事にすることであることは、百も承知だろうに、官僚として、具合の悪いことであっても、下へ押し付け、我慢して生きているようにみえる。

 裁判官が自分の人事への影響を考え、政権に阿る判決をしたりするとすれば、これは、国家の組織として仕組みがうまく機能していないことを意味する。政治権力が妙なことをしても是正されることはないからだ。何のための三権分立かということになる。

 国民のためにどうするかという観点こそが大事である。そのようにすることこそ、人生いかに生きるべきかの解答である。お互いが、お互いを考え、全体を考え、個別の問題を考えるようになれば、世の中は相当変化するはずである。また、そのように変化していくべきだろう。コロナはいろんな問題を提起している。

 

 

 

 

 

 

 


財務省改ざん事件の裁判について

2020年07月15日 23時16分42秒 | 思考試行

 裁判がどうなるか、注目したい。必死で裁判にならないことを願っている勢力が蠢いている。そもそも、首相夫妻が、籠池氏の「教育理念」に共感したことが発端である。幼稚園児に教育勅語を暗唱させ、声にださせているテレビ画面をみたこともある。こういう教育がお気に入りなのである。その「教育理念」の下、小学校を作ろうというわけである。

 さて、官邸筋から指示があったのかどうか、それを受けて、財務省が頭をひねって、さまざま事がうまく進むように、動いた。土地の値段を値引きし、入手できるように尽力する。その過程を財務局の職員が顛末を記録し、公文書にする。ところが安倍首相の、もし、私なり、妻がこの問題に関わっていたとすれば、首相どころか、議員もやめる、と国会で発言したことから財務省本省は慌てた。

 財務省本省は、これは問題と、現場の近畿財務局の公文書の改ざんの必要性をみたのだろう。そこには、首相発言に抵触する具合の悪いことがあった。そこで、公文書の改ざんを本省は現場へ指示した。

 現場のノンキャリアの公務員が、抵抗したにも関わらず、ついに、具体的な改ざん作業をむりやりやらされる。しかも、やらされた本人の周囲の人間、上司は、人事異動でいなくなってしまう。彼一人残される。その段階で、検察からの電話がはいる。彼一人のせいにする筋書きがあきらかとなった。

 まさに、抵抗し、自らの信条に反することをやらされ、さらには、自分の意志でやったごとくの立場に追い込まれていく。真面目な人である。怒りと悩み、悩みに悩んで自死する。報道だけで、知り得たことから、小生の認識は以上のようになっている。

 真相が明らかにされなければ、この世は闇だ。裁判所はどういう立場をとるか。日本がどんな状況にあるか明らかになるだろう。裁判官も、人事権を握られている。官邸の目が光っている。国民の目はどんな具合だろう。コロナでいろんな側面が見えてきた。日本がどうなっていくのか。注目すべきことだ。


人類滅亡もいたし方ないか

2020年07月04日 17時31分23秒 | 思考試行

 相手の国が滅茶苦茶で、論理もなにも通らない、どうしても納得のいかないことをやってくるとすれば、それでも戦争をしない、というのかと。相手を信じ、最後の最後まで戦争をしないという考え方は、いつのまにか少数意見となり、もはや、軍隊をもつのはあたりまえだし、不合理な相手には、武力で対抗すべきだと思っている人が増えているようだ。すなわち戦争やむを得ないという考え方が多数を占めようとしているようにみえる。

 戦争体験者は、ほとんどいなくなり、どんなことがあろうと、絶対に平和を守らなければという人は、今や少数かもしれない。土曜のミカタで芸能人のホンコン氏は、憲法を変えて軍隊を持つべきだと発言している。このような発言は、いつのまにか、公然とあちこちでされるようになっている。自衛隊は、客観的には、すでに軍隊であり世界でも有数の実力があるといわれている。彼は、そんな自衛隊をみても、日本は軍隊をもっていないとでも思っているのだろうか。彼のいう意味は、憲法に抵触している軍隊ではなく、はっきりと戦争のできる軍隊ということなのだろう。

 舐められたくはないから、そのためには、戦争そのものを否定などしていないのである。安倍首相以下、憲法改悪論者は、要するに戦争することを絶対に否定してはいないのである。世界中が、とことん武力で戦うことを是認するならば、もはや、地球の生命生存環境はもたない。人類も滅亡するほかないだろう。それでも、個別の事情や、止むにやまれぬ気分がのってくれば、戦争をしかねない雰囲気がある。

 指導者が、指導者らしくなく、自分の国だけよければいいのだ、と公言する始末である。こんな人物が、堂々と政権を持っている。この調子では、どこかで誤りが起こらないかと思う。まったく起こらないとは思えない。どこかで、なにかしら起こりそうで、それは、必然のように思われる。

 ということは、人類の滅亡は免れることは困難であり、もはや、最悪の事態を予想し、覚悟しなければならないように思われる。意識的に、滅亡への道を歩むとはさすがに思えないけれども、事故のような形か、短気な怒りっぽい人物がその引き金を引くかもしれない。その時に、世界は、うまく対処できるであろうか。

 異常気象、感染症、人類の自滅、どういう道をたどるのか、香港に対する中国のやり方などみていても、ますます人類滅亡への道を歩みつつあるようで、心配なことである。


戦争は絶対にイカンと思っている

2020年07月03日 21時16分08秒 | 思考試行

 憲法改悪をどうしてもやりたいという人がいる。もうその力があるのかどうか、問題にしている向きもあるが、安倍首相に最後の勝負を賭けろと、憲法改悪論者の橋下徹氏が言う。維新はこのところ、人気があるが、彼らの持論の憲法改悪は、安倍氏と一致する。

 憲法の何を変えたいのかといえば、もちろん憲法9条であろう。国でありながら、軍備はしない、戦争はしない、というのだから、これでは、外国に舐められる、国家として認められないというのだろう。

 中国や北朝鮮そして、韓国さえ、そういう日本を甘くみている節がある。なめ切っているともいえる。それが我慢ならない。

 しかし、人類史的にみるならば、戦争がいかに馬鹿げているか、どれだけ悲惨なことが起こったのか、骨身に染みて知っているはずなのに、もう、風化してきているのか、戦争も辞さないぐらいの考え方が、いつの間にかはびこってきている。国が軍備をもたない、交戦権がない、などという憲法を認めることはできないという考え方は、いってみれば常識、当たり前である。自然の流れだけに、この流れは、抗しがたい。

 だが、アメリカに押し付けられて、この憲法のおかげで日本は、戦争に巻き込まれることはなかった。憲法を盾にして、乗り切ってきた。殺されず殺すこともなかった。今は、安倍政権の強引な解釈変更で、かなり危うくなってはきているが、文言を素直に読めば解釈をいくら変えても、無理があるのは確かである。

 現憲法は、明らかに人類にとっても有益なルールであり、理想論であり、人類の夢である。そして、常識としなければならない根本的な考え方である。これこそ、世界に広めていくべき理想論である。 

 戦争を絶対にしない規定である。こんな宝物を粗末に扱う人間を認めてはならない。この憲法こそ武器にして、世界に打ち出していくべきである。これができなければ人類は滅ぶほかない。

 今の世界の実態は、本当にお粗末な状態である。これをどう変えていくのか、本気で国として取り組むべきだ。

 

 


一事が万事

2020年07月01日 12時55分15秒 | 思考試行

 思い起こせば、警察官は昔は、相当偉そうにしていた。ところが、最近では少なくとも表面的には「やさしそう」になっている。もう、何年か前になるが、年始に先祖の墓参りに行った際、墓地に沿ってコンクリートの塀があり、その塀際にはお盆の時期などはずらりと車が並ぶのだが、年始でしかも時期が遅めだったために、車は一台も置いてなかった。駐車禁止とは意識しておらず、墓参りを終えて、ものの10分ぐらいだったか、戻ってみると車はなく、路上にチョークで牽引していった旨の記載があった。

 近くの人が、今さっき引っ張っていったよ、とのこと。警察署まで歩いていける距離だから、さっそく、路上に貼ってあったと思うが、紙切れを持って出頭した。その時の署内の対応に驚いた。あちこち笑顔で、こちらをみている。受付の方からは、尋ねもしていないのに、ああ、それは2階です、と声がかかる。完全なお客様扱いである。年始一発目の「獲物」として、署内で話題になっていたのかもしれない。

 それでも、居丈高に脅されるよりは、ましなことはいうまでもない。日本は、敗戦までは、お上とシモジモの扱いがはっきりしていた。そして、敗戦以後もはっきりと残っているところは残っている、というか厳然として生きている。

 役所でも、郵便局も昔は結構偉そうにしていたものだったが、社保庁もなくなり、今は、概ねどこの役所も横柄なところはなくなっているようにみえる。それは、市民の側が、理不尽な人の言い分も含めて、文句を言う人が増えてきたこともあるだろうが、徐々に社会全体として、民主的という理念が少しずつ浸透してきたことによるのだろう。 

 しかしながら、本丸の本丸では、やはりシモジモはシモジモであって、支配と被支配の現実はあり、本当に日本が民主国家であるかどうかは、まだまだ疑わしい面がある。

 ちょっとしたことから、その本音が現れる。泉佐野市が厳しい地方財政から、必死の工夫で、財源をひねり出したことが、総理府の怒りをかい、意趣返しをされて裁判となった。規則をさかのぼって使ったということで最高裁で国が負けたのである。お上にたてつくとは何事!の気分がよく出ている。

 判決は、規則の遡り適用を認めなかったものの、泉佐野市のすべてを肯定したわけではなかったが、穏当な判決だろう。

 役所の仕事は、「お役所仕事」と言われ、遅いことが特徴となってきた。とりわけ、今度のコロナ騒ぎで、厚労省の仕事ぶりが、どうも腑に落ちない。説明不足と秘密主義的な傾向、基本的姿勢が、昔の役所の姿を示している。昔が残っている。外国から感謝状まできている国産の自動化されたPCR検査機械が日本では使われていないというか、認可さえされていない。役所は、国民にしっかり目をむけているのだろうか。