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空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

いいものはいい・・・へんなものはすてる

2019年12月29日 23時45分57秒 | 思考試行

 腐った食べ物は、食べれば、ほとんど、かならずお腹をこわすことになる。悪い政治は、必ずどこかに歪を持ち込む。苦しい生活に自殺者が出ることになる。苦しい生活に追い込んだのは誰だろうか。犯人はどこにいるのだろうか。

 どうすれば、問題ができるかぎり軽減されるやり方とは何だろうか。大きな賭博場を作ることだろうか。誰が儲けることになるのか。その金をどこへ運ぶのか。人類の一部の人間が、贅沢をして、貧しい人々が悲しい思いをすることを許すわけにはいかない。

 生存さえ保証されない。神はいるのか、仏はいるのか。富者にのみその恩恵が施されているとするならば、そんな神も仏もいるものか。

 時々、キリスト教の真面目な信者が訪問してくる。柔和な笑顔、まなざし、どこからみても悪人には見えない。事実いい人なのであろう。せっかくのお休みを寒空の中、布教に歩いている。信ずれば救われると説く。

 彼らの指導者はどうしているのだろうか。不眠不休で祈っているのだろうか。それとも、特権階級として、恵まれた環境、処遇を受けて、きらびやかな装飾の衣服をつけてでっぷりと肥えているのだろうか。

 投票制度で、人々が望む政治が行われるべく、その政策、方向、を選ぶことになっている。だが、その方向は、簡単な言葉で詳細が語られるわけではない。人々は、選びようがなくて、棄権する。関心をもつことさえない。政治家の不誠実に気付き、そんなものとは付き合いたくないと思っている人が相当多いように思える。

 人がかたる言葉は真実ばかりを語るとは限らない。人々はそのことを良く知っている。騙されないようにしたいと考えている。だが、棄権すれば、騙されたことになる。しかしながら、どこへ投票すればいいのかわからない。どこへ投票しても同じだと思ったりもする。

 人の世は変化する。いやでも変化する。その方向をみることは、投票権を持つ人々の重大な「仕事」である。誰が真面目か、誰が誰の味方か、ウソにまみれた言葉のなかから、味方はだれなのか、発見しなければならない。

 それができなければ、まちがいなく、人類は滅び、歴史は終わるに違いない。思えば、人類は賢いようにみえて、馬鹿なところがある。一杯馬鹿をやってきている。両極端の人びとがいるし惑わせる言葉もとびかう。そのなかで、「正しい」と思えるものを選びとらなければならない。

 泣いているだけでは、問題の解決はない。神も仏も救ってはくれない。人は自分自身で、自ら、自分を救わなければならない。助け合わなければならない。そういう仲間を見つけなければならない。


徐々にではあってもいい方向に

2019年12月27日 00時06分13秒 | 思考試行

 今地球は、どうなっているのだろうか。異常気象、国際紛争、低レベルの対立、どうみてもいい方向に向かっているとは思えない。

 人類全体が、改善方向へ着々努力がされているとは思えない現状がある。

 各国の、国民の政治レベルも全体的高いとは言えないだろう。

 このまま進めば、人類は間違いなく破滅の道を歩んでいるようにしかみえない。

 日本だって、けっこう無茶苦茶である。国の代表者が国家財政を私物化しても、支配機構から異論が出ない。むしろ、これを助け、いろいろと動く官僚がいる。

 政権にとって、都合の悪い書類を廃棄し、データーも消去したと言い張る。しかもルールに沿ってやったことだと開き直る。

 人事権を握られた官僚は、政権の言うことを聞くこと、やろうとすることに協力することこそ、自分らの任務だと割り切っている。無理を通すところにウデがあるとでも思っているようである。

 はたして、筋を重んずる良心的な役人は生きてはいけないから、自殺してしまったりする。

 それでも、政権は、上機嫌で我が世の春を謳歌している。論議は、ごまかしに終始して、まともに議論などする気はない。

 インチキ選挙制度で、民意を反映しない議席数を背景に、多数決を主張し、国民をだましにかかる。

 しかしながら、徐々に、実態が真相が、みんなに見え始めてきているのではないだろうか。本当に、人類が生存できること、生きとし生けるものが、調和をもって、助け合って生きていけるかどうか、に焦点があっているのか、当たり前の価値観が常識となり、不公平なこと、不合理なことがとんでもないこととして、明確になるときが近いのではないだろうか。

 そのとき、今の現状のあれこれが、何なんだったのか、何をしていたのか、つまびらかにされ、大いに恥をかくことになるだろう。

 


大事件ではないとでも言うのだろうか

2019年12月21日 18時39分09秒 | 思考試行

 逮捕状が出たのに、それを直接捜査にあたったわけでもない、刑事部長が直接その執行をとめた。止めたには、ちゃんとした事情があったのだろうか。こんなことを許すことは、民主主義の国家ではないことを意味する。刑事事件にならなかったことを、盾にとって、加害者は訴えられた民事訴訟でも最大限利用する。

 このあたりの事情を徹底的に問題にするのが、報道機関ではないのか。調べ上げて、どんな力学が働いたのか。と書いたものの、なんということだ。どちらがウソをついているのかは、一目瞭然だ。はたして民事訴訟で地裁は被害者の言い分をはっきり認めた。

 嘘をついた加害者は、刑事罰も受けるべきだが、逮捕状の執行を止めさせた刑事部長、不起訴にした検察、検察審査会への証拠開示など、どんな具合だったのか知りたい。再起という手続きもあることはあるらしいが、やる気配はない。

 ただ、あまりにもわかりやすく、真実は、万人の目に明らかではないか。どちらが嘘をついたのか。誰がどんな動機でそうしたのか。事情はインターネットでみるだけで、明々白々だ。加害者は、若い娘さんを、酔わせて(これが怪しい・・・そんなドラッグがあるという。)無理矢理ホテルに連れ込んで、「介抱して」、「合意のうえで」セックスをし、それで、訴えられると、反訴で一億何千万という慰謝料を要求する人なのだ。

 加害者は、53歳の既婚者、家族あり。安倍総理べったりの有名記者である。そして逮捕状の執行を止めた刑事部長は、菅官房長官の秘書をしていた人物である。

 それで、マスコミの報道はどうなっているか。これは、大事件ではないのか。これをとりあげない日本の報道界はどうなっているのか。そこに正義はあるのか。ハチの巣をつつく騒ぎにならないのは、エライことである。いかにも公平そうな顔をしながら、この問題を無視し、どうでもいい題材をさも大事件のように扱う。こんなマスコミは、存在価値なしである。問題がおきれば直ちに反応し、正義のために、動くべきである。

 


「ホテルに来てもらったことは反省している」だって!無理やり引っ張り込んだクセに!

2019年12月20日 17時01分02秒 | 思考試行

 若い娘さんを「酔わしておいて?」--お酒だけでそんな風になるのだろうか。ともかくも、加害者は、ホテルに来てもらったことは反省している、という。だが、ホテルのドアマンの人は、無理やりに連れ込んだ様子を話している。

 そして、逮捕状がだされた事情のなかには、捜査員の印象に、ホテルマンの人の調書が入っているとみられる。

 が、逮捕状の執行が刑事部長の一声で中止となっていることは、大問題である。週刊新潮には、この刑事部長の写真がでている。今や、この人物は、警視庁ナンバー3だという。写真を撮られるのを嫌がるポーズで写っている。堂々とできないようだ。

 この人物は菅官房長官の秘書だった人物で、加害者は、安倍総理のベッタリ記者と言われていた人物。また、役者がそろった。同じような構図がでてきた。権力で都合の悪いことはすべて「なかったこと」にするつもりだ。

 検察審査会に、このホテルマンの方の調書は、はたして入っていたのだろうか。すぐに、資料は破棄するし、改竄だってするし、なにをやったんだい。検察ももはや、変質しているかもしれない。こんなことをいつまでやるつもりなんだろう。

 それにしても週刊新潮を久しぶりに読んで驚いた。民事裁判の地裁判決の前に、この記事は書かれていること。そして、どちらが勝っても、控訴間違いなしの読みのもと、まさに「握りつぶされたかもしれない」証言を、載せたのである。

 すごい仕事である。いろんな問題が明らかになるべきである。日本はもうちょっとちゃんとしようではないか。このままでは、何がエリートだ。嘘つきは誰なのか、はっきりさせるべきだ。恥を知れ!


ひどいことがあるもんだが民事は勝った。だが、加害者は控訴するという。

2019年12月20日 00時15分11秒 | 思考試行

 あったことをなかったことにする。逮捕状がでている人物を逮捕しようと空港で待機していたら、上からの指示で、中止となった。

 その後、検察は、不起訴を決め、検察審査会も不起訴相当となった。

 果たして、捜査資料がすべて出されていたのかどうか、まさにブラックボックスで、今の日本の現状が、そのまま出ているようだ。

 今朝の羽鳥慎一モーニングショーで、被害者の民事訴訟での勝利が報じられていた。ただ、他の局はどこもやっていないようだ。

 ハレンチ極まる女性暴行事件である。刑事事件とならなかった背景が、まさに、幾多の事件と共通している、あったことをなかったことにする手法が使われた。

 しかし、上級審になるとどうなるかわからない、などと言う声も聞こえてくる。ただ、件の12月19日発売の週刊新潮にでているホテルのドアボーイの証言は、いままでの審理には採用されていないという。

 無理やりにホテルに連れ込まれている姿が、証言されている。これは、加害者の言い分とは全然違う。

 週刊新潮には、逮捕を寸前で止めさせた刑事部長の、写真もでている。その人物の経歴もでている。政権との関係も。

 マスコミの大部分が、政権に忖度し、沈黙を守る。だが、すべてを抑え込めない。「一穴」から、堅固にみえる権力構造が瓦解する日が目に見える。

 こんなに明らかに、不正、不正直、隠匿、捻じ曲げが行われて、それが、どのようになっていくのか、国民は、しっかりと見つめなければならない。


続日本人の心の歴史

2019年12月18日 00時01分00秒 | 思考試行

 放送大学大学院で取り上げられているこの科目は、広範囲である。「歌の道」から隠者の道、能楽の道、茶の湯の道、「画の道」、「俳諧の道」、「兵法の道」、近代武道の諸相がとりあげられている。

 1400年余に遡って、昔の日本人の心を知ることができる文化、現代まで直接につながっている文化として、日本の文化をとらえている。

 今の現状が、先の時代と無関係にあるということではなく、それぞれの道が、時代により大きく変わりながらも、お互いが関連しあいながら、歴史的につながってきている。

 なるほどこうしてみれば、日本はたいした国であることがわかる。今、憲法9条を持ち、まるで、聖職者のような理念をもっている国家である。

 世界の人類のリーダーとなっても、おかしくない。自然との共生、世界の調和、発展、環境問題についても、日本文化の思想からすれば、もっとも先進的であっておかしくない。

 人を道具として扱い、儲けのための単なる材料としてしかとらえられない価値観から脱却して、新しい人類の展望を導きだす原動力になりうるのではないかと思う。

 日本人がどのように日本文化を育て、発展させ、世界に貢献していくのか、単なる伝統の継承だけではなく、そこをジャンプ台にして、あらたな境地を獲得しなければならない。

 科学技術の進歩と、人間としての知恵が生かされ、世界人類のために貢献できるように日本文化が育っていくようでありたい。


道を究める-日本人の心の歴史

2019年12月14日 22時13分24秒 | 思考試行

 放送大学に修士選科生として入学して、最初に登録した科目である。日本の歌道、芸道、茶道、俳諧、武道、絵画のそれぞれの分野における先人達の、業績が語られ、作品が紹介され、その仕事ぶりが詳細に示されている。

 縄文時代に遡って、日本人の暮らしぶりが目に見えるようだ。そして、今もなお、伝統が息づいているなか、日本人の暮らしは続いている。これらの伝統は、生活の根底に息づいている。だが、階級社会であることから脱皮はもちろんしたことがない。

 先の大戦で、かつてない大敗を喫し、国情は、大きく変わったけれども、それでもなお、伝統の「よきもの」がすべて消え去ったわけではない。むしろ日本文化の普遍性が世界の注目を浴びているかのようにも見える。だが、その奥底に、未だ払拭しきれない問題を内包している事実はみておかなくてはならない。

 民主主義をはじめて、敗戦後体験して、今、日本はどのように変化してきているのであろうか。いまだに、かつての支配者の論理に多くの国民がしばられ、そのもとでの「日本文化」が継続しているようにみえる。階級社会の根幹をかかえたままの、価値観が広く社会を覆い、国民が真に解放され、真に、あたらしい時代を迎えているようにはみえない。

 今一歩の踏み出しができていない。このままでは、敗戦による大きな変革の機会が、なしくずしにされて、旧来型の日本社会にもどってしまう可能性さえ出てきている。多くの犠牲のもとに、敗戦を迎えた結果の「大事なもの」を、国民がしっかりとグリップし、自分のものにしているようには見えない。

 問題がどこにあったのか、国民一人一人が主人公になるとはどういうことか、もう一度原点から見直す必要がある。為政者が国民を舐めきって、侮っている限り、国民が主人公にはなりえない。しかし、そのように、彼らが、国民を舐め切っている姿をみせてくれていることこそ大事である。国民がそれをみて、気付く可能性が高いのだから。それは、大いに続けてほしいものである。

 国民は、しっかりと現状を把握して、憲法を変えられて、彼らのために徴兵されないように注意しなければならない。


憲法9条をどうしても変えたいとは

2019年12月11日 23時06分53秒 | 思考試行

 憲法9条を変えたい人は、どういう人達だろうか。国を守るためには、命もおしくはない、国民はすべて、そうあるべきだ、と考えているのではないだろうか。他国が支配したくて、攻めてきたときはどうするのか、という。そのとき国民は当然戦うだろうということだ。

 そう考えて、軍隊ではないといいながら、自衛隊を作り、今や防衛省を作った。憲法9条を完全に無視した存在となっている。だが、憲法9条に定める通りにすることには、国民サイドも抵抗があるようで、相手があり、ましてや、良識に期待することは、できないという「常識」があるのだろう。どこからみても、立派な、軍隊を作り上げた。国際的にみても、遜色はない。そして、その現状を非難する声は少なくなっている。現実を作り上げてきた保守政権の狙いは成功したといえる。

 だが、憲法9条が現行のままでは、徴兵制を決めることはできず、国民に兵役の義務を課すことはできない。あくまでも志願兵のみとなる。これは支配層にとって、具合が悪い。おおいに不満なのである。

 国が、何をめざしているかである。国民の生活、暮らしを第一義に考えている政権かどうかである。明らかに、支配層と非支配層があって、この権力構造は、今や、世界で一般的な姿となっている。一部、真剣に国民中心の政治をめざしている国もでてきているが、それは、世界で大多数というわけではない。

 支配層がその権力構造を維持しようと躍起になっている姿が、一般的な国の政治形態である。そんななかで、兵役につくというのは、なんのために命をかけているかということになる。騙されてはいけない。とんでもない連中の、心地いい暮らしを、権力を守るために、シモジモの国民が、つらい思いをするということである。


不都合こそが世の中を変える

2019年12月06日 12時28分43秒 | 思考試行

 アフガニスタンで中村医師が亡くなった。アフガニスタンにとって、大事な人をなくした。今、狙撃した人物らは、どう考えているだろうか。

 中村医師には、微塵も私心がない。ただただ、アフガニスタンのために、尽力されてきた人である。彼の偉大さは、世界を駆け巡るだろう。何かきれいごとを言ったり、名言を吐いたから偉かったのではない。かれがどう生きてきたかが素晴らしいのである。

 世界の偉人達は、どんなことで偉人とされたのだろうか。中村医師は、まがいもなく、人類の生み出した偉人である。彼を殺した人間は、事情を知っていたのだろうか。それとも、なにかの利害関係に怒りを持っていたのだろうか。

 人間に良い生き方があるとすれば、中村医師は、まさにこれ以上ない模範となる人である。世界は、彼の生きざまを知り、業績を知り、どう死んだか、これらを知って、何らかの進歩をするだろう。

 また、そうでなければならない。そうしなければならない。

 彼のような人こそ、政治家になってもらいたい人だが、彼は政治が好きではなかったらしい。当然と思う。そして、当然と思わざるを得ない政治の現状を、世界に突き付けている。政治家は、深い反省が必要である。彼らは、追い出されない限りは、決して反省はしないだろうが。

 名簿を破棄した、なにもわからない、詳細不明、誰が、こんな情報をもらしたんだ!と大騒ぎ、不信任を出せば、解散するぞと言えば、準備不足の野党は尻込みをしたと聞く。政権は、逃げ切った、などと雑誌の宣伝広告の見出しが躍る。

 偉人が射殺され、政治は自分の都合で動く。しかし、こんな不都合こそが、単に支配され、引きずり回されるだけではない一般大衆が、気付く機会となる。こういうことがなければ、事実をしらないままに、不自由が続く。どう世の中を変えていくのか。大衆が考えることをしなければ、変わらない。


国民・市民ようするに「大衆」(しもじも)にすべての解決策がある

2019年12月04日 10時56分52秒 | 思考試行

 実に当たり前のことである。だが、一人ひとりが、日常「いい扱い」を受けていないと、なんだか自信がなくなり、自身の存在をどうでもいいような、とるに足りない存在と認識しがちである。世の中から、そういう仕打ちを受け続けていると、そう感じざるを得なくなる。それは、自然なことである。では、このままでいいのか。

 桜を見る会では、税金を私物化してつかう実態が明らかとなった。彼らの好みで、参加者を募り、詐欺師集団の宣伝材料の提供までしてしまった。芸能人やタレントを呼び、にぎにぎしく安倍政権の宣伝を、厚顔無恥にやった。

 共産党の議員に指摘され、名簿の提出を要求されるや、ただちに、廃棄する。なにも残っていないと、平気な顔をして、官僚はこたえる。安倍政権は、他人事の顔をして、官僚答弁にすがりつく。政治そのものが、私物化され、お友達のためには、便宜を計り、政治献金がくるところや、お付き合いの多寡によって、政治が動く。政治は官僚の人事権をうばいとり、かれらの首根っこをおさえこんだのである。官僚は、政治に逆らえない。正義はここからは生れない。

 日本は、先の大戦で初めて民主主義というものに触れ、大衆「しもじも」が、一応は、ようやく一人前として扱われるようになった。だが、「しもじも」が、自ら目覚め、要求し、敵対勢力をはねのけて獲得したものではなかった。なぜ「しもじも」というかと言えば、権力を持つ者の、一般大衆をみる感覚がそうだからである。木っ端役人でさえ「しもじも」という。高級官僚からみれば木っ端役人など虫けら以下だ。

 他者から、与えられた力は、本物とは言い難い。自ら考え、方策を練り、展望を持って権力をとらなければ、身についていないと思わねばならない。国民主権なんだから、自分が主人公であることを自覚して、さまざまな道具を駆使するようにならなくてはならない。

 権力は、すぐに腐敗する。良心的だったものでも変質する。国民主権を志向していたとしても、権力者が変質して独裁者となれば、まずは身内、お友達、好みなどなど、独裁者の都合で政治が動く。反対者には弾圧をする。中国の覇権主義は、あちこちに害悪を巻き始めている。香港の行く末が心配である。本土に影響が及ばないように、中国は躍起となっている。中国本土は、監視社会がほぼ完成しているかにみえる。

 アメリカでは、非科学的な宗教集団の力が強く、大統領選挙に影響を与えている。世の中聖書に書かれている方向に進んでいるなどと、真顔で話す人々をみると不安に襲われる。これは、対処可能だろうが、困難な事態であることは間違いない。

 人類には、一部、頑張っている人びとがいて、科学技術を進歩させ、明らかに人類に貢献している人がいるけれども、正反対の人びともいる。政治の世界は、多くの人びとの生活に直結するだけに、重要なのだが、誰がそれを担うのか、誰を選ぶのかが重要となる。

 国民主権をいうならば、国民自身がしっかりしなければ、いい代表を選ぶことはできない。そもそも、まだ、選挙制度さえない国さえある。あっても、少ない支持率で、全体を統括できる仕組み、選挙制度を採用する。これは、利益誘導、買収まがい、宗教、等々ある程度の、岩盤支持層さえ構築してしまえば、安定した権力構造が維持できることになる。真の国民主権を獲得するには、人類はまだまだ、道は遠いというべきだろうが、この道は、いわば当たり前の道であり、一人ひとりにかかっている。すぐに変わる可能性を秘めている。また、変えなければならない。