腐った食べ物は、食べれば、ほとんど、かならずお腹をこわすことになる。悪い政治は、必ずどこかに歪を持ち込む。苦しい生活に自殺者が出ることになる。苦しい生活に追い込んだのは誰だろうか。犯人はどこにいるのだろうか。
どうすれば、問題ができるかぎり軽減されるやり方とは何だろうか。大きな賭博場を作ることだろうか。誰が儲けることになるのか。その金をどこへ運ぶのか。人類の一部の人間が、贅沢をして、貧しい人々が悲しい思いをすることを許すわけにはいかない。
生存さえ保証されない。神はいるのか、仏はいるのか。富者にのみその恩恵が施されているとするならば、そんな神も仏もいるものか。
時々、キリスト教の真面目な信者が訪問してくる。柔和な笑顔、まなざし、どこからみても悪人には見えない。事実いい人なのであろう。せっかくのお休みを寒空の中、布教に歩いている。信ずれば救われると説く。
彼らの指導者はどうしているのだろうか。不眠不休で祈っているのだろうか。それとも、特権階級として、恵まれた環境、処遇を受けて、きらびやかな装飾の衣服をつけてでっぷりと肥えているのだろうか。
投票制度で、人々が望む政治が行われるべく、その政策、方向、を選ぶことになっている。だが、その方向は、簡単な言葉で詳細が語られるわけではない。人々は、選びようがなくて、棄権する。関心をもつことさえない。政治家の不誠実に気付き、そんなものとは付き合いたくないと思っている人が相当多いように思える。
人がかたる言葉は真実ばかりを語るとは限らない。人々はそのことを良く知っている。騙されないようにしたいと考えている。だが、棄権すれば、騙されたことになる。しかしながら、どこへ投票すればいいのかわからない。どこへ投票しても同じだと思ったりもする。
人の世は変化する。いやでも変化する。その方向をみることは、投票権を持つ人々の重大な「仕事」である。誰が真面目か、誰が誰の味方か、ウソにまみれた言葉のなかから、味方はだれなのか、発見しなければならない。
それができなければ、まちがいなく、人類は滅び、歴史は終わるに違いない。思えば、人類は賢いようにみえて、馬鹿なところがある。一杯馬鹿をやってきている。両極端の人びとがいるし惑わせる言葉もとびかう。そのなかで、「正しい」と思えるものを選びとらなければならない。
泣いているだけでは、問題の解決はない。神も仏も救ってはくれない。人は自分自身で、自ら、自分を救わなければならない。助け合わなければならない。そういう仲間を見つけなければならない。