空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

平成最後の日

2019年04月30日 10時18分16秒 | 思考試行

 今日で、年号が変わる。庶民にとって、天皇制というのは何だろうか。為政者は支配の道具のひとつと考えている節がある。

 戦前の天皇は、大いに利用された。天皇の国として、国民全員が動員された。軍部は、天皇を最大限利用した。

 制度であって、天皇そのものに服従するという意味ではない。形式的な「命令」を受けるために、軍部が天皇を説得するのに、苦労した話が残っているなど、実質的に天皇の命令など求めてはいないし、尊重さえしていなかったことが、よくわかる。

 とにかく、序列を決め、人の世をどのように支配するかの道具にしていることは確かである。

 そもそも、現代では、一個の人間を、国民すべてが敬い、尊敬するなど、凡そ不可能な話である。人権的に考えても、皇室の存在は、問題だらけである。

 もう、天皇制そのものの、存続自体の是非を考える時期がきているのかもしれない。

 譲位ができたのだから、退位も認めなければならないし、現行の男系男子の皇室典範のままでは、天皇制そのものが存続できないのは明らかであり、何も触らずに、自然消滅するのを待つのも手段の一つかもしれない。

 天皇の相当数が、側室の子供だと言われている。それはそうだろうと思う。そんなに継続して、男子が生まれるとは限らない。

 天皇制そのものが、古き伝統をもっているといっても、時代によって、その形は、さまざまであって、現代は現代として、考えればいいのではないか。

 

 


始めて見るように

2019年04月29日 21時20分01秒 | 思考試行

 もう、生涯を終えようかという時期を迎えているのに、近所の池の周りを歩いても、新発見がある。昨日生まれたのかと言われても、反論できない。

 日々、景観が変わる。もう、桜は完全に散って、桜の蘂は、まだまだ存在感があるものの、通路の地肌がみえてきていている。

 たんぽぽの丸いワタ、タネの飛ぶ準備は、ほとんど完了し、若い母親は子供に吹かせて、タネをとばしている。どういうわけか水鳥の姿がみえないけれども、木々の緑が日々濃くなり、生命の息吹が力強くなってきている。

 藤棚の藤の花は、みずぼらしいけれども、その幹をみれば、ほとんど奇跡的である。幹は大きく穴があき、幹だけみれば、枯れきって、いるとしか見えない。

 ところが、棚の上をみれば、ちゃんと葉があって、その下に、いささかみすぼらしいけれども、白と薄紫の花の連をみせてくれているのである。

 杜若も、シュッと直立した姿をいつの間にか、並べている。小手毬も満開だ。まさに新緑の風景が展開している。

 世代交代があちこちにあって、桜の幹は、きられて、中はすっかり空洞となっているが、皮はしっかり原型をとどめ、この木の命を支えてきた実績を明示している。

 蒼鷺が一羽、いつもの枝で、悠々と、ゆったりとくつろいでいる。見慣れた光景のなかで、管理小屋の屋根の、去年の台風の傷跡が、いまだに、いえないところがあって、砂袋でブルーシートをおさえている。

 その、砂袋が風化して、砂がこぼれ始めている。大工さんの教えてもらったことがあるが、ブルーシートで砂袋があればずっといけるのではと聞いたところ、風化して砂がこぼれるのだと、言われた。いま、そうなっている。

 次の台風シーズンが、心配である。はたして、修繕が間に合うのか、まだまだ、周辺の家屋でも、いまだにブルーシートが見える。

 道路の標識も、強風で曲がったままのところもある。簡単に直せそうなのだが、それさえできないとみえる。これから天候異変、天変地異のラッシュとなるのだろうか。いよいよ修復不可能な、事態を迎えることとなるのか。先のことは、誰にもわからない。


やさしい顔で死んだ猫

2019年04月28日 13時01分07秒 | 思考試行

 ノラ猫が次々と我が家に住みつき、猫との生活がながい間続いた。一時は、10頭以上になり、しかもいずれも避妊できていないため、どこまで増えるか、脅威を覚えるほどであった。

 動物病院の紹介で、猫を捕まえるのに長けた人を紹介され、生活はきびしい最中であったが、次々と避妊手術をしたのだった。その後は、適当にバランスが保たれ、メンバーの入れ替わりはあっても、すべて、避妊し安定した状態が続いた。

 不思議に、猫との縁はきれることなくきたが、最後の猫が今いて、もうこれが最後かなと話し合っている。転居して、新しい猫が来る可能性がないこともあるが、当方の年齢からして、新たに飼うこととなると、最後まで面倒をみることができない可能性もある。

 最後の猫も最近かなり痩せてきて、トイレもキチンとできていたのが、トイレの周辺でするようになり、もう正常なトイレはできない状況となってきた。気分が変わったのだろう。認知症とは違うようだが、足腰も相当弱ってきており、年齢相応に弱ってきている。

 最後の二頭になった時、今の猫は、まだ衰えを見せてはいなかったが、転居前からエサだけ食べにきていたオス猫がいた。転居するとなって、このオス猫を放置するわけにはいかず、なんとか捕まえて、今の家に連れてきていた。この猫は、純粋なノラであって、飼われた経験はないので、相当荒んだ顔つき、体つきであったが、そのご去勢したために、家の周辺にいて、遠くへいくこともなくなっていたので、なんとか連れてきたが、この猫は、トイレは自然のままで、とうとうオシメをつけることとなった。

 顔つきは、そうとう穏やかにはなったが、それでも、後ろから触ると、飛び上がってびっくりしていた。精神的にはたいへんな思いをしていたのだろう。二頭の猫の相性も良くなかったが、時間が経過して、揉めることもなくなった。

 そして、去年その猫はやせ衰え、最後を迎えた。顔つきはどんどん、やさしくなり、本当の安らかな顔となっていた。この猫の生涯は、厳しいノラ猫生活から、なれない、飼い猫時代を経て、一応、平穏な最後を迎えることができた。

 幸せな生涯であったのではないか。そのやすらかな顔が、転居前に家に来ていたときの顔つきと比べると、雲泥の差であることは確かである。

 生き物と暮らすなかで、さまざま刺激をうけるが、そういう姿をみせてくれて、癒されていることを実感する。


高齢者が増えてきたことで

2019年04月27日 18時05分10秒 | 思考試行

 高齢者が増えてきた。といっても、人口構造が、そのまま、推移してきているだけのことだから、それは、何年も前からわかっていることである。いろいろ問題が起こってきているが、それらは、対策できることであったはずである。

 うまくいかないことがあるとすれば、力のある連中が、なにを考えてきたかの反映である。うまくいっているところがあるとすれば、間違いなく、誰かが知恵を絞ったのであり、何もしないでうまくいくことはない。

 人の世は、個人の努力が報われるとは限らないが、政治については、政治がよければ、努力すれば、必ずいい結果が得られると思いたい。良心的な政治家がいて、その集団があって、その方向性がいいとするならば、必ず、国民は、過ごしやすい環境のもとで暮らせるはずである。

 政治家が、権力争いのために、政敵との争いに勝つために、権力構造に歪みがあったり、エネルギーが横道にそれていなければ、いい方向になるはずである。と思いたいのである。

 でなければ、本当に夢も希望もないではないか。人類の歴史を振り返って、今や、いい時代を迎える寸前にあるような段階にきていると思う。それを実現できるかどうかの、分水嶺にいる気分である。指導者のやり方、資質、世界の動向をみていて、問題は山ほどあるけれども、インターネットの力はすごいし、人々は、パソコンを操り、人類の知的水準は、飛躍的に上がっているはずである。

 国民のレベルは、まったく変わっているはずである。もちろん、知的活動のベクトルが、どのように向いているかが、問題であるが、いずれ、共生できる価値観を、人類は持つはずである。でなければ、存続は不可能であろ。

 さて、高齢者が占める割合が高くなって、日本はどうなっていくのだろうか。問題は明らかとなり、その対策が急がれるし、地震、噴火など災害の可能性が、統計上、また、歴史的な傾向から、もう間近と言われている。 

 今日の「正義のミカタ」は、その点、説得力のある番組であった。これに備える準備をすれば、損害が8割減らすことができるという。ここは、専門家の研究に、政治は、真剣に、耳を傾けるべきではないだろうか。

 それぞれ、個別には、準備が始まっているようだが、広い視野で、金もかけて、対策に乗り出すべきである。高齢者対策も、災害対策も、同時に考えるなかで、国民全体の暮らしにもっと目をむけた政治にしなければならない。

 


基本のしせい

2019年04月26日 17時06分53秒 | 思考試行

 韓国との間が相当ギクシャクしている。訪日している韓国人と、日本人が揉めていることは、聞いたことがないが、韓国国内では、反日の運動が活発なのだろうか。実際に、それほどあちこちで、問題があるわけではないように思う。

 ただ、韓国政府は、明らかに、日本に対して、上手な外交ぶりではなく、報道の限りでは、なんだか感情的で、お付き合いは、したくない雰囲気が強くなってきている。

 人によって、すぐキレる人がいたり、少々のことでは、立腹したりせず、上手に対処出来る人もいる。この違いはなんであろうか。基本は、相手を尊重し、利他的な行動が身についている人ではなかろうか。利他的な行動を選択する人は、他者にとっては、有難い存在である。

 その人を害するというのは、よほどの悪意か、狙いを持つ者であると思われる。そんな選別ができれば、人間社会は本当に住みよくなるのだが、我が俺が、と始まると、揉め事のタネはつきることがない。

 日本が、先の大戦で、みずから多大な犠牲を受け、また、他国を戦場として、現実に恨みを買うような事態を起こしたことは否定できないが、その反省の上に、無抵抗主義ともみられるような現行憲法をもって、戦争を絶対にしない決意をしたのだった。おかげで、敗戦以来、戦争に巻き込まれることはなかった。

 もしか、戦争できる条件を備えているとしたら、アメリカの子分として、世界に軍隊を送るようになっていた可能性がある。韓国は、ベトナムに赴き、やはり問題を起こしている。

 ベトナムは、戦争勝利後はアメリカと対決している風情はなく、日本も基地提供をしていたにも関わらず、そんなに、恨みをかっているという雰囲気はない。

 いずれにしても、戦争がよくないことは、確かであるのに、平和のためには、戦争が必要だとさえ言いかねない状況がある。安倍首相は、憲法改悪をいい、憲法9条を変えたがっており、自衛隊を合法化して、一人前の国家となりたい本音を隠さない。

 もし、これが実現すれば、アメリカの子分として、実際に血を流してみせる、つもりなのだろう。

 危ういことである。


人為事故の再発防止のために

2019年04月25日 18時33分58秒 | 思考試行

 人為事故であれば、なぜそんな事故が起きたのか、まずは、原因をはっきりさせなければならない。人間が作り、人間が動かしてきたものである。事故が起きれば、その原因は必ず、明らかにされなければならない。

 その意味で、福知山線の事故が、その事故原因が、徹底的に明らかにされたのだろうか。原因をはっきりさせない限り、事故はまた起こるし、同じ過ちをおかすことになる。

 安全第一のために、なにをなすべきか。点検の手法もあるだろう。異常に対する正確な対処がなされたかどうかもあるだろう。

 福知山線の事故は、若い運転手が、考えられないぐらい早いスピードで、事故現場のカーブに突っ込んでいったことにある。

 では、なぜそんなスピードを出したのか。その前段階で予定時間に遅れが生じていたから、それを取り返そうとして、スピードをあげたという。

 では、なぜ、その遅れを取り戻そうと必死になったのか。遅れは遅れとして、仕方ないと考えることはできなかったのだろうか。

 遅れると、どんなことがこの若い運転手に、生ずるのだろうか。とんでもない処罰があるというのだろうか。当時、どんな処罰があったのだろうか。どんな辛さが若い運転手にかかってくることになっていたのだろうか。

 その処罰はどのような考えで、どのように企画され、運用されてきたのか。そこには、安全運行との関連でどのように、位置づけられていたのだろうか。

 その処罰は、通常考えられる程度のものだったのだろうか。それとも、通常の人には、耐えられるものでなかったのだろうか。要するに合理的で、真っ当な処罰だったのだろうか。

 その処罰は、組織として、どのような経過で、どのような検討をされてきたのか、そこに、組織としての非人間的思想とでもいうべき要素はなかったか。人を大事にする考え方に反する価値観ではなかったか。

 当事者の若い運転手は、特殊だったのだろうか。誰もが、その状態になれば、同じような状況に陥ることになったのだろうか。

 人間は過失から、免れることはできない。何とかして、その過失をフォローする工夫をする。過失をしても、簡単には大事故にならない工夫をする。若い運転手が、どんな思いで、このカーブに突っ込んでいったのか、この話が充分ではない。この話が避けられているように見える。

 徹底的に、彼がなぜそうしたのかを、調査、究明しなければならない。あらゆる方面から、一人の人間が、どのように追い込まれていったのか、明らかにしない限り、事故原因が明らかになったとは決して言うことはできない。


鳩の性格

2019年04月24日 13時00分42秒 | 思考試行

 今朝雨が降って、池の周りの遊歩道に、水たまりができている。そこへ数えると、7羽の鳩が水浴びをしている。それぞれ、充分水浴びのできるスペースがある。ぼんやり見ていたら、気付かなかいこともあるのではと、ちょっと観察してやろうと立ち止まった。

 人に慣れていて、逃げる様子もなく、ゆっくりとすぐそばで眺められる。その中に、なんだか気難しい性格の鳩がいた。そばにきている鳩を、睨み、そしてツツく。次から次へと、そばに寄るものに、不快感を顕にしている。そんなことをするのは、この鳩だけだ。

 その内、彼(彼女かもしれない。)より、少し体の大きめの鳩に、同じようにしたら、その鳩は、逃げずに反撃した。くだんの鳩は、力関係をすぐに見抜いて、自分が逃げ出した。

 いままで、誰にも反撃されることがなかったのに、相手が悪かったとばかりに、実にアッサリと、相手の強さを認めて、逃げ出したのである。手のひら返しの典型をみた。

 続いて、場所をかえて、また、水たまりにもどると、また、周囲の鳩をつつき始める。また、かかわり合いをさけるように、この気の強い鳩に、場所を譲るのだが、さっきの強い鳩は後ろ向きにいるが、あきらかに、その動向を把握しているようで、彼が近づく少し前から、来たらおっぱらうぞ、という意識がアリアリなのである。

 はたして、側へ近づきかけた途端に、はっきりと、追い出しの構えをとり、その鳩を追い出した。その間も、どの鳩も水浴びそのものは、続けているので、いままでの展開は、別に大した事件でもなく、どの鳩も注目したりしていないのである。

 7羽の鳩が、ただ、水に頭を突っ込んだり、すき放題にバシャバシャしている風景でしかないのだが、こんなに、はっきりと「鳩模様」というか、「鳩関係」をみたことに、興味を覚えたのは、まさに、俳句を始めた効用をはっきりと感じた。今までだったら、見えなかった光景だ。

 水浴びに、徐々に飽きたのか、鳩たちはそれぞれ、独自の行動をとる。その内の一羽が目をつけた鳩を追いかける。脈がないとみて、ちがうものを追いかける。これもダメ、遠くに歩いているのがいる。距離を縮めてかけよる。前を向いたまま、後ろの気配を感じて、ペースをはやめる。だが、しばらくはしると、先程までとはちょっと感じがちがう。二羽の鳩は池の端で止まった。どうやらカップル誕生か。


コメディアンが大統領になった。

2019年04月23日 16時29分06秒 | 思考試行

 トランプ大統領もテレビに出ていたらしいが、ウクライナの新大統領は、まさに、自分が演じた役そのままに、ドラマを現実のものにしてしまった。

 コメディアンは、多勢の人を相手に、パフォーマンスをするのだから、普通に考えて政治家になるのは、自然のことであると思う。

 人前でしゃべるのは苦手だという人は、絶対に政治家になどなるつもりはないだろう。

 大事なのは、話す材料であり、なにを訴えるかである。現実分析を行い、改善方向を示し、自分は、どうやりたいかを訴える。問題は、その材料である。

 材料が良くないと、国民は大迷惑をする。自国ファーストを公言して突っ走るアメリカ大統領は、危なっかしい。

 それでも、彼の周辺や、多くの良識ある人々が、彼の独走を野放しにしてはいないようだが、なにをやらかすかわからない様子は見て取れる。

 日本は、常に、世界の最強国たるアメリカに付き従い、属国のような振る舞いを続けてきている。アメリカと戦争し、原爆を二度も落とされ、大量虐殺とも言うべき一般国民への大空襲を全国にわたってうけ、とことんまで行って、ようやく降伏したのであったが、その敗戦で民主主義に始めてふれ、生まれ変わって戦後日本がある。

 韓国のような恨み節がないのは、日本人の特質というか、切り替えがうまいというか、早いというか、節操がないというか、過去の反省もそこそこに、現在がある。そもそも、有力者が、反省なんてすることが必要と考えているかどうかもわからない。

 要領よく立ち回り、条件を活かしながら、技術力を磨きながら、先進国といわれるまでになってきた。

 外国と比べて、日本人は特殊だとよく言われる。それは、勤勉で、助け合い、協力しあう関係を築きやすい国民性がよく作用しているのかもしれない。

 政治の世界もその意味では、割りに現状に適応しながら進めてきたように思う。だが、本当に民主主義が根付いているかどうかは、疑問がある。まだまだ、改善の余地がある。

 そこで、広い範囲で、芸人、コメディアンなどの人々がその力を発揮することは、政治の世界には有効であり、有益だと思われる。しっかり勉強して、その能力を発揮することが期待される。

 ウクライナの場合は、非常な困難が予想される。国情がある。ロシアとの関連がある。どのように、国が変わっていくか、政治の素人の新大統領の手腕を注視したい。

 


特殊なことをやるのではなくあたりまえのことをあたりまえに

2019年04月22日 16時20分53秒 | 思考試行

選挙にいくことは、あたりまえと思うけれども、全然関心もないのでいかないという人が結構いる。行けばいいというものではないが、政治に関心をもたないというのは、危険である。

世の中の風潮に流されて、選挙にいっても、自分の確たる意見もないので、なんとなく、周囲に流されているだけだったりすれば、行く気もなくなるだろう。

しかし、政治こそ、我々の生活を決めてしまう大きな要素である。政治家がへんな方向を企図すれば、必ず、それは生活に直結してくる。

大阪では維新が強いが、大阪市をなくして、府と一体化させるといっている。これなど政治が生活に直結するいい例である。制度を変え、住民の力を殺ぐことも可能である。

厳しく監視しなければ、為政者は独裁を目指すかも知れない。現に過去の歴史は、ドイツの例で明らかである。ヒットラーは、合法的に権力を得ることができ、ユダヤ人虐殺までいった。

一人の人間の、奇妙な価値観に全体が踊らされる状況ができた事例である。日本は、伝統的な価値観のなかで、独裁政権が国民を総動員して戦争への道をまっしぐらに進んだ。多くの人命、財産が失われ、また、自国のみならず他国の人々の生活を脅かし、人命、財産を毀損したのである。

戦争の原因に、当事国の、どちらに正義があるかといえば、必ず、戦勝国の論理が正しいことになる。負けた方は、ながいあいだ誰にも評価されず、馬鹿なことをした連中であり、国家だったということになる。犯罪として、指導部は死刑においこまれる。戦争犯罪人として処刑された人々を、とんでもない悪人であるとは、一個の人間としてみれば、とてもそうとは思えない。だが、肝腎なところで、間違ったのだろうことは否定できない。

それもこれも、戦争による現象である。こんなことにならないために、国民は政治を見ていなければならない。戦争なんていいはずがないのである。だが、今でも、戦争をチラつかせる国家がある。国民を締め上げ、監視社会を構築し、言論の自由を許さない国がある。

日本でも、戦前の日本の立場を、日本の誇るべき伝統であるとして、復活させ、その価値観を復活させたいとする人々がいる。それは、敗戦により苦渋を舐めさせられ、なんとしても我慢のならないことであると考える人々である。

戦前の日本の状態がいかなるものであったか、強い者が弱い者を虐げ、馬鹿にし、我慢を強いてきたし、男女差別も激しかった、その反面、自己利益を超越した、諸外国に見られない行動、考え方が、根底にあり、それは、間違いなくある種の「美しさ」を持っていたといえる。

日本の美徳とは何か。人類全体で考えて、おそらく、普遍的ないいこともあるかもしれない。だが、それは、はっきりと、時代遅れであり、人類が克服し、改善しなければならないことも多くある。

今に生きる者として、後代の人類のためにも、あるべき姿、あるべき政治をイメージして、選挙行動に臨む必要がある。目先のことだけではなく、その見識を深め、高めていかなくてはならない。でなければ、「国民が寝ていてくれれば有難い」と本音を漏らす政治家が跋扈することとなる。 


具体的なことをやっていくなかで把握すること

2019年04月21日 23時31分29秒 | 思考試行

 ただ、考えているだけでは、外からはわからない。具体的に行動を起こすなかで、その考えが状況にあっているかどうか、適切かどうかが問われてくる。

 やらなければ、何もかんがえていないのと同じである。行動のなかで、考えがより深まり、また、新たな考えをうむこととなる。

 人間は結局のところ動物であるから、動いてなんぼである。意識的に動こうとしなければ、それでも済んでしまう。楽な方向をとっていると、動く機会は減って行く。そういう生き方になっていく。

 どう動くかということは、重要である。闇雲に動いても意味はなく、単純に疲れるだけのことだ。動くにあたって、動機を持ちたい。求める心が必要である。

 そうはいっても、なんとなく、動くということもある。動く中で、発見がある。何らかの発見が必ずある。そこから出発していけばいい。

 明確な目的が、はっきりすればいいが、そう簡単に目標が設定できない場合もある。だが、焦ることはない。やるべきことをやりながら、探すことはやめないのである。やめなければ、目標をさがしながら、何らかの行動は続く。

 世間を眺めれば、疑問が生ずる。なぜそうなっているのか、なぜ、この困難があるのか。なぜ、人はいがみあうことをやめないのか。どうすれば、おたがいが気持ちよく暮らせるのだろうか。なにか具体的にやれることはないだろうか、と考える。

 自分だけの欲望を満たすことのみ追求する人がいるとして、このような人は、満足のいく人生を送ることは不可能であろう。そこに、人との本当の共感は得られることがなく、たくさんの人に、苦しみと怒りをもたらし、結局本人自身も、本当の喜びを知ることもない。

 相対的な、優越感であったり、財産の多寡であったり、そんなことだけが関心の対象であれば、真の人生の醍醐味を知ることはないだろう。薄っぺらな、人物であり、それでは成長ものぞめず、面白く楽しい人生とは無縁の人生を送ることとなるだろう。

 そういう考え方も、具体的な行動を積み重ねるなかで、そのはかなさを、知ることとなる。自信のもてる、安定した考え方、思考方法は、動物として動き回り、人と人との関係のなかで、育まれ、成長し、把握され味わえることとなるのである。

 


偏見と自信

2019年04月20日 21時38分21秒 | 思考試行

 意見を持つことは、一人の人間として、持たねばならないことだと思う。誰かの受け売りであるとか、誰かが言うから、というのではなく、自分なりの価値観の体系のなかで、自身の意見をもつことが必須だと思う。

 そうはいっても、そう簡単に自信をもって、これが自分の意見だと言い切れる人は、少ないのかもしれない。どこかで刷り込まれた価値観が、自分が苦労して到達した意見だと思い込むこともあるかもしれない。

 戦前の日本、今なら、とても考えられないほど無謀な戦争に突っ込んでいったわけだが、国民世論は、戦争やむなしの傾向が多数だったと言われている。大多数が反対であったにも関わらず、戦争に突入してしまったということではなかったようだ。

 本音は、誰も戦争なんか望んではいなかったけれども、お上がそういうなら、また、反対すれば、直ちにひどい処罰をうけるので、従うしかない、という可能性もあるが、恐れる気持ちばかりではなく、お上がやることには、表立って反対することはなかったように思われる。

 反対勢力は、あって、反対運動はあったけれども、徹底的な弾圧にあって、少なくとも一般国民には、その姿は目にすることはなかったことは、明らかである。

 今はどうだろうか。戦前ほど、言論弾圧はできない建前にはなっている。だが、けっこう「アカ」攻撃は厳然としてあり、アタマから共産党は、別扱いとして、排除して当然という空気がある。相当のリベラル派でなければ、「常識的」に共産党は排除して考えている。

 入社試験で、共産党支持だなんて言えば、不採用間違いなしだろう。だが、この現状に対して不思議とは思わない風潮がある。合理的に、共産党を排除することは、おそらくできないと思われるし、現に自民党であっても、リベラルな人々は、必ずしも反共ではない。しかし、共産党が権力を握れば、本当に自由な経済活動、思想信条の自由が保たてるかどうか、危惧を抱いている人もいるだろう。

 共産党のなかで、委員長の選挙が、対立関係があって、行われることはないし、党内衆目の一致するところで、最高権力者が決まっているところに、その大きな原因があると思われる。

 だが、党内権力を持ち続け、指導者として君臨することは、全組織を束ねて活力をもって動かすのだから、大変なことであり、仲間内では、お互い顔を見合わせれば、選挙などするまでもなく、自ずと決まるものかもしれない。

 今のところ、人間の性質として、組織がどんなに大きくなろうとも、結局のところ誰か一人の「親分」が必要なのだろうか。どうも、人間の知恵が、こんごどのように進み、共生していくための合理的な仕組みを作り出せるのかどうか、わからないけれども、安易にこうでなければならぬ、といえば、そこですでに間違いなのかもしれない。

 もっと悩まなければならないし、自信満々で、なにかものをいう者ほど、将来のあるべき人間社会にとって、警戒すべき対象に人物かもしれない。


どこの国とも仲良くやるのがいいと思う。

2019年04月19日 00時34分20秒 | 思考試行

 自国ファーストを、本音とすれば、それ以上話は進まない。国と国との関係は、対立以外にないとすれば、どうしようもないから、最後は戦争ということになるのが、従来の解決方法であった。だが、戦争が何をもたらすのか、充分人類は知っているはずであるが、それとも、まだ充分に分かっているとも言えないか。

 戦争で、ひどい目にあったところは、骨身にしみて、戦争はいけないと思っているはずだが、さほどの被害がなく、敗戦を知らない国は危うい。そして、時間が経てば、忘れるということもある。隣国の悪口をいい、敵対的な行為を続けていれば、協力もしなくなり、矛盾がいろいろでてきて、彼我の力関係を計るなどして、ちょっとしたきっかけで、戦争にならないとは限らない。

 国家として、日本が、完成形とはいえないだろうし、おそらく究極において、今の形態のままでいくこととは思えない。無理があり、いずれは、変えなければならない点が、あると思う。

 本当に助け合って生きるのか、どうやって生きていくことが人類にとって、幸せなのか。科学的に合理的に考える時代を迎えることなしに、究極の社会構造とはなりえない。いつの日か、必ずそういう日がくると思うし、はっきりした矛盾からそれは改革されなければならない。

 どんな手順、どんな段取り、どんな推移を辿るのか、それは予想もつかないけれども、多くのひとびとが、それを是認し、どのように、物事を整理していくかが、楽しみであり、それをどういう具合に実現していくかが、問題である。

 ブラックホールを視認することができた人類である。太陽系の片隅の地球上にあって、その上に住む人間社会のあり方を考えることは、視野を広くもつことが当然の前提条件である。賢明な人々が、大胆に提案し、だれもが納得できる解決を見出さなければならない。

 できないはずがない。認識能力が徐々に薄れ、自らの処理に汲々としているなかでも、全体的な大きな問題は、ほとんど自明のことのように思えている。誰が決断するのか。だれが口火をきることになるのか。ある人々に、期待している。

 


問題解決の数理

2019年04月18日 00時12分12秒 | 思考試行

 具体的な問題について、数式をたてて、もっとも適切な数値、解を得ることができる。たとえば、ある製品を製造するのに、製品1、製品2があって、それぞれの製品の製造に要する原料の条件、電力、の条件のもとに、利益を最大にする生産量はいくらになるか、という問をたて、解を得るのである。

 問題解決のための数式は、単純な一次方程式となる場合もけっこうある。その中で最適値が決まるという。このような条件から、問題解決が可能な事象は、いろんな分野にあるという。

 数学には、永年悩まされ、結局はよくわからない分野として、未だに残り続け、現実生活の中で、利用できることなど、ほとんどなく、要するに知らない世界である。

 具体的な問題を、数学的に解決していくという、これが、放送大学の科目になっている。「問題解決の数理」である。さまざまなモデル、最適化法、プロジェクトの管理、がとりあげられている。

 数学的には、充分歯がたつはずなのに、扱っている問題は、ほぼ聞いたことがない世界である。未知の世界が待っている。今学期は、この科目をとった。

 果たして、モノにできるかどうか、もともと、数学は苦手というか、できた喜びをほとんど知らない。特に高校以来、数学に楽しさを感じることがなくなり、疎遠となった世界そのものである。

 それなりに、いろいろ挑戦してきたけれども、未だに高校数学の入口も攻略できていない。少しずつ続けてはいるが、ここに最大のブラックホールとして、存在しているのである。

 このブラックホールを、すこしでも、ほぐしたいと願ってきた。今回のこの科目との遭遇は、長年の数学に対する何等かの知見を得て、人類の成果を、すこしでも味わいたいと考えている。この科目に、その可能性を感じている。

 はたして、それを実現できるのかどうか、数学を実際の世界に使うというのである。今、ワクワクしている。

 


税金を払ったので今年は心配なしとなった?

2019年04月17日 00時07分56秒 | 思考試行

 固定資産税の納付書がとどき、納付しなければならない。まだ、収入のない状態で、先に税金を納めるのだから、これを回収できるかどうかは不明である。

 国は、税収として、受け取り、後のことは、どうでもいい。納めた方も、あとは収入を楽しみにすればいいのだが、はたして、店子が、賃料を支払ってくれるかどうかは、わからない。

 小さな「地主階級」となって、気楽なものだと思っていたが、簡単にはいかない。払わない人も出てくる。債務不履行で、追い出すことも可能なのだが、それは、簡単ではない。

 まずは手順がたいへんである。弁護士に頼めば、手数料が半端ではない。難しい話ではないのだが、それでも、あちこちに簡単にはいかない事情がでてくる。

 結局は、払ってくれるところの分で、ようやく税金分を支払ってチョンである。不労所得として、楽々と収入をうることができるには程遠い。

 先祖代々、受け継がれてきた土地であれば、簡単に手離すわけにもいかない。さりとてそれを有効に生かす手立てを持っているわけでもない。かくして、宝の持ち腐れとなる。

 ノウハウがあれば、他人の土地であろうが、家であろうが、それを運用して、収入にすることも可能である。自分の所有ではないから、税金がかからない。ノウハウがあれば、儲けも可能なのである。

 なまじ資産を持ったばかりに、冒険はできず、自由な発想もなく、ただただ、所有しているだけのことで、わずかばかりのものをもらうだけのことである。

 これを有効利用できればいいのだが、そういうノウハウは、簡単には入手できない。たまたま、こういう環境になったのだから、少し、考えて新しい方向で、この「資産」を有効に活用できないものかと、思い始めている。

 なにごとかして、失敗して、すべてはパーとなり、すべては雲散霧消という可能性も高い。より後代の人間が有効に活用できるかもしれないが、どうも、その可能性は低い。となれば、自分自身が成さねばならない。

 さて、どうやるか。何もやらないのが正解か。世のため人のために役立てられないか。


一つずつ・・・そこから一挙にかも

2019年04月16日 00時42分31秒 | 思考試行

 映画「チェンジリング」をBSでみた。子供を誘拐された母親が、必死に子供をさがす。ストーリーの中心は、当時の警察のあり方であり、警察権力に逆らう者は、精神病院送りにするという、無茶苦茶な状況との戦いである。母親は子供を探したいだけである。だが、思惑が周囲を取り巻いている。

 この中で、警察権力がいかに追い詰められていくか。母親の戦いが、説得力のある画面で展開される。この映画の中で、市民が公正さを求めて、立ち上がる姿が描かれる。

 日本は、敗戦によって、民主主義に始めて触れた。警察権力が、戦前戦中、戦争遂行のため市民への弾圧をしてきたことは事実だが、敗戦によって、すべては「改善」されたことになっている。だが、内実はどうだろうか。

 一旦疑いをかけられ、なんでもかんでも自白をとりさえすれば、あとは、どんどん証拠がでっちあげられる。こんな冤罪がどれほどうまれたことか。

 日本は、市民によって、民主化が勝ち取られたわけではない。与えれられたものであり、権力を持つものが、民主的にコトをしないと、抗議をうけるという脅威を感じたことは、未だない可能性がある。古い体質を抱えたまま、生き続けている分野がある可能性が高い。

 ゴーン氏の逮捕以来、日本の当然とされてきた、検察手法の前近代的手法が問題になっている。国際的な問題となり、詳しく報道されるなかで、検察が、今まで、当然としてやってきた慣行が、耳目を集めることとなった。 

 裁判所も従来ならば、問題なく検察の言い分を受け入れてきたものが、異例な、変更を加え「独自性」を出してきたりしている。ある種の動揺だろう。

 司法分野は、試練をうけていない分野である。明治以降、それほどの反省もなく、戦争前の慣行を引き継いでいる可能性は高い。本当に正義を貫いているのだろうか。

 そして、内閣が官僚の人事権を握ったことにより、裁判官の人事についても、その筋の「意向」が働く。忖度した裁判をする。これに反した裁判官は、僻地へとばされ、「出世」することはない。裁判官もこれに怯えるものがでてくる。

 確かに、みせしめ人事があるのである。公正な正義を貫く司法ではない。この実態を知っておく必要もある。これらの改善は、選挙結果による、政権交代だけでは不可能である。

 実態を知って、草の根市民が立ち上がらなければ改善されることはない。マスコミも、今は、かつてのような討論番組はしない。市民を愚弄する動きが目立つ。

 儲けさえすればいい、正義、公正などどうでもよい。こうした風潮が続く限り日本が大きく変わることは望めない。だが、ひとつ穴があけば、そこから大改革が始まるかもしれない。あたりまえのことだから、それが起きたとしても不思議でもなんでもない。そうなったとき、「忖度」した連中は、根こそぎ、明らかにされ、指弾されなければならない。