基本的には、なにをやってもよい、犯罪でなければ。
ところが、犯罪であるのに、実害がなければ、許されていることがあるようだ。それは、もともと犯罪にはならないことを、犯罪にしてきただけにすぎないということかもしれない。
だいたいにおいて、正しいとか、間違っているといっても、その本質においては、何でもありであり、決めることはできない。殺人といっても、それが、なくなることはない。
必ずどこかでそれは行なわれている。では、何が歯止めになっているのか。
それが、良識というものであろう。これがない連中とは、つきあうとひどいことになる。もともと、絶対的なものがないのであるから、本人の価値意識にそれは委ねられる。
一般的な、常識的な、良識に我々は、安心しているところがある。ところが、この良識にしばられないヤカラがいる。彼らが、その本心を隠して事に臨むときには、善人というのは、なすすべもなく、彼らの餌食になるほかない。
悔しくても、それが世の習いである。
これに勝つには、それを見抜くほかない。自らは、そうしないで、見抜くのは容易ではない。価値観がよほどしっかりしていなければ、ぶれてしまう。
安定した人生観を、確立して、何事にも対処できることが、真の大人になるということではないだろうか。
ところが、犯罪であるのに、実害がなければ、許されていることがあるようだ。それは、もともと犯罪にはならないことを、犯罪にしてきただけにすぎないということかもしれない。
だいたいにおいて、正しいとか、間違っているといっても、その本質においては、何でもありであり、決めることはできない。殺人といっても、それが、なくなることはない。
必ずどこかでそれは行なわれている。では、何が歯止めになっているのか。
それが、良識というものであろう。これがない連中とは、つきあうとひどいことになる。もともと、絶対的なものがないのであるから、本人の価値意識にそれは委ねられる。
一般的な、常識的な、良識に我々は、安心しているところがある。ところが、この良識にしばられないヤカラがいる。彼らが、その本心を隠して事に臨むときには、善人というのは、なすすべもなく、彼らの餌食になるほかない。
悔しくても、それが世の習いである。
これに勝つには、それを見抜くほかない。自らは、そうしないで、見抜くのは容易ではない。価値観がよほどしっかりしていなければ、ぶれてしまう。
安定した人生観を、確立して、何事にも対処できることが、真の大人になるということではないだろうか。