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空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

裏事情

2010年02月28日 10時21分39秒 | 思考試行
タテマエとホンネがある。世の中の動きは、表面だけでは把握しているとは言い難い。ルール違反は罷り通り、その中に、また、ルールがある。知っているものは知っているが、一応、誰も知らないことになっている。

きれいな料亭の奥座敷で、高級官僚が何をしていたのか、彼らの上下関係の厳しさ、国全体というよりも、ショウエキを巡って、死闘を展開してきた。政治家は、軽いお神輿にすぎない。そういう時代がながく続いた。否、今も続いているのかもしれない。

だが、矛先が、明確になってきた。高級官僚の関心は、国民生活の向上にあるのではなく、彼らの支配権力の維持拡大のみであって、国民はそのダシの、単なる「シモジモ」にすぎない。生かさず殺さずが、彼らの、支配の要諦である。それが、バレテキタ。今や、国民に目をむけない政治はもはや有り得ない。

そんな本質が、漸く明らかとなりつつある。だが、これに対抗するのは、至難のワザである。陰謀が渦巻く。情報のリークがある。ありとあらゆる手段が講ぜられる。裏話が出てくる。どれが、真実で、だれが味方か。国民は見極める目をもたなければならない。そこで裏情報が出てくる。

人間社会の実態が、ここにこそある。きれいごとではない。そして、インターネットで、情報が独り歩きする現実がある。あちこちのアンテナがあると同時に、企み、欺瞞にミチミチて、情報世界の暗闘が繰り広げられている。

この中で、真実の世界を構築するのは、容易ではない。まさに、一人ひとりがどういう心構えで、人生に臨み、どう行動するかにかかっている。賢明な個人でありたい。

中村秋則氏の「りんごが教えてくれたこと」を読む

2010年02月27日 07時39分44秒 | 思考試行
衝撃的な本である。りんごを農薬なしに、また、肥料なしに育てるという試みを、ついに成功させた。苦労の連続、土壌の改良に成功し、それは、りんごのみならず、農業の根本的な考え方の転換に展望が生まれたことである。

中村氏は、日本のみならず、世界に向けて、その成果を発信している。氏は、自然栽培と言う呼び方をしている。画期的な展望が開けた。

それにしても、この本は、去年の3月に初版で、9月には、12刷である。爆発的に売れている。いいものには、チャント反応がある。

いい映画をみたときに、その映画を多くの人が見にきていると、みんな良く知っているなあと感心する。それと同様のことである。皆さんは、小生よりも相当に早い反応だということである。

先頭を行く人は、苦労が多い。この中村さんは、死を考え、実行しようとして、この成功のもととなった、アイデア、きっかけを得た。ここまでこないと、徹底しないと、成功できないのだろう。

それにしても、いままで、農業となんの関わりもなかったが、これなら、やってみたいなと思い始めている。なんといっても、机上の学問だけではなく、実際の自然にふれるということの楽しさを味わいたいと思えるようになった。


ほほ笑ましいカップル

2010年02月26日 15時42分40秒 | 思考試行
病院予約の日、いつものコースと違う地下鉄にのった。電車は、平日の昼間ということで、空いているが、座席は、ほぼ満席というところ。小生の席から、斜め前のドアをはさむように、ドアの幅だけ離れて、向かい合った若い二人の男女が、とぎれとぎれに会話している。といって、ギクシャクしているのではない。始めてのデートだろうか。この距離が、二人の関係が、始ったか、今日が始めてという感じを示しているように見える。

女性の表情が、こちらからは良く見える。ずっと観察するようにみていたわけではないが、それでも、ドアのガラスの下の部分を指でなぞるようしたり、いちいちの仕草が可愛い。そして、時折、嬉しそうに、楽しそうに、笑い声をたてる。大きい声ではないが、抑制している風には見えない。屈託なく笑っている。相手の顔を、真っ直ぐにみて、質問し、その応えを聞いて納得する。その表情は、常に微笑している。会話の中味は、全部は、聞こえない。
・・・ソウナンヤ、・・・ナンデソウオモウン?、・・・ハハハハ てな具合。

男性の若者の方は、当方からは、背中と横顔がわずかに見える程度である。声は、ひそめている調子ではないが、聞こえない。肩から提げているのは、ホンケ争いで有名な帆布でできたカバンとみた。品物は、しっかりした感じで、なるほど魅力的である。ラベルが目立ち過ぎているように思ったが、それでも、いいものであることは、一目で解った。そして、若者が少しこちら側に、横顔を見せたとき、女性の顔と同様に、いい顔をしていた。

二人の感じが、雰囲気が、良くマッチしていて、なにやら表情もよく似ている。これは、始まりの出会いだが、いずれ、二人は結婚して、いい家庭を作りそうだな、と直感したことだった。果たしてそうなるのかどうか、確かめる術はないけれども、確信に近いものを感じた。

その後、車内は混んできて、二人の姿は見えなくなったが、それでも、女性の笑い声が、電車の騒音と、車内の会話の中に混じって、時折聞こえてくる。いい風景をみせてもらった。二人の幸せを祈りたいと思った。

誠実か 

2010年02月25日 00時25分49秒 | 思考試行
戦争が起こりそうになったら、どうするか。蟹工船のような状況が、またでてきそうになったらどうするか。どうしても、このような動きは止めなければならない。どのようにして止めるか。お互い、共生していくために、心を砕くほかない。自分さえよければという連中が、その元凶である。

そういう傾向が出てきていると判断したら、直ちに行動を起こす。反応する。許してはならない。注意して見ていると、その傾向は、解るはずである。それは、誠実であるかどうかである。狭い視野、暴力志向、強欲、自己中心主義、よくよく観察すれば識別できる。

してはいけないことを解っているはずなのに、それを無視をする人びと、結構身近にいる。当事者は、人が迷惑していることを、認識していない。人の立場に立てない。自分のことで精一杯。それでは、簡単に人の道を外れることになる。

思いやりのある、温かい、人柄の人とは、付き合っていて、快適である。自分もそうなろうと思う。かくして、暖かい世界が生まれる。凝り固まった考えを押し付けたり、利益一辺倒であるうちは、ギクシャクと棲み辛い世の中になるばかりである。

背景 本質 方向

2010年02月22日 08時04分19秒 | 思考試行
長崎県知事選挙で、自公の推す候補が当選した。小沢問題が、影響しているのは否めないだろうが、民意の変動は、敏感になっている感じがする。変だと思えば、すぐ行動に移る。

この背景には、検察の意図的な、捜査方針があった。長い間の自民党政権下で作り上げてきた態勢の忠実な部下としての、行動の効果があったということではないかとも思う。この動機では、うなづけるものではないが、それでも、結果として、金権政治の終焉にむけての始まりとなるきっかけになるかもしれない。

検察の公正さが、求められるが、それにしても、政治家の本質が、その信条ではなく、権力であったり、富の蓄積であっては、支持されないという時代の到来が、すぐ側まで来ているということがうかがえる。そうあってほしいと思う。

民意の動向が、すべての方向を決めるのであるが、公明党のような確たる方向性がみえない政党が、宗教のつながりをもって、強固な集団を形成し、活発な行動力を展開しているのは不気味である。とても、健康な現象はみえない。そこから、新しい人間社会の展望をみることはできない。非常に古い体質がを見えるのである。

方向性が問われる。本当に、地球上全体で、どう共生していくのか、その姿勢が明確でなければ、これからの、リーダー足りうる資格はないのである。

事実を述べよ

2010年02月21日 14時18分11秒 | 思考試行
人生には、ウソが必要なこともある。絶対にウソをつかないとすれば、それは、うまくないケースもある。常にウソばかりというのは、勿論論外だけれども、そこには、思いやりとか、愛情とか、いろんな背景があって、これを語ることは、人生論に至ることだろう。

それとは、似ているが、事実について、あえて、伏せて人を誤解に陥れるということがある。世話になっている人に対して、その負い目をカバーするために、かえって、世話になっている人を貶めるような行動にでることがある。その世話になっている実態から、目を避けて、見ないようにする。事実を述べない。

人に対しては、絶対にその事実を言わない。有り難いとも思わないようにし、かえって、世話になっている周辺の人を、左程でもないのに、ことさら賞賛したりする。そして、もっとも、主要な人をコケにする態度、効果を狙う。事情を知らない人は、この世話をしている人に対して、つらくあたるという図式である。逆に、「何にもしない人だ」という評価を引き出す。

大技、小技を駆使して、評価がそこへいかないように、無意識か、意識的か、そういう努力をしている。そのことで、騙される人が出てくる。だが、これは、いつまでも続かない。かつては、そういうことは、可能だったかもしれない。

しかし、今や、この気持ちの悪さが、どこからきているのか、当事者は、探求することができる。観察し、原因がどこにあるのか、誰がどうしているのか、検討すれば解る。そして、当事者が、非難ではなく、その事実を本人に問いただし始める。本人に自覚させるまで止めてはならない。こけても、またゾロその動きはでてくる。本人に、本当の感謝する気持ちがない限りは、治まらない。

それに対して、事実を述べよ、というのが、対抗手段である。感謝を要求してはならない。事実を認識して、それを述べよ、に留める。結果として、それが、本人の感謝に結びつくならば、両者の、人生の質は、確実に改善される。

大いに寄付を

2010年02月20日 06時40分49秒 | 思考試行
人より多く収入がある人は、できる限り、寄付を心がけていただきたい。資本の論理で、儲かる側に立った人は、特段の努力なしに、金銭には不自由することがない。他方では、いくら懸命に働いても、食べることさえママならないという状況が生まれている。

それは、全体の仕組みも壊してしまう。いつまでも、誰かを下敷きにして、一部の者が、楽をする、構造が続いていいはずがない。最低限の生活は、全体で保障する。趣味に生きたい人はそうする。遊び人でいい。必ずしも商業ベースで成功させる必要はない。

生活に困る人の面倒は、寄付でまかなう。計算すれば、どのぐらいすればいいか、は解るだろう。全体でそれが可能ならば、社会不安なんてなくなるし、戦争も起こる余地がない。自由に競争しながら、しかも、完全なセーフティネットを用意するのである。

寄付をしている人びとは、尊敬される。多額の納税をするだけでなく、さらに、寄付をするのだから、人品が卑しくては、こんなことはできない。

だれがそうしているかは、解らなくともよいが、調べれば、すぐ解る、ということでも良い。ただ、寄付をうける機関の運営が問題である。この崇高なる善意を、うけとめ、なおかつ、運営できる組織が存在しうるかどうかである。清廉潔白な、人びとの集まり、組織の知恵が現実のものとならない限りは、簡単そうで、難しい。

ゴマカシとホンモノ

2010年02月18日 10時48分01秒 | 思考試行
本当は、何が欲しいのか。正直に言って、それは、安定であったり、優越であったり、生物としての本能が優位をしめるのだろう。人間の歴史は、覇権を求めるものから始ったようにみえる。戦わなければ、隷属するしかなく、利用されるだけの人生になってしまう。といって、勝つ見込みがなければ、臣従するしかない。そういう世の中が、長く続いている。

その中で、権謀術数の限りが尽くされる。こういう争いの中では、なかなか本当の幸福というものは、得られない。

まともに、考え、行動する、それができれば、良しとする。シンプルで解りやすく生きることは、結局は精神衛生上もよく、いい人生につながるように思う。あまり、策を弄しては、道を踏み外すもとになる。

といって、道を踏み外した経験から、立て直して、正道に戻ったとき、恐れに恐れて、事なかれできた者とは違うことも明らかである。そこらあたりに、人生の、ゴマカシかホンモノかの、区分けの分水嶺があるのではないか。

その意味では、道を踏み外した経験は、無駄ではない。人生には、何事によらず、無駄なものはないといえるのではないか。

カーテンコールの役割

2010年02月17日 11時46分54秒 | 思考試行
昨日始めて、妻と劇団四季の「ウイキッド」を観て来た。よく訓練された演者の力もさることながら、システムのしっかりしていることに感心した。そして、カーテンコールで、人間と、人間とのふれあいの瞬間に、このショービジネスの本質を見た。

ドラマや、舞台装置や、出演者の声、歌、これらはもちろん大事なことで、これがダメだと話しにならないが、しかし、本質は最後の「交流」にあると思った。出演者との交流のなかで、感動が具体的になる。役と離れた人間としての魅力がそこに現れる。

両方の、感謝の気持ちが共有されて、日常では有り得ない現象が体験できるのである。こうなると、舞台装置とか、演出とか、すべてのことが、大事ではあるが、それらは、本当は付随的なもので、すべては、このカーテンコールのためにあったのではないか、という気さえする。

そう度々、観るわけにはいかないだろうが、やはり、生の演劇の良さを、たまには、味わうことが大事だなと思ったことだった。

非日常の体験の重要性を思った。それにしても、梅田界隈は、相当変化してきており、昔の面影がどんどん消えようとしている。世の中変化しているのだ。

チャント生きよう。

2010年02月16日 13時29分05秒 | 思考試行
誤魔化して、金儲けをしたり、人を道具化して、それで成功したと思っている連中が多い中で、本当に真面目に生きてきた人達が、自信を持てず、自分を低く評価している。それは、明かに間違いであり、金儲けをしている方が、実は、恥ずかしい存在であることを知らなければならない。

有利な条件があったり、たまたま、早かったり、ついた仕事の関係であったり、ちょっとしたことで、人の運命が左右されたりすることもある。そんなことを、とんでもない過大評価をしている。逆には、過小評価する。

こんなことに、拘っていると、本質を見失なってしまう。まだ、人間社会は、プロセス段階にあって、とても完成しているとは言い難い。時代を遡って、その時代は一番であるという、そんな時代はまだ来ていない。まだ発展途上であり、欠点だらけの実態なのである。

欠点は直さなければならない。その立場をとっているかどうか。それを理解しているかどうかで、その人生は決まる。この立場からは、いろんなことが見えてくる。なにが大事で、なにが取るに足りないことか、その判断がつく。そして、その中で、チャント生きるということも見えてくる。

来し方行く末から、今のいま。

2010年02月15日 07時48分34秒 | 思考試行
過去は、どうすることもできない。そして、未来は、ここにはない。あるのは、今しかない。いまを生きるしかない。今をどう生きるかに、すべてはかかっている。過去に学び、未来を見すえながら、今を生きる。関係は、あって、無視はできない。

だが、あまりに、拘ることは良くない面もある。身動きができないような、袋小路に入ってしまう。もっと自由でありたい。といって、全然考慮にいれないようでは、早晩破綻する。今を忍耐して、未来に備えるから、未来にも、効果がでてくる。過去に学んで、今を律するから、失敗をしないことになる。

だが、明かに、未来と過去は、今ではない。今は、それをどうすることもできない。それが現実であり、実態である。であれば、今をキチント生きる。過去や、未来を今に活かしながら、今を生きる。

何をするにも、準備がいる。準備をしないで、何事も成立しない。それは、未来を見ているからである。過去の反省の元に、未来を見すえて、準備怠りなく、今を生きる。それが、賢明な生き方である。

困難を恐れず、世のため人のために、生きる。そこに、自分を活かす唯一の道がある。どこまで、それを貫徹できるかそれが問題である。

自分との相談がある。あまり追い込むと、無理があり、といって、甘やかしてもいけない。この塩梅が難しい。自分の器量の見極めという作業がある。志の問題である。

どう変わるか、嫁姑問題。

2010年02月14日 08時07分28秒 | 思考試行
どの分野も難しいことがあって、簡単には、ものごとは進まない。さまざまな力学が働いて、善意は善意とされず、受け取られず、感謝するかわりに、かえって、自分の評価をあげるために、その世話をしてくれる人を、逆に悪者にしたりする。

こういうコンジョワルがいる。どうも意識的なのか、無意識なのか、その、モノイイが変なのである。

自分がしてもいないことを、自分がしたことのようにする。してくれた人の成果をとりあげ、そのことで、相対的に、実際に、してくれている人は、外部の目からみれば、あたかも、虐待をしているかのような、あるいは、保護どころか、放置しているのでは、と思わせるような、異常なものにする効果をうむのだ。

世話をしている者は、このことに気付いても、これを訴える術をもたない、というか、難しい。事情を知らない人には、こんなことを話しても、ただ単に、悪口を言っているようにしか聞こえないだろうことは自明だからだ。気持ちが悪いが、耐えることとなる。

このコンジョワルは、自分の周辺部の一部の者に、こうした誤解を振りまくための、言辞を弄するのだ。たとえば、自分でトイレに行く。一人で行く。洗濯物を乾す。自分の薬代を支払う。こういうことをいいつのり、食事の世話や、経費は、すべて子供夫婦の負担だが、こういうことは触れずに、一切は自分でやっている、一人でやっている、と公言するのだ。事情を知らない人に、「あの人はエライ、すごい人や、尊敬するワ」と言わせる。

日常生活の重要部分を、世話してもらっていることを、こともなげに、無視し、これはなきがごときに扱うのである。笑顔のウラに、イジワルな顔がある。どのようにして、このような性格ができたのであろうか。幼少期は、兄弟姉妹が多く、親が厳しく、その後の生活も厳しいものがあったが、そのなかで、これに対して、まともにたちむかってきたのだろうか、本当に、困難からたちあがってきたのではなく、すり抜け、イイヌケてきたようにみえる。

息子は、長きにわたって、気付いていなかった。その妻は、永年そういう扱いを受けて、泣いてきた。それが、ようやく自分の配偶者に実態を理解させることができた。息子は、当初理解しなかった。嫁姑問題として、中立をきめこんでいたが、事態が把握できた以上は、対策が必要である。

お互いが、気持ちよく暮らせるために、火の粉は払わないわけにはいかない。そのための具体策をとっていく。それは、単に、その不当性を非難することではない。事実を事実として、把握し、それを本人に認めさせていくだけのことである。感謝できればいいが、それは難しいことだろう。

政治と金・・・得がたい政治家鳩山さん。

2010年02月13日 12時00分00秒 | 思考試行
国会の議論を聞いていて、まことに鳩山さんは、忍耐力があるなあと感心する。あの手この手で、グジグジやられると平常心をなくしそうだが、繰り返し、手を抜かずに応える。

「文藝春秋」の3月号で、佐藤優氏が対談のなかで、鳩山さんは若い頃は、偏微分の方程式を扱う学者であったことをはなしている。人間を見るときは、若い頃のことを調べると、ある程度解るというのである。

佐藤氏や、対談の相手の手島氏は、若い頃、すでに、今につながる勉強をしていたそうで、その意味では、鳩山さんの場合は、現在の総理大臣の仕事とはつながらないようであるが、実は、つながっていて数学的な判断をしているのでは、というのである。

そのような気がする。あれだけ、ネチコチやられても、平然としてみえる。とにかく「知らない」で突き進む。その一点張りである。

ほとんど、事態は誰の目にも明らかであり、ようするに自前のお金を政治に注ぎ込んでいたという話である。知っていたか、知らなかったかは、法律上は大違いかもしれないが、そんなことは、常識的には、本質的には、違いはない。

お金持ちが、いわば私財を投げ込んで、得にもならないことをしているのである。それは、理念とか、生きがいとか、正義とか、信念とか、そのようなもののために、政治の世界に棲んでいる人のことである。まさに、稀有の存在である。

これは、得がたい人、政治家である。人の世を変えていくプロセスのなかで、登場すべくして、登場している人ではないか。頑張ってほしい。戦ってほしい。

絆が注目され始めている

2010年02月12日 10時08分38秒 | 思考試行
鳩山政権が発足して、鵜の目鷹の目で、ボロを探し続けた自民、公明党、旧支配勢力は、自らの問題は頬かむりしたままで、鉄面皮な追求を続けている。

利権の追求、資本の論理、勝ち組と負け組みを作り、その態勢の維持に狂奔してきた彼らの本質は、いよいよ明確になりつつある。

まさに、彼らの「政治資金追求」の画策は、その醜さを露わにすることとなった。弱者を作り出し、それを踏み台にして、大儲けをする。こんな連中が、謳歌していたときの空気を目一杯出してきている。今もなお、状況は基本的には変わっていない。

これから、彼らに、鉄槌を振り下ろす大仕事が始る。それには、庶民の怒りが背景になくてはならない。政権の動きと、これに抵抗する彼らの動きを注視しなければならない。

そうした中で、新政権は友愛を理念としてもち、絆を重視している。これは、良しである。戦後の変遷のなかで、アメリカのポチとなって、アメリカ流の弱肉強食態勢をもちこんだ小泉の、犯罪的改革によって、若者達はまことにヒドイ状態に叩き込まれた。

かつては、若者達は、エネルギーに満ち溢れ、改革の先頭に立ってきた。若さを奪い、気概を奪い、草食系といわれるような若者達にしてしまった。道具として、若者を扱う。こんな仕打ちを受け続ければ、生きるエネルギーさえ奪われてしまう。

それを、あろうことか、自らの責任であるかのように思い込ませる。何という悪辣さ。怒りに堪えない。この怒りをどこへ向けるか。原因を探り、オオモトを炙り出す、そのためにはこの「絆」が大事なのである。

弱者が、成り立つ生活を実現しなければ、世の中は良くはならない。いい絆を、実現しなければならない。絆を重視する気運から、世直しは、始る。周辺はもちろん、ひろく世界にその視野は広げられなければならない。


希望と現実

2010年02月12日 00時45分39秒 | 思考試行
希望は常に実現するとは限らない。従って、無理ということも出てくる。自分の希望を通すことが、他者の希望の実現を阻むこともあるだろう。そのせめぎあいの中で、どのように進路を決めていくのか。

力関係もある。論理、倫理、筋、いろんな都合がある。どう決断するのか。手順や運や、他の要素もあるかもしれない。ともかく、希望は、必ずかなえられるとは限らない。堂々とそれを選択できるのかどうか。その渦中にあっては、希望を断念するのは、大問題のように見える。

だが、結局は、大した問題ではない、とも言えるのではないか。後になって考えると、何故あんなに悩んだのだろうかと思うのではないか。大抵のことがそうなのだろうと思う。

ある程度、年齢を重ねてきた結果、自分の場合、すべては、それほどの重要な問題とは思えなくなってきた。

なんでもあり、でもあり、特段、いろいろ制限して考えなくともいいような気さえしている。大胆に、思い通りにやるのもよし、それで、苦しむことがあれば、受け入れればいいのであって、それで、たとえ命を落とすようなことがあっても本望と思えるならば、そうすればいいのである。いずれ、人間は死ぬ。恐れたら死なないというわけではない。できれば、堂々とやりたいことを実行するのが、生まれてきたことを喜べる王道だろう。

だが、こらえこらえての人生を選択したとしても、その結果が、単なるガマンに終わるのではなく、なんでもよい、少しでも、成果として、思えることがあれば、それもよし、である。

何にもならず、最終の場面で、悔いが残るとすれば、それは、残念と思うのだろうか。それでも死ぬときは、寝るに等しいと思われるから、それでもいいのである。目覚めたらやる気で寝たものの、目覚めなかっただけのこと、残念もクソもない。結局、恐れることは何もないのである。