人を制御するものは、最終的には個々人の意志にある。心神耗弱状態であろうと、確信犯であろうと、単独で行動する場合は、その個々人の考え方であり、感性であり、衝動である。牢獄につながれていない限り、どう動くかを、察知して、事前にコントロールすることは、不可能だろう。
事件が起きたときには、なぜ、そのようなことが起こったのか、その背景、動機、心理状態、など詳しく分析されなければならない。その事件から、個々人が、学び、社会が学び、改善への足がかりとしなければならない。でなければ、悲劇の尽きることはない。
見過ごされ、なんの反省もされないのであれば、こんな人間社会は、存在する価値もないといわねばならない。およそ、利己的な人々をみれば、本当に、立腹し、復讐を考える人が出てきても不思議はない。そして、どうやら人間には、ある種のアンテナがあって、それを識別することは可能である。
いくら隠しているつもりでも、それは、滲み出していて、見るも無残な姿を呈してくる。そうなれば、ビジネスでの力がいくらあろうとも、人間社会においての、真の喜びに遭遇することは、不可能だろう。格好だけつけても、駄目であって、どんな厳罰を用意しても、事件を止めることはできない。
といっても、理想社会を作ろうとしても、それ自体に矛盾がある。揉め事の一切ない世界なんてものはありえないし、あったとしたら、必ずどこかに無理がある。錯覚があり、ミスがあり、常に判断には、誤謬がつきまとうのであるから。