空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

対立

2015年09月29日 09時46分27秒 | 思考試行

雇用でいえば、雇う側か、雇われる側かである。報酬は、一方からは安いほうがよく、反対側は高いほうがいい。どこかで妥協するほかない。

力関係だったり、周囲の状況だったりする条件が、それもどうやって決まるのかは定かではない。

国と国との関係も、力関係が出てくる。アフガンのタリバンが、勢力を伸ばしてきている。力関係で、政府側が劣勢になってきている。

多くの住民がいて、単純に空爆なんてできない。誰が正しいのか、正義はどちらにあるのか。

そもそも正義なんて相対的なものであるといっても、多くの命が失われ、悲劇がどんどん生まれている。

人類は、そういう最中にあって、それでも、なんとかいい方向を目指していると思いたいが、憲法で戦争を絶対にしないという規定をもっているにもかかわらず、これは押し付けられたものであって、承服できないという連中がついに、無茶をやった。

戦争ができるとやって、このことが戦争の抑止になるという。武器産業を活発化させ、武器の消費のために、戦争、紛争だっておこしかねない事態ができつつある。

それでも、それが、戦争抑止だと連中はいう。


日本はまだまだなんだなあ

2015年09月28日 09時17分13秒 | 思考試行

民主主義といっても、日本の場合は、敗戦によってもたらされたもので、本当に、自分を支配する者に対して、反抗し抵抗し圧倒して、勝ち取ったものではない。

したがって、長幼の序だとか、民主主義とは違う価値観であったり、権威主義だったり、いろんなものが現存しているように見える。

政治向きのことの話ができないというのは、こうした事情で、はっきりモノをいうと、抑圧があったり、不当な差別があったりするからであって、警戒しているだけの話である。

アカのひとことで、抑圧したりタブー視していることが今だにあるなかで、共産党の支持を言うと、就職は難しいし、周囲からの反発もある、反共主義というのが、理屈抜きであったりする。本当の民主主義が、まだまだ根付いてはいないのである。

戦争になって、引きずりこまれたら、それでその流れに落ち込んでしまうことになる。そうならないためには、タブーなしに話ができるぐらいにならないといけないのは当然のことだ。


日本は立派な国になったのか

2015年09月27日 12時33分38秒 | 思考試行

何故、悲しいほどに、アメリカに擦り寄って、若者たちを戦争へと送り出す、法律を作ってしまったのか。

歴代法制局長官の憲法解釈を覆し、憲法学者のほとんどが違憲という、憲法解釈を強引に行って、小選挙区制の歪んだ選挙制度によって得た不当な議席を元に、集団的自衛権を行使すると立法化したのである。

自衛隊が海外で戦争できるという、憲法9条のどこを読んで、そんなことができるのか、という事態になってしまったのである。こんなことを許すことができないのは当たり前である。

今安倍政権は、経済の問題に話を切り替えようとしている。それで、来年の参議院選挙を乗り越えようとしている。

戦争には反対といいながら、戦争のできる国とし、それが戦争抑止のためだという。日本は、戦争をしないという立派な憲法がある。それで、世界をリードできる可能性があった。また、そうしなければならない人類のために。

戦争しないという国に対して、各国は、どういう態度をとるか。個別自衛権をもっているなら、それでいいわけである。アメリカのために、侵略をできる国になってどうするのか。


無視と同じ効果・・・ではない

2015年09月25日 08時06分36秒 | 思考試行

推敲して常に良くなるとは限らない。そのまともな例として今回の投句があった。当初案から、外れてピント外れになっていしまい、選句されることはなかった。

マイナス方向とプラス方向で、足したものだから、ゼロになってしまったという感じである。マイナスならマイナスで、それは、意味があり、もちろんプラスはプラスの持ち味がある。

それを合わせてしまうと、何のこっちゃとなる。いろんなことがある。経験しているといえる。妻のいい句も、結局、いくつかをボツにしてしまった。自信の無い者同士が、つぶしあっている図式である。

これではいかんと猛反省。只今方向転換を模索中である。投句先で選句されないことが、「外部監査」の役割をはたしていて、これも絶対とはいえないが、そうはいっても、選句されたものをみていれば、選句の正当さに、圧倒的な説得力がある。

そこには、悪意の存在するはずもない。公平無私の判断の目がある。一喜一憂することなく、平常心で、作句していこう。


入選なしと思えば仲間がしていた

2015年09月24日 09時55分35秒 | 思考試行

当方は、このところ落選つづきだが、俳句仲間は、みごと入選していた。昨夜遅くアップされていた。作品は、明らかに当方を上回っており、こうして入選句となってみると、自作の句よりいいことは、はっきりわかる。

今回は、事前にどういう句を投句するかについて、お互い情報交換していたから、仲間の句をみて、これはいきそうだとか、予感がある。

そういう予想が立つようになってきているということは、多少、力がついているのだろうが、自分自身が入選しないとなると、さすがに、気落ちすることは否めない。

自分のペースで、作風を育てて行きたいと思う。長い目で、成長を計っていこうと思う。俳句の世界はけっこう深いものがある。自身の考え方、人生に対する態度が問われる。

いい作品が生み出せるように、精進していくこととする。努力が報われないこともあるし、すぐに成果があらわれないこともある。あるいは、その方向性が、先人の知恵をキチンと受け継いでいない面もあるかもしれない。

とにかく、焦らず、気長にやっていくことである。


入選しなくなった俳句

2015年09月23日 07時50分12秒 | 思考試行

連続で入選していた俳句の投句、このところ、読み上げられない。入選句はいずれもよく、こちらの方は、残念ながら水準に達していないのだろう。

あれほど、続いた入選ラッシュが、パタリとやんでしまうと、途端に、展望が開けなくなるから、人間の感情というのは、ひ弱な面もあるということだ。

いろいろ勉強し、情景を「作り出しても」それが、人工的で無理があると指摘されているようだ。選者は千里眼かといいたい。よく見えているんだ。

昨日、伯母が作句したものを、母親が清書したものが出てきた。今まで、見ても難しい漢字があったりして、「放置」していたもので、所在も不明であった。

読んでみると、写生句が多く、真面目で、努力家であったことが良くわかる。ある俳誌の同人だった。流石である。たまたま、投句先の兼題と同じ言葉もでてくる句もあった。これは、入選間違いなしと思う。

入選しないとなると寂しいことであるが、投句する人の層がひろがり、水準が高くなっているのだから、それはいいことである。それにしても、この現象で、句仲間たち、いっぺんに熱が冷めてしまわないかと、少し心配ではある。


国と国の関係

2015年09月22日 10時55分40秒 | 思考試行

地球温暖化、火山、地震、災害の頻発。地球規模での異常な気象現象についても、語られる。情報は瞬時に伝わり、地球全体が、ひとつの存在として、問題になってきた。

もはや、国だけの意識では、問題の解決は計れない。こうした中で、安保法案は、可決成立した。今後が心配である。

中東やアフリリカまで、出かけて、紛争にかかわり、不要な恨みをかったり、在外公館が攻撃目標にされたりすることもでてくるかもしれない。

世界に関わって、国がどのように動くべきか、これからが問題である。国内政治が今後どのように推移していくか、この調子では、国論が二分されて、政治の方向性が、はっきりしてくるかもしれない。

本当に論議して、方向性を決めていく土壌が、出来てきている。国民の意志などお構いなしにすすめてきた政治は、必ずや弾劾されるであろうし、そうでなければならない。

すべての情報を共有しつつ、あるべき方向を議論することに習熟しなければならない。国民を見下していた政治家は追放されなければならない。

国民の政治的レベルがあがり、それを反映した政治環境がうまれる。そういう中で、新たな国と国との関係が始まる。


俳句の効用

2015年09月21日 10時12分43秒 | 思考試行

知り合いの誘いにのって、俳句を始めた。妻が受けていたNHKの通信講座のテキストや、投句して添削してもらったものなどを、読み返したり、本を仕入れて勉強したり、投句準備でけっこうやることが増えた。

プレバトで有名な、夏井いつきさんが選者である。「落書き俳句ノート」というサイトへ投句する。毎週、兼題により投句されたものが選句されて、月曜から金曜までラジオ放送されたものが、文字でアップロードされる。(皆さんも、ここへ一度アクセスしてみたらいかがでしょう。)

投句は簡単である。メールでできる。

筆者は、4回採用されたが、なかなか嬉しいものである。そして、採用されなかった時には、みんなの句をみて、なるほどと唸らされ、次への意欲を沸かすというわけである。作句のためには、勉強も必要だし、生活の質が変わる。ものの見方にも変化があるように思う。

入選を目指して、知人たちとメールを交わし、投句候補を出し合って、相互に意見交換をしたりもする。エライことになっているのである。


今後どうなっていくか

2015年09月20日 09時58分12秒 | 思考試行

新しい社会は、急にできるわけではない。少しずつ、あるいは、ある部分は、急速に変わるのかもしれないが、いずれにしろ変わっていかなければならないのは確かである。

結局、どのような方向へ国や社会が変わっていくのか、そういうプラン、展望が徐々にうまれてきているような気がする。平和で、民主的な政治、国民の生活に、行き届いたケアがなされる社会は、いずれそうならなければならない自明の政治目標である。

強引なやり方であっても、議席を得さえすれば、その意志どおりに政治を行うことができるというのでは、選挙のときにすべてが決まってしまうことになる。選挙後の、多様な意見や、状況の変化があろうとも、これに対応できないことになる。

安倍政権は、まさに無茶苦茶な解釈で、憲法の制限を乗り越えて、戦争ができる状態に歩を進めた。アメリカがどんなことを言ってくるか、あるいは、すでに海外に展開している自衛隊への影響などなど影響がどのようにでてくるのか、心配なことになってきた。


戦争をさせないために

2015年09月19日 14時15分09秒 | 思考試行

ついに戦争法案が可決された。事態はこれからどう変わっていくか。アメリカの動向、武器産業界のこと、マスコミの権力への迎合、明らかな偏向、犠牲者の発生、政治への国民の関心と、これからさまざまな困難が持ち上がることだろう。

国家のエゴ、変化、儲け主義の蔓延り、貧富の格差の拡大。

こういうなかで、ひとりひとりの国民がどうやって、新しい人類の生きるべき方向を見出していくか。それをどうやって、政治に反映していくか、ますます課題は明確になり、やるべきことが見えてきている。浮ついた考えでは、人類は、生きてはいけない。

国家や、民族や、セクトにこだわった価値観では人類は生きてはいけないのだ。こういう簡単なことが実は、政治権力の真っ只中にいる者や、溢れるほどの富をもちながら、まだまだと欲求不満の連中の欲ボケが、わからない。

そのための世直しをこれから始めなければならない。一から、人間を叩き直さなければならない。そういう時代を迎えているということだ。

戦争法案が通過して、それでガックリ、ではない。むしろ今から、人類の生きるための闘いが始まるのだ。


民主主義を実現できるか

2015年09月18日 09時59分21秒 | 思考試行

国会をとりまく人々。その数はもちろんだが、今までとは、質的に違う。付和雷同で集まった人々ではない。これは、高齢者が知っているかつての動員集会とは訳が違うのである。

アメリカは、日本の政治動向をみて、軍事予算を減らそうとしている。武器産業は、日本市場をチャンスとみて、さらなる売り込みをかけてくるだろう。自動車で得た利益を吐き出すだけどころか、国民を売り渡してでも、儲けのためならなんでもするつもりだ。

昨日の、山本議員の演説は、迫力があった。真実があった。迷いがない。民主主義の根幹に触れていく言葉の勢いがある。これも従来にはないことだ。

自民党は死んだと彼はボードを出していた。これは、多分議場のルールに反しているだろう。みんなそんなことをしていないからそう推測する。だが、与党は、それどころか、憲法そのものを踏みにじって、とんでもない法案を提出しているのであり、非難する資格などない。

戦争法案に反対する運動は、これからである。本気になってきた国民が姿を現したのである。国民を舐めきっていた政権のごまかしが明らかになり、彼等の命運がようやく尽きようとしている。真の民主主義が到来する可能性がでてきた。

かつての、うまくいかなければ挫折の運動ではない。長期にわたる闘いの始まりそれは、いつにかかって、国民の側にある。


9条があって、憲法があって、何故戦争できるのか

2015年09月17日 08時43分23秒 | 思考試行

自公は閾値をこえた。少しずつ騙して、範囲を広げてきた戦力の仕組、アメリカ資本の要求に抗しきれずに、日本はついに、戦争へと参加できる国への変貌を遂げようとして、今、すごい抵抗にあっている。

それでもマスコミの報道ぶりは、極めて抑制的であり、関連のないニュースを流す。事の重大性に目をつぶる。これでは、国民を騙しにかかっている事実が明確になってきた。

野党の抵抗は、どこまでも続けるべきである。ここで、本質が明らかになる。正しいのはどちらであるか。だれが非難されるべきか。安全になるといって、戦場に行こうというのだから、矛盾そのものである。そんなものを許すわけにはいかない。

このなかで、誰が何を言い、何をするのか、マスコミがそういう姿勢を見せないのであれば、それでいい、そういう本質をはっきりさせることだ。

政治家も同様である。誰が正義か、何を言っているか、政治家の大多数は、憲法を変え、9条を変えたがっている。しかし、明確に憲法違反となれば、無視はできない。国民は平和を望んでいる。したがって曖昧な憲法違反の法案を考え出したのだろう。

ともかく戦争には反対することは、正しい。そのためには、どうあっても抵抗する。これは正しい。どちらに正義があるかの問題である。自公は墓穴を掘った。


人類が長期に存続できるために

2015年09月16日 10時08分40秒 | 思考試行

戦争法案について、反対が当然多いけれども、当然というのは、憲法違反がはっきりしていて、これを憲法違反とはいえないとは、とても言えないというのが、さまざまな意見があろうと、一致するところであるからである。

しかし、議会の議席数は、圧倒的に与党が有利で、なんでも通る状態にある。この議席数はどうやってできたのか。少数意見であっても、多数をとれる仕組のなかで、国民の意見の集約とは言い難い、選挙制度のせいであり、決して、民意を公平に反映する選挙制度ではない。

戦争法案に反対でも、賛成でも、戦争をしたいという人はいない。少なくとも表面的には。だが、本音のところで、戦争をビジネスにしている資本側からみれば、それは、まさに、本音である。戦争がなくなれば困る者もいるのである。人類の敵であり、死の商人である。

今度の戦争法案は、この戦争勢力にとって、まさしく有り難い法律であり、70年にわたり、表面上は戦争へコミットすることなくきたのであるが、ついに、アメリカの要求に従い、断る手立てをなくして、戦争への道を歩むこととなる。

法律であるから、ひっくり返すことは可能である。この機会に、国民一人ひとりがしっかりと勉強して、今後に向かうほかない。今の状況では、議決をとめる手段はないのであるから。それとも、戦争に行かされるよりは、ということで、もっと過激になるべきだろうか。いや、それは、といっているうちに、法案が成立する。しかし、過激になるのは、良くないだろう。

どんな土俵であろうと、一人ひとりがしっかりできるならば、一部の問題人の企みは粉砕されるようでなければならない。そのことが、長期にわたって人類が存続できる条件になる。


統計をどう見るか

2015年09月15日 08時12分06秒 | 思考試行

自民党支持が34%、野党や支持なしをあわせると、こちらの方が多いが、実際の政権は自民が圧倒的な議席をもっており、多数決で、すべてを決められる。何故そんな馬鹿なことが可能なのか。まるで、マジックである。

そして、憲法違反の法律だって、成立させることができるということだ。こんなことをいつまでやるのか。少数意見でも権力を握れる選挙制度を導入して、彼ら強者、資本、その子分どもの狙い通りになっている。

小選挙区制の恐ろしさである。これは、制度導入の時期から判っていた。そしてそのとおりとなった。戦争法案の審議がすすむなかで、反対の声はどんどん増えている。

国会に集まった人々は、組織に動員された人ではない。こんなことは初めてである。マスコミは、元気よくシュプレコールをしているところだけを、切り取って、ときどき流しているが、実際は、法案の中味を話す人もいて、それを聞き入る人がいる。単なるデモではない。

国民は、中味を知ってきている。反対の声が盛り上がってきている。そんな実態を報道せずに、国民を舐めきった権力、マスコミは、いずれそれなりの罰を受けなければならない。その姿勢を非難されなければならない。

インチキ統計もありうる。誰が、信用ならない相手に本音を明かすものか。作られた統計がみえる。選挙の公正さを担保せず、政治への関心をそらせ、強者の思い通りに事をすすめることだけを狙う勢力の企みを見抜かなければならない。


やはり妻が正しい

2015年09月14日 08時42分14秒 | 思考試行

いろんな事情が出てきて、先の事の準備をするのだが、妻の方が先を行くと、こちらの認識が追いつかずに、自然と不機嫌になっているらしい。

となると、余計ないさかいが始まってしまう。俳句を始めて、いろいろ材料ができて、夫婦間の話の内容が変わってきたこともあり、其の辺の行き違いも、割に容易に解消されることが増えてきた。

主には、家内の言うことを、当方が理解できたときに、解消となるのだが、我ながら、いささか情けないことである。それでも、いつまでもいさかいが続くようではなおいけないから、その点では、進歩といえるだろう。

それにしても、急速な母親の落ち込みは、そばにいる我々にも顕著である。秋の日の釣瓶落としの感が強い。

しかし、高齢でもあり、状況は自然の推移であり、何も無理はなく、順調に時が動いていて、周囲もその状況に応じながら、やるべきことをやっていける環境にあることは有難い。

その状況に対応できているのは、妻がはたしている役割は大きい。不機嫌になった妻をみると、認知症を疑ったりしたのだが、冷静になれば、妻が正しいというのは、まるで落語である。