国会の論議など、まともにこたえないとか、繰り返しばかりとか、政治の信頼が地に落ちた感が強かったが、岸田首相の「聞く力」のことは、結構新鮮な感じである。当たり前と言えば、そうだが、政治家が国民の声に耳を傾けるのは当然のことであって、できるかぎり説明をする努力をしなければならない。
日本の民主主義は敗戦以後のものであって、ともすれば、国民世論は縛るものであって、聞くものではない、ぐらいが政治家らの本音だと、国民に思われているのではないだろうか。
なんでもかんでも国民の言う通りは、うまくないだろうが、状況を説明し、政策についても懇切丁寧な説明をこころがけなければならない。その意味では、安倍・菅政権に比べて、岸田政権はその姿勢が、国民よりにみえて好感がもてる。
一旦決めたことでも、そのプロセスに問題があったかもしれないが、具合が悪ければ、また、より良いことが考えられれば、変えるという姿勢も、好ましい。一旦決めれば、どうあっても変えないというのは、昔はそうだったかもしれないが、今は、そんな意地を張ることは、害悪である。
決める前に、できるだけ万全にする努力が必要であり、配慮すべき問題も明らかにすべきだが、不備がわかり、あるいは、より良い方策があれば、行動は、大胆に変えるべきである。権力のメンツにこだわっているだけなら、そんなモノは全く害悪である。
間違っているとなれば、直ちに変える、混乱を生ずることもあるかもしれないが、そういう姿勢こそこれからの社会にとって必要なことであろうと思う。
ところが、政権は、憲法9条の改悪に本格的に踏み出す動きをみせている。これは、大変である。戦争をしないために、これ以上ないような憲法9条を変えようというのである。
戦争やむなし、の姿勢があるということになる。戦争はできればしたくない、だが相手が仕掛けてきたら、やむを得ないという考え方だろう。だが、日本の憲法9条はそうはなっていない。どうあっても戦争はしない、というのだ。
戦争をしない宣言をしているのである。戦争はしない、というのであれば、この憲法9条は変える必要はまったくないのである。岸田首相がどう考えているのか、先制攻撃についても考えているようであるが、どうあっても戦争はしないという決意はないのだろう。
ではどうするか。戦争はしないけれども、戦争を仕掛ける国があれば、それは、その国が、大損をすることになるという手立てを考えなければならない。そんなことはできないのだろうか。できなければ人類は滅びる他ないのではないか。