空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

平成最後のブログ

2019年03月31日 00時17分17秒 | 思考試行

 年号とは何なのか。天皇制と結びついて、日本だけの習慣で、呼称されてきた。一々、西暦と変換しないと、何年経過したかがわからなくて、不便であると言う向きもある。

昭和20年の敗戦以来、日本の天皇制度は、根本的に変化した。不敬罪がなくなり、象徴天皇として、有史以来、かつてない立場の存在となった。国家の君主でなくなったわけだが、それでも、「君主的」扱いも残っている。

 歴史は、こうした君主制度を、徐々になくしてきた。アジアでも、ヨーロッパでも。ロシアでは、皇族が皆殺しとなった。

いずれは、なくなる制度であることは、合理的に考えれば、そうなると思われる。人間社会が、どうしても必要とする仕組みかどうかといえば、おそらく、必須の仕組みとは思えない。 

と、こういう考え方は、戦後、アメリカが注入した日本に対する「民主主義教育」の影響であることは、はっきりしている。日本の中では、こうした教育に「惑わされることなく」伝統的な大和魂を持ち続けて、いる人もいるに違いない。

それこそが日本のアイデンティティーであり、それをなくせば、日本はなくなると考えている人々だろう。だが、その勢いは、今や大勢を占めているとは、言い難い。

密かに、静かに、雌伏しているというところだろう。だが、その影響は、あらゆる分野にわたり、知らず知らずに、骨肉となっているとも思える。社会の根幹の秩序のなかに西欧とは違う価値観が、根深く存在しているとともに、実は、とっくの昔に、それらは駆逐されていて、滅びさり、残存する価値観をもつ者たちを、根底から失望させている場面もある。

これらが混在して、力のある者が、その周辺のみに、影響を与えているという現状と思われる。ともあれ、平成は、いよいよ、今日で終わりである。

どういう時代を迎えることになるのか。年号が変わることによって、大きな変化を呼ぶきっかけになるかもしれない。


真剣な治療の歯科医院

2019年03月30日 00時14分11秒 | 思考試行

「良く磨かれています。特に問題ありません」、と言われ続けていたのが、家内の紹介された歯科医院が、全然違うというので、試しに行くことになった。

検査自体が、今までと全然違うやり方である。まずは全体の写真、詳しいレントゲン写真をとる。あちこち、問題がでてきた。歯槽膿漏の元になる歯垢が深いところにあること、歯の神経が死んでいるところも発見された。

日数をかけての唾液検査、口中の菌の状況の検査、肉眼ではわからない現状が説明される。一々納得いく進め方である。

そして、歯科衛生士の役割が、非常に大きい。いままでの歯科医院とは、まったく違う。専門家として、独立していて、仕事ぶりが徹底している。

コンピュータ、レントゲンの撮り方、説明の資料の豊富さ、仕方、治療方針、現状説明にもまったく隙というものがない。これ以上の丁寧さは考えられない。こんな歯科医院があるのだと感心するばかりである。

今日で、4回目であるが、次回からようやく、治療に入る。今までは、前段の検査、掃除であり、歯の磨き方の指導であり、歯垢をとってきただけである。そして、まだ、歯垢が残っているところがあり、次回に治療開始と同時に、麻酔をかけて、残りの深いところの歯垢をとるという。歯のかみ合わせについても、問題があるようだが、それは、先の課題のようだ。

歯垢の取り方にしても、相当な力をかけていた。気の毒なぐらい、固く、頑固である。これを丹念にとっていく。これだけやってもらうと、歯をいい加減に磨いていては申し訳ないと思う。以来、キチンと歯間ブラシを使い、歯ブラシの使い方、すすぎ方も丁寧にするようになった。自分のことながら、真剣にやってくれている歯科衛生士、歯科医師に対する熱意の応えなければという気持ちの方が強い。

それでいて、費用は高くない。唾液を増やすためのガムとか、歯間ブラシとか、この歯科医院で購入したが、どこでも手には入らないもので、その費用も市販品より、少し高いかなという程度で、どこまでも良心的なのである。

歯で大金を使ったという話を聞く。こういう歯科医院と巡りあったことに、感謝しなければならないが、どうも、このような歯科医院は、どこにもあるとは思えない。この歯科医の先生は、二代目だという。二代目だからこそのことなのだろうか。詳しく知っていきたいと思っている。


「まんぷく」が終わる

2019年03月28日 14時56分26秒 | 思考試行

ついに「まんぷく」が終わる。実在の人物をモデルにしたのだが、人間の生涯を描いた作品として、これは、日本の誇る人物像のドラマであった。先に「アニー」をベタ褒めしたけれども、「まんぷく」の人物像も負けず劣らず、日本的な、いい話であった。

主人公は、朝ドラの場合、女性と決まっているけれども、もちろん一人の女性だけでは、ドラマはできない。このドラマにでてくる人物の群像が、作り物ではなくて、現実に存在しただろう人物の群像モデルであって、これらの人々の努力が、日本を戦争の廃墟から立ち直らせてきたのである。

その時代の条件から、次々と新しい試みを行う。理不尽な出来事にも、最善の対策を講じつつ、危機を乗り越えていく。現実にあったことだから、この説得力は、半端ではない。

困難の多くは、権力の理不尽による。この権力が、日本人の優れた資質をどれだけ阻害してきたことか。今もなお、権力の弊害が存在する。弱者切り捨て、富者優遇の政策が展開されている。これに対して、民衆は、怒ろうとはしない。選挙行動に反映されない。思想的に、民主主義が徹底されていないのである。日本の場合、敗戦によってもたらされた民主主義であり、個人の権利、利益を本当に生かすという経験がない。

誰か、とてもかなわない大将がいて、その力を全体の及ぼしながら、そのなかで、個人の工夫や努力が展開されるという風である。矛盾を放置したままで、制度が作られている。スッキリしていないのである。

本当に、人と人が、その個人の力をだし、誰かが一人勝ちしたり、社会全体に目配りをしないできた心無い成功者が幅をきかせているようでは、まだまだの社会である。一人ひとりが本当に、この世に生をうけてよかったと思えるような社会にしなければならない。

どれだけ科学技術が進歩しようとも、その根本ができていないようでは、まさに砂上の楼閣である。そんな社会は、いずれは、ほろびるほかない。AIがどれだけ進もうと、人間自身が、どのような共生の仕組みを築いていけるかどうかが大事である。


映画「アニー」を見て

2019年03月27日 23時23分26秒 | 思考試行

4年ほど前の映画「アニー」をみた。ツタヤで、会費を払えば、一回に5本借りることができ、しかも返却期間が決められていない。借りなければ、会費分だけ支払うこととなるが、この仕組みが、老人の我ら夫婦に適当ではないかと、選んだコースである。

その仕組みのもと、借りた映画である。主要な登場人物は、大金持ちの市長候補と、親の保護をうけられない子供たち、そして、その子供たちを養うことによって、収入が得ている元スター歌手の女性(アクの強い、意地悪女性)、選挙参謀、市長候補を支える女性秘書、そして、主役は、アニーと呼ばれる女の子である。

よくできた映画である。人の世の有り勝ちな、欲ボケの人たちが、子供に心を開かれ、変わっていく。そして、人間的に数段の進歩を遂げる。ハッピーエンドのわかりやすい、心地良い映画である。

アメリカ映画でこういう映画が作られて、日本では、こういう映画を見かけないのは、なぜだろうか。アメリカでは、捨てられた子供を、救う制度があって、それをクイモノにしている人もいるが、映画の調子が、それほど、深刻には、描かれない。子供らは、たくましく、むしろ楽しそうなのだが、それは映画であるからだけではなく、アメリカ社会の根本的な健康さがある。だが、楽しそうな中に、やはり、子供達は、辛い立場にある存在であることは、はっきり思っていて、この街から出たいと思っているのは確かなのだ。

それでも、日本の現状をみると、こんな映画は作れない。これほど、社会が本音をさらけ出し、明るくたくましくなってはいない。要するに、抑圧されたままで、自分を解放したという経験のない社会であり、文化水準なのだろう。やはり、アメリカは、格段に進んでいるのだ。

日本の病根がどこにあるかは、指摘できる気がしているが、あけすけに書きたくない。この遅れは、決定的で、日本人の、日本社会の根本的な根源的な、改造が、できていないことを、この映画をみて、痛切に感じた。日本はウソとゴマカシから、抜け出てはいない社会なのである。不正直な、ええかっこしいが幅をきかしている遅れた社会なのである。

 


力を抜けるかどうかと力一杯にできるかどうか

2019年03月23日 15時45分31秒 | 思考試行

概ね、肩に力が入ると、力んで失敗することが多い。力が抜けている状態でなければ、微妙なテクニックを使うこともできないし本来の実力を発揮しがたい。

野球のバッティングなど、肩に力が入っていては、もてる能力を発揮することはできない。一般に、スポーツで余計なところに力が入ってしまうと、好成績は残せない。

一方、全力を発揮できるかどうかについて、いい加減な覚悟、気持ちで、事にあたることと、持てる力の全力を発揮できるかどうかで、事の成否が決まる場合がある。力が相対的に足りないとしても、全力を出していることがわかれば、とりわけ芸術の分野などでは、とてつもない効果を発揮し、感動を呼ぶこととなる。

時に力を抜くことが、より能力を発揮するための必須の条件であり、片や、持てる力を、余すところなく発揮することは、まったく正反対のようにみえて、実は、力を発揮した成功例ということで、同一となる。

そこには、おそらく、人間の能力発揮のための論理があって、これを体得しているかどうかが、勝負を決める。何かの具体的な問題に取り組む際に、どういう手順、作戦でいくのか、この力の入れ具合が重要である。

 


安藤サクラさん性格がすばらしい!

2019年03月22日 14時16分58秒 | 思考試行

今朝のアサイチをみた。安藤サクラさんがゲストで、「まんぷく」のどのシーンが、印象に残ったのかの、これはアンケートだったのだろうか、途中からなので、そこはキチンと見てはいなかったのだが、一位が何であるか、と尋ねられたサクラさんは、いろいろ考えていたようだった。そして、一番は、夫婦ふたりが横になって寝ていて、赤ちゃんが真ん中にいるシーンだった。

そして、声を出した方を、赤ちゃんが、いちいち、そっちへ顔を向けるという場面である。なるほど、赤ちゃんの仕草は、演技とすれば、これ以上ないものである。とにかく、可愛くて、自然であり、こんな演出は考えてではできない。奇跡のシーンだろう。視聴者のアンケート結果は頷ける。

そのとき、サクラさんは、恥ずかしいと言った。自分がゲストで呼ばれて、自分が主人公のドラマで、自分のシーンだろうと、思い込んでいたというのである。そこを恥じた。手でパタパタ顔をあおぐ。この仕草が、彼女の性格を素直に表している。ひっかけ問題に引っかかたようなものと感じた、というのではない。そんな思いは微塵もない。そこも素晴らしいのだが、単に素直に、自分自身の思い込みを恥ずかしがったのである。

自分の思い込みを恥じる気持ちを、さらけ出し、その心理状態を、解りやすく説明してくれた。これが、なかなかできない。素直で、謙虚で、これこそ、彼女の性格がはっきりあらわれたシーンだった。

彼女は、芸達者でならす女優さんで、さまざまな役どころを、見事にこなしていく。どんな性格の人だろうかと、思っていたが、性格が意地悪な人には、いろんな役なんてできないのかもしれないと感じた。性格がいいからこそ、どんな役でもこなせるのかもしれない。そのための努力は、体づくりなど、すべてにわたって、細部にわたる神経を走らせる。素晴らしい達人の女優さんである。


人類に危機をもたらすことをなんとも思わない人々

2019年03月21日 21時36分27秒 | 思考試行

そういう人間が明らかにいる。戦争映画は、近頃流行らないのかもしれないが、古いビデオなどみれば、戦争場面が、延々と続いて、何のためにこんなシーンが続くのだろうかと不思議に思う。

人間が殺し合うことは、異常であり普通でないから、映画にもなり、ドラマにもなる。ほんの74年ほど前には、普通の人々が戦争で人を殺すことは、あたりまえであった。実際にイメージしてみて、その残酷なことはすぐにわかることである。沖縄、硫黄島、東京大空襲、大阪大空襲、全国各地への空襲、広島長崎への原爆投下、これによって、何百万人もの人命が失われ、国民は苦しみのどん底へ叩き込まれた。

戦争がとんでもない悲劇をもたらすものであることを、知り尽くしているはずなのに、憲法を変えて、戦争ができる国にしようとする勢力は、徐々に、その力を蓄えつつある。理不尽な圧力、国と国の面子、領土問題、戦争する法的基盤と理由さえあれば、名誉と誇りのために、生命も惜しくはない。あるいは、そういう人間がいることをみこして、自分や子弟は、戦争等にいくことはないが、どうでもいい大衆諸君は、いくらでもいるのだから、かれらをたきつけ、国のために生命を投げ出させることは、厭いはしない。

勲章でもなんでもやる。家族に年金だって、支給しようではないか。他国に舐められない、こちらの正当な主張が通ることこそ大事である。と、こんな風の方向が見えてきているのではないか。

人類が、全体として、平和な貧困のない世界を目指している姿ではない。目先のディールの虜になっている。それもあけすけな、自国ファーストを打ち出して、恥じるところがない。指導者がそんな具合では、困るのである。人類の叡智の体現者であってほしい政治家が程度の低い本音を喋っている。

何のために、長期のお金のかかる選挙活動をしてきたのだろう。いまだに、聖書に書かれていることが「真実」であると信じきっている人々がいる。論理的な矛盾点を示して、サッサと論破しないのだろうか。

少なくとも、それを信じきってしまう危うさについて、語りあうことはできないのだろうか。とにかく、人類社会は、とんでもない水準のまま、推移している。


お笑い芸人こそリーダーになるべき

2019年03月20日 12時57分47秒 | 思考試行

ドラマで、人を感動させたり、小説が、人生に大きく影響を与えたり、最近はゲームの世界でも、人の人生観に影響を与えるものがでているかもしれない。ものすごい人数の人が、熱中しているところをみると、そのような要素があると思う。

小生は、マンガ世代でなく、書店に行っても、マンガコーナーは、素通りするが、たまに喫茶店兼食堂のような店に入って、マンガがたくさんおいてあり、注文の品がくるまで、手に取ってみたことがある。絵があって、ストーリーがあるわけで、映画のようなものだ。わずかの時間で、一話を読んで、マンガの力を認識した。

シーンが具体的だから、わかりやすいし、イメージも描きやすい。説得力もある。マンガ作家は、強力な発信力を持っている。そして、お笑い芸人は、人間性そのものが勝負である。人間性の多様性、その人の人生観、人間的魅力、こっけいなギャグだけで生き残れる仕事ではない。

単に好感度ばかり、追いかけてもダメで、やはり、人に対して、ある種の感銘をあたえる仕事だと思う。素直さや、人の良さや、人間社会に対する深い洞察や、人間というものの可能性、展望、楽しく過ごすワザ、などなど、人類のリーダーになるポジションにいる。

といっても、聖人君子を目指すわけではない。庶民の中で、艱難辛苦をした人、している人、その現状を知り、自らもその中にいた人もいるかもしれないが、それこそが、力である。勉強をする環境もなかったかもしれない、エリートとは無縁かもしれない、しかし、そこが大事である。そこからの人間の展望である。立ち上がる展望である。

エリート出身であってもいい。お笑い芸人に、制限はない。

多様な、育ち、生き様、そのような環境の違う人たちが、同じ仲間として、「お笑い芸人」として、ジャンルを構成している。可能性を秘めた人々である。期待の眼で見ている。


お笑い芸人の可能性

2019年03月19日 00時46分29秒 | 思考試行

いろんな手法で、人のこころを掴む仕事だが、結局、芝居のように、芸を展開するわけではない。

生き様、人との関係性、そして魅力、なにが売れる要素なのか、しゃべくりにしても、内容がつまらなければ、人気は保てない。だからといって、媚びてはならないようだ。

どんな芸人が売れているかといえば、結局のところ、好感度の高い人物ということになる。正直であったり、大胆であったり、素直だったり、そして細心だったり、思いがけないアイデアをだす。とにかく、人のこころを打つところがなくてはならない。

可能性の問題であるが、お笑い芸人の真骨頂は、人間の生きがいに影響を与えることではないだろうか。その芸をみて、悲しみから立ち上がり、正義の良さの目覚め、邪な心を反省させ、生きる力をもたらす、心の底からのエネルギーを注入する喜びである。

そのためには、自らの芸の中に、あるいは人生にその核となるものが、なくてはならない。必要になってくる。お笑い芸人そのものが、人生を楽しんでいなければならない。お笑い芸人は、人生の達人でなくてはならない。

無茶苦茶の中に、光るものがなくてはならない。結局は、自分を騙さず、人間に対する愛情があるのか、どうか、ということかもしれない。

笑いのタネは、あちこちにあって、それをどう調理し、芸にしていくのか、難しいけれども、人類の指導者になれるような、そんな芸人がでてきてほしいと思う。そういう仕事だと思う。

テレビで、その芸人がでれば、みんなが癒され、魅了され、生きていてよかったと思わされるそんな芸をみたいものだ。そういう人間がいてこそ、人類社会はよくなっていく可能性がでてくる。


人生を「サックサク」生きる。

2019年03月18日 11時49分11秒 | 思考試行

「サックサク」というのは、頭文字で、ローマ字にすると、SAKSKである。

S  親切にすること

A 明るくしていること

K 謙虚であること

S 素直であること

K 感謝すること

これは、佐藤愛子さんの著書「私の遺言」のなかで、佐藤さんが親しくされている方の人生への対処の仕方が書かれていて、これを、受験勉強風に、暗記しやすく頭文字をつけてみたものである。(なかなかいいでしょう。)簡単そうで、忘れているというか、感謝や謙虚などあまり考えなかったから、意表をつかれた思いがしたものである。というか、素直でもないし、親切でもないし、明るくないし、全部がゴッソリ抜け落ちているではないか、とびっくりしたのである。

それでも、営業の仕事をしてきて、それほどの成果をあげてきたわけでもないが、なんとか食べてこれたのは、どこか、お客様からの支持をいただいてきたのは間違いなく、少しは、自分を認めてやりつつ、遅まきながら、感謝している次第である。

最近、予防歯科の医院を、紹介されて、治療が始まった。というより、治療の前段階だが、歯と歯茎、唾液の検査、及び掃除、歯石とり、にもう3度ほど通った。いままで、さほどのトラブルもなく、よく、手入れされていると言われてきたのだが、問題点をいくつも見つけられた。歯の磨き方、歯間ブラシの使い方、などなど。歯槽膿漏になりかけの部分の指摘もあった。

まだ、本格的な治療には、かかっていないが、ここまでで、認識が変わった。歯科治療に本気で取り組んでいる歯科医院であること、そして、この医院の、歯科医、歯科衛生士、受付の人、それぞれの方がSAKSKなのである。人生を楽しく生きる要諦ではないかと確信する。


続けることには自信があるというべきか

2019年03月17日 00時33分39秒 | 思考試行

今だに放送大学の学生を続けていて、少しずつ、単位をとり、続けてきた。別に、何等かの資格に結びついたわけでもなく、取り立てて、「教養」がもたらす、幸運ということも特になかった。

というより、大きく生活が狂うといった事態にならなかったのは、この「教養」のおかげかもしれない。さもなければ、とんでもないことを「やっちゃた」ということになったかもしれない。

広い分野で、人々が努力し、小生よりも年下の人達が、どんどん追い抜き、次々とその分野分野で、成果をあげ、新しい知見をもたらしてくれる。いやでも、謙虚にならざるを得ない。自分がなにができるかと中途半端に、ぼんやりと考えてはいたが、結局は具体的に着手するテーマを見つけることもなく、決意を固めることもなかった。そして、人生の最終盤を迎えている。

振り返れば、目先の仕事を片付けるだけの人生であったように思う。なんとか、食うだけは、できてきた。わずかだが、寄付なども続けてきた。本当にわずか。

佐藤愛子さんの「私の遺言」の中では、たいへんな超常現象にあって、それに対処するために、霊が見える人たちとの交流が始まる。見える人は、遠藤周作さんの霊もみえるといい、彼は、霊の世界のいいところにいるという。「たくさんの寄付をしたからなあ」と本人は、笑っているそうだ。

そう聞くと、わずかの寄付しかして来なかった小生は、どんな処遇になるのだろうかと、あの世については、期待をもてないことが予想され、試験結果が悪いときのような、心がまえがいるのだろうと思わざるをえない。


土曜の楽しみ「正義の見方」

2019年03月16日 12時02分07秒 | 思考試行

東野氏の司会ぶりは、好感がもてるし、タレント陣が素朴な意見・質問をだして、専門家の学者、評論家が情報を伝えるというスタイルは、エンターテインメントを越えて、国際情勢・情報を解りやすく伝えているように思う。

スポンサーや、さまざまな政治勢力もあり、テレビだから、おそらくは、制約も多いだろうし、その中で、当たり障りなくの基本線はあるに違いないが、その中で、これだけ、生き生きと情報を扱う番組は、ここ以外にはないのではないか。

とりわけ東野氏の司会ぶりは、水を得た魚のようで、生き生きとして、そして伸び伸びしていて、非常に好ましい。彼そのものの人となりが、自然であり、構えたところはないし、人間的に相当できた人であるように思う。偉ぶったところがないし、彼がどのような経験を経て、今に至ったのか、吉本芸人の世界が、彼を育てたのか、興味深い。

一度離婚して、その同じ人と再婚したという話を、どこかで見たことがあるが、まさに、その事実のなかに、彼の人となりが出ているような気がする。

もとは他人同士の夫婦が、暮らしていくことは、一方の我慢や忍耐だけでは不可能で、また、我慢ばかりでは、共に暮らしていくことは苦しい。そこには、他人同士が暮らすための、「要素」がある。

彼は、あれこれのノウハウだけでなく、大事なものを掴んだのではないだろうか。ますます、研鑽をつんでいただきたいものである。


筋が通らないことは大変なことである

2019年03月15日 14時39分35秒 | 思考試行

嘘をついても、絶対に認めない。どんなに証拠を示されても、なんとか言い抜ける。言い抜けできないことも、認めない。それどころか、相手こそ嘘つきだと、逆襲してくる。

国会議長が、抗議に対して「盗人猛々しい」と罵ってくる。こんな国と、まともにつきあう方が、いけない。こんな理不尽を許すということは、自分にも心当たりがあって、相手を非難できる資格がない、とでも思っているのだろうか。

案外図星かもしれない。最近の日本の政権も、選挙で勝ったのだからと好き放題をやっているようだ。自分の信条とあうからとか、お友達だからと、政治を私物化して、ボロボロと証拠がでてきても、必死のパッチで、知らぬ存ぜぬを貫く。

これに協力して、記憶がないを連発した官僚は、出世する。

どこに、筋を通す姿勢があるのか。あろうことか、官僚は決裁文書さえ改竄してみせた。まじめな公務員は、自殺した。

ちょっと無茶苦茶になってきた。世の中下品になってきた。環境問題を無視するなかで、自然災害が半端なく、激しくなっている。研究活動に予算をつけないものだから、改善の活動が、劣化して、いよいよ人類は、対処できなくなってきている。

頑張っているところと、無茶苦茶なところが、混在して分断状態がはっきりしてきた。

無茶苦茶サイドは、もう、信念で固まり、どうあっても、自分の意見を曲げない。

こうなると、対処が難しい、というか、解決は不可能ではないかと思わざるを得ない。人類は、もう終わりなのだろうか。


売れない芸人はどのように暮らしていくのか

2019年03月14日 00時20分36秒 | 思考試行

売れない芸人を、題材にして、テレビ番組にしていた。アルバイト生活で、収入は劣悪だし、将来を考えると、暗澹たるものである。今のままで、売れることがなければ、間違いなく、老後は生活保護となるほかない。

もっとも生活保護をうければ、なんとか生きていくことはできる。公の援助など、受けないなどと頑張らずに、なにか適当な趣味をみつけて、機嫌よく生きていくことは可能だと思うが、周囲の冷たい視線や、思いやりのない言葉を受けたりして嫌なこともあるかもしれない。

だが、芸人魂で、そのときこそ、ボランティアをするなり、でなくても、内面的にゆたかな暮らしをおくることは可能ではないだろうか。

堂々と、生きていくべきだ。卑屈になる必要なんか絶対にない。生きているだけで、それは、人を救っていることになる。絶対に誰の役にも立たないようにすることは不可能であり、人間は、かならず誰かの役にたってしまうのである。

迷惑ばかりかけて、極悪人であっても、それでも人の役に立ってしまうのである。人間の不思議なところである。彼がいることによって、暮らすことができる人がいるのである。

人を苦しめたり、悪いことばかりをしている人でも、役にたつということは、そうでない人は、さらに、良質に、人の役に立っていることとなる。

堂々と生き抜いて、死ぬまで生きていく。できれば、人が喜ぶことをしたいが、それがまた迷惑だったりするけれども、そんな食い違いも含めて、自分の価値観にしたがい、生きていくほかない。

その価値観が誤ってはいないか、謙虚に反省しながら、点検しながら、生きていくようにしようではないか。売れない芸人さんをみていて、そうの思った。


あっさりと退場すればいい

2019年03月13日 00時19分01秒 | 思考試行

できるだけ、誰にも迷惑をかけることのないように、自身の整理をはかることとしたい。兄弟、妹、甥や姪、かれらを決してあてになどしない。

すこしでも、そんな気をもてば、余計に混乱を招くにちがいない。適当な方策を、真剣に探っていきたい。

思えば、同年輩の知人、同級生など、身近な人が次々に他界している。順番が徐々にやってきていることを実感する。

その日までに、やるべきこと、依頼すべき組織などを決めて、どのような順番で、段取りをしていくかを準備したいと思う。

妻と自分の両親にすべて関わり、それなりに、子としての役割を果たしてきたと思うが、だからといって、誰かがそのこと、役割をみて、次は、・・・と思ってしまうと、それは大錯覚である。

今までの、様子をみていて、こちらも、それなりの感想をもっているわけで、事情をよく把握して、適切な選択をすることになる。

考えれば、大きな事件に遭遇することはなく、戦争に巻き込まれたわけでもなく、多くの人に助けられながら、それなりに、生きてこれたことは、すべてのこと、人に感謝しなければならない。

いろんなことがあったけれども、それぞれ、無駄ではなく、自分の限界、ダメさ加減、ごまかし、いろいろ見えている。やってしまったことは、もう戻らない。そのことで、人を傷つけた可能性もある。

久しぶりに会った、同級生に、同窓会のときに、在学中にこちらが、心無い発言をしたことを、同じようにして返されたことがあった。瞬間にその時のことを思い出した。その時は、なんとも思わず、以後についても、そんなことを思い出しもしなかったのだが、返されたその瞬間に思い出すのだから、人間は不思議である。

彼は長年、そのことを忘れずにきたわけで、申し訳ないことをしたものだ。その時にすぐ侘びたが、彼は、まともには受けずに、うまく対処してくれた。以後、わだかまりをもつようなことはないが、こちらは、彼をみるたびに、申し訳のないことを言ったものだの反省がわきあがる。

これも、教訓となって、役にたってくれているのではないだろうか。