空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

宗教か科学か

2011年10月26日 06時47分25秒 | 思考試行

一神教か多神教か

戦争か平和か

継続か休止か

物質と反物質

・・・・・

多くの「二項対立」は、おそらく統合的な、解決をみるでしょう。

世の中は、これからさらに激変するでしょう。

しばらく、「座禅」することにします。

 

 


ショック・ドクトリン下巻を入手

2011年10月24日 07時49分51秒 | 思考試行

昨日、天王寺ミオの書店で、購入した。在庫が上下2冊のみと言われて、驚いた。もう少し、売れているのではないかと思っていた。確か、難波の書店では、平積みになっていたように思ったが、店員に持ってきてもらったので、実はみていない。

早速、読み始めたが、やはり結論が気になる。パラパラと後ろから、見始めると、新自由主義のその後の状況がでてきている。民衆の側からの、粘り強い反発の行動で、人間社会のあるべき方向が模索され、成果もでてきているようである。多くの民衆の、本当の意志がなければ、それは、できないことである。

詳しくは、読んでいないから、総合的なことは、書けないが、単なる告発本ではなく、それこそ指南書になっているようで安心した。問題ばかりで展望がなければ、辛いものがあるからだ。

そこで思うのは、橋下知事の動向である。彼は、躍起になって、公務員攻撃をしている。特に、教育関係には、日の丸、国歌など持ち出して、権力の強大化に熱心である。

以前、府庁の別館には、大きな食堂があった。周辺の食堂に比べて、価格が安く、昼時には、府職員のみならず、誰でも利用できたから結構繁盛していた。貧乏人には重宝していたのである。

おそらくは、家賃やなんかについての有利さもあって、周辺より安くできたのであろうし、府職員の福利厚生的な意味もあったと思われるが、橋下知事となって、廃止されている。かなりの人数の人が働いていたし、各方面への影響は、大きいと思えるが、あまり、問題にならないまま、潰されてしまった。

あとのスペースは、特段の有効利用は、されてはいない。理屈がはしっているだけのことのようだ。ショックドクトリンにでてくる新自由主義的色彩がある。都構想についても、そのニオイがする。

弱者や、国民生活についての配慮であるとか、今後の影響などは、語られない。おかしな方向である。

TPPも、医療や農業など、相当な混乱が予想される。そこに、国民生活についての、配慮がないことに留意しなければならない。貧富の差の拡大を目指す方向が、目立つようになっている。国民の側が、それを見抜けるかどうかが、今後の問題になってくる。

これらは、ショックドクトリンを読みはじめて、感じ始めたことである。国民が、民衆が、本当に対抗する意志をもたないと儲け主義どもの策略が、通ってしまうことである。


実験

2011年10月23日 06時07分56秒 | 思考試行

ここのところ、体重コントロールをしている。毎晩の焼酎の水割りもやめて、タニタ社員食堂レシピによるカロリー調節を実行している。

今朝の体重は、77.6kgである。6月25日には、82.4kg、10月1日には、79kgであったから、かなりの減量を実現している。ただし、昨日の朝は、77.2kgであったから、一晩で、400g増加した。

これは、昨夜の夕食については、来客があり、禁酒を一時休止し、すしやなんかを、あまり制限せずに食し、さらに、焼酎のお湯割りも、4杯はおかわりしたためである。どれだけ食べれば、体重がどのように変化するか、がはっきりと数値で出てくる。

目標は、75㎏であるが、食事と運動で実現したいと思っている。そのために、記録をつける。数値というのは、管理のためには、必須である。今は、なんでも数字で追い回されることが多いから、時期がくれば、カンでもって、コントロールするようでありたいと思うが、そのカンを養成するためにも、日々の生活を記録し、当面、実験を継続していきたい。

 


独裁者の生き様をみて

2011年10月22日 15時23分45秒 | 思考試行

カダフィ大佐がついにその人生を終えた。若き日に、権力を握り、したたかに、大国と、あるときは対立し、力関係をみながら、あるときは、妥協するなど、うまくおりあってきたが、民衆の怒りを買い、ついにその末路をむかえた。

中東におきた、一連の展開で、どこの独裁者たちも、莫大な個人資産をもっていたことが、あきらかとなった。彼等独裁者たちの共通項である。適当にしておけば、善政をしいたことになり、国民の信頼を得ることも可能とおもえたが、彼等自身が資産以外を信用できなかったのだろう。

そのことが、結局、国民の怒りを買い、どうしょうもない破滅の結果を招くこととなった。権力者は、まずは、自分のことが中心になる。それは、人間一般に言えることかもしれない。しかし、それでは、うまくはいかない。いつの日にか、その矛盾が問題になる日がくる。

資本の都合は、世界中に行き渡り、巨大な力となって、うごめき、弱者をくいものにしながら、ますます自己増殖を続けている。アメリカでも、職を求める人々が、この矛盾に声を上げ始めた。富裕者は、黙ってこの事態を眺めていてはならない。自らの、儲けすぎを還元する努力を開始しなければならない。そのことが、カダフィの教訓を生かすことである。


アメリカの歴史を学びはじめて

2011年10月21日 13時38分17秒 | 思考試行

放送大学で、今学期は、アメリカ、ヨーロッパ、イスラームの歴史を学ぶことにした。DVDを借りて、アメリカの最初の2巻をみた。

現地にすでに住んでいたネイテブアメリカン、アメリカインデアンは、ヨーロッパからの移民との接触の結果、抗争、病原菌の持込、裏切り、策略にあうなどして、現地人は、ほとんどいなくなってしまう事態となる。

まことにすさまじい歴史の真実が語られる。映画などでは、流入した側から描かれているものが圧倒的であり、アメリカインデアンは、悪玉扱いをされてきた印象がある。現地に住んでいた側からみれば、理不尽極まる話で、たいへんな悲劇である。

人間の歴史を学ぶことは、これからの時代を考えるとき、必須のことと思われる。歴史のなかに、人間のしてきたことが積み重ねられているのだから、そこには、多くの財産がある。捻じ曲げられた歴史もあるかもしれない。時の権力者が都合のいいように、「歴史」を作る例もある。

それらの意図を、すべてはぎとり、人間のしてきたことを明かにしていく。残酷な面もある。感動する場面もあるだろう。すべては、これからの時代のために、生かされていくと思いたい。

今の時代そのものが、それこそ「理想」からは、程遠いと言わなければならない現状で、歴史を作る一員として、なにがしか、人類の幸福のために、為していきたいものである。


ショックドクトリンの上巻を読む

2011年10月20日 08時07分05秒 | 思考試行

読むといっても、目を通したという程度の意味になるが、それでも、最後までいくには時日を要した。なにしろ分量が多い。ただ、はじめて知った話ばかりであり、自分の周囲に起こっていることとも関連して、腑に落ちる読書体験をさせてもらった。

政治的な弾圧や、拷問の手法、それと密接に関わるビジネス手法のからみあっていることが、説得力を持って語られている。世界中での、あちこちの事例が語られる。序章で、アメリカルイジアナ州での、ニューオーリンズの水害を契機として、公教育が破壊され、教員の職がうばわれ、ビジネスチャンスにされていくプロセスが描かれる。

災害や、事件を、ビジネスチャンスととらえる「惨事便乗型資本主義の正体」が暴かれる。貧富の格差が、次々に、実現されていくプロセスが理解できる。これに対処する方策は、下巻で語られるようなので、早速購入したいと思っている。

さて、日本の現状をみれば、こういうビジネススタイルは、すでに、かなり浸透してきているように思える。従来とは違う、考え方、金儲け主義のあからさまな姿勢が顕著となってきている。たとえば、損保業界の代理店制度などは、全然形が変わってしまった。代理店手数料は劇的に下げながら、顧客の支払い保険料はむしろ上がっている。そのもうけの差額は、株主へいく。外資の強い要求であるらしい。

へんてこルールのおしつけは、南アフリカの事例でもでてくる。欲深な連中の策謀にみごとにはまって苦しむ人々。これらの実態を、まずは知らなければ、解消には向かえない。その意味で、この本のもつ意義は大きいものがある。

著者のナオミ クラインさんは、現在41歳の若きカナダ女性である。本書が3作目であるという。「たのもしい」人が現れたものである。


エラそうにすること

2011年10月19日 09時45分26秒 | 思考試行

自分の緊張をなくすために、高飛車に出て、それがうまくいくと、自分の気持ちが楽になるという効果があるのかもしれない。従業員が年上で、しかも経験豊富なために、遠慮がちとなり、名前をよぶのも「さん」付けであった社長が、本人の了解をえて、「呼び捨て」にすることの了承をとりつけ、そうしたところが、気が楽になった、という。

言われるほうにすれば、雇われているのだから、給料をもらわなければ生きてはいけないのだから、と思えば、呼び捨てにされるぐらいのことは、了承するだろう。しかし、社長の気が楽になるというのは、相対的には、雇われる方が、命令に従わざるをえないという、従属関係を思い知らされることになる。

ナンダカネー、の世界があらわれる。

医師にも、いろんなタイプの人がいる。エラそうにする者、ものすごく丁寧な人。フランクな人、医師と患者の関係は基本的には、変わらないと思うが、この違いはどこからくるのだろうか。

おそらくは、医師の側の考え方にある。「診てやろうか」というのと、「診させて頂く」と思う人では、医師の態度は、相当変わるにちがいない。エラそうにされると患者は反発を感じるのが普通だろう。

いずれにしても、エラそうにすることは、エラそうにされる人の気持ちを考えてはいないわけで、使い方を誤ると、たいへん危険であることを知らなければならない。


散歩の途中で

2011年10月18日 08時15分33秒 | 思考試行

ようやく体調がもどり、このところ、散歩を再開している。いつもと違うコースをとっていたら、小さなキリスト教会の戸口が、突然あいて、なかから人々が出てきた。部屋の中が少しみえて、かなりの人数が、帰り支度をしたりしている。

この教会は、前からあるのは知っていたけれども、人が集まっているのをみたのは、始めてであった。どういう集まりで、何をしていたのかは、わからないが、「仲間」としての行事であるから、そこには、外部の人にはわからない世界があるのだろう。熱気のようなものが、押し寄せてきた。

この感じ。

おそらく、これが魅力の源泉だろう。

仲間、セクト、・・・、親しみ、・・・

しかし、ここに病理もあると思ってしまう。なにかゴマカシてはいないか。そこを越えたところに、人間の目指す地平があるのではないだろうか。

 


ネコとの同居で

2011年10月18日 07時35分12秒 | 思考試行

もう何年にもなる。三匹の子猫が、親と別れて、居ついてから。それ以来、入れ替わりたちかわりで、とぎれることなく、今は5匹いる。ウチ猫三、ニワ猫二。多くのであい、別れ。涙の事件もあった。

病気もすれば、(いま、膿のニオイにつつまれているのが一匹いる。)障子をガリガリやるし、トンデモナイところに、コロコロと、ころがし、カーッペットは、気持ちいいのか、ときおり湿らす。騒ぎになっても平然としている。「犯猫」が誰かは、観察して、こちらもわかっているから、対処はしている。寝室の布団だけにはさせないように、厳格な配慮を、家内がしている。

それでも、ひたすら眠るその姿は、「癒し」をくれていることは間違いなく、調子の悪いときのガマンの姿勢は、哲学者か思想家か、ジッと動かず、ただただ座禅瞑想していて、なんぼこちらが鈍感でも、騒がない姿は、なにごとか感じさせ、教えてくれる。

それぞれがそれぞれの思いをもって、群れない。おなかが空いて、要求する姿は、まさに要求であって、依頼哀願ではない。それでも、要求がかなうとなれば、いつもは、遠目に見つけると、逃げようとするのに、体をぶつけ、頭をこすりつけ、尻尾を小刻みに震わせ、悩殺ポーズを炸裂させる。

彼らは区別する。家内が一番で、当方は、あきらかに二番手。日頃の世話の度合いが違うし、なんぼなんでも、あれほどの「よびかけ」「こえかけ」は、とてもできないし、家内が外出のときは、当方も当然のごとく相手にしてもらえるのだから、それでよしとしなければならぬ。

 


寄付について(2)

2011年10月17日 06時38分20秒 | 思考試行

大震災で多くの寄付がよせられている。インターネットで検索すると、誰がナンボ、というデーターがでてきたりする。本当の数字かどうかは知らないが、この寄付行動は、もっと展開されるべきだし、その実態が毎日新聞に出てきてもいいのではないか。

どう集められ、どう使われているか、が解れば、余裕があるときは寄付することに意欲がわく。それこそ、ポイント制度があってもよい。いいときに、たくさん寄付をしていた人が、なんらかの事情で困窮したときに、今度は、救ってもらえる、のもいいではないか。

また、事情で、ずっと援助を受けなければならない境遇であったにしろ、それは、人が助けるという行為ができる対象になって「あげている」ぐらいに考えて、それもまた、人助けである。

多様な人生、価値観のなかでも、基本的にはキチンと助け合っている仕組みがあることは、人間社会のめざすべき方向である。

孫さんや、石川遼さん、の多額の寄付に驚いたが、その後のニュースがない。マスコミエリート諸君は、おそらく寄付などしていないのではないか、関心がないのではないか。それとも無視を決め込んでいるのか。

寄付は、国内のみならず、全地球上で展開されるべきであろう。アラブの長期独裁者達は、のきなみ自己資産をためこむのに熱心だったことが明らかとなった。生活に心配があったのか。恥かしい実態!これこそ人間の屑だ!

資産ができれば、もっともっととなり、他人がどうなろうとかまわない、こんな浅ましい人間が、「自由を求める」。もっともっとの自由である。規制をするな、もっと儲けさせろという。

アメリカの抗議行動の行く末が気になる。解決の方向は、「寄付」である。恒常的な仕組みを作ることが解決の道である。さあ、金持ち連中はどうするのか、弾圧するのか、吐き出すのか、有り余る金をどうするのか。


年金支給開始年齢の引き上げの画策について

2011年10月16日 06時15分45秒 | 思考試行

年金財政の実態と、将来の人口、年齢構成予測などで、こういうプランが出てくるのであろうが、若い人たちの雇用状況が、不充分であり、非正規労働者が増えているなかで、厚生年金に入れているかどうかさえ、危うい状況で、支給開始年齢引き上げをうち出すことは、年金制度の魅力をそぎ、制度の崩壊を加速させかねない。

老後はだれにでもやってくる。若いうちから、準備をして、それなりに対策ができていることは、日々の生活に芯があって張り合いが生まれることであり、国がこの年金事業に関わることは、いわば、先進国を標榜する国にとって、必須のことだ。

経済的に、「健康で文化的な生活をする」条件を確保できているかどうかで、生活の質が決まる。ここがきちんとすれば生まれた以上は、死ぬほかない生物たる人間の生き様に、さまざまに味わいができ、生きるに値するものとなりうる。そうでなければ、生きるにアクセクするばかりで、そんな人生はつまらない。

富の分配問題でもある。総体として制度の設計をするべきである。人間は、助け合いの中にこそ、真の喜びを感じられるのである。人を利用し、突き飛ばし、くいものにして、真の喜びはない。「鋭い目つきで、油断なく」生きているサマは、あまりカッコいい姿ではない。

人生には、いいときもあれば、そうでないときもある。総体として、いつのときも、生活の根本が守れる社会にすることはいまや、可能な時代となっている。それは、選択の問題である。力の強いものが独り占めして何が悪いネンてなことを言わずに、「助け合っていく」でいいではないか。

 

 


宇宙的視野でみるならば・・・

2011年10月15日 15時55分33秒 | 思考試行

地球がどうなろうと、生物がどうなろうと、どうってことはない。太陽系だって、その命は永遠ではなく有限であることを人間は知っている。わずかキリストさんが生まれて、2000年やそこらの歴史しかない人間が、そんなことを言うようになっている。

キリストさんの生まれたあたりは、地球上でみれば、遅れてきた地域で、はるかその以前にインドや、中国あたりには相対的にすすんだ文化がすでにあったし、そうしてみれば、人間の文化文明は、まだまだ「ハシリ」なのかもしれない。

それでも、間違うと、地球上全体の命も危うくなるような技術をもち、すでに二度も、何十万という人を殺した体験を、、もっている。

一方では、証明不能なことを、「信じ込み」絶対化して、その信条のもとに生活している人々もいる。その総体をコントロールできる人もいる。恐るべき実態がある。

人は、おたがいそれぞれの役割、力をだしあい、生きているのだけれども、本音のところで、そうではない人もいる。他者を、たんなる利用できる道具としてしかみない。命を大事などとは考えてはいない。こういう人は、その本音を言わないから、なかなか見抜けない。

言わなくとも、その行動が示している。政治家や、企業経営者、資本家、資産家、およそ大小に関わらず、ちょっとした「力」をもつとき、その行使の仕方をみれば、わかることである。

人類は、すでに、かなりの技術を身につけているのだから、根本のところで、人間が変わるとき、その生きる世界は、格段に変わるはずである。もっと、住みよくできるはずである。今、その前段階にまできているのではないだろうか。

人間、その気になれば、方向性は見えてきているのではないだろうか。しょうもないことに、コダワリを持ち続けているのではないか。


人間は自己利益のみを追求する生きものか

2011年10月14日 16時25分59秒 | 思考試行

新自由主義、新保守主義の連中の考え方は、結局のところ「人間が自己利益に支配される生き物であり、そうした自己利益があらゆる人間活動を支配するとき、社会はもっともうまく機能する」というのである。

助け合いだの、弱者救済などは、とんでもないということになる。

日本も小泉竹中路線で、労働法が大改悪されて、若者たちの労働力を安く買い叩ける制度が非合法であったのが、一転合法化されてしまった。

いったん派遣労働者になれば、スキルをつけることは、困難となり、条件によっては、年金にすら入れない、貧富の格差は拡大し、いまや、目を覆うばかりの惨状をきたしている。人を道具化したのである。

アメリカの99:1の抗議行動は、本質をついている。1の裕福な連中のために、99の人々は貧困にあえいでいる。こんな状況がいいはずがない。それを、誰に文句を言っているのかわからない、などとマスコミはいう。

このシステムに文句を言っているのだ。日本でも、そうなってしまっている。いつ暴動が起きても不思議ではない。子供の虐待、ダレデモよかったといいながら無差別殺人に走った人さえ、でてきている。その根本には、冷たい社会構造にあるのはあきらかである。

エリートのみを優遇し、助け合いを否定し、弱者を切捨てる。こんなことが、いいはずがない。その矛盾がこうした悲惨な事件をうむ背景にある。

人間の本質は、他者のことはどうでもよく、自分さえよければいい、と考える生き物であろうか。自己の利益をすて、まさに他者のために、どれほどの人々が命をかけて努力してきたことだろうか。人間社会の進歩は、こうした努力の積み重ねで勝ち取られてきたのである。

馬鹿な醜い連中に騙されて、この成果を捨て去ってはならない。


体調を崩してみえたこと

2011年10月13日 10時59分22秒 | 思考試行

あたりまえに出来ていたことが、できなくなる。普通のことが普通ではなくなる。毎度のことながら、健康の大事さ、有難さを思う。

睡眠がとれないとなると、知らず知らずに根本から変調をきたす。もどすと、自分の意志とは関係ない、体自身の拒否反応の意志の強さを思い知らされる。自分の中の他者。水のような便。何度も来る便意。

頭はふらつくし、なにもできない。

それでいて、やらなければならない仕事もある。あせり。セーフモードでいくしかない。

突然の発症であった。ウイルス性急性胃炎と、医師が診断した。

病気となれば、諦めることが出てくる。そうせざるを得ない。捨てることに慣れる。そこにも意味がある。すべては、いつまでも、持ち続けることはできない。ある種のサトリ。

そして、回復の兆しのうれしさ。寝て起きると、何かが改善されている。希望がわいてくる。あたりまえのことの有難さが実感できる。病気もまた無駄ではないのである。

 

 


生きがいについて

2011年10月13日 00時44分00秒 | 思考試行

以前にも書いたことがあるが、安部公房の「砂の女」という作品がある。文庫本にもなっているし、映画にもなった。

この作品は、昆虫採集に来た外部の人間が、アナに囚われ、村全体が砂に沈み込むのを防ぐため、アナから砂を運びだすだけの「仕事」をやらされることとなってしまう。なんども脱出を試みるがうまくいかない。

抵抗、落胆、アナの中の、不思議な女性との生活、外部との交渉、・・・

村人にとっては、捕らえた人間には、どうしても働かせなければならないし、そのための必要なものを外から差し入れる。そのなかで、水はとりわけ重要だ。働かなければ、水は与えられない。嫌でも働くしかない羽目に追い込まれるのである。

ところが、その穴のなかで、外からどうしても与えられないと生きてはいけない「水」を、男は、独力で、入手する装置を開発した。強烈な喜び、力を得る。

そのことがあってから、女性の妊娠騒ぎのなかで、逃げられる状況が、突然実現したにもかかわらず、男は、この理不尽な世界から逃げ出すことをせず、そこで生活することを決意する、といったストーリーであった。

この小説は、示唆に富む。人間の生きがいというのは、いろいろに持つことが可能だと思うが、この場合、外の人間が、アナの人間の本質的な弱点を完全に掴んでいると思い込んでいる、ところが、力を得たことで、事実は違う。そこに、生きがいが生じている。

「水」を独力で確保する状況を、掴みたいものであるが、「捨てることが得ることでもある」場合もあり、なかなか難しいものである。