goo blog サービス終了のお知らせ 

空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

個人重視。

2007年07月31日 08時49分13秒 | 思考試行
 人間世界が良くなるということは、ただ単に人間のことだけを、考えればいいのではない。環境もそうだが、他のあらゆる生物にも、当然ながら関心がなければそれは成しえないことである。広い視野が必要である。

 人間は基本的には、個人単位となるから、個人が大切にされなければならないし、集団意識が先行することは、大いに警戒を要する。個人をどこまでも重視しないと集団の力は、どうしても個人の無視につながりやすく、集団意識は、個人軽視の一形態であるようにさえ、みえる。個人を、重視する観点から、集団が発生したのではなく、背景には、特定個人の利害から、出発して、他の個人利益の侵害に至るのではないだろうか。個人を忘れた、集団主義は危険である。

 個人が中心にくるのは、動く単位が個人であり、物理的にも最小単位であることから明らかであるが、個人が、自分の個人の利益に拘泥すると、その個人が成功から遠ざかることも一方では、ある。その個人の心がけが、自己利益の追求にとどまっているならば、それは、確実に周囲の反発をかい、周囲に現実に害する存在となってしまう。

 個人主義と、利己主義とは違うのであって、その区分がしっかりできていないと、間違える。個人主義ではあるが、利己主義であっては、いけないのである。人間は本来、自己利益だけでは、本当の生きがい、喜びは得られない存在である。誰かの役に立てたとき、喜びが得られるのであって、自分の欲望だけが満足したからといって、それは、本当の喜びからは、程遠いものなのだと思う。

 また、感受性ということの方向も大事だと思う。およそ、価値観の多様さは、人の数だけあるものかもしれないが、あまり、敏感では、本人も、周囲もタイヘンで、その程度というものの塩梅加減が難しい。しかし、その鋭敏さが、魅力でもある。本人や、周辺の苦労によって、少し遠巻きにしている人々が、その恩恵にひたったりすることもあるかもしれない。また、その鈍感さというものは、本人は楽でいいだろうが、周囲は、これまた迷惑をする。

 その辺の呼吸、程度、タイミングなど、これらが、醸し出す状況が、人生の豊かさであったり、味わいであるのではないか。この辺の、習熟、成長が人間修養の要かもしれない。程よく、そうしたことができれば、本人も周囲も、快適な人生を過ごすことができるのではないか。

 食うや食わずの、状況からは、こうした余裕はなかなかもてない。ある程度の条件を確保しつつ、価値観の多様性を認め合い、なおかつ、それらがお互いの人生を豊かなものにして行く。

 人類社会の進歩は、どのような経過をたどっていくのかは、完全に解明されているとはいえないだろうが、個人を忘れてそれは、成しえないのは明らかであると思う。個人についての理解から、人類全体の、真の進歩がかちとられていくのではないだろうか。

政党はなんらかの事業をやってみては。

2007年07月30日 17時41分22秒 | 思考試行
 自民党と公明党がへこんで、ホット一息した。憲法9条が、ずるずると改悪されたりしたら、タイヘンなことになる。

 しかし、油断は禁物である。民主党も全員が憲法9条を守ろうという人ばかりではないからだ。議会制民主主義が、機能し国会が、本当に国民の側を向いたものになるかどうかは、これからのことである。その行方をきっちりと見なければならない。

 そして、こうなると、アメリカの動向も気になる。基本的に自分の国の、それも、一部利権集団が、その利権のためには、なんでもするわけだから、ようく監視をしなければならない。彼らに変な口実を与えないようにしながら、つきあっていくのはなかなかタイヘンなことである。

 かつて、選挙で、社会党が多数を占めようかというイキオイがあったとき、アメリカは本気で、介入を考えていたという話しをきいたことがある。民主主義なんて、時と場合で無視してくることもありうるのである。

 世の中を本当によくしていくためには、政党は日常的に具体的な仕事をする必要があるのではないか。調査をしたり、意見をきいたり、そして、介護施設を経営したり、病院、学校、などもいいのではないか。  

 具体的な仕事に従事するなかで、政治活動をするというようなことがあっても良いのではないかと思う。でないと、政策を作って、ビラくばりだけということになれば、本当のエネルギーはわいてこないのではないか。そういう本当の力が選挙になったときにも、力を発揮するのである。ただ、頭で理解し、投票行動で多数をとりさえすれば、というわけにはいかないと思う。

 現場を知って、具体的にいいものを、現実化するためには、さまざまなトライが必要だと思う。ともあれ、政界の状況が、変化し、いい方向へと向かうことを期待したい。

平和のために。

2007年07月28日 10時29分27秒 | 思考試行
 何が一番大事であろうか。金、名誉、権力、健康、家族、愛。・・・。どれをとっても、不変というものはない。世の中はいつも変化する。物理的にも、常に変化し続けている。そうした中で、自分自身も変化しつつ生きているのだが、変化をあまり感じずにいる。変わり映えのない生活といったりする。それは、平穏を意味するから、ある意味、幸福の真っ最中ともいえる。しかし、それは自然にできているものではない。多くの人の、努力の成果がはいっており、そのお陰でそのような平穏な生活が実現できているのである。だが、油断していると、すぐ壊れる可能性もある。

 苦しみの真っ只中では、そんなことを思う余裕はない。あとで、ふりかえって考えてみて、あの時はタイヘンであったとはおもうけれども、過ぎてしまえば、なにがそんなにタイヘンだったのだろうか。という具合である。

 人が意欲的に生きるためには、どうも、自分や家族だけのために生きるというのでは、本当の生きがいには結びつかないように見える。その視野というのは、広いものでなければ、ならないようで、どれだけ広くもつことができるかが、問題である。といって、身近の問題を解決できないようでは、そんな、大きな問題をもちだしても、まさに、空理空論にすぎないし、それは、当然のことながら、手順というものもあるだろう。

 まずは、身近な当然すべきことを、着実に行いながら、大きな問題にも取り組むということだろうか。特別な人は、あるいは、とにもかくにも、重要なことにまっしぐらに進まないことには、いてもたってもいられない、という人もいるだろう。しかし、凡人にとっては、日常の生活は、大事である。安全に順序を踏んで、ことにとりくむならば、誰でもそれは可能だと思うし、そのようにするほうが、結局は実現のためには、遅いようで、早いやり方のように思う。

 焦ることはないのである。みんなが、すすまないと、事は成立しないのである。そのための仕事は、多分、多くの人の手と、時間が要求されると思う。弛みない努力と、工夫の積み重ねがいると思う。

 明日の選挙は、そういう意味でも重要である。どれだけの人々が、真剣に人生を考えているのか、その集大成が、現段階で示されるのである。平和であることは、放置していては、守れない。安部さんの様子をみていると、危ない状況が、近づいていることを感じる。その勢力が、与党の中で、一番なのだから、これはタイヘンな状況である。とても油断できない状況である。


アタマにきてはいけない。

2007年07月27日 17時04分54秒 | 思考試行
 世の中いつも過渡的で、これで完成ということはなく、かなりいい線いっていてもまた、逆転ということもありうる。しかし、だんだん良くなっていくという風にはしたいものだが、それは、一人ひとりの構成員次第ということになる。

 「きっこの日記」がどうして、オムライス党の支持なのか、もう一つ分からないけれども、選挙法お構いなしの書き方で、これを、もしかK党がやったとしたら、恐らく、簡単にヤラレチャウと思う。それが、世の中の仕組みということである。

 今度の選挙で、戦争にいかされるか、どうか、ということをきいてきている。与党が多数を占めたとなると、さっそく、それが支持されたということで、さまざまな動きがでてくることだろう。国民もそうなんだと思うかもしれない。国家のためなら、命を投げ出すのは辛いけれども、当然なのだと。なにが、当然なものか。そこを、しっかり見抜いておかなくてはならない。平和を守ることは、先の大戦で得た貴重な教訓であり、そして、憲法9条は、たいへんな宝物であるのだ。

 戦争がどれだけ悲惨で、タイヘンなことか、岸恵子さんが、今朝のNHKで、おっしゃっていた。彼女は目の前で、自分の家が焼かれ、死体が飛び散っている様や、爆風で、亡くなった人の顔に毛が食い込んでしまっていて、その毛の先が風にそよいでいた・・・。と、戦争体験を生々しく語ってくれた。こういう話は、かなり高齢の人でなければ、知らないし、あまりひどい体験だと話すのさえイヤだという方も多い。軽々しく、普通の国になるなどと思わないようにしないといけない。日本は、地球上で、戦争のない世界を作りうる唯一の国ではないだろうか。

 いままで、戦争をしてこなかったのは、明らかに憲法9条のおかげである。これを変えると、普通の国となり、戦争ができる。そうなると、徴兵制だって考えられる。そうなれば、アメリカは黙ってはいないだろう。アメリカのいい部下となって、世界中を、駆け回り国民は、その命を国家にささげさせられる・・・本当は大資本家のためである・・・ことになる。

 憲法9条は、本当に宝物である。戦争をしないと宣言することで、変な国は、日本組し易しと、侮り、挑発、をかけてくることもあるかもしれない。それでも、戦争をしないで、これらの連中と渡り合っていくのである。戦争をするより、マシである。これらの国の、オソマツぶりをキチントさせるように、仕向けていくのである。ツマラン連中と、同じ次元で、命のヤリトリをすることは、馬鹿げている。

ナント。

2007年07月26日 06時40分39秒 | 思考試行
 この世というのは、結局ナンナン。というのは、父にしても、知り合いは、すでにアチラに多く、この世では、最後は体が思うとおりには動いてくれず、恐らくは、最後の方には、アチラのほうが良いにきまっている状況となった。この世に、サヨナラする時期というのはあるようだ。この世は、やはり、仮の世であって、常に変化し、とどまる事を知らない、執着しても仕方のない、世界なのだろう。しかし、現実に生きている我々にとって、明らかに現実であり、その生活は、選択と心構えによって、大きく変化するのも、確かである。ブッシュが、なにかを選択することから、イラクでは、多くの人々が、タイヘンな目にあわされている。アベさんは、戦争のできる国を目指している。もし、彼の目指すところが実現すれば、明らかに、多くの人々の生活に、タイヘンな事態が生ずるのは確実である。

 本人の口からそんな言葉が出なかったが、考えるほどそういうことになる。断片的に聞いた話では、報われることは多くはないにしろ、この世を、ドウコウいうことはなく、与えられた条件のもとで、それなりに、楽しんできたようである。

 最後の宝くじも、キチントいつもどおり、外れていて、「奇跡」が起こっているわけではない。自分が感じる「特殊感」は、自分だけ感じているのであって、みんなそういう思いをしているのかもしれない。しかし、客観的にみて、父のこの世の生涯は、別に奇跡的なことが、起こっていたようには、思えない。しかし生物学的には、みんなそうだが、奇跡的な確率で、その命を獲得したのであり、地球の存在自体が奇跡的なわけだから、奇跡の中の、平凡といえばいいのかもしれない。

 自分というものを最後までもっていて、なにもかも喋ってくれたわけではないが、格別言い残したこともない、という感じである。ある種の潔さを思う。戦争の話しをしても、単純に自慢をしているわけではない。もうコリゴリだという風にもいわない。集団で、行動する訓練というか、シゴキにあったことや、自分もその中にあって、ビンタをとられ、次にビンタをとり、してきたなかで、人間的には相当の影響をうけてきたことを言う。徴兵制のいいところと認識している風がある。命を極限まで、軽んじられ、自分で決めることのできない人生。振り回される人生。その中での、友情や、助け合い。その中で、人間として、シャンとなったという。しかし、政治の世界については、良心的ということで、K党を支持していたようで、その主張を好意的にみていた。新聞を読んでいたし、世情をしらないわけではなかった。

 中陰は、まだ、自らの「居所が定まらない」時期だそうだが、親父のことだから、どんどん、やるべきことをやっているような気がする。まだ、だれの夢にも登場しない。忙しく、つぎの準備があるのかもしれない。むこうからの、変化はないように見えるのだが、こちらのほうではあるから不思議である。

 携帯でとっていた入院中のものなど、父の写真が、以前見たときには、さほどの表情がなかったように思っていたのだが、昨日何気なく見たところ、一枚一枚表情があって、みるこちら側次第で、変化することを始めて知った。笑っているとは思えなかった普通の表情の中に、笑っている顔がみえたのである。ナント。

一人ひとりが大事。

2007年07月24日 12時01分18秒 | 思考試行
 はなやかで、元気のいいことを言っているが、裏では、話しができていて、実は、支配勢力の一部を担当しているという連中がいる。だれよりも、大胆で、言う事も派手だから、一見頼りになりそうだが、諦めがはやく、すぐ、挫折する。むかし、カクボウをふりまわしたこともあった。

 しかし、その役回りは、マジメに世の中をかえるというよりも、たんに、はねまわっているだけで、人間的に落ち着いて、考えているわけではない。なにやら、甘えがあり、おチョケたり、ふざけた調子が大好きで、そこを支配勢力は利用する。

 ある種の、限界意識があって、最後には、どちらへ転ぶかは、本当のところは、本人にも、分からない。したがって、信用はできない。平和をいうから、本当かと思うと、スパイであったりする。だらしないところをせめられると、ひとたまりもない。

 がいして、かっこよく立ち回るから、まじめに、やっているK党など、ひどく割りを食う。それが、長年続いた。そういう連中の多くは、M党に移ったので、相対的には、減った感じだが、支配勢力との癒着は、しっかりしているから、まだその役割は終わってはいないと思う。

 だから、本質的には、弱者の味方とはいえない。事情が変われば、多数勢力についてしまう、というより、本来、支配勢力の別働隊的役割があるのだから、その裏面を知っておかなくてはならない。

 大企業の労働組合、官庁の当局と仲のよい労働組合、社保庁の労働組合もそうである。潤沢な予算を消化するのに、クロウしていた時期もあったのである。労組の幹部は、それなりの出世を保証されており、充分支配者側の一員であったのである。真に、弱者の味方とはいえない裏面をもっているのである。

 形だけ見ていては、絶対に分からない構造である。おそらく、善意で参加している人もいるであろうが、いずれは、きちんと、体制側のテストをうけて、はっきりとその立場にたっていかされるのである。こういう人々の役割は、常識的であり、そんなものだと、世間も思いやすいので、結構多いのである。

 真に、世のため人のためと思っているわけではないのに、本人も含めて、錯覚している側面もある。その意味では、はっきりと、勝ち組を意識し、貧乏人どもは、「お前らごとき」としかみていない連中は、正直であり、まだ、質的にはいいとさえ、思われるぐらいである。

 こういう連中が、もっと、本音をだしてくれたら、さすがの貧乏人も、怒って、きちんと考え、勉強もするようになるかもしれない。

 世の中をよくするのは、簡単ではない。結局は、一人ひとりが、コツコツと地道に努力を続けていくしかないと思う。一人ひとりが、本当に成長しないことには、けっして、いい世の中なんかできるはずもない。だれか、偉人が一人でたとか、そういうことでは、うまくいきそうにはない。あくまで、一人ひとりの水準、そして構成される全体の水準が問題になるのではないかと思う。騙したり騙されたり、誰かについていくだけであったり、そんなことをしている間は、まだまだという段階ではないかと思う。

戦争をする国にしてはならない。

2007年07月24日 00時34分04秒 | 思考試行
 今度の参議院選挙は、年金、生活のことをいっているが、本当に大事なことは、憲法9条のことだと思う。

 戦争しない国から、する国になろうというのだから、これは、タイヘンである。

 人殺しをさせられるのである。国の名のもと、いやでもさせられるのである。これを美しい国などと称して、教育内容から、教師への工作、などなど、チャクチャクと手をうってきている。

 年金、生活も大事だが、それより、平和がもっとも大事なことだと思っている。

 それにしてもやり方が、そうとう悪辣である。正規雇用を奪い、若者達に、まさに、兵隊になるしかないような、道筋を用意している。単に、儲けのためだけとも思えない。人々の生活環境を破壊し、生活のために、軍隊へ行かなくてはならないような状況を、作り出してきている。若者達の閉塞感を、国家意識に導き、戦争をやることにも、抵抗感をもたせないような、そんな風潮をまきおこそうとしている。

 

愛着

2007年07月22日 08時50分28秒 | 思考試行
 早いもので、親父が亡くなって、3回目の日曜日となった。今も多くの課題を抱えているわけだが、遺産相続に関して、情報を仕入れだしたら、これがタイヘンである。共有しておけばいいかと思っていたら、いつまでもそうしているわけにはいかない。個別にわけないと、特典が使えず、高い税金の納付額となるという仕組みになっている。

 先祖伝来の家、土地はいよいよ、バラバラになる日を迎えようとしている。ここで、多くの一族が暮らし、育ってきたのだが、それを保持するスベはないのか。という思いを、八分の一長男はひそかにもっているわけだが、イエ意識は、私が最後の持ち主となるようである。

 一族すべての人に、愛着を感じ、顔を知っており、それは現在ということではなく、子供のときを含めて、接触があったということだけのものもふくめているが、話しをきいている、話しで、事情や、関係を知っている。それも含めるのである。ところが、弟や妹はそうはいかない。全然知らない人達ということになる。

 長男として、親父の名代でアチコチ行ったこと、そこで、親父の息子ということで、昔話をきかせてもらう。それが、縦糸なり、横糸なりになって、世界が構築される。また、親の傍でナニヤカヤと聞いていたことが、私のなかで、イメージとして構成されている。これらは、当然ながら、弟達にはまったくなじみのない話となるのである。これは、どんどん消えていく話しの範疇であり、記録しないかぎり、残らない。自分がそういう位置にいることに、今度のことではっきり自覚させられた。

 何に愛着をもっているのか、そもそもその存在が、理解できないのである。宇宙を語りながら、イエについて、愛着を持つということの不思議さを、非難する空気もでてきた。 いつかは、これをテーマにして、書いておかなくてはならないと思い始めている。

もてる悩み。

2007年07月19日 18時05分52秒 | 思考試行
 さて、父のフタナヌカがすぎ、いよいよ、遺産分割のことが、課題となってきた。共有分割だと、いずれは、資産活用ということになれば、共憂になりかねない、と本には書いてある。法律も、具体的に分けることを推奨というか、共有のままでは、時日がたてば、特典もなくなるようになるようだ。

 我々の場合、父は旧民法による家督相続ですべての財産を、独り占めしたわけだから、今の時点では、長男の子であったため、相当な恩恵をうけることになる。他方、父の兄弟姉妹はなんの恩恵もなく、それぞれ自活して、自らの地歩を築いてきている。

 我々は、この財産を処分すれば、明らかに、楽して家を新しくできるわけだし、あるいは、現金も手にすることになる。叔父や叔母は、法的にはなんの権利もないことにはなるが、果たしてそれでいいのだろうか。では、どこまで、どのぐらいの割合でその成果を、分配すべきであろうか。まさに、持てる、悩みが始まろうとしている。

オシオキは必要。

2007年07月16日 22時54分53秒 | 思考試行
 なにがあっても、戦争をするのか、しないのかが、今度の参議院選挙の最大の争点であると思う。弱者切捨て、格差拡大、これらは、戦争政策の遂行のための、前段の政策であると思う。

 こんな政策をとらせたのは、国民にも勿論責任があるのだが、騙されて、コイズミ劇場にのせられてしまったのだが、やはり、こんなに舐められてはいけないと思う。

 力の源泉は、あくまで国民の側にあるので、その力をはっきり示すのは、国民がはっきりその意思を表明すべきである。生活に不安がある、それは、政治が国民の側を向いていないからであって、向けさせるためには、オシオキをキチントしないといけないのである。

最後の「夢」

2007年07月16日 07時10分03秒 | 思考試行
 親父は、最後に「勝負」をかけていた。母が、父の引き出しを整理していると、宝くじの束がでてきた。3束でてきた。他のものは、既に引き換え期限がきており、すてたという。

 3束のうち、2束の分は、末尾一桁の、10枚のうち、一枚は必ずあたるという分が、既になく、引き換え済みとみられる。あとのヒト束は、枚数も多く、末尾番号一桁ものこっており、まだ、みていないと思われた。枚数が多い。

 入院前に出かけたことがあった。帰宅したとき、玄関先でしばらく休憩しないと、家にあがれなかったということがあった。それが、最後の外出になったのだが、そのときに購入したものらしい。

 明らかに、いつも買う枚数ではない。残金すべてを使ってはいないが、勝負をかけた気配がある。

 一枚一枚、インターネットで調べた当選番号と付き合わせる。自分で宝くじを買った経験は、ほとんどないから、これだけの枚数を見るのは、始めてであるし、年賀はがきの当選番号を見る感覚である。

 母に聞くと、今まで、かなりの枚数をかってきているという。一攫千金を狙い続けていたのである。

 父から、戦争でどうなるか分からない命であると、積み上げて地道な努力をしようという意欲を奪われたという意味のことを聞いたことがあった。すべての人がそのように成るとは思えないが、命を粗末に扱われ、イヤもオウもない世界に引きずり込まれた人が、刹那的になるのは、理解できる。

 とてもあたりそうもない、一等2億円の可能性はないとはいえないが、こんなものにかけてみるしかない状況の、貧しさが哀れな感じである。

 しかし、一枚一枚みないわけにはいかず、ある種の期待も当然生まれるわけで、最後の一枚まで、集中していると、次こそは、と思う気持ちがわからないではない。

 今まで、これにつぎ込んだ金額の総計を考えると、本当に、戦争の効果のすさまじい荒廃、としか言いようのない、絶望の中の、あがきのような楽しみの累々ところがる空しい風景が見え、暗澹たる気分になる。

 積み重ねる努力のやる気を奪い、地道な努力の楽しみを奪い、夢を奪い、人生のすべてを奪われたような気分であった者の、最後の楽しみである勝負の結果は、下二桁が一枚、あとは下一桁が10数枚、それが、最後の「夢」の結果であった。

自前の頭で、考える。

2007年07月14日 08時58分28秒 | 思考試行
 落ち着いて、考え行動できるかどうか。何かのことをするのに、人は常にそう自己点検をしながら、やってきたのではないか。たしかに、慌てるとロクなことがない。

 自分の頭で考え、行動する、これは結構タイヘンなことで、人任せにして、流れに乗ることにするほうが、余程楽であることには、違いない。

 このたびのことで、アチコチの場面で、「決断」を要求された。すべて、お金にまつわる話しであり、最終的には、こちらの責任となる。

 意見をいう、発言者が、その責任をどう考えているかについては、不明であり、どこまでも、単なる意見であるのか、自信のある裏づけのある、キチンとした意見なのかも不明である。しかし、無視をしてはいけない。これらの意見を踏まえて、今後のことを、いい流れにしないとならないと思う。

 夫婦でも、かなりの話し合いをしてきた。話すことによって、足りない情報が明らかになってくる。手順を踏んで、またとりまく状況を、チャント理解し、制度についても、熟知すれば、必ず、いい結果になる、という確信めいたものが、その話し合いのなかで、生まれつつある。

 実行するには、時期があり、締め切りがあり、そして、プロセスのなかでのこと、変化し続ける状況のなかでの選択である。いつまでも、のんびりやっているわけにはいかない面もある。

 父はほとんど、能動的には、ここ数年自分のことだけで、まわりのことには、一切口出しをせず、なにもしてこなかった。不作為という作為で、それが資産価値を増やす可能性を高めている部分もあり、まるで、オセロゲームのような逆転劇がはじまる予感もある。

 コーディネート役は、一応小生が旗振り役を演ずることになる。整理をして、問題解決にあたりたい。さあ、はたして、どのように、これから推移していくのだろうか。心して取り組みたい。

 それにしても、戦争に振り回された父の世代の思いが、いま、変な方向を打ち出してきている勢力によって、踏みにじられる危険にさらされてきている。彼らが多数を占め続けるとなると、その流れを止めることはできなくなる。彼らは、あらゆる手段をコウジテ多数を確保し、その思いを実現しようと、多数決の力でどんどん進めてきている。

 平和であるからこそ、自分の頭で考え、行動できるのであって、戦争勢力の思惑のままに、その流れのなかで、生きることになれば、大変である。いま、あたりまえと思っていることは、貴重なことであり、変な流れがはじまると、取り返しがつかないことになる。

 誰かの指導のもとに、一斉に行動する宗教団体勢力、これを利用する戦争勢力。国民がどのような審判を下すのか。自分の頭でキチント判断できるかどうかが、自分たちの生活を決める。

課題

2007年07月13日 10時01分19秒 | 思考試行
 父親がなくなり、母の年金の手続きを終え、少しずつものごとを整理し始めた状態である。

 たまたま、隣の家が、取り壊され、わが家の側面が、人目にさらされるようになった。隣家と完全にくっついていたから、とりこわされると、カッコウのつかないボロがまともにでている状態である。

 妻の退職金や、何かをぶち込んで、やっと、軽量瓦の屋根に補修したにもかかわらず、目がそのボロッチイ屋根の境目あたりにいくと、こけそうなドウショウモない古家としかみえなくなる。

 相続問題もあって、将来のことなど考えると、子供のいない我々夫婦は、こうした長年続いてきた「イエ」の問題は、とくに、妻の場合は、格別にシンドイことである。

 小生が死んだあとのこととか、今、地方にすんでいる弟一家が、この家の必要性がたかまるにつれ、ある種の義務感のもとに暮らしてきた感のある我々夫婦は、利用だけされて、すてられてみたいな、状況が近づいているようにも見える。それは、思い過ごしかもしれないし、あたっているかもしれない。

 この家は、誰がどうしてこうなったのか、知る者はいない。生まれたときには、ここにあったし、ここで育ち、出て、大勢のひとびとが、一人前となっていった。

 小生は、いつの間にか、このイエの出身であることを、誇りのようなものをもっていて、積み重ねた多くの昔話を叔父や、叔母からきいていると、そこには、「文化」といってよいような、「悪いことはしてはいけない。」と思わせる作用が、明らかに働いていることに気付く。

 気楽に暮らすのなら、こんなイエなんて、制約が多く、出たいと思うのが外から来た人の思いかもしれない。あまり、イエなどと固執するとそういうことになる。

 そこに、最初からいたものにとっては、あたりまえであっても、妻の場合は、違う感想があるようである。当然である。どのように、折り合って、解決していくのか、その課題が父親の死によって、現実のものとして、提示されてきている。

父死す。

2007年07月10日 03時50分19秒 | 思考試行
 父がなくなり、8日葬式を終えた。6日夕刻、病院から電話がはいった。到着するとすでに、心停止の状態であるが、胸には、センサーがはられたままで、治療中の状態である。
 そこで、医師が最終的に聴診器を胸にあて、息を確かめ、瞳孔をライトで照らすなどの手順を経て、死亡時刻を述べた。

 遺体を、自宅へもどし、一晩すごしたあと、翌日お通夜、そして、8日葬儀となる。家族葬というスタイルで、行ったが、実質的には、一般の葬式と変わらない
形となった。受付で香典をあずからず、喪主がカバンをもって、親類からもらうという形で、自分も見たことのない展開となった。受付には、香典等は受け取らないと表示しながら、実は受け取るという奇妙な風景が展開されたのである。

無神経

2007年07月06日 08時01分43秒 | 思考試行
 昨夜、電話はなかった。朝をむかえて、ほっとする。いまの担当医は、若くエネルギッシュな面もあるから、詳しく状況を伝えてくれる。看護師さんも総体に若いので、やることがテキパキしていて、言葉や、態度から、その善意がはっきり伝わってくる。有難いことである。

 病院が、どういう方針で、動いているかということと、スタッフ各自の性格とか考え方が、その実態を作り出すのであろうが、国立病院として、他の国の機関と同様に機能してきた状況から、病院機構という独立行政法人として、経営努力を要求されてきており、先行きは、やはり、貧乏人を切り捨て、金持ち優遇のニオイが、徐々にしてくる。

 あらゆる分野で、格差を広げてくる流れというのは、自由思想を正面にだしながら、公平を装っているが、その中味は既得権益を守る流れである。そこには、真剣に、人間社会の発展、矛盾をみる目はない。カッコヅケであったり、蔑視であったり、人間の醜さがどっとあふれてくる。謙虚さなんてものは、利用されるだけだから、自己正当化に関しては、まことに敏感で、こういう精神は、もう滅びてしまったのだろうか。それが、父の周辺の医療スタッフには、残っている。それが救いである。

 久間発言と同様なことを、もっと直接的に原爆を落とした側が、平気で、大量殺戮を是認してみせた。安部首相は聞いてないとした。聞いた後はどういうのか。コノテの発言を平気でやるヤカラと、つきあうのは、つらいことである。同じ人間とは思えない神経である。