人間世界が良くなるということは、ただ単に人間のことだけを、考えればいいのではない。環境もそうだが、他のあらゆる生物にも、当然ながら関心がなければそれは成しえないことである。広い視野が必要である。
人間は基本的には、個人単位となるから、個人が大切にされなければならないし、集団意識が先行することは、大いに警戒を要する。個人をどこまでも重視しないと集団の力は、どうしても個人の無視につながりやすく、集団意識は、個人軽視の一形態であるようにさえ、みえる。個人を、重視する観点から、集団が発生したのではなく、背景には、特定個人の利害から、出発して、他の個人利益の侵害に至るのではないだろうか。個人を忘れた、集団主義は危険である。
個人が中心にくるのは、動く単位が個人であり、物理的にも最小単位であることから明らかであるが、個人が、自分の個人の利益に拘泥すると、その個人が成功から遠ざかることも一方では、ある。その個人の心がけが、自己利益の追求にとどまっているならば、それは、確実に周囲の反発をかい、周囲に現実に害する存在となってしまう。
個人主義と、利己主義とは違うのであって、その区分がしっかりできていないと、間違える。個人主義ではあるが、利己主義であっては、いけないのである。人間は本来、自己利益だけでは、本当の生きがい、喜びは得られない存在である。誰かの役に立てたとき、喜びが得られるのであって、自分の欲望だけが満足したからといって、それは、本当の喜びからは、程遠いものなのだと思う。
また、感受性ということの方向も大事だと思う。およそ、価値観の多様さは、人の数だけあるものかもしれないが、あまり、敏感では、本人も、周囲もタイヘンで、その程度というものの塩梅加減が難しい。しかし、その鋭敏さが、魅力でもある。本人や、周辺の苦労によって、少し遠巻きにしている人々が、その恩恵にひたったりすることもあるかもしれない。また、その鈍感さというものは、本人は楽でいいだろうが、周囲は、これまた迷惑をする。
その辺の呼吸、程度、タイミングなど、これらが、醸し出す状況が、人生の豊かさであったり、味わいであるのではないか。この辺の、習熟、成長が人間修養の要かもしれない。程よく、そうしたことができれば、本人も周囲も、快適な人生を過ごすことができるのではないか。
食うや食わずの、状況からは、こうした余裕はなかなかもてない。ある程度の条件を確保しつつ、価値観の多様性を認め合い、なおかつ、それらがお互いの人生を豊かなものにして行く。
人類社会の進歩は、どのような経過をたどっていくのかは、完全に解明されているとはいえないだろうが、個人を忘れてそれは、成しえないのは明らかであると思う。個人についての理解から、人類全体の、真の進歩がかちとられていくのではないだろうか。
人間は基本的には、個人単位となるから、個人が大切にされなければならないし、集団意識が先行することは、大いに警戒を要する。個人をどこまでも重視しないと集団の力は、どうしても個人の無視につながりやすく、集団意識は、個人軽視の一形態であるようにさえ、みえる。個人を、重視する観点から、集団が発生したのではなく、背景には、特定個人の利害から、出発して、他の個人利益の侵害に至るのではないだろうか。個人を忘れた、集団主義は危険である。
個人が中心にくるのは、動く単位が個人であり、物理的にも最小単位であることから明らかであるが、個人が、自分の個人の利益に拘泥すると、その個人が成功から遠ざかることも一方では、ある。その個人の心がけが、自己利益の追求にとどまっているならば、それは、確実に周囲の反発をかい、周囲に現実に害する存在となってしまう。
個人主義と、利己主義とは違うのであって、その区分がしっかりできていないと、間違える。個人主義ではあるが、利己主義であっては、いけないのである。人間は本来、自己利益だけでは、本当の生きがい、喜びは得られない存在である。誰かの役に立てたとき、喜びが得られるのであって、自分の欲望だけが満足したからといって、それは、本当の喜びからは、程遠いものなのだと思う。
また、感受性ということの方向も大事だと思う。およそ、価値観の多様さは、人の数だけあるものかもしれないが、あまり、敏感では、本人も、周囲もタイヘンで、その程度というものの塩梅加減が難しい。しかし、その鋭敏さが、魅力でもある。本人や、周辺の苦労によって、少し遠巻きにしている人々が、その恩恵にひたったりすることもあるかもしれない。また、その鈍感さというものは、本人は楽でいいだろうが、周囲は、これまた迷惑をする。
その辺の呼吸、程度、タイミングなど、これらが、醸し出す状況が、人生の豊かさであったり、味わいであるのではないか。この辺の、習熟、成長が人間修養の要かもしれない。程よく、そうしたことができれば、本人も周囲も、快適な人生を過ごすことができるのではないか。
食うや食わずの、状況からは、こうした余裕はなかなかもてない。ある程度の条件を確保しつつ、価値観の多様性を認め合い、なおかつ、それらがお互いの人生を豊かなものにして行く。
人類社会の進歩は、どのような経過をたどっていくのかは、完全に解明されているとはいえないだろうが、個人を忘れてそれは、成しえないのは明らかであると思う。個人についての理解から、人類全体の、真の進歩がかちとられていくのではないだろうか。