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空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

われらみな宇宙人

2006年12月31日 08時56分22秒 | 思考試行
 われら、みな宇宙人である。存在そのものが奇跡ではないか。これ以上、何の奇跡を望むのか。

 共生するしかない、地球号という宇宙船のなかで、いがみあってどうするのか。

 年末を迎えて、今年は、なにがあったのだろうか。フセインが処刑され、テロの激化が伝えられている。大国のエゴ、個人のエゴ、紛争の種は、つきない。

 一人ひとりが、考え、行動するより、事態の改善方法はない。一歩一歩、進んでいくしかない。

音楽はすばらしい

2006年12月30日 09時21分48秒 | 思考試行
 久しぶりに、パソコンにとりこんでいた、ポールモーリヤ、中島みゆき、モーツアルト、ユーミンなど、ランダムに、キキコンダ。音楽はいいな、と、思えた。もちろん、音楽でしかあらわせないモノがあることを実感したのだが、言葉とは違う感情をおこさせるふしぎさ、深さ、明確さ、論理的ではないのだけれども、共感できるということの、明晰なヨロコビがある。
 人類文化の、すばらしい到達点である。ありがとう。

 今日は、墓参りの予定である。「めぐりあい」のメロディを、アタマに充満させながら、行こう。

やるべきこと

2006年12月29日 10時45分28秒 | 思考試行
 我々は、すべて先達の仕事の成果を、土台として何とかやってきている。そこへ何がしかの新しいものを付け加えて、前進をはかる。時には、退歩する場合もあるかもしれないが、基本的にはいい方向へ向いている、と、考えたいところであるが、油断禁物である。一本調子でよくなるというわけではない。

 先達の仕事に感謝しつつ、改善への努力を怠らなければ、のハナシであって、自分のことしか考えない、人を犠牲にして、平気なヤカラが紳士淑女然としている現状に、鉄槌を与えなければ、かれら単独で反省し、改善されるわけではないので、彼らを放置して、改善はできない。

 指摘し、糾弾し、抗議しなければ事態の好転は、望めない。
 彼らの、品性、行動、考え方、を厳しく糾弾していかなくてはならない。そのことによって、かれらも真っ当な人生に立ち戻れるのだと思う。

 そして、そのことが負け組みがとるべき、最初の一つの方法である。

きっかけ

2006年12月28日 07時33分33秒 | 思考試行
 ものには、偶然に始まることも多いが、作られたキッカケから始まることもある。郵政民営化をさけんで、一旦議席を増やしたら、話題にもなってなかったことでも、議会でドンドンねらいの方向が定められ、アレヨアレヨという間に、幼稚園あたりで、「ギョメイギョジ」と言わせるところがでてきた。憲法も変えようというイキオイである。

 きっかけで、方向がきまることは、ままある。北朝鮮をきっかけに、戦争やむなし、の雰囲気がうまれてきそうで、軍需産業界は、チャンス到来と思っていることだろう。

 気候は、ますます変で、環境破壊について、真剣に考えないと宇宙船地球号は、有限なので、本当に心配である。

 これらの心配をきっかけに、一人ひとりが、真剣にボウケンを始めなければならない。どうするのか。こういう危うい方向に対立する勢力に、加担するしかない。行動は、簡単である。投票するだけだ。しかし、投票だけにたよっていたのでは、だめである。大衆を本音で、バカと思い、「オマエラゴトキニ」というのが、エリートの本音であることを、知らなければならない。

 具体的に生活の中で、地道な行動がとられなければ、彼らの本音を見抜く実力は涵養されない。そして、改善の方向には、必ず努力がいる。多様で、したたかで、現実的な力をもたないと、彼らに対抗できない。

ベクトル

2006年12月27日 08時37分10秒 | 思考試行
 ベクトルというのは、大きさと方向があって、数学の本などでは、矢印であらわされる。大きさだけであれば、スカラーと呼ばれる。方向がソロウト、事態は大きく変わる。テンデンバラバラのときは、総体としてみれば、なにも、動いていないようにさえ、見えたりする。
 しかし、方向がそろうと、これは、おおきな力となって動き出す。方向がそろうというのは、それぞれの始点が、同一のスタート場所にいるというわけではない。それぞれのいる場所から、その動く方向が、平行移動すれば、一致することである。

 さて、世の中の方向は、どちらを向いているのだろうか。人を蹴飛ばし、道具としてみる、方向だろうか。それとも、人を大事に思い、なんとか良くなろうとする方向だろうか。

 右とか、左とか、勝ちとか負けとか、成功とか失敗とか、対比的にいうときその背景には、ベクトル的な考え方を通してみると、ベクトルの違いがみえる。

 いま、愛国心が「教育基本法」をかえたことにより、強調されようとしている。国とか民族とか、「セクト」にこだわると、危うい。といって、時代によっては、この「セクト」をはずれることは、即「死」を意味した。それは、歴史の教えるところである。セクトをセクトして、認識でき、セクト主義を排することのできるベクトルを、時代が、世の人々が、キチント見出すことをのぞみたい。

 「一人は万人のため、万人は一人のため」、という標語がある。「一人」をはっきりと認識の対象にいれていることが、この標語のいいところだと思う。

2006年12月26日 09時45分48秒 | 思考試行
 ふれあいのなかに、「すべて」があるのだが、選別しなければ、危ないケースがあるのも事実で、目茶苦茶ウマイハナシを臆面もなくメールで、送ってくる輩(ヤカラ)がいたりする。のってしまえば、のったほうが悪いといえるほど、そのうそ臭さは、明らかではあるが、大なり小なり、この「ダマシテ」でも儲けようとする、そのココロネが悲しい。類似する、イヤシイ考え方をするものは、結構エリートとされる連中のなかに、また、中小企業の社長あたりにもいるから、これは、なげかわしい現象と言わなければならない。
 彼らは、真実のヨロコビを知らないし、カワイソウナ人々ではあるが、犠牲となる人を作り出すといういみで、罪は深い。

生きがい

2006年12月25日 08時22分44秒 | 思考試行
 生きがいは、どこにあるのだろうか。自己満足だけではなく、主観的に考えて他人や、他のいきものとのふれあい、のなかで、役に立っているということだと思う。それは、能動的に何か「する」ことだけではない。「生きている」ことが、そのままヤクニタッテイルことを 抜かしてはならない。何も出来ないといって、悲観する場合があるが、何もできないその存在そのものが、そのまま役に立っていて、意味があり、そのプロセスのなかには、周囲の人々に深い影響を与え、また意味が生じるのであって、単純な「ヤクダチカタ」ではないから、そこに、さまざまな味わいがでてくる。

うちのネコ・・・ウチネコ編

2006年12月24日 09時09分37秒 | 思考試行
 我が家には、猫が7匹いる。いわゆるホンマのウチ猫は1匹、これは、子供のときから元気で、ゲンキで、いつも、はねまわっていたので、名前はピョン。ウチのなかでは、いつでもツカマエルことができ、ナスガママにその肉体を思うサマいじらせてくれるネコである。ただし、いったん庭にでれば、庭にすむ親族ネコ同様に、ユダンのない目をして、逃げ回り、ノラ風にもなることができる。
 他に、純然たるウチネコとはいい難いが、今はウチにいて、ウチ猫面をしている猫がいる。ときおり長期の外泊にでかけ、ハゲチョロケのドロドロで帰ってきて、餌場へ突進、ハフハフいいながら、猛烈な食欲をみせる最もトシヨリのシロ。「どうしているんやろなあ」「まだ帰ってない?」と、夫婦の会話のタネを提供してくれて、結構存在感がある。彼女の場合は、ホンニンのポリシーもあって、ピョンほど、さわらせてはくれないし、こちらも、さわる対象としては、ノミにかまれて、ハゲチョロケ(帰宅後、ほどなく、外見上は回復するのだが)の白い毛の下には、ブツブツ状態のいかにもカユソウナ皮膚があって、気持ちよくサワルというのは、チョット困難な状況もあって、ピョンとは違うオツキアイになっている。さっきから、この2匹、ガスストーブの前で、朝の食事を待つ態勢にはいっていて、いい加減にセーヨの空気をだしているので、このへんにしときましょう・・・。この2匹本当はなかがよくないのに、いまは、共同戦線をはっている。

みなおしは必要

2006年12月23日 01時00分36秒 | 思考試行
 金曜の夜は、探偵ナイトスクープを、ほとんど見てしまう。西田局長は、カワイイ、といっては涙し、何で泣くのとしょっちゅう言われながら、別段恥ずかしがる風はなく、チョット感動的だなと思ったら、ほぼ確実に涙を盛大に溢れさせている。そして、ほとんど同感で、小生も西田局長ほどではないが、涙をにじませることになる。ときおり、妻が涙するカレを大笑いすることがあるので、ユダンできない。再放送をよくやるが、何度みても細部まで覚えていることはなく、わかっていても、忘れていたり、見落としているので、退屈はしない。
 みなおしといえば、今日(正確には昨日)「たそがれ清兵衛」をテレビでみたが、映画館でみたにもかかわらず、多くのことを見落としており、本当に、いい映画だな、と思った。1回見たぐらいで、ミタとはいえないな。とあらためて、思った。「くりかえし」ということを、意識的に考えていこうと思った。作り手の人々のタイヘンな努力、工夫、の存在を味わいつくせていない、モッタイナサを感じた。これは、多くのことに通ずることで、気をつけていこうと思う。

こつこつと

2006年12月22日 07時52分01秒 | 思考試行
 連続テレビドラマ、「Dr.コトー診療所」が終わった。暖かい島の人々の暮らし、中島みゆきさんのエンディングの歌声、美しい風景・・・。すばらしいドラマであった。それに、予告編の作り方のうまさ。メスを取り落とすドクター、これは、どうなるのか。すっかり、つくり手の思惑にはまり、ドラマを楽しませてもらった。
 さて、年末にむけて、だんだんあわただしくなってきた。新年にむけて、なすべきことは、やり遂げたい。メモにすると、いくつもでてくる。全部はイッペンにできない。一つひとつ、順にやっていくしかない。
 優先順位、できること・・・。
 今年12月、ブログを始めてしまい、生活のなかで、その占める位置の大きさに驚く。自分のこと、周囲のこと、だけではなく、グローバルなみかたについても心がけるようになった。社会参加しているという実感がでてくる。「世のため人のため」の感覚。そうありたいと思う気持ち。出来る事からこつこつとやっていきたい。

はらがまえ

2006年12月21日 11時05分05秒 | 思考試行
 家内が読んでいた「手紙」を、友達にかしてあげる、と言うので横はいりして、夕方から読み始めた。テーマは重いが、一気によんでしまった。なるほど、ベストセラーになる本はこういうことなのかと、読みやすいから、読みきる、そして、内容は、考えたことのないキリクチがちゃんとあって、新しい世界をみせてもらった。小生らの年になると、しかしながら、習慣、価値観の感性の違いは禁じえない。我々の世代では、若い女性、ことに女子高校生には、「におい優しい、白百合の・・・」という形容詞がついていて、事実そのようにアコガレタものであった。が、それは、一時期にすぎなかったとも思えるので、昔は上品であった、ともいいにくいが。しかし、イワカンがあるのは、否めない。
 さて、この小説で、思うのは、「腹構え」ということである。正しいかどうかは解らないが、キチント腹をきめる、そのイミ、カナシミ、カクゴ、生きていくことのポイントをみせてくれている。
 続いて風呂のなかで、昔かいもとめた文庫本で、大江さんの「性的人間」をよみかけた。小説世界の豊かさ、個性、多様性、深さを感じさせてくれる。ああ、本当に一生勉強だ。

ふれあいのなかで問題解決を

2006年12月20日 08時45分02秒 | 思考試行
 どこか人に対する「おびえ」があって、気持ちを明るく持ちきれない時期が長く続いた。小学生のころ「イジメ」にあった。その後遺症と自分では感じていた。その後、映画をみたり、小説を読んだり、友と酒を酌み交わしたり、一緒にスポーツしたり、親、兄弟、叔父、叔母、伯父、伯母、いとこ達、甥や姪、近所の人々、仕事上で出会った人々、そして、妻、妻の親族、さまざまな出会いとふれあい、のなかで、うすがみをはがすように、おびえから解放されてきたと思う。(感謝しなけばならないが、どこかアタリマエと思っているフシがある。)そして、自分もこの社会のなかで、国とか民族という狭い視野からではなく、もっと広い観点から、モノをみようとするようになってきたように思う。
 これは、到達というより、姿勢の問題で、生涯にわたって追求していくことが重要であると思う。いま、勝ち組の人々の反省のない「むさぼり」のために、懸命に働いても、努力しても「ワーキングプア」状態から、ぬけだすことが出来ない人々をつくりだす構造があって、昨日の深夜(なぜ深夜なのか?)テレビでとりあげていた。年金をかけていた期間が、数年足りないために、年金をもらえない、高齢者夫婦のカン集めのすがたを追っていた。母子家庭の若い母親の涙。救済の手段は、いくらでもあるはずである。そこへ、為政者や勝ち組の目はとどいていない。人を道具としてしか、みていない。自分の儲け手段としてしかみない。腹の底のほうから怒りがこみあげてくる。具体的に何をしていけばよいのか、考えれば必ず方法はあるはず。私もその一人として、その立場から、生きる作業をしていく。

気持ちについて

2006年12月19日 08時31分12秒 | 思考試行
 やはり、捨ててかかる、のが最終的には一番と思う。先人がすでに、言っていることで、いまさらの感があるが、言うは易く、行うは難しである。世の中固定的なものはない、必ず流動変化する。そんなものにコダワッテどうするのだ。こちらが、カタメヨウとしても、アイテはそうはならないし、自分も状況変化で、必ずカワッテしまう。そのことを踏まえて、コトには全力であたることを心がけながら、しかし、本質的には、捨てている、という調子である。
 オオムカシになるが、「及ばぬこととあきらめました。だけど恋しいあの人よ。ままになるなら、今一度、ひと目だけでもあいたいの。」という歌詞の流行歌があった。あきらめられたら、悩みはない。だけど、そうはいかない。どうしてもコダワル気持ちがもちあがる。だけど、だけど、捨てるほかないのである。ところで、ステル効用は、ヒロッテシマウことである。すてるから、得てしまう。のである。得ようと思ってすてるわけではないが、得てしまう。これが、スバラシク豊かなのである。そりゃそうだ、すてているのに、得てしまうのだから。
 しかし、怪しいヤツがステロステロとやってきて、騙しのテクニックにつかうから、これは、バカなやつもいるもんだ、とみぬくことは、当然必要だ。平和に健康にいきることは、勉強しなければいけないし、だまされるわけにはいかないし、しかもすてなければならない。マッコト一筋縄では、いかない。

シンプルライフをめざして

2006年12月18日 10時03分51秒 | 思考試行
 今年は心臓アブレーション手術をうけたこと、車庫のシャッターを電動にしたこと、春と秋、冬にかけて、妻の母、小生の両親を一泊旅行につれていけたこと、が我が家の主たるイベントであった。放送大学に復帰したことも、あげておこう。今年はニガテな理系で、「多変数の微積分」には、マッコト手こずっている。
 しかしながら、誰と競争するわけではない。基礎にもどりつつ、わからないことを、確認しつつ、わかる機会を狙うのみである。
 さて、今日は、長年ねかしてきた古いパソコン、故障したCRTなどひきとりにきてもらうことになっている。いろいろ思い出もあるが、身辺整理にいよいよのりだすことにした。めざすは、シンプルライフである。ただし、モノはかたづけても、内面の充実は、ますます、したたかに、その「増殖」の努力を、おこたりなく継続していこうと思っている。

生涯勉強・・・数学などいかが

2006年12月17日 08時52分56秒 | 思考試行
 生涯何らかの勉強を人は続けるという仕組みになっていると思うが、意欲の違いは、ある。そこで、たとえば数学について考えると、ある先生は、どこかのポイントで、人はドロップアウトしているという。そうでなければ、数学者になっているはずだ、というのである。そこまでいかなくても、数学は、高校時代に大きく分かれるようだ。すなわち、得意なものと、苦手なものに。小生は、後者だが、最近数学をヤサシク教えてくれる本が出ていて、これが、目からウロコで、少しづつ挑戦し、確実にその力量を伸ばすことができている。ヨロコビである。よくぞ、こんな仕事をしてくださったと、感謝にたえない。そして、その過程で、副次的な効果もあらわれる。
 なにごとにつけ、キチント考えようとする姿勢がうまれるのである。もとより、スタートが遅いし、ある意味途中で、道をはずれたカンのある人生であるから、成果はそう簡単に、得られるとは思っていない。生涯かけて、続けていくつもりであるから、焦る必要はない。