空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

自分がどう考えるかが大事である

2020年11月17日 18時04分27秒 | 思考試行

 アメリカの大統領選挙は、双方が過去最大の得票を得るという激しい戦いであった。ただ、トランプ大統領は敗北を認めていず、訴訟を起こしていて、いまだ戦いは終わってはいないのかもしれない。

 人間、寄り集まれば全員の意見がドンピシャで一致することは、なかなか難しいことだが、どうやって意見の違いを調整していくかは、人類にとって大きな課題である。

 アメリカの選挙をみても、相手の意見をよく聞きあうという感じはない。自分の考え、価値観に沿うものしか認めない姿勢が目立つ。たとえばトランプ派の場合は、聖書に書かれていることを事実と認めるとし、科学的な知見は認めないという極端な人々もいて、このような人とどう意見を調整するかといっても、ほぼ不可能な気さえする。

 だが、この状態を認めて致し方のないものにしてしまうことはできず、いずれは、何らの解決が望まれる。

 こうした問題の解決が、定式化され、その手段が確立されるようになれば、人類の歴史において画期的なことである。論争する両者について、論理的にどちらが正しいかを決めることができるかどうか。どういう価値観のもとそれがなされるか、この問題が解決できるようになるとすれば、人類の大半の困難はなくなるだろう。

 現状は、力の強い者が弱い者を従わせるというのが、普通の構造だろう。選挙なり規則に基づいて、権力者を決める。この権力者は、従うものの反抗をできる限り抑え支配体制を維持する、圧倒的な権力があれば、従わせる者の意見など関係なく、自らの望むままに、人々を支配し動かすこととなる。

 人々が集団で暮らしていく場合に、権力者が必須のものかどうかは疑わしい。権力者なしの、理想的な集団生活をおくれる社会構造もありうるかもしれない。歴史は、様々な試行例を示している。

 現状で、理想的社会の実現はなされているかどうか、あるいは、近づいている国があるのだろうか。北欧の国々がその例として取り上げられていたりする。社会保障が充実していて、権力者の姿が大きくなく、暮らしやすく、政治家はつつましく、国民の満足度が高い。

 教育制度もすすんでいて、費用もかからない。ということは、国民の一人ひとりのレベルが相当高いといえるのではないか。

 アメリカの場合、教育には相当の金がかかり、大学卒業時には、大きな借金を抱えている場合もあるという。全国民の教育レベルはそうなると、あまり高いとはいえないかもしれない。トランプとバイデンの選挙結果においても、そうした実態があらわれているのではないか。騒ぎのレベルの低いことにはあきれる。

 日本の場合は、先の大戦で敗戦を経験し、そこからの民主主義体験である。民衆が権力を自らの力でかちとったことはなく、権力のしめつけに極めて弱い。人事権をにぎられた官僚は、政治家に忖度し、大学のトップクラスの連中は、官僚ではなく、外資企業をめざし、官僚を目指すものは減っているという。官僚になっても、ずっといるつもりはなく、辞めるものが多いので、採用数は、多めにしてしているという。

 こうした現状から、日本という国がどんな風の成長していくのか、まさに、一人ひとりの国民にかかっている。どんな国にしていくのか、国民がどう考えるかにかかっている。自分がどう考えるのかが大事である。「総合的に俯瞰的に考えた」などという「理由」を壊れたレコードのように繰り返すヤカラを、政治家にしてはいけない。

 


維新の胡散臭さ

2020年11月02日 21時14分43秒 | 思考試行

 大阪市を無くそうと、多大なエネルギーをかけ、脅かしのなかで、公務員を動かし、蠢いてきた維新。なんとか反対が多数を占めたが、もう少しで、彼らの思惑通りになるところであった。公費を100億円も使ったと聞く。

 もしか、賛成票が多数を占めたなら、彼らはどう動いたのだろうか。支持をうけたとして、反対意見は無視し、堂々と大阪市を解体し、資源の棚卸をして、自分たちの支配下でどれだけのことができるか、さっそく動き出したことだろう。

 その方向は、一人ひとりの市民のためにという視線はない。公務員を締め上げ、労働条件の一層のしめつけを強め、貧富の格差をさらに拡大させていく政策を次々と打ち出すことだろう。

 大規模な賭博場を作る。そこには、どんな哲学があるのだろうか。憲法をかえて、戦争だってできる一人前の国となり、核兵器だってもって、どうだ、この兵器はお互い使えんやろう、と言いたいらしい。そうでなければ、核兵器を持つ国とは交渉もできないだろうという理屈だ。

 この方向はいいのだろうか。彼らは、国民をみくびっている風がある。大阪都構想の本質は、彼らの支配体制のための道具であり、手段である。当初は、有利な世論構成とみられたために、事の本質を隠ぺいし、公費をふんだんにつぎ込み、「メリットを宣伝」静かに、住民投票になだれこもうとしていた。

 反対派は、出遅れたけれども、ギリギリ間に合った。公明党の創価学会しめつけがもう少し強ければ、あぶないところだった。賛成票が前回よりも相当増えている。この党の危うさが侮りがたいことを見せた。右向け右の怖さである。

 これからの時代、一人ひとりの力量が大事になってくる。政治家が、なにを企図しているか見極め、本当に人々のためになる政策を実行させるようにさせなければならない。

 隠されたり、ムードで煽ったり、彼らの「得体のしれないロマン」などに乗せられてはならない。彼らは雄弁であり、オットコマエだから、ついつい騙されそうになる。本音を見抜かなければならない。

 本当は政治なんて嫌いなんだと言い始めている。結構無責任でもある。政治の世界は、国民がキチンと見る目をもたなければ危うい。いつ、どこからなにが始まるかわからない。

 こちらの価値観が健康で、真っ当なものであるか、常に自己研鑽をつみながら、お互い助け合っていける考え方を堅持しているかどうかが試される。