結局は日々の暮らしができるのかどうか、どうやって暮らすかが、自分のなかで明確になっているか、それができていれば、何も不安に思う必要がない。不安に思わないのは、何も考えないということではない。考えて、対策を考えて、可能な方法を把握していれば、いいということである。
では、その方法とは何か。考えられることはすべて考えつくすことである。できること、できないことを分ける。できないことであっても、代替する手段がないか考えてみる。必要と思っていたことでも、必ずしも必要とはいえないかもしれない。
最後は結局のところ、人生を終えることは確実なのだから、そこを踏まえて考えることである。死なない生き物はいないのだから、当然のことであるが、どうせ死ぬのに、死ぬことを不安に思うのは、無駄なことで、なぜ怖いのかを考えてみればいい。
怖いことは避けるわけだから、死ぬような恐れのあることはしないように動くわけで、それは生きることにつながる。生きる方向へ、導かれているわけで、何々のためなら、命を捨ててもおしくないと考えるならば、平気で死を選ぶ人もいる。
自動車の運転免許の更新通知がきた。また、認知症の検査を受けなければならない。もう積極的には運転することはないから、もう更新しないでおこうかと思ったが、もしか田舎暮らしをすることになったら、自動車免許はあったほうがいいし、都会にいても、そのうち、技術の進歩で、安全対策が万全になれば、運転しても安全と思われる時期がくるかもしれない。となれば、更新はしておこうかということになる。
睡眠薬が必須と長年思っていた人が、ある時、もう薬に頼ることはやめよう、いつかは寝るのだから、なにも不安に思う必要もない、と考えて、やめてみた。そうすると、最初の日は、よく眠れなかったが、格別不安に思うことをしないようにしていたら、次の日からは何の支障もなく眠れたという。長年、睡眠薬に頼ってきた日々はなんだったんだろうと思ったそうだ。
要するに考え方で、いろいろ改善できることはあるわけで、そんな発見があることも人生の味わうべき要素なのかもしれない。
人生、捨てたものではない、と亡くなった叔母が言っていたが、目はみえず、動けば圧迫骨折、晩年は寝たきりで、客観的には大変な状況であった人からの口から出てきた言葉で、何かしら、人生の味わうべきことを見つけていたのかもしれない。
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