空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

何故・何故・何故の追求

2021年04月22日 17時38分54秒 | 思考試行

 コロナ対策がワクチン頼みと、人の流れの制約に、集中しているようにみえる。医療体制は簡単に増えない、ベッドがあっても、人の態勢ができないという。人の流れを止めるといっても、生活補償がないではないか、飢え死にするほかないではないか。という問題がある。

 医療体制は、金だけの問題ではないのだろうか。本当にどうにもできないのだろうか。医師がたくさんいて、看護師資格を持つ人がいるというではないか。なぜできないのか。

 国に金はないのか、手だてはないのか、国債を出して、必要なところに、そして、国民に金を配ればいいではないか、そうすることでなにか支障はどう生ずるのか。そもそも国の借金とはなにか。国際的にはどうなるのか。

 国民の税金で、国の借金を払わなければならないものなのか。そういう人もいる。だが、そうではないという人もいる。どちらが正しいのか。本当に、国債で、金を用意することは、いけないことなのだろうか。国民から税金を徴収するのは、早いのに、国から支出するとなれば、なんで遅いのか。

 コロナ騒ぎで、対処するのに、国の財政的役割、本当のコロナ対策の総合的な司令部がどこにあるのか、がみえない。首相が単独で、思いつきで、何かいうと、間違える恐れはもちろんあるが、組織的にスムースに問題に対処する真のセンターがみえない。そのセンターと首相が密接に絡んでいないといけない。

 政治家、官僚が、自分の役割分担のことだけをやって、総合的に問題対処する真の司令部がない。検査を充実して、感染者を保護する。中国が成功したやり方であるが、どういうわけか、日本では頑なに、それはしない。首相が言ってもすすまないという。では誰が止めているのか。議論がチャンとなされているのか。テレビ朝日など、相当前から、なぜやらないのかと悲憤慷慨の体である。なぜ、どんどん、取材攻撃がかけられないのか、取材を拒否しているのか、誰に取材すればいいのかわからないのだろうか。わからない。

 どこがセンターになって、具体的な手立てを打っていくのか、システムがみえない。首相は専門家の意見を聞くと言い、専門家は政治家に、中途半端に意見具申をする。経済のことがあるから、学者としていえることは、ここまで、などという。こうしてみると、やはり政治の責任は免れない。政治がセンターを構築しなければならない。滅茶苦茶頭の良い政治家を配置すべきだ。頭がいいという条件は必須である。本当に頭のいい人を、中心的役割に据えなければならない。彼は、いずれ、国の中心となっていく人である。政治家と書いたが、そう限る必要もない。どこの分野であろうと、そんな人材がいるのなら、大胆に起用すべきである。

 方針を明確にして、実行するということがなければ、物事がすすまない。なにをやっても、中途半端であり、確信がもてないのは、責任をもって、事態に立ち向かうという本気の態勢ができていないからである。

 首相が何か言っても、その通りには動かない。とすれば、そこは司令部ではない。止めているのは誰で、どこがそうしているのか、詰めなければならない。放置しているところに、問題がある。責任は私にある、とだけ言っても意味はない。実際に事態に対処する俯瞰的な視点から、全体を動かさないとならない。

 医療体制をどうするかについて、本当に、あるべき姿を議論しているのだろうか。政治、医師会、専門家が事態に対処する動きがあるのだろうか。誰が中心になって、やるのか、センターがなければ、組織は動かない。人の世の仕組みというのは、どうやって決めたのかが、明確にならなければならない。独裁政権なら、国民に、なにも知らすことはないのだが、民主的国家であるなら、その決まる過程が、周知されなければならない。

 日本の場合、敗戦によって、はじめて民主主義に触れたわけで、国民が勝ち取って民主主義国家になったわけではない。おそらく、多くの民主的でないやり方、感覚が残っているのかもしれない。議論をしない、空気で決めるなど、おかしいところがモロにでてきているのではないか。部分部分にとんでもないボスがいて、邪魔しているのではないだろうか。一つひとつおかしいところを、何故、何故、何故で追い込んで、明らかにしていくべきである。


どれだけ真剣に考えるか

2021年04月20日 19時19分27秒 | 思考試行

 テレビに出ているアナウンサーが、生活の心構えを述べているのを聞いた。それは、たとえば、人がいないと思われるところでも横断歩道の信号を守る、という。それは、社会的に良くないとされることはしない覚悟を述べているのであり、仕事上、常に人に見られているのだから、決して見られて困るようなことはしない、という決意である。

 言わば当たり前の話だが、ものの考え方として、人が見ているかどうかは関係なく、自らの判断が自分の価値観のなかで、正しいと思うことを貫くということは、大事なことである。

 政治家の本音が、議席確保にあるのならば、そんな政治家は直ちにやめてほしいものである。ビジネスとして旨味があって、やっている政治家もそうである。政治家こそ、国民のくらしを守るために、否、自国民ということだけでなく、地球規模での生きとし生けるもののための政治でなくてはならない。でなければ、自国民さえ守れはしないし、本音が何処かほかにあるような政治家は、ただちに、引退してもらわなくてはならない。

 人間がいかなる動物か、いつも他者のことを考え、自己利益を後回しにするような動物かどうか、通常の動物の世界は、まさに弱肉強食であり、どうやって自分の食料を獲得するかに真剣であり、食われる方も、いかにして我が身を守るかに、懸命である。獲物を狩るために協力したり、食われる側も、対抗して食べられないように、様々に工夫する。

  全体としては、餌をとりすぎれば、食料が不足し、獲物を捕る側も繁栄はのぞめないし、獲る側の力が落ちれば、餌側はその勢力を伸ばすことができる。そうしたなかで、バランスが生まれる。動きながら、できてくるバランスである。

 国と国との関係はどうであろうか。中国の振る舞いは、国力の増加に伴い、明らかに拡張的であり、自国の権益を伸ばすことに懸命である。アメリカとの間で、対立構造が明確になりつつある。台湾などで、実際の戦闘が始まるかもしれない。尖閣についても、日本との間で、双方の言い分がまったく相容れない形となっており、話し合いで解決のつきそうな雰囲気がない。

 日本が憲法で、絶対に戦争はしないという決意を決めているにも関わらず、もはや、自衛のためには、交戦も厭わないという姿勢が明らかな、勢力がむしろ強くなってきているようで、彼らは、平和を求めるなどといえば、平和ボケなどと、非難の言葉をはいている。真剣に平和を考えるというより、戦争はいやだけれども、といいつつ、戦争をしないとは言わない。いざとなったら、戦うのはあたり前だという姿勢を隠さない。そこには、いかにして、戦争をしないためにどうするかという工夫など、頭にはないようだ。

 何度も、人間は戦争をしてきたし、今もなお、している。戦争を無くそうと本当に真剣になっている人がいるのかどうか、とくに各国のリーダーがそうなっているかどうか。おそらくは、自国内部での権力争いや、外に対しても、疑心暗鬼の状態であり、また、そうでなければ、たちどころに他国にやられる、あるいは、自国内部の権力闘争に負ける、と考えているのではないだろうか。

 どうせ殺しあわなければ解決しないのならば、とんでもない毒薬を開発して、自国民は解毒方法を学ばせておき、侵略者には、気付かれることなく、触れさせ、反省するのなら助けることもできるが、・・・てな物があれば、これは強いかもしれない。お互いそれが常識となれば、敵対的な行動はとれないこととなる。国際的な問題リーダーも、この方法で、改善をせまってみるというのはどうだろうか。彼らはだいたい頑固だし、そう簡単には反省してはくれないだろうが。    

 あるいは、ものの考え方、理念でもって、国際常識を確立し、これに反するような特異な考え方については、自ら改善するほかないと思うことができ、個人は、必ず改善できて、全体として、なかよくやっていける社会を構築できはしないだろうかなどと夢想する。


なにが正しくてなにが変なのか

2021年04月16日 16時39分51秒 | 思考試行

 それがわかっていれば、もめごとはない。あえて、自分の間違っていることを知っていて、無理矢理に自説を主張したりすることがあるなら、当然もめることとなるが。

 高橋洋一氏が、youtubeで、盛んに自説を展開しておられる。質問に答える形で、さまざまな問題を取り上げている。この主張は、説得力があって、確信に満ちた様子で、信頼できる感じがある。肩に力が入っていないし、自然体である。

 ウソを言っているようには見えない。たとえば、福島の原発処理水の海洋廃棄について、トリチウムを基準以下に薄めて行うことについて、中国や韓国などが、日本を非難していることについて自分たちも流しているくせにそれを棚にあげている、とか、科学的に自然界にあるトリチウム(三重水素)を薄めて流すことについて、必要以上に問題視することの意味のなさを述べていて、説得力がある。

 マスコミに、科学的知見がない、と言っている。マスコミの報道ぶりが、問題にされている。他の国も流していることなどの事実を言わずに、それらの国が抗議をすると、報道するなど、報道のやり方がおかしいという。

 資本主義社会のなかで、新聞は広告のスポンサーの気に障ることは決して書かないし、報道のすべてを信用することはできないが、それでも、情報源としての役割は、現実にはたしていると思いたいのだが、今や、新聞だけが情報の源泉ではない。

 今や、情報の出どこは、多様であり、爆発的である。個人でさえ、情報、意見を表明することが、容易にできるようになっていることは、画期的である。支配者だけが情報を独占できるという時代はもう終わっている。

 にもかかわらず、世界では、いまだに明らかな理不尽な現実がある。とんでもない支配者がいるし、悲惨な現状が進行継続しており、解決の道筋がみえない状況がある。そこには、人類全体を統べる合理的な価値観がいまだに未成熟であることを意味している。

 科学技術の進歩と、人類全体の考え方、価値観の進歩具合の塩梅がうまくいく状態が、いずれ実現することを期待したい。

 日本の女性差別の実態が世界で目立っていることが、森元首相の発言で露わになったが、日本の社会全体が、人類全体が生き延びていくために必要な要件をクリヤしているかどうかは、甚だ疑問である。コロナ対策をみても、本当に困難な状況を打開する戦略を持ち得ているのかどうか、ここに、日本社会の本質的な改善の課題が露わになってきているようにみえる。

 おかしい価値観、政治家、勘違い、思い込み、・・・それらを根底から、鍛えなおす作業が必要だと思う。それらは、意外に簡単に実現できそうな気がしていて、そんなに遠くない時期に到来するような感じもある。

 恐らくは、個々人のなかに、それは芽生えて、当たり前のこととなり、投票行動などにあらわれ、あっさりと社会が変革されることになるのかもしれない。