昨日、春分の日を迎えて、父が、今晩か、2ないし3日だろう、と医師に宣告されてから、2週間を経過した。高齢故に、今後、どう変化するかは、わからないが、数値は改善にむかい、本人の状態は、小康状態を保っている。一時の、落ち着かない日々は、まるで、ウソのように、今は、落ち着いた暮らしとなった。病院通いは、変わらないけれども、明らかに猶予は与えられていて、質的な変化が、家族の中に、生まれてきている。
さて、私のブログ生活は、3月をこえることとなった。思うに、擬似作家生活をすごすことができた日々であった。ip数や、pv数に励まされ、連続して更新することができるという体験をした。知人には、ブログをしているとは、話していたが、ついに、タイトル名をいうことはなく、ここまできた。したがって、ここで、ブログを一旦休むにあたり知人に関しては、挨拶の必要はない。しかし、いままで、読んでくださった皆様には、ご挨拶をしなければならない。
ころは良し、4月を迎え、学校は卒業、入学のシーズンであり、新学期が始まり、会社や、国や、多くの組織で新年度となる。私も、卒業の時期を迎えたいと思う。
このブログでは、総論を語りたかった。我らみな宇宙人であり、それ以下の、セクトにこだわる「愚」を告発してきたつもりである。この一点のみが、ブログを書いてきた動機である。量子的にみれば、スカスカの無に等しい我らの存在でありながら、一定規模の視点でみれば、我らの日常世界が現出する。この不思議さ。そして、世界で、社会で繰り広げられる日常世界の進歩具合のこと。宇宙人としての視野の確保が、今、本当に重要であり、意味のあることだと強調して、このブログのお休みの、ご挨拶としたいと思います。長い間、お付き合い下さり、まことに有難うございました。
最後に、父親の病室では、酸素を常に供給されているのであるが、チューブの根元に、透明な、小ぶりのボトルがついていて、加湿するためか、酸素はこのボトルの、水を通って、鼻へと送られている。この、水の音が、なかなかいいのである。
そこで、一句をものしたので、絵手紙にでもして、父親の病室の、テーブルの上にでも、おいてやろうと考えている。これは、起床前に、布団の中で、思いついたもので、妻には、布団のなかで、披露をしておいたが、おそらく記憶にはないだろう。しかし、この一句が、いわばこのブログの書き手が、私であったという、証拠になるわけで、いわば、暗証番号の役割を果たすこととなる。
春山に 清流の音 こだまする 「空をみながら」子
さて、私のブログ生活は、3月をこえることとなった。思うに、擬似作家生活をすごすことができた日々であった。ip数や、pv数に励まされ、連続して更新することができるという体験をした。知人には、ブログをしているとは、話していたが、ついに、タイトル名をいうことはなく、ここまできた。したがって、ここで、ブログを一旦休むにあたり知人に関しては、挨拶の必要はない。しかし、いままで、読んでくださった皆様には、ご挨拶をしなければならない。
ころは良し、4月を迎え、学校は卒業、入学のシーズンであり、新学期が始まり、会社や、国や、多くの組織で新年度となる。私も、卒業の時期を迎えたいと思う。
このブログでは、総論を語りたかった。我らみな宇宙人であり、それ以下の、セクトにこだわる「愚」を告発してきたつもりである。この一点のみが、ブログを書いてきた動機である。量子的にみれば、スカスカの無に等しい我らの存在でありながら、一定規模の視点でみれば、我らの日常世界が現出する。この不思議さ。そして、世界で、社会で繰り広げられる日常世界の進歩具合のこと。宇宙人としての視野の確保が、今、本当に重要であり、意味のあることだと強調して、このブログのお休みの、ご挨拶としたいと思います。長い間、お付き合い下さり、まことに有難うございました。
最後に、父親の病室では、酸素を常に供給されているのであるが、チューブの根元に、透明な、小ぶりのボトルがついていて、加湿するためか、酸素はこのボトルの、水を通って、鼻へと送られている。この、水の音が、なかなかいいのである。
そこで、一句をものしたので、絵手紙にでもして、父親の病室の、テーブルの上にでも、おいてやろうと考えている。これは、起床前に、布団の中で、思いついたもので、妻には、布団のなかで、披露をしておいたが、おそらく記憶にはないだろう。しかし、この一句が、いわばこのブログの書き手が、私であったという、証拠になるわけで、いわば、暗証番号の役割を果たすこととなる。
春山に 清流の音 こだまする 「空をみながら」子