三角公園を過ぎると、
さらに多くの若者が通りにあふれています。
短いズボンにポロシャツ、
頭には最近はやりのドゴールキャップによく似た
ワーク帽を被っていたその時のdoironの恰好は
ビジネス街ではかなり浮いていましたが、
ここではあまり目立ちません。
多分ここで目立つのは
逆にスーツでネクタイ姿なのかもしれません。
歩道には昨年の街路灯アートプロジェクトで建てられた
サイケな街灯が目立ちます。
そして、これがアメ村の象徴ともいえる
建物の外壁画。
ニューヨーク在住のグラフィックデザイナー
黒田征太郎氏の作品です。
ここアメ村に充満する若者のエネルギーは
どうも空回りしているように思えてなりません。
壁画に書き込まれた
「PEACE ON EARTH」の文字が
空々しく見えるのはdoironだけでしょうかねえ。
ここからはしばらく御堂筋の歩道を歩きます。
さすがに大阪で随一のメインストリートというだけあって、
有名なお店が連なります。
最近お世話になった「アップル社」。
これが「PUMA」、
そして御堂筋の東側には
ブランド店が連なっています。
あ、これは昔からある
「ホテル・日航大阪」ね。
そんなお店を眺めているときに、
ふと御堂筋の分離帯にある看板が目に入りました。
見ようと思えば広い御堂筋の横断中に
立ち止まらないと読めません。
左右を車が走って落ち着かない中、
立ち止まって読んでみると・・・
御堂筋の銀杏並木について
書かれてある看板でした。
昭和12年に竣工したこの御堂筋に、
外国の人が見たら珍しいだろう
という理由で植えられた銀杏が、
今は実に800本を超えているそうです。
再び信号が変わるのを待って
ミセスが日傘を持って
つまらなさそうに待ってる
元の歩道に戻り、北上を続けます。
左手に文楽に所縁の深い
「難波神社」が見えてきました。
友達に文楽関係者の妻がいる
ミセスの眼が輝きはじめます。
鳥居は礎石のある明神鳥居です。
保存樹のそびえる境内には
1811年に植村文楽軒が
この地で始めた人形浄瑠璃が、
関西文楽の始まりと
深い関係があることなどが書かれた
看板が建てられてあります。
その後文楽は後で登場する
御霊神社に場所を替えて行われますが、
その跡地である難波神社にやってきた
「彦六座」も大きな人気を博したそうで、
ここは長い間文楽の本拠地でありました。
こんなおみくじも置いてあります。
そこから少し北に行くと
南御堂といわれる真宗大谷派の
難波別院があります。
都会の中にあって広い敷地を持つこのお寺には、
芭蕉の句碑があります。
周りにバショウが植えられた句碑には
「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」
と刻まれています。
言わずと知れた俳聖芭蕉の辞世の句ですね。
芭蕉はこの近くで生涯を閉じました。
御堂筋のあまり近寄れない分離帯の中に、
「終焉の地」の石が建てられています。
仲たがいした門人の和解を目的に
大阪に来て、南御堂前の花屋の貸座敷で
息を引き取ったそうです。
車の流れを縫って写真をパチリ。
さぞかし周りの車からは奇異な行動に見えたでしょうねえ。
御堂筋の信号のないところを大胆に渡り、
元の歩道に戻ります。
次は陶器神社と坐摩神社に
ちょっと寄り道します。
陶器神社は、器と火除けの神さんです。
参道には陶器の店もあります。
7月には陶器供養も行わるこのお寺は
さすがに燈籠も陶器の燈籠でした。
ということは、もちろん狛犬も陶器です。
同じ境内の敷地続きであるのが、
「坐摩(いかすり)神社」です。
あれ?確か熊野街道出発の地である天満にも
同じ名前の神社がありましたよね。
(昨年5月7日のブログ参照)
由緒書によりますと、
豊臣秀吉時代までは天満にあったそうで、
今はそこにはビルとビルの間に
お社だけがこぢんまりと残っているだけだそうです。
あれから、テレビや雑誌で見ていると
「坐摩神社」が紹介されるとき
どうも様子が違うなあと疑問に思っていたのですが、
ここにきてようやく点と点がつながり、
疑問が解消されました。
坐摩神社は、和泉の国一宮が
「大鳥大社」であるように、
摂津の国の一の宮でもあります。
続く