先日このブログで紹介したように、
近所の公園には梅の木が3本植えられてあり、
今それらがちょうど花を開いている。
寒風の中で他に色づいているような花もないので、
遠目にも来園者の目を惹いているし、
最近は何羽ものメジロが蜜を吸いに集まっている。
そんな梅の絵を描いてみよう
と思い立ち、ここのところ公園に足繁く通っていた。
何度も行ったり来たりせずに、
その場でじっくりスケッチでもすればいいのだろうが、
ちょっぴり恥ずかしいのと、
寒いのとでちょこちょこ見に行っては描き
また見に行くということを繰り返しているので、
一日に何度も足を運ぶ羽目になってしまった。
梅というのは面白い木で、
まっすぐ伸びている花枝があるかと思えば、
ぐにゃりとへそを曲げている枝もあったりする。
老木ともなると、
まるで何かを訴えるような形に
身をよじるような姿になったりするので、
その造形美が絶妙なことから
よく盆栽になったりもする。
長浜や郡山の盆梅展は有名で、
これまでも何度か出かけたこともあり、
異形の梅をいくつも見てきた。
もし、梅にそんな風に身をよじるほどの意思があって、
言葉までしゃべったとしたら、
こたびのdoironの近隣の公園にある梅は
きっとこうしゃべっただろう。
「何度も何度もわしを見にきおって、
ひまなおっさんじゃのう」とね。
それくらい何度も足を運んだ。
実は、観察している時に
とても気になった枝があったのだ。
それがこれ。
ぐにゃりと曲がったこの枝を
ぜひとも絵に入れてみようと思ったので、
そこを重点的に訪ねることにした。
そうして写真と記憶と想像力を駆使して、
「よーし美人に描いたるからね~」
と頑張って描きあがったのが、
これ。
う~ん、なかなか美人には描けんものじゃね。
でも収穫はあった。
これまで何枚も絵を描いてきて、
今回ハッと思ったのが、
「描く」というのは
その対象と「話す」ということに通じているのかなってこと。
相手をじっくり観察して
いっぱい話せば話すほど、
いい絵が描けるんではないだろうか。
そう考えたら、
これからも優れてるという絵を
観賞するときの視点がうんと広がる。
その画家が、描いてあるものと
どんな話をしたのかという目で見れば、
また絵の中に違ったものが
見えてくるような気がするのである。
また、同じ絵を描いても、
描く人によってその人らしさというのが出てくる。
それが何なのかよくわからなかったが、
もしかしたら、それはその人が
描く相手とどれだけ、
そしてどんな話をしたかによって
生まれる違いなのかもしれないと、
今回梅を描きながらつくづく思った。
だとしたら、今回の梅とは
もう少し対話が必要だったかなという出来である。
でもまあ、これもdoironの大切な絵だ。
もう少し手を加えて、
しっかりいい言葉を添えて、
いつも通りの作品に仕上げたいと思っている。