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「巻五 内野の雪」(その8)─一条実経

2018-01-11 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月11日(木)14時31分11秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p265以下)

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 太上天皇など聞ゆるは、思ひやりこそ、おとなびさだ過ぎ給へる心地すれど、いまだ三十にだに満たせ給はねば、よろづ若う愛敬づき、めでたくおはするに、時のおとなにて重々しかるべき大き大臣さへ、なにわざをせんと、御心にかなふべき事をのみ思ひまはしつつ、いかでめづらしからんともてさわぎ聞え給へば、いみじうはえばえしき頃なり。
 御門、まして幼くおはしませば、はかなき御遊びわざよりほかの営みなし。摂政殿さへ若く物し給へば、夜昼さぶらひ給ひて、女房の中にまじりつつ、乱碁・貝おほひ・手まり・へんつきなどやうの事どもを、思ひ思ひにしつつ、日を暮らし給へば、さぶらふ人々もうちとけにくく、心づかひすめり。
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後嵯峨院が四歳の後深草天皇に譲位して上皇となったのは寛元四年(1246)、二十七歳の時です。
「摂政殿さへ若く物し給へば」とあるので、ここにいう「摂政殿」は父の九条道家から鍾愛された一条実経(1223-84)ですね。
実経の七歳上の同母兄、二条良実(1216-70)は仁治三年(1242)正月、後嵯峨天皇践祚と同時に関白となりますが、寛元四年 (1246) 正月二十八日、後嵯峨天皇在位の最後の日に父・九条道家の意向で一条実経に交替させられ、翌日の後深草天皇践祚とともに実経が摂政に転じます。
しかし、実経も在任僅か一年だけで、鎌倉の宮騒動の影響を受けて近衛兼経(1210-59)に代わられてしまいます。
『増鏡』には摂政実経が夜昼伺候されて、女房に交じって乱碁・貝おおい・手まり・へんつきなどの遊戯を思い思いにして日を過ごされるので、お側の人々も気を緩めがたく、気遣いをするようだ、とありますが、『弁内侍日記』に描かれている実経の様子は年齢相応に大人びた感じですね。
例えば践祚の年、端午の節句の出来事として、

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五月五日、朝餉にかつみをまゐらせられたるを、「歌を添へて取りて参らせよ」と仰事ありしに、あやめと思ひて侍れば、引き違へたるも面白くて、弁内侍、
  かつみ生ふる浅香の沼もまだ知らでふかくあやめと思ひつるかな
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とあります。(『新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集』、小学館、1994、p147)
岩佐美代子氏の訳では、

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五月五日、朝餉間〔あさがれいのま〕にかつみ草を献上したのを、摂政殿が「取り入れるときに歌を添えて主上にお目にかけよ」とおっしゃったので、歌を詠んだのはいいが間違ってあやめの歌を作ってしまったので、その思い違いが我ながらおかしくて、弁内侍、
  かつみ生ふる……(かつみが生えているという浅香の沼もまだ
  見たことがないので、不覚にもすっかりあやめだとばかり思い
  込んでおりましたよ、ああはずかしいこと)
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ということで、「深く」と「不覚」をかけている弁内侍の歌はともかく、実経は摂政らしく落ち着いた雰囲気を感じさせます。
また、次の記事では実経の「御直廬にて御連歌ありしこそ、いと優しく侍りしか」とあります。
ちょっと興味深い記事として、寛元五年(1247)正月、実経から近衛兼経への摂政交替に際して、

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十九日、摂政かはらせ給ふとて、僉議せらる。上卿二位中納言<良教>、職事頭弁<顕朝>。奏奉る程、折しも月曇りがちにて、何となくものあはれなれば、弁内侍、
  晴るる夜の月とは誰か眺むらんかたへ霞める春の空かな
 奏奉るを、御湯殿の上にて少将内侍見て、着到せられたる紙屋紙の草子の端を破りて書きつけける、少将内侍、
  色かはる折もありけり春日山松を常磐となに思ひけん
これを見て返事、弁内侍、
  春日山松は常磐の色ながら風こそ下に吹きかはるらめ
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とあります。(p166)
岩佐氏の訳を見ると、

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十九日、摂政が交替なさるとのことで、会議が行なわれる。上卿は二位中納言<良教>、職事は頭弁<顕朝>。議決文奏上の取次に立った折しも、月が曇りがちで何となく悲しげに思われたので、弁内侍、
  晴るる夜の……(晴れた夜の月と、今夜誰が眺めているでしょう、
  半ば霞んでいる春の空なのに)
 奏上の様子を御湯殿の上で少将内侍が見て、着到名簿に使った紙屋紙の草紙子の端を破って書いた歌、
  色かはる……(色が変る時もあったのですね。春日山の
  松を、常に変らぬ緑であると、何で信じ込んでいたので
  しょう。
 これを見ての返歌、弁内侍、
  春日山……(春日山の松はいつも緑色なのですよ。下を
  吹く風がちょっと変ったにすぎませんわ)
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ということで、弁内侍・少将内侍姉妹は一条実経に同情的ですね。
この種の記事を材料にすれば『増鏡』作者も実経についてそれなりの記事が書けたはずですが、『増鏡』作者は実経にはあまり関心がなかったようです。
なお、岩佐美代子氏は「摂政かはらせ給ふとて」の注に、

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一条実経(二十五歳)から近衛兼経(三十八歳)への更迭。実経の弟、前将軍頼経が、北条時頼失脚を図ったとして出家せしめられた事件の余波で、鎌倉幕府の要求による。
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としていますが(p166)、頼経(1218-56)は五歳上の兄ですね。
また、頼経の出家は宮騒動の前年、寛元三年(1245)七月の出来事で、「北条時頼失脚を図ったとして出家せしめられた」訳ではありません。

一条実経(1223-84)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E7%B5%8C
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