投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 6月 2日(土)10時50分34秒
辻浩和氏の『中世の〈遊女〉─生業と身分』で参照されている文献をパラパラ眺めているところなのですが、服藤早苗氏の『古代・中世の芸能と買売春─遊行女婦から傾城へ』(明石書店、2012)は、いかにも歴史科学協議会の女闘士らしいアクの強い文体で書かれていて、ちょっと読みづらいところがありますね。
少し紹介すると、
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傾城は、十一世紀末から十二世紀初頭に成立した『今昔物語集』にも、漢字辞書である『類聚名義抄』にも索引で見るかぎり出てこない。十三世紀ころから出はじめる言葉である。前述した美濃国実相寺の衆徒等が、幕府に院主の非法を訴えた文永五年(一二六八)の文書に、「蒲原の君」「傾城」「好色の女」等が出てきており、遊女が傾城や好色の女と呼ばれていたことも確実である(本章第一節)。女房や女官、雑仕女たちが、遊女や白拍子女・辻子君と同様な性愛関係の実態があったゆえに互換性があったことも背景だったのであり、両方の意味で使用されていたといえよう。
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といった具合ですが(p211)、「女房や女官、雑仕女たちが、遊女や白拍子女・辻子君と同様な性愛関係の実態があったゆえに互換性があった」はそれなりに有力な見解だったものの、辻弘和氏によって明確に否定されており、今後は辻説が通説になるのではないかと思います。
ま、それはともかくとして、私が吃驚したのは上記部分の直後の記述です。
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もっとも、弘安七年(一二八四)七月二十日、西園寺家の山荘北山殿で御船楽があった。四十二歳の「二位入道」四条隆顕は、「御膳宿〔おものやど〕の刀自〔とじ〕という物」を舟に乗せ、「傾城の舟に乗りたがり侍りつる程に」などおかしく申した(『中務内侍日記』上)。この場合も、御膳宿の老女官のことを「傾城」と語っており、老女を「美人」と揶揄した言葉である。
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『とはずがたり』によると後深草院二条は弘安六年(1283)秋の初め、東二条院に御所を退出するように命じられ、後深草院に面会するも冷たくあしらわれ、やむなく退出して「二条町の兵部卿の宿所」へ行き、祖父・四条隆親と対面するのですが、その際に隆親は、
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いつとなき老いの病と思ふ。このほどになりては殊に煩はしく頼みなければ、御身のやう、故大納言もなければ心苦しく、善勝寺ほどの者だになくなりて、さらでも心苦しきに、
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と語り(次田香澄『とはずがたり(下)全訳注』、p141以下)、ここから「善勝寺」隆顕が弘安六年(1283)秋の時点で既に死んでいることが分かります。
しかし、この記述は史実と照らし合わせると若干怪談じみていて、そもそも四条隆親自身が四年前の弘安二年(1279)九月六日に死去しています(『公卿補任』)。
ま、『とはずがたり』の年立てをあれこれ論じることにどれだけ意味があるのかという根本的な問題は置くとしても、『とはずがたり』の記述を信じれば、四条隆顕は父・隆親と不和となって建治三年(1277)五月四日に出家して以降、祖父が死ぬ前に死去していることになります。
そこで、『中務内侍日記』において弘安七年(1284)七月二十日に登場する「二位入道」が本当に四条隆顕であれば明らかに『とはずがたり』と矛盾することになるので、岩佐美代子氏の『校訂 中務内侍日記全注釈』(笠間書院、2006)を見たところ、岩佐氏は「二位入道」についての語釈で「四条隆顕か(玉井幸助説)。西園寺実氏室准后貞子の甥。四十二歳」とされているだけで(p51)、そのように解する具体的根拠は示されていないですね。
まあ、私は黒田智氏が指摘されているように、『吉続記』正安三年(1301)一一月四日条に「顕空上人此両三日自関東上洛、条々申事、密々参院申入」と出てくる「顕空上人」が四条隆顕だと思っているので、隆顕が生きていること自体は全然不思議ではないのですが。
善勝寺大納言・四条隆顕は何時死んだのか?(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eb7aa8e0d799f8d99bd2b7bf1a7f17a3
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/384ce32a71c0e831d5d007c2d0967bfb
中務内侍日記
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8B%99%E5%86%85%E4%BE%8D%E6%97%A5%E8%A8%98
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