学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「巻五 内野の雪」(その9)─弁内侍(藤原信実女)

2018-01-11 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月11日(木)17時21分37秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p265以下)

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 節会、臨時の祭り、なにくれと公事どもを女房にまねばせて御覧ずれば、大き大臣興じ申し給ひて、ことさら小さき笏など作らせてあまた奉り給へば、上も喜び思す。入道大き大臣の女、大納言三位殿といふを関白になさる。按察の典侍隆衡の女、大納言典侍、中納言内侍、勾当の内侍、弁の内侍、少将の内侍、かやうの人々、みな男のつかさにあててその役を勤む。「いとからいこと」とてわびあへるもをかし。中納言の典侍を権大納言実雄の君になさるるに、「したうづはく事、いかにもかなふまじ」とて曹司に下るるに、上もいみじう笑はせ給ふ。弁の内侍、葦の葉にかきて、かの局にさしおかせける。
  津の国の葦の下根のいかなれば波にしをれてみだれがほなる
かへし、
  津の国の葦の下根の乱れわび心も浪にうきてふるかな
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井上氏は「大納言典侍」を「前出」としているので(p270)、後嵯峨院の鳥羽殿御幸で後嵯峨院の歌に返歌した「為家の民部卿のむすめ」で「後嵯峨院女房。歌人。家集に『秋夢集』がある。左大臣道良の妻」(p263)と考えておられるようです。

「巻五 内野の雪」(その7)─後嵯峨院、鳥羽殿・吹田御幸
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f3d55a795b51383602ae5308ef3f623e

また、河北騰氏の『増鏡全注釈』(笠間書院、2015)でも「前出。為家民部卿の娘」(p170)となっていますが、これらは明らかな誤りですね。
この場面も『弁内侍日記』を引用したもので、同書の建長二年(1250)九月頃の記事に、

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 節会・臨時の祭の次第など御覧ぜさせおはしまして、そのまねを、女房たちにせさせて御覧ぜしを、太政大臣殿、「この御遊はまことに面白く侍りなん」とて、興ぜさせ給ひて、笏ども作らせて参らせさせ給ふ。頭中将為氏、節会の次第など書きて参らす。人数は大納言三位殿<太政入道殿女>、按察典侍殿<隆衡卿女>、大納言典侍殿<隆親卿女>、中納言典侍殿<実家卿女>、宮内卿殿<顕氏卿女>、兵衛督殿<家通卿孫>、勾当内侍殿<孝時入道が女>、少将、弁、伊予内侍。笏どもに皆名を書きてぞ持ち侍りし。
 中納言典侍殿、「襪をえはかぬ所労」とて、故障申して局におはせしに、蘆の葉に書きつけて局の簾にさす。弁内侍、
  津の国の蘆の下根のいかなれば波にしほれて乱れ顔なる
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とあります。(『新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集』、p225以下)
岩佐美代子氏の訳を見ると、

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幼帝が、節会や臨時祭の手順の書付などを御覧になって、そのまねを女房たちにさせてご見物なさったのを、太政大臣殿が、「このお遊びはなるほど面白うございましょう」と面白がられて、笏などを作らせて献上なさる。頭中将為氏が、節会の行い方など書いて奉る。参加した人々は、大納言三位殿<太政入道殿の女>、按察典侍殿<隆衡卿の女>、大納言典侍殿<隆親卿の女>、中納言典侍殿<実家卿の女>、宮内卿殿<顕氏卿の女>、兵衛督殿<家通卿の孫>、勾当内侍殿<孝時入道の女>、少将内侍、弁内侍、伊予内侍。笏にそれぞれ自分の扮する廷臣の名を書いて持った。
 中納言典侍殿は権大納言殿になって、節会の時に内弁を勤めよと催促されて、「いや、実は、襪(しとうず)をはけないような足の故障がありまして」と言って、お断りして局に逃げこんでおられたので、歌を書いて蘆の葉に結び付けて、局の簾にさした。弁内侍、
  津の国の……(摂津の国の蘆の根が波に濡れて乱れているように、
  あなたのおみ足は、どうしてそんなにお具合が悪くて困っていらっ
  しゃるのでしょうね。おかしいこと)
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ということで、「大納言典侍殿」は「隆親卿女」、即ち四条隆親(1203-79)の娘で、後に中院雅忠(1228-72)との間に後深草院二条(1258-?)を生む女性ですね。
岩佐氏も<『とはずがたり』作者の母、「すけだい」>と注記されています。

さて、以上の点はともかく、『増鏡』と『弁内侍日記』を読み比べると、一番奇妙なのは、『弁内侍日記』には弁内侍が「中納言典侍殿」に贈った歌があるだけなのに、『増鏡』では「津の国の葦の下根の乱れわび心も浪にうきてふるかな」という返歌が存在している点です。
これはいったいどういうことなのか。
井上氏は、

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節会・臨時の祭、公事などのまねについては『弁内侍日記』にみえる。日記と若干の違いがあり、日記には返歌などもないので、かならずしも日記から材をとったとはいえないが、愛らしい話である。建長二年秋の記事である。
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と書かれていますが(p271)、別に公的行事でもなく、幼い後深草天皇周辺の女房たちだけが関係する小さなエピソードですから、『弁内侍日記』以外の記録が残されたとも思えません。
私は、この歌は弁内侍の機転に即座に対応できない「中納言典侍殿」に代って、『増鏡』作者が勝手に、時代を超えて弁内侍に送り返した創作返歌なのではないかと思います。

>筆綾丸さん
>『源氏物語』の「紅葉賀」を踏まえているように思われますね
井上氏と河北氏は特に『源氏物語』には言及されていないですね。
もう少し調べてみます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

紅葉賀 2018/01/11(木) 15:00:48
小太郎さん
http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined07.1.html
「内野の雪」(その6)における御引用の後段の文は、語彙と言い、文体と言い、『源氏物語』の「紅葉賀」を踏まえているように思われますね(引用サイトの135)。
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日暮れかかるほどに、けしきばかりうちしぐれて、空のけしきさへ見知り顔なるに、さるいみじき姿に、菊の色々移ろひ、えならぬをかざして、今日はまたなき手を尽くしたる 入綾のほど、そぞろ寒く、この世のことともおぼえず。もの見知るまじき下人などの、木のもと、岩隠れ、山の木の葉に埋もれたるさへ、すこしものの心知るは涙落としけり。
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「紅葉賀」は桐壺帝が前帝の朱雀院へ行幸する話、「内野の雪」は退位した後嵯峨があちこち御幸する話で、位相は若干違いますが。
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