学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「これより残りをば、刀にて破られてし。おぼつかなう、いかなる事にてかとゆかしくて」

2018-06-07 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 6月 7日(木)12時47分37秒

前回投稿で書いたことは別に服藤早苗氏に和歌を解する繊細さがないという批判ではありません。
赤坂での遊女との贈答歌は国文学者もあまり重視していないようで、『とはずがたり』の諸注釈書を見ても極めてあっさりした記述が多く、私が三角洋一氏の見解に抱いた疑問は今のところ私独自のもののようです。
ただ、改めて『とはずがたり』の当該場面を眺めてみると、ここは末尾の贈答歌を引き出すための一種の歌物語と考えるべきではないかと思います。
そして詞書に相当する本文はしみじみとした筆致で描かれていながら、肝心の贈答歌には特にしみじみした要素がないどころか、煙を上げている活火山の富士を素材にして「恋を駿河の山」などと駄洒落じみた言葉遊びもあり、しみじみとした本文とのバランスが悪いですね。
そもそも美濃国赤坂での贈答歌に富士山が登場するというのも妙な感じです。
まあ、歌物語と考えれば全ての疑問が解消する訳ではありませんが、私としてはこの場面もまずは文学作品として把握すべきであって、少なくともいきなりこれを事実の記録であるかのように扱うのには慎重であるべきだと考えます。
服藤氏にはそうした慎重さが感じられないので、そこは歴史研究者としての服藤氏の欠陥ではなかろうかと思います。
さて、『古代・中世の芸能と買売春─遊行女婦から傾城へ』に従って、もう少し『とはずがたり』の遊女関係の記事を見てみることにします。
同書の第四章第一節は、

1 東海道の遊女たち
2 淀川の遊女たち
3 諸国の遊女たち

に分かれていますが、先に紹介した「1 東海道の遊女たち」に続いて、「3 諸国の遊女たち」の冒頭に後深草院二条が再び登場します。(p191以下)

-------
 鎌倉時代になると、各地で遊女史料が出てくる。いくつかを提示してみよう。先述の『とはずがたり』の作者後深草院二条は、正応三年(一二九〇)鎌倉滞在中の二月、善光寺参詣の旅に出る。入間川(現荒川)の流れの対岸に「岩淵の宿といいて、遊女どもの住か有り」、と記している(巻四)。現在の東京都北区岩淵町である。
-------

服藤氏の岩淵宿についての説明はこれだけですが、『とはずがたり』の原文を見ると、この場面も前後とのバランスが悪い感じがする箇所ですね。
正応二年(1289)三月、鎌倉に入った二条は初めて本格的な武家社会に触れて新鮮な見聞を多々得たはずですが、『とはずがたり』には四月末頃から六月頃まで病気だったと書かれていて、特段の記事がありません。
八月に入り、土御門定実の縁者だという「小町殿」と歌の贈答をしたり八幡宮の放生会を見物したりしていると政情がいささか不穏となり、将軍の惟康親王が廃されて上洛することになって、二条はその様子をルポルタージュ風に詳細に記録します。
ついで後深草院皇子の久明親王が新将軍として東下することとなり、二条は「小町殿」経由で、東二条院から平頼綱の正室に贈られた衣装の仕立てについて助言するように頼まれ、断ると「相模守の文」、即ち北条貞時の手紙まで来たので「相模守の宿所の内にや、角殿とかやとぞ」言われている平頼綱の豪華な邸宅に行って、「御方とかや」呼ばれている女性に衣装についての適確な助言をしてあげます。
そして、「将軍の御所の御しつらい」についても助言を求められ、これに応じます。
ということで、東海道を従者一人で寂しく下ってきた一介の尼にしては、二条の交際範囲は鎌倉の最高権力者とその家族に及んでおり、『とはずがたり』に描かれたしみじみとした旅の描写も、実際には豪奢な大名旅行だったのではなかろうか、といった疑問も生じてきます。
ま、それはともかくとして、新将軍を迎える壮麗な行事で平頼綱の息子である「飯沼の新左衛門」が供奉する様子を見たりした後、年末になって、後深草院二条は武蔵国の川口に行くことになります。(岩波新日本古典体系、p183)

-------
 やうやう年の暮にもなりゆけば、今年は善光寺のあらましも、かなはでやみぬと口惜しきに、小町殿の、これより残りをば、刀にて破られてし。おぼつかなう、いかなる事にてかとゆかしくて。のほるにのみおぼえて過ぎ行に、飯沼の新左衛門は歌をも詠み、数奇者といふ名ありしゆへにや、若林の二郎左衛門といふ者を使ひにて、度々呼びて、継歌などすべきよし、ねんごろに申しかば、まかりたりしかば、思ひしよりも情けあるさまにて、度々寄り合ひて、連歌、歌など詠みて遊び侍しほどに、師走になりて、川越の入道と申物の跡なる尼の、「武蔵の国に川口といふ所へ下る。あれより、年返らば、善光寺へ参るべし」と言ふも、便りうれしき心地してまかりしかば、雪降り積もりて、分けゆく道も見えぬに、鎌倉より二日にまかり着きぬ。
-------

ということで、長くなったので途中ですが、ここで切ります。
なお、「これより残りをば、刀にて破られてし。おぼつかなう、いかなる事にてかとゆかしくて」(ここから残りを小刀で切り取られています。気がかりで、そうしたことかと不審に思います)という奇妙な記述は書写者による注記で、このような記述が巻四にここ一箇所、巻五に三箇所の合計四箇所存在しています。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「富士の嶺は恋を駿河の山な... | トップ | 「四になりし長月廿日余りに... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

『増鏡』を読み直す。(2018)」カテゴリの最新記事