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「四になりし長月廿日余りにや、仙洞に知られたてまつりて、御簡の列に連らなりて」

2018-06-08 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 6月 8日(金)12時16分3秒

前回投稿で触れた「これより残りをば、刀にて破られてし。おぼつかなう、いかなる事にてかとゆかしくて」について、三角洋一氏は「これより」に付された注で、

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次行「ゆかしくて」までは書写者による注記。小書きか、二行割り注が通例なので、すでに親本にあったものを、本文と同じ大きさに写したと考えられる。底本「やられてし」の「し」と、「ゆかしくて」の「て」を「候」に改めるのがよいか。
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と書かれています。(岩波新古典大系、p182以下)
まあ、こう考えるのが素直なのでしょうが、『とはずがたり』の写本は宮内庁が保管する一冊しかないので、多くの写本を比較して伝来の経緯を考証し、原本の復元を試みることができません。
このような記述が『とはずがたり』全体で四カ所存在することは、欠落部分について読者の想像(ないし妄想)を掻きたてるとともに、非常にミステリアスな雰囲気を醸し出すので、私は著者自身がそれような効果を狙って書いた可能性を疑っているのですが、その証明は永遠に不可能ですね。
さて、後深草院二条が時の最高権力者・平頼綱の二男、「飯沼の新左衛門」こと飯沼助宗と遊びまわっていたことを記した後、岩淵宿の遊女が出てきます。

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 かやうの物隔たりたる有様、前には入間川とかや流れたる、向かへには岩淵の宿といひて、遊女どもの住みかあり。山といふ物はこの国の内には見えず、はるばるとある武蔵野の萱が下折れ、霜枯れ果ててある中を、分過ぎたる住まゐ、思ひやる都の隔たり行住まゐ、悲しさもあはれさも取り重ねたる年の暮れなり。
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ただ、ここでは二条は遊女について特に感想を述べるでもなく、直ぐに自分自身の回想に移ります。

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 つらつらいにしへをかへりみれば、二歳の年、母には別れければ、その面影も知らず。やうやう人となりて、四になりし長月廿日余りにや、仙洞に知られたてまつりて、御簡〔ふだ〕の列に連らなりてよりこの方、(かた)じけなく君の恩言をうけたまはりて、身を立つるはかりことをも知り、朝恩をもかぶりて、あまたの年月を経しかば、一門の光ともなりもやすると、心の内のあらましも、などか思ひ寄らざるべきなれども、棄てて無為に入る習ひ、定まれる世のことはりなれば、「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者」、思ひ捨てにし憂き世ぞかしと思へども、馴れ来し宮の内も恋しく、折々の御情けも忘られたてまつらねば、事の便りには、まづ事問ふ袖の涙のみぞ、色深く侍。
 雪さへかきくらし降り積もれば、ながめの末さへ道絶え果つる心地して、ながめゐたるに、主の尼君が方より、「雪の内、いかに」と申たりしかば、
  思ひやれ憂きこと積もる白雪の跡なき庭に消えかへる身を
問うつらさの涙もろさも、人目あやしければ、忍びて、又年も返りぬ。軒端の梅に木伝ふ鶯の音に驚かされても、相見返らざる恨み忍びがたく、昔を思ふ涙は、改まる年とも言はず、降る物なり。
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二歳の年に母に別れたという話は『とはずがたり』の中で何度も繰り返し出てきて、しみじみとした雰囲気を醸し出すためのBGMみたいなものですね。
四歳になった年(弘長元年<1261>)に初めて後深草院の御所に参った云々も同様に繰り返し出てくる話ですが、巻三の御所追放の場面では「四と言ひける長月の頃より参り初めて」と、その時期が九月であることが明らかにされ(p151)、ここでは更に詳しく「四になりし長月廿日余りにや、仙洞に知られたてまつりて、御簡の列に連らなりて」と日付まで出てきます。
このように自身の過去への執着は著しいものの、その経験はあまりに特殊であるため、なかなか他人、特に田舎の遊女あたりと引き比べて、自分が遊女と同じような存在だ、などといった方向には進みそうもないですね。
服藤氏もここでは「互換性」テーゼの主張はされていません。
なお、後深草院二条が「飯沼の新左衛門」と遊びまわっていた時期は、弘安九年(1285)の霜月騒動の四年後です。
平頼綱と飯沼助宗は更に四年後の正応六年(1293)四月、北条貞時に滅ぼされるので(平禅門の乱)、平頼綱の支配のちょうど中間地点ですね。
『とはずがたり』で飯沼助宗が詳しく描かれるのは著者の個人的な経験の反映なので当然ですが、『増鏡』執筆の時点では既に政治的敗者であることが確定している人物であるにもかかわらず、飯沼助宗は『増鏡』にも登場し、

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飯沼の判官、とくさの狩衣、青毛の馬に金かなものの鞍置きて、随兵いかめしく召し具して、御輿のきはにうちたるも、都にたとへば、行幸にしかるべき大臣などのつかまつり給へるによそへぬべし。

http://web.archive.org/web/20150514084835/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/genbun-masu11-hisaakirashinno.htm

などと、なかなか華麗に描かれています。

霜月騒動
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%9C%E6%9C%88%E9%A8%92%E5%8B%95
平禅門の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%A6%85%E9%96%80%E3%81%AE%E4%B9%B1
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