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「巻七 北野の雪」(その11)─宗尊親王失脚

2018-01-24 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月24日(水)15時23分6秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p92以下)

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 又の年、東に心よからぬこといできて、中務のみこ都へ上らせ給ふ。何となくあわたたしきやうなり。御後見はなほ時頼の朝臣なれば、例のいと心かしこうしたためなほしてければ、聞えし程の恐ろしきことなどはなければ、宮は御子の惟康の親王に将軍をゆづりて、文永三年七月八日上らせ給ひぬ。
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文永三年(1266)、鎌倉で政変があり、第六代将軍・宗尊親王(1242-74)が失脚、追放されます。
「御後見はなほ時頼の朝臣なれば」とありますが、実際には北条時頼(1227-63)は三年前に死んでいて、執権が北条政村(1205-73)、連署が北条時宗(1251-84)の時期ですね。

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 御下りの折、六波羅に建てたりし檜皮屋一つあり。そこにぞはじめは渡らせ給ふ。いとしめやかに、ひきかへたる御有様を、年月の習ひに、さうざうしうもの心細う思されけるにや、

  虎とのみ用ゐられしは昔にて今は鼠のあなう世の中
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将軍として虎のように恐れられていたのは昔のことで、今は鼠が穴の中に隠れているように世を憚る身となってしまった、という歌はなかなかユーモラスですね。

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 院にも、東の聞こえをつつませ給ひて、やがては御対面もなく、いと心苦しく思ひ聞えさせ給ひけり。経任の大納言、いまだ下臈なりし程、御つかひに下されて、何事にか仰せられなどして後ぞ、苦しからぬことになりて、宮も土御門殿承明門院の御あとへ入らせ給ひける。院へも常に御参りなどありて、人々も仕うまつる。御遊びなどもし給ふ。雪のいみじう降りたる朝明けに、右近の馬場のかた御覧じにおはして、御心の内に、

  猶たのむ北野の雪の朝ぼらけあとなきことにうづもるる身も

 世を乱らむなど思ひよりける武士の、この御子の御歌すぐれて詠ませ給ふに、夜昼いとむつましく仕うまつりけるほどに、おのづから同じ心なるものなど多くなりて、宮の御気色あるやうにいひなしけるとかや。さやうのことどもの響きにより、かくおはしますを、思し歎き給ふなるにこそ。
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後嵯峨院も最初は関東に遠慮して宗尊親王との対面もなかったが、まだ「下臈」だった中御門経任(1233-97)が関東に派遣されて折衝した結果、それなりに穏やかな関東の意向が示され、宗尊親王も六波羅の「檜皮屋」から承明門院の御所であった土御門殿へ移られて、後嵯峨院との対面も可能となりました、ということで、中御門経任は極めて有能であり、後嵯峨院の信頼も厚かったのでしょうね。
中御門経任は実務官僚でありながら『とはずがたり』にも登場する人で、なかなか興味深い存在です。
なお、『増鏡』では「東の聞こえをつつませ給ひて、やがては御対面もなく」となっていますが、『五代帝王物語』には義絶したとあります。
九条頼経・頼嗣父子が鎌倉を追放されて以降の九条家の運命を考えれば、後嵯峨院が細心の注意を払ったのももっともな話ですね。
この「猶たのむ……」の歌に含まれる「北野の雪」が、巻の名になっています。
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