投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月24日(水)14時13分59秒
続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p87以下)
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まことや、この年頃、前内大臣殿<基家>、為家の大納言入道・侍従二位行家・光俊の弁入道など承りて、撰歌の沙汰ありつる、ただ今日明日広まるべしと聞ゆる、おもしろうめでたし。かの元久の例と、一院みづからみがかせ給へば、心ことに光そひたる玉どもにぞ侍るべき。
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「まことや」は「ほんとに、そうそう。話の途中で思いついたときなどに発することば」(p89)で、ここも語り手の老尼がほんの少し姿を現す場面です。
「前内大臣殿基家」は九条道家の異母弟、九条基家(1203-80)で、『徒然草』第223段に登場する「鶴の大臣殿」でもあります。
第223段は「鶴の大臣殿は、童名、たづ君なり。鶴を飼ひ給ひけるゆゑにと申すは僻事なり」だけという『徒然草』の中でも最短の段ですね。
九条基家(1203-80)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%9F%BA%E5%AE%B6
「為家の大納言入道」は定家の息子の藤原為家(1198-1275)で、「侍従二位行家」は亀山殿歌合の場面で右方の読師として登場済みの「六条藤家」の歌人、九条行家(1223-75)です。
「光俊の弁入道」は承久の乱の責任者の一人として処刑された葉室光親の次男、葉室光俊(1203-76)で、和歌の世界では法名の「真観」の方が有名ですね。
宗尊親王の和歌の師でもあります。
「元久の例」とは後鳥羽院の親撰に近かった『新古今集』のことで、『続古今集』も複数の撰者がいるとはいえ、後嵯峨院の役割が大きかったという訳ですね。
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年月にそへてはいよいよほかざまに渡る方なく、栄えのみまさらせ給ふ御有様のいみじきに、此の集の序にも、「やまと島根はこれわが世なり、春風に徳を仰がんと願ひ、和歌の浦もまた我が国なり、秋の月に道をあきらめん」とかや書かせ給へる、げにぞめでたきや。
金葉集ならでは、御子の御名のあらはれぬも侍らねど、この度は、かの東の中務の宮の御名のりぞ書かれ給はざりける、いとやんごとなし。新古今の時ありしかばにや、竟宴といふこと行はせ給ふ、いとおもしろかりき。此の集をば、続古今と申すなり。
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「年月にそへてはいよいよほかざまに渡る方なく、栄えのみまさらせ給ふ」は年月が経るに従って他の皇統に移ることなく、後嵯峨院の皇統だけが栄えているという意味です。
「金葉集ならでは」云々は、『金葉集』以外の勅撰集では親王の名前を出していたのに、『続古今集』では「かの東の中務の宮」を「宗尊親王」ではなく「中務卿親王」と表記したのは立派だ、という意味です。
『続古今集』が撰進されるまでにはなかなか複雑な経緯があったようですが、それは他書に譲ります。
続古今和歌集
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%9A%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86
続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p87以下)
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まことや、この年頃、前内大臣殿<基家>、為家の大納言入道・侍従二位行家・光俊の弁入道など承りて、撰歌の沙汰ありつる、ただ今日明日広まるべしと聞ゆる、おもしろうめでたし。かの元久の例と、一院みづからみがかせ給へば、心ことに光そひたる玉どもにぞ侍るべき。
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「まことや」は「ほんとに、そうそう。話の途中で思いついたときなどに発することば」(p89)で、ここも語り手の老尼がほんの少し姿を現す場面です。
「前内大臣殿基家」は九条道家の異母弟、九条基家(1203-80)で、『徒然草』第223段に登場する「鶴の大臣殿」でもあります。
第223段は「鶴の大臣殿は、童名、たづ君なり。鶴を飼ひ給ひけるゆゑにと申すは僻事なり」だけという『徒然草』の中でも最短の段ですね。
九条基家(1203-80)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%9F%BA%E5%AE%B6
「為家の大納言入道」は定家の息子の藤原為家(1198-1275)で、「侍従二位行家」は亀山殿歌合の場面で右方の読師として登場済みの「六条藤家」の歌人、九条行家(1223-75)です。
「光俊の弁入道」は承久の乱の責任者の一人として処刑された葉室光親の次男、葉室光俊(1203-76)で、和歌の世界では法名の「真観」の方が有名ですね。
宗尊親王の和歌の師でもあります。
「元久の例」とは後鳥羽院の親撰に近かった『新古今集』のことで、『続古今集』も複数の撰者がいるとはいえ、後嵯峨院の役割が大きかったという訳ですね。
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年月にそへてはいよいよほかざまに渡る方なく、栄えのみまさらせ給ふ御有様のいみじきに、此の集の序にも、「やまと島根はこれわが世なり、春風に徳を仰がんと願ひ、和歌の浦もまた我が国なり、秋の月に道をあきらめん」とかや書かせ給へる、げにぞめでたきや。
金葉集ならでは、御子の御名のあらはれぬも侍らねど、この度は、かの東の中務の宮の御名のりぞ書かれ給はざりける、いとやんごとなし。新古今の時ありしかばにや、竟宴といふこと行はせ給ふ、いとおもしろかりき。此の集をば、続古今と申すなり。
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「年月にそへてはいよいよほかざまに渡る方なく、栄えのみまさらせ給ふ」は年月が経るに従って他の皇統に移ることなく、後嵯峨院の皇統だけが栄えているという意味です。
「金葉集ならでは」云々は、『金葉集』以外の勅撰集では親王の名前を出していたのに、『続古今集』では「かの東の中務の宮」を「宗尊親王」ではなく「中務卿親王」と表記したのは立派だ、という意味です。
『続古今集』が撰進されるまでにはなかなか複雑な経緯があったようですが、それは他書に譲ります。
続古今和歌集
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%9A%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86
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