学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その3)

2021-09-21 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月21日(火)12時07分6秒

従来、承久の乱の目的が倒幕であることは誰も疑っておらず、『岩波講座日本歴史 第6巻・中世1』(2013)の段階でも、「近年では【中略】院の挙兵は執権北条義時の追討であり、討幕ではないとする見解まで出されている」(川合康氏)程度の扱いだったのが、2015年に長村祥知氏の『中世公武関係と承久の乱』が出て雰囲気が変わり、2018年には近藤成一氏をして、義時追討説が「ほぼ学界の常識」となった、と言わしめるに至った訳ですね。

「後鳥羽の意図が義時追討であって倒幕ではなかったことがほぼ学界の常識となっているとはいえ…」(by 近藤成一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6d370925b84000e9314bd5a7fea4683e

ただ、私なりに義時追討説と倒幕説の主張を検討してみたところ、両者は相互に排他的な二者択一の問題ではなく、後鳥羽が戦争に勝利した後、東国武士に対する「コントロール」をどのようにしようと構想したかという、ある程度の幅を持った問題と捉え直す方が良いのではなかろうかと感じました。
実際には戦争は僅か一ヵ月で後鳥羽の全面敗北で終わってしまったので、後鳥羽の戦後構想も何もあったものではない訳ですが、しかし、ひとつの思考実験として、後鳥羽が勝利できた僅かな可能性を検討し、その際の戦後の公武関係を想像することも全く意味がない訳でもなさそうです。
このような観点から野口実氏らの義時追討説派が重視する慈光寺本『承久記』を眺めてみると、京方が勝利する可能性のひとつとして、三浦胤義の兄・義村への説得が成功し、三浦一族が総力を結集して義時を打倒するというケースが一応考えられます。
また、「幕府東海道軍の先鋒が尾張国府(愛知県稲沢市)に至ったことを聞きつけた山田重忠が大将軍の藤原秀澄に、全軍を結集して洲俣から長良川・木曽川(尾張川)を打ち渡って尾張国府に押し寄せるべしとの献策を行った」(野口実「承久の乱の概要と評価」『承久の乱の構造と展開』、15p)際に、山田重忠案が採用されるというケースも、もう一つの京方勝利の可能性を感じさせます。
そこで、この二つの可能性に関連する部分を中心に、慈光寺本『承久記』を読んでみることにしました。

慈光寺本『承久記』を読む。(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/26f779297c2163cdb0576f9070a37cb1
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6596f9364d5ed04b9b546d542014a272
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4760abd80a9a8ac323600cc80056a765

ところが、慈光寺本『承久記』の検討を始めたばかりの段階で長村祥知氏の『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015)を入手し、同書を先に検討することになりました。

長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』の奇妙な読後感
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/798750ad8eb09758aeeb2ba36512c538

私は同書に若干の否定的な先入観を持っていたのですが、実際に読んでみたところ、世評が高いだけあって全般的に優れた本でした。
ただ、いくつか初歩的な誤りもあります。
その中で、大江親広が「姫の前」所生の北条義時女と結婚していた事実を長村氏が知らなかった点は、かなり重大な問題のように思われました。

大江親広は「関寺辺で死去」したのか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c2ac62e4108cbefbf529afd1287d941d

さて、同書で長村氏は「もとより先学が具体的に後鳥羽のいかなる構想を指して「討幕」の語を用いているのか分明ではないが、鎌倉殿を排し御家人制度を解体するものとする理解であれば、見直す必要があると思われる」と言われています。
承久の乱に関する従来のほぼ全ての学説を渉猟したであろう長村氏にしても、従来説が「具体的に後鳥羽のいかなる構想を指して「討幕」の語を用いているのか分明ではない」とされるのは少し意外でした。
ただ、仮に討幕説=「鎌倉殿を排し御家人制度を解体するものとする理解」だとすれば、逆に「鎌倉殿」を存続させ、「御家人制度を解体」しないことを最低ラインとし、これさえ守れば、朝廷側の幕府に対する「コントロール」がどれほど強いものであろうと、それは義時追討説ということになるのか。
また、長村氏自身は、後鳥羽の戦後構想としては、どの程度の「コントロール」を予定していたものと考えているのか。
こうした点は、同書では必ずしも明確ではありません。

「先学が具体的に後鳥羽のいかなる構想を指して「討幕」の語を用いているのか分明ではない」(by 長村祥知氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bc9bc0f4b97db14222213ef8f0f3bcf8
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 長村祥知氏『中世公武関係と... | トップ | 長村祥知氏『中世公武関係と... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

長村祥知『中世公武関係と承久の乱』」カテゴリの最新記事